レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督42 Reunion

 

 バタバタと、遠くから空を震わせる音が聞こえる。途切れることなく連続するそれは段々と離れていっているのか、小さくなっていったけれど、また新しく同じような音が聞こえてきて、そちらは段々と大きくなる。その音がヘリコプターの回転するローター音であると気付くのに数秒を要した。少なくとも二機は飛んでいるのだと理解して、それからヘリは自分のことを探しているのだろうと考えた。夜空をローターで切り裂き、白い光線を機首から斜め下に投げているヘリの姿を思い浮かべる。次に、そう言えば軍のヘリは特別の許可がないと市街地の上を飛べないから、今飛んでいるのはきっと警察のヘリだという考えが浮かぶ。

 ぼんやりと空を飛ぶヘリを想像していると、やがて頭が動き出した。軽い目眩がする。目を瞬かせ、黒檜は意識を沼から引き上げるように覚醒させた。すぐに左肩の違和感に気付く。鈍い痛みがじんわりと左肩全体を覆うように広がっていた。少し左腕を持ち上げてみると、電流が走ったような刺激があって顔を顰める。どこかに強くぶつけてしまったのだろうか。

 仕方がないので、左腕は動かさないようにしてから周囲の状況観察に移る。視界は思いの外薄暗い。それが頭上から降り注ぐ黄色いランプの光が弱いせいだというのはすぐに気付いた。ランプは一つ、見上げると低い天井からコードごとぶら下げられているのが目に入る。背中には硬い感触、尻の下には柔らかいクッションのような物があって、視線を下ろすと椅子に座らされているのだと分かった。目の前には木のテーブルがあり、その向こうは縦に規則正しく並んだ凹凸のある金属の壁。足元はベニヤ板を張った床だ。どうやら狭い室内のような空間らしい。じっとりとした不愉快な熱気がまとわりついて、何もしていないのにこめかみを汗が伝い落ちる

 ヘリのローターの振動が空気を伝わって来る。椅子の背もたれのすぐ背後は対面と同じく波板状の壁で、ようやく黒檜はここが貨物コンテナの中であることに気付いた。

 

 

「暑いわね」

 

 と誰かが言った。そこで初めて隣に同じく椅子に座っている人物が居ることを認識する。視線を向けて、黒檜はもう一度驚いた。

 黒檜と並んで座っているのはクリスティーナ・リーだった。パーティーで見た時そのままの真紅のドレス姿で、彼女はこの狭いコンテナの中で女王のように悠然と腰掛けている。

 段々と記憶が蘇ってきた。パーティー会場を抜け、一人でホテル横の川縁で休んでいたら赤髪の女に襲われたのだ。その時からさほど時間は経っていないのだろう。自分も制服を着たままだった。

 

 シンガポールの港には大規模で広大なコンテナターミナルがある。ここが貨物コンテナの中だとしたら、そのターミナルの何処かになるのだろうか。あまりにも広いので恰好の隠れ場所となる。まるで都市に潜むテロリストのアジトのようだ。実際、それに近いだろう。

 ということは、恐らく捜索には時間が掛かり、すぐには助けは来ない。叫んでも意味は無いだろうし、支給されている携帯電話はポケットに入れていたはずだが感触がないから抜き取られたかどこかで落としたのだろう。もっとも、ここから電波が通じるかは怪しいところだが。

 軍人としてはそれなりに戦闘術の手解きは受けているはずなのだが、いかんせん黒檜にはその記憶がない。実際に、体が動くか試したこともないので、抵抗するのは無為に身を危険に晒すことになる。大人しくリーと話した方が得策だ。どの道、左肩が痛んでまともに動かせないので戦うなんて以ての外なのだが。

 

「何が、目的なんですか?」

 

 ただ、誘拐されたことは覚えている限り一度もなく、人質として誘拐の(恐らく)首謀者とどんな話をすればいいか皆目検討もつかなかったので、単刀直入に目的を尋ねることにした。リーの性格は分からないが、いきなり激昂したり高圧的に振る舞ったりするようなタイプではなさそうだ。少なくとも“話は出来る”だろう。

 対して、リーは何がおかしいのかくつくつと喉を鳴らす。

 

「いきなり突っ込んで来るのねえ。ちょっとはお喋りを楽しみましょうよ」

「話に花を咲かせるには、少し暑過ぎませんか?」

「それもそうね」

 

 リーは納得したように頷くと、おもむろに両手を頭の上に上げてパンパンと打ち鳴らした。

 すぐに反応があった。金具が外れる音がして、黒檜から見てリーの向こう側、コンテナのドアが外から開かれると新鮮な空気が流れ込み、多少熱気が抜けて暑さが和らぐ。ドアを開けたのは見知らぬ若い女で、黄色いランプに白っぽい髪が照らされていた。彼女が一歩コンテナの中に踏み込んで来ると、そこだけ三つ編みにしたもみあげが揺れる。髪も白ければ色も白く、顔立ちは少女から女への過渡期のようなあどけなさを少し残したものだった。整った容貌だが、しかし愛想がない。というより、本人は上品に会釈をしている余裕が無いのだろう。ズリズリと何か重い物をコンテナの中に一生懸命引っ張り上げるところだった。

 リーも黒檜も手伝わずにそれを眺めていた。コンテナと外の地面には大き目の段差があって、彼女の引っ張り上げようとしている物がそこに引っ掛かってしまったらしい。少女は苛立ったように乱暴にショルダーベルトを引っ張って、無理矢理にそれをコンテナの中に引き上げることでようやく目的を為した。

 彼女が引きずっていたのは大きな業務用クーラーボックスで、フタを開けると中には容量目一杯の大きさの巨大な氷が詰まっていた。華奢な少女が運ぶようなものではないし、彼女はとても苦労してそれを運んで来たのか汗だくだった。ところが、リーは涼しげな顔で見ているだけだったし、黒檜は警戒して動かない。手伝いがないことに少しばかりへそを曲げてしまったのか、少女は軽く会釈をしてからコンテナを辞し、それから荒っぽくドアを閉めてしまった。

 

「これで涼しくなるわ」

「怒ってましたけど」

「ワインがあるの。飲みましょう」

 

 黒檜を無視してリーはテーブルの端に手を伸ばす。そこには言葉通りワインボトルと二つのグラスが置かれていて、リーは黒檜と一杯やろうというつもりだったようだ。黒檜としては到底アルコールを飲むような気分にはならないのだが、人質という立場上逆らえるはずもない。リーが黒檜と自身の前にグラスを移し、小気味良い音を立ててコルク栓を抜き、赤い液体を注いでいくのを見ているしかなかった。ラベルには「Scalet FRANDILIA 2010」と書いてあるが、見たことがないワイン名だということをぼんやりと思った。

 リーは注ぎ終わるとグラスを持ち上げる。黒檜もそれに倣うと、彼女は「乾杯」と言った。

 ちん、と澄んだ音が鳴る。リーはひどく上機嫌で、豪快にグラスを仰いだ。

 

「さあ、お飲み」

 

 黒檜が口をつけないでいると、早速一杯空にした彼女はボトルに手を伸ばしながらワインを勧めた。仕方がないので、一口含んでみる。

 柔らかな舌触りとすっきりとした酸味。酒、それもぶどう酒の味など全然分からない黒檜でも、それなりに高質で上品な物だというのは想像ついた。パーティー会場から拝借して来たのだろうか。ただ、残念なことにコンテナの中が暑すぎたためか、ワインはとても温くなってしまっていた。どうせなら、持って来させた氷の上で冷やせば良かったのにと思う。

 

「今日は良き日よ。神様に感謝しなくちゃね」

 

 と、リーは相変わらず楽しげである。何が彼女を喜ばせているのか、先程からずっとにこにこと笑顔を絶やさない。

 だが、黒檜にしてみれば笑えるような状況でもないし、とりあえずリーに危害を加える意思がなさそうなことに安堵しているのが正直なところだ。目的、ないしこちらに対する要求を見極めなければどうしようもない。機嫌の良いままに饒舌に喋ってくれればいいのだが。

 

「ワインは美味しい? 家にある物でも特に上質なやつを選んできたの」

「あまり、洋酒は分からないんですけど、良い物だとは思います。でも、どうしてこんな場で?」

「それはもちろん。貴女と乾杯するためよ」

 

 黒檜は眉をひそめた。それではまるで黒檜自体が目的だったようではないか、と。でなければ、わざわざ上質なワインを遥々シンガポールまで持参したりしない。まるで、久しぶりに旧知の友人に会いに来たような振る舞いだ。

 

「色々と、積もる話があるわ。思い出も語らいたい。貴女のことをもっと聞きたい。……でも、覚えていないんじゃあしょうがないわね」

 

 リーは相変わらず口元に笑味を浮かべているが、そこで初めて明るい感情とは別の“含み”が混じった。寂しさのような、悲しさのような、少しばかり暗い感情。

 やはり、そうだった。リーとは以前に面識がある。だが、黒檜は覚えていない。覚えていないのだ。

 それも、リーとはそれなりに親しい間柄だったのだろう。少なくとも彼女の方は黒檜に対して親近感を抱いていたに違いない。先程から上機嫌なのも、上質なワインをわざわざ持って来たのも、それで説明がつく。彼女は黒檜と再会出来るのをきっと心待ちにしていたのだろう。

 ではどうしてこんな乱暴な方法を選び、コンテナの中という場所に連れて来たのだろうか。何か後ろ暗いことでもあって、こっそりと会わなければいけないのだろうか。

 ただ、それをそのまま口に出して尋ねるのは憚られた。寂しさを誤魔化すことなくはっきりと表す(きっとリー自身は気付いていない)彼女を見ていると、どうしても不躾なことを聞くのは躊躇われる。黒檜と再会出来たことを喜び、黒檜が記憶をなくしてしまったことに落ち込み、感情は取り繕われることなく素直に露わにされる。

 だから、黒檜は昔のことについては口にしない。ただし、聞くべきことは聞いておくべきだと、理性が諭した。

 

「どうして、私に記憶が無いことをご存知なんですか?」

「私のせいよ」

 

 彼女は短く言った。それからまたグラスを空にして、注ぎ直すことなくテーブルに置いて背もたれに身を預けた。

 

「何もかも、私のせい。貴女たちのことも、戦争のことも……」

「それは?」

「だから、ケジメをつける」

 

 リーは三度ボトルに手を伸ばし、自分のグラスに中身を注いだ。それで空になってしまったのか、グラスに波々とワインが注がれるとボトルの口から雫が二、三滴ばかり落ちておしまいだった。彼女は空のボトルを持ったまま勢い良くグラスの中身を飲み干した。やけっぱちのような飲み方で、先程までの上機嫌さはいつの間にやら影を潜めている。グラスも空にした彼女はボトルと一緒にテーブルの上に置き、急に立ち上がる。

 唐突な彼女の変化に黒檜は戸惑い、まだたっぷりワインの入った自分のグラスを揺らす。その間にもリーはテーブルを回り込んで黒檜の前を横切り、入り口とは反対側に向かった。そこには、今初めて気付いたのだが、白い材質不明の仕切り板があって、ただでさえ狭いコンテナ内でさらに圧迫感が増している元凶となっていた。本来ならコンテナはもっと奥行きがあるはずなのだが、仕切り板の存在によってその半分程度のスペースしかないように見えてしまっている。

 

「見せたいものがあるの」

 

 リーはそう言って仕切り板に軽く触れる。その途端だ。黒檜の目に信じられないものが映った。

 仕切り板が消えたのだ。彼女が触った途端にまるで初めから存在していなかったように消え失せてしまった。だが、確かに物理的に空間を仕切る板はその場にあったはずだ。何故なら、仕切られていた向こう側から、床上を這うようにゆっくりと白い煙がこちらに伝って来ているから。テレビやコンサートのステージ演出でよく見掛けるドライアイスの煙のようだ。というか、本当にそうだろう。その証拠に、ひんやりとした空気が煙とともに足元に入り込んで来た。

 

 常軌を逸脱した光景に黒檜が言葉を失い、目を剥いていると、リーは煙を蹴散らしながら向こう側に入っていってしまった。そちらにも今黒檜が居る方と同じく天井からコードごと吊り下げられたランプがあり、その下で光に照らされている大きなベッドが置かれていた。ただのベッドで、丁寧に布団が掛けられて誰かが寝かされている。

 

「来て」とリーが呼ぶので、黒檜はワイングラスをテーブルに置いてからのろのろとした動作で椅子から立ち上がった。

 床を這う煙を踏むように奥に進む。途中、仕切り板のあったところも見たが、存在の痕跡すら見出だせなかった。

 仕切られていた奥の空間はやはりドライアイスで冷やされていたのか、非常にひんやりとしていた。ただし、そのまま密閉していては二酸化炭素中毒になるので、どこかに換気口があるのだろう。煙はコンテナの一番奥の壁の方にも流れて行っている。

 

「見て」

 

 言われるままに、黒檜はベッドの主に目を向ける。

 

 女が寝かされていた。綺麗な女だと思った。

 

 日焼けを知らない白い肌に、すらりと筋の通った鼻梁。やや薄い唇と尖った顎は少し冷酷そうな印象を持たせたが、美しい女であることには間違いない。彼女は首から上だけを外に出し、他は掛け布団の下に隠れている。だが、妙に布団の膨らみが小さいのだ。

 その顔立ちから彼女が成人かそれに近い年齢であるとは思われたが、膨らみの大きさはまるで子供のそれである。掛け布団を捲ってみたい衝動に襲われたが、同時にその下を見るのが恐ろしくて黒檜は動けなかった。

 だが、黒檜が何も言わないのを見て、リーが動く。彼女は女に被せてある掛け布団を掴むと、ゆっくりとそれを捲り、女の身体を光の下に晒し出した。

 

 ヒウッという、空気が吸い込まれるような小さな悲鳴が聞こえた。それは黒檜の口から発せられたものだ。

 

 

 捲られた布団の下にあった女の姿。あまりにも恐ろしいそれに、ただただ衝撃に飲まれてしまった。

 女は、人の姿をしていなかった。顔と、胸元辺りまでは人間のそれであったが、他は異形だった。

 まず、足がない。これが布団の膨らみが小さく見えた原因で、恐らく股間があったと思われる位置にはサメの頭のような三角形の黒い塊が天井を突いている。塊にはまっすぐな亀裂があり、亀裂に沿って灰色の歯が並んでいる。つまり、そこには大きな口がある。

 無論、異形なのは下半身だけではない。腹部は亀の甲羅のような黒い板状の物体が覆っており、両腕は脚と同じく黒い塊に置き換えられている。こちらはどちらかと言えば籠手を長くしたような細長い物で、やはり金属質の光沢を帯びていた。そして、そうした黒い異形と対比的に、胸から上の大きく膨らんだ乳房や整った顔が接合している。

 人間と化物を融合させようとしてそれに失敗したような名状し難い何か。人にもなれず、化物にもなれず、中途半端な状態で放置されているような哀れな存在。そんな感想が頭に思い浮かんだ。

 そして次に、彼女の身体のほとんどを覆っている黒い塊は深海棲艦の艤装によく似ていると気付いた。

 

 脳裏を、萩風と嵐の顔がよぎる。まさか、この女は……、

 

 

 

「『海軍検体405号』」

 

 リーは無機質な単語を放り投げた。

 聞き慣れぬその響きに黒檜は首を傾げる。女の状態には察しがついたが、検体とはどういうことか。

 

「彼女は轟沈した艦娘。ところが、つい数ヶ月前に運良く海の中から引き揚げられたの。でも、その時にはもうこういう状態で、以来海軍の研究施設に“保管”されていたわ。艦娘と、深海棲艦の関係性を研究するための貴重なサンプルとしてね」

「サンプルって? 艦娘なんでしょう?」

「正確には、艦娘『だった』よ。引き揚げられてから一度も意識を取り戻していない。生命反応はあるから定義の上では『生きている』と言えるけど、艦娘とも深海棲艦とも言えぬ存在になってしまっているわ」

「……治せないんですか?」

「彼女を治すことが私の目的の一つ。だから、わざわざ日本海軍からこの子を連れて来たんだから」

「軍には治すつもりがなかった、ってことなんですか」

「そうよ」

 

 信じられない話だ。

 艦娘は、若い娘を国益のために国家に捧げられた結果、生まれる存在。ある意味では人身御供に近いが、近代法と高度な人権意識が普及した現代でそのような言葉が罷り通ることはあり得ない。それでも背に腹は代えられないとして、少女たちの幾つかの基本的人権を制限し艦娘という制度を導入したのだが、それ故に政府や軍は艦娘の扱いに一層の気を払わなければならなかった。彼らが必死に「艦娘=英雄」という図式を維持し、数多くの権利とある程度の安全を保障しているのは、憲法違反すれすれで艦娘が存在しているからに他ならない。

 だから、その艦娘を物のように扱い、もし仮にそれが世間に公表されてしまえば確実に政権が交替するし、艦娘制度の維持そのものが難しくなる。何をもってもまず艦娘を送り出した親たちが許さないだろうし、当然マスコミや世論は親の怒りに追従する。そうなれば人類は深海棲艦への対抗手段を失ってしまうだろう。

 それが抑止力となって、艦娘は不当な扱いを受けないようになっている。完全にゼロではないし、目に見えないところでイジメや体罰、侮辱などあるだろうが、理屈の上ではそうだ。少なくとも組織的に且つあからさまに不当な扱いがなされることは起こり得ないはずだった。

 だが、軍はこの艦娘を研究対象として見なしていた。これは明確に犯罪であり、軍と艦娘が取り結んでいる契約に違反するものだ。世に公表されれば軍に対する艦娘や世間の信頼は崩壊し、この制度の維持も困難になるだろう。

 

「暴露、するのですか?」

「それも一つの方法ね」

 

 リーはゆっくりと眠る艦娘の頬を撫でていた。まるで母親が娘にそうするような柔らかな手つきで。

 

「だけど、真実を明らかにするのは私の目的ではないわ」

 

 黒檜はリーが艦娘を撫でるのを眺めているだけだった。ところがリーは不意に艦娘から手を離し、そのまま黒檜に伸ばしてその手を取る。左手が持ち上げられ、艦娘の顔にまで導かれるのを抵抗せずに見ていた。

 

「触れてみて」

 

 言われるままに黒檜は自分の意志で指を伸ばし、他人を許可なく触るのが一瞬ためらわれて動きが止まったけれど、どうしてかそうすることが正解のように思えて軽く艦娘の頬に触った。

 彼女の肌は滑らかで、きめ細やかで、そして少しばかり温かい。

 生きていると思った。すると、もう駄目だった。目元が急に熱せられて、顔を何かが流れ落ちていった。

 

「は、あ……」

 

 無我夢中でその場に跪き、右手も伸ばして彼女の顔を包み込む。

 温かかった。白い皮膚の下に確かに血液が流れていて、それによってちゃんと体温が保たれている。生きているのだと実感した。

 

 この子は生きている。生きているのだ!

 

 口からは知らぬ間に嗚咽が漏れていた。黒檜ではない、黒檜の中に居る“誰か”が涙を流している。

 

 

 記憶のない期間、その間にあったこと。その間に生きていた“誰か”が、今もまだ黒檜の中に居て、彼女とこの艦娘はきっと深い仲だったのだ。そしてきっと悲しい別れがあって、今ようやく再会出来たのだ。

 

「名前は『加賀』よ」

 

 いつのまにか隣で同じように膝をついて黒檜の肩を抱いていたリーが囁いた。

 

「加賀……、加賀、加賀!」

 

 顔が熱い。涙が止まらない。舌は狂ったように動き、彼女の名前を呼び続ける。

 ひどく口に馴染んだ発音だった。まるで、今まで何千回もその名前を呼んできたかのように。そして、実際にそうだったに違いない!

 

「加賀! 加賀! 起きて、加賀!」

 

 懐かしい。とても懐かしい響き。

 黒檜の中の“誰か”は荒れ狂って加賀を呼ぶ。何一つ突っかかることなく、ぎこちなさなど微塵もなく、空に風があるように、海に波があるように、“誰か”は自然に加賀の名を呼ぶ。

 けれど、加賀は目覚めない。未だ彼女は静かに寝息を立てている。生きているのに、覚醒していない。

 

「起きない! 加賀、起きないの!」

 

 誰かは隣のリーに助けを求めた。縋り付くように懇願する。

 

 不思議なことが出来る貴女はきっと魔法使い。ならば、その魔法で加賀を目覚めさせられないの?

 

 リーは首を振った。

 

「私は魔法使いではない。加賀を目覚めさせるには貴女の力が必要なの」

「どうすればいいの? ねえ、どうしたら加賀は起きるの!?」

「記憶よ。貴女は全てを記憶を取り戻さないといけない。それは貴女が失っていた自分に戻ることと同義。そうして本来の貴女が戻って来た時、彼女の意識は初めて混濁の沼の底から引き揚げられるのよ!」

「わ、分からない! 何も覚えてないの! 記憶がないの! 加賀のこと、思い出せないのッ!」

 

 

 ねえ、どうにかしてよ。

 

 

 気付けばリーに掴み掛かっていて、彼女に向かって叫んでいた。けれど、リーは悲しそうにしているだけだ。

 不思議なことが出来ても、彼女には無力なんだと、ようやく黒檜は悟った。それで力が抜けてその場にうずくまるしかなかった。

 

「……加賀は、どうなるの? ずっと、このままなの?」

「いえ。このままではいずれ死んでしまうでしょう。艦娘としても深海棲艦としても生きることなく力尽きてしまうわ」

「目が覚めれば、助かる?」

「艦娘としてなら、修復材で治せるはずよ」

「どうしたら、いいの? どうしたら、私は思い出せるの?」

「仲間を、かつての貴女の仲間を探していくの。彼女たちと出逢えば記憶を取り戻せる。貴女はそれでしか本来の自分を取り戻せない。加賀を目覚めさせるのも現状ではそれしか方法がないわ」

「仲間……」

「貴女たちの組織には記録が残っているわ。加賀と、貴女と、彼女たちと、そして私。皆、一時は共に戦ったのよ」

「貴女も? 貴女も私の仲間だった?」

「正確には上官だったけれどね」

「上官? 貴女は確かバローの元研究者だったはず」

 

 黒檜がそう言うと、不意にリーはおかしそうに声を上げた。

 

「それは嘘よ。『クリスティーナ・リー』という架空の人物の経歴よ。私は研究者じゃなかったわ」

 

 クスクスと楽しそうにリーは喉を鳴らす。久しぶりに彼女が笑った気がしたが、五分前は同じように笑ってワインを仰いでいたはずだから黒檜の気のせいだろう。

 

 よく分からない。コンテナの中は異様に熱く、頭が働かない。

 

「私の本当の名前はレミリア・スカーレット。そして、貴女の名前は『赤城』。貴女も艦娘だったのよ」

「赤城……、艦娘……」

 

 黒檜はうわ言のように反芻する。

 身体が熱かった。コンテナが熱いのではない。ドライアイスの煙は未だに足元に漂っている。それなのに、全身から流れ出る汗が止まらない。

 

「そう。貴女は立派で、誇り高い艦娘だった。加賀と共に、栄光の中に居た。私はそれを間近でつぶさに見ていた。私以外の貴女の仲間たちもそれを見ていた。数多くの人々が貴女と加賀を助けようとした。それがあって今の貴女が、加賀が、ここに居る」

 

 だからね、

 

「堕ちちゃ駄目よ。自分を見失っちゃ駄目よ。貴女は『赤城』。貴女は艦娘。国を守るために海を駆け、敵を倒すために一矢に魂を込めた防人。その誇りは、例え記憶を失ったとしても消えるものではないわ! 

思い出しなさい! 貴女の中にある貴女の誇りを!! 貴女が弓を引き絞った理由を!! それは今も貴女の中にあるのッ!!」

 

 黒檜の肩を掴み、彼女は怒鳴る。負傷している左肩が痛かった。それも気にならなくなるくらい身体が熱かった。

 

 震えが止まらない。自分の身体が自分のものではなくなくなってしまったかのようだ。

 視界は白く、霧がかかったように不鮮明になっていく。「咲夜ぁ!! 加賀をお願いッ!!」と間近で誰かが叫んでも、それが誰かが分からなかった。

 とにかく熱い。身体の中で燃料が燃えているかのように、ボイラーを焚いているかのように、熱い。同時に全身が重かった。手足に鉄の塊をぶら下げているかのように、骨が鋼に変わったかのように、重い。

 色々な感覚と感情が頭の中を埋め尽くしていた。熱いと感じるのも、体が重いと感じるのもそうだ。それだけではない。身体の中を巡る血は冷たかった。自分の状態が分からない。ただただ、苦しい。

 

 

 

 

 ――全テヲ燃ヤセ!

 

 

 

 

 声が聞こえた。腹の底から絞り出したような声だ。

 

 

 ――加賀ヲ救オウトシナカッタ人間ヲ!

 

 

 何も分からない。頭が一杯だ。身体から熱いという感覚が消えた。重いという感覚も消えた。冷たい血液の感触も消えた。心臓を握られるような苦しさも消えた。

 けれど、一つだけ残っているものがある。声が聞こえる度、水で満たされていくようにそれは自分の中で膨らんでいく。

 

 

 ――復讐ノ翼ヲ開ケ!!

 

 

 「憎しみ」という感情だけが、己を支配していく。身をゆだねると心地が良い。全てを憎むことがこんなにも心地良いだなんて、思いもしなかった。

 

 

 

「赤城!!」

 

 

 けれど、その心地良さも外からの衝撃で打ち消されてしまう。左の肩に走った激痛と、間近の大声に、ぼやけていた視界が晴れる。

 

「……ぁ」

 

 目の前には、紅玉のような澄んだ瞳。血の色を映したような眼。

 途端に、別の感情が、憎しみではない感情が噴出する。

 身体が震える。怒りに燃えたその瞳に、とても、とても「恐怖」した。

 

「目を、覚ましなさい!! 赤城ッ!!」

 

 その存在は叫んだ。渾身の怒りをもって、名を呼んだ。

 

 

 

 満月の化身。「串座し公」の末裔。永代の吸血鬼。

 その御名は忌まわしき血に塗れ、その力は最果ての地に落ちても尚、この世に死と争いをもたらした。

 望月を背負い、骸の山に座して鮮血を浴び、恐怖を巻き散らす、その鬼の異名は。

 

 

 

 ――夜ノ王ッ!!

 

 

 

 

****

 

 

 

 

「緊急事態だ!」

 

 工廠で艤装を外していた嵐たちの前に飛び込んで来たのは、この基地の副官であった。彼は、柳本中将の下で働く幕僚の一人で、階級は大佐だった。普段は落ち着いた振舞いなのだが、今回ばかりは血相を変えていたので、その場にいる誰もがただ事ではないことを察した。

 

「港湾地区に深海棲艦と思しき存在が出現した。これを正体が判明するまで今後『アンノウン』と呼ぶ。アンノウンは航空機を発艦し、警察のヘリを攻撃したそうだ。警察がこちらに応援要請を行った。直ちに艤装を換装し、再出撃せよ」

「航空機だって? こっちには空母が居ねーンだぞ」

「そんな贅沢を言っていられる暇はない。市街地の至近で出現したんだ。一刻も早く現場に急行し、対応せよ」

「くそっ」

 

 工廠の中がにわかに騒がしくなる。嵐の12㎝砲を降ろそうとしていた作業員たちが目に見えて慌ただしくなった。

 

「あの、港湾地区って具体的にどの辺りなんですか?」

 

 同じく主砲をを降ろす作業を待っている萩風が大佐に尋ねた。彼は苦虫を噛み潰したような顔で、「ブラニ島のコンテナヤード内だ」と吐き捨てるように答えた。

 ブラニ島はシンガポール本島の南に接する小島で、すぐ傍にはリゾート地として有名なセントーサ島が隣接している。ゴルフ場やテーマパークが建設されている隣島とは違い、ブラニ島の大部分はコンテナヤードや桟橋として利用されており、残った土地も消防署や水上警察が使っている。しかし、人が住んでいないわけではないし、もっと問題なのはここがリゾート地とダウンタウンとの間にあることだった。

 

「陸の上か」

 

 江風の小さくはなったその一言が全員の絶望的な心境を端的に表している。大佐の伝えた情報は、突如出現した敵が航空戦力持ちの陸上型深海棲艦であることを強く示唆している。

 警察が何かを見間違って「深海棲艦出現」という誤報を出したと考えるほど嵐たちは楽観的ではない。彼らの扱うヘリは日本から輸入された最新のセンサーで固められている。夜間に活動する上で赤外線探知機は必須装備であろうが、仮にそれだけしか搭載していなくとも、深海棲艦かそうでないかの識別は容易だ。出現場所が既に具体的に判明している点から見ても、彼らは正確に発生した事態を把握していると見て間違いない。つまり、深海棲艦は間違いなくシンガポールの港に現れたのである。

 その相手が潜水艦やはぐれの小型艦ではなく、陸上型深海棲艦であると考えられることが最悪の一言に尽きた。ここでは普段弱小な敵しか相手にしなかったし、深海棲艦が現れること自体が稀であったから装備が極めて貧弱なのだ。飛行場姫や離島棲鬼に代表される陸上型深海棲艦とは、その名の通り陸の上に陣取っている深海棲艦で、この敵の特徴は陣取った場所を自らの領地として(その周辺も含め)占領出来ること、魚雷による攻撃が無効で効果的な打撃を与えるには専用の特殊な装備が必要なことである。逆を言えば、専用の対地装備さえ準備出来るなら、低火力の駆逐艦のみでもある程度損傷を与えることは可能だ。ただし、そうした装備がないなら、はっきり言って、手も足も出ない。

 かと言って、放っておけば街を攻撃にさらすことになる上、ブラニ島とその周辺が深海棲艦によって「領地化」されてしまうだろう。東南アジアで最も大きく、最も戦力も装備も充実している拠点は、インドネシアのリンガ基地であり、シンガポールから最も近い拠点もここである。直線距離にして二百キロメートル程度しか離れていないので、増援が今すぐ出発したなら夜明けの前に到着するだろう。リンガには軽空母二隻によって構成される第四航空戦隊が駐在しているし、対地装備を持てる重巡も用意出来るはずだ。もっとも、その増援が到着するまでに現在のシンガポールの戦力だけでどれだけ耐えられるかという点が問題となるのだが。

 

「萩、嵐! 主砲は高角砲に換装、対空電探を装備しろ」

 

 悠長にしている時間はない。今こうしている間にも市街地への空爆が開始されているかもしれないのだ。故に、嚮導艦江風の判断と指示は迅速だった。

 

「換装の間に説明するからよく聞けよ。これからしなきゃなンねーのは、敵の意識を江風たちに向け続けることだ。市街地に手を出されるようなことは許されないぜ」

 

 説明する江風の声はいつになく真剣だ。いつも飄々として、ともすれば軽薄と見られかねない言動の多い彼女だが、さすがに今回ばかりはそんな余裕もないらしい。眼の光は鋭利な刃物のような輝きを放っていて、それはまさに数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の駆逐艦の顔だった。彼女のこのような顔というのは、ここ一年ばかり世話になっている嵐にとって初めて見るものだった。

 

「今の状況で分かっていることは少ない。情報収集も怠るンじゃないぜ。何か気付いたらどンな小さなことでも必ず報告を入れろ。仮にこの中の誰かが沈ンでも、その情報が突破口になったりするかもしンねーからな」

 

 さらりと放たれた非情な言葉に、嵐の身体は敏感に反応した。

 基本的に艤装の脱着が作業員任せになる艦娘は、その作業中は航行艤装ごと艦娘を移動させられるキャリアに乗せられたままになる。換装を待つ嵐の両の手は掴む物は何もなく、だから自然と力がこもって拳が握られていた。今やその拳にはさらに力が込められて小刻みに震えている。

 

 「沈む」という単語に、嵐と同僚の萩風は誰よりも因縁がある。

 一度は轟沈した身だ。その時の恐怖は生半可なものではなかったし、未だに忘れようとしても忘れられない。だから、普段嵐は沈んだ時のことは思い出さないようにしていたし、仮に何かのきっかけで記憶が想起されてしまったら、今でも恐怖で身体が震えたりするのだ。そして、そのことを江風は知っている。何故なら、江風は嵐と萩風の“救出”作戦に参加した一人であるし、二人が過去に体験したこと、しでかしてしまったことを知った上で引き取ることを名乗り出てくれた人物でもある。もちろん、二人が抱え込んでいる恐怖も後悔もその他の諸々の感情も、彼女は把握していることだろう。

 その上で、あえて「沈む」という単語を口に出したのだ。江風は単に無神経なだけでも冷酷なわけでもない。

 このシンガポールには四百万人以上の人間が住んでいる。観光客も含めれば、今晩この都市国家に居る人間の数はもっと多いだろう。それが今、深海棲艦の脅威にさらされているのだ。恐怖を言い訳にして震えている暇などあるはずもなかった。

 同時に、彼女の厳しい言葉は二人への信頼の証だ。「お前たちなら恐怖程度に屈服しない」という、強固な信頼の裏返しだ。

 

「攻撃も欠かすンじゃない。今の手持ちの武器で大したダメージが与えられるとは思えねーが、重要なのは注意を引くことなンだ。現着したらすぐ行動を開始する。それから後は、一瞬たりとも敵の注意を市街地に向けさせるな。分かったな!」

 

 そう言った江風は、すぐに表情を緩めて、こうも付け加えた。

 

「あと、さっきはああ言ったけど、出来るだけ全員で帰って来よーな」

「……誰に言ってるんすか。俺も萩も、守らなきゃならないものは守り通すし、沈むつもりもありませんよ」

「頼むぜ」

 

 その会話の間に、今までで一番早く仕事をしたと思われる作業員たちが艤装の換装を終えた。後は弾薬と燃料の補給だけというところで、嵐たちの頭上を横切っている天井クレーンが突然動き出した。これは人力での持ち運びが困難な戦艦などの大型な艤装を装着する際や、整備などで重量物を移動させるときにしか稼働させない器具であり、手作業で脱着も整備も可能な小型の艤装に対しては通常使わない物であった。基本的に駆逐艦しか居ないシンガポール基地の工廠にある設備としては正直過剰で、普段使わない物が急に動き出したので、嵐は少々驚いた。見上げると、視界に映ったのは天井クレーンによって運ばれている鋼鉄製のケースだ。

 もちろん、クレーンを操作しているのは資格を持っている作業員だが、彼に指示を出していたのは先程の大佐である。鋼鉄製のケースは艤装運搬用の専用品なので、中身も当然艦娘の艤装と思われる。だが、シンガポール基地所属のもう一つの駆逐隊がリンガ基地に派遣中で、現在シンガポールで稼働している部隊が自分たちだけという状況で、一体誰の艤装が持ち出されたのであろうか。嵐たちの居る作業場に隣接している艤装保管庫から引っ張り出されたと思われるが、ケースの大きさからどうも小型艦のそれではなさそうだし、心当たりもない。

 その答えを、大佐が天井クレーンのやかましい稼働音に負けじと声を張り上げながら教えてくれた。

 

「それは情報保全隊付特務艦娘の艤装だ。彼女は現在別行動中であり、現場に向かっていると思われる。中将からの指示だ。これを現場付近まで運搬し、現地で同艦娘と合流し次第受け渡せ」

 

 クレーンは嵐の頭上で止まり、それからゆっくりと運搬ケースを降ろし始める。

 

「俺っすか!?」と驚く嵐に、「持って行くだけだろ」と嚮導艦は言い捨てた。感情が顔に出やすい江風は誰が見ても不機嫌だと一目で分かる表情だ。帰還命令を受けてからずっと腹の虫の居所が悪い様子だったが、ますます機嫌が悪くなっている。悪いパターンを想定した意見具申が却下されたことや、その後の事態の進行が想定した通りに進んでしまったことなどが彼女の機嫌を大いに損ねる理由になっているらしい。だが、運ばれてきた艤装ケースを見ようともしない態度に、嵐は少しばかり違和感を覚えた。基本的に度量の大きい(と嵐は思っている)江風は、普段機嫌を損ねてもこんなふうに拒絶の意が見て取れるような態度をしないからだ。その辺りのことをよく知っている嵐だからこそ、これは何かあるなと勘付いた。

 

「艤装は航空巡洋艦『鈴谷』の物だ。丁重に扱え。今の状況では貴重な火力源となってくれる艦娘だぞ」

 

 艤装の入れ物と言ってもそれほど大きなものではない。展開していないから箱に収めると意外とコンパクトになるのだ。今回の相手が陸上型深海棲艦と思われるので、軽量化のため魚雷発射管は外していた。だから、その魚雷発射管を装着していた場所から曳航索を伸ばして艤装ケースを引っ張れるだろう。

 その作業が終わるまで待ってから、大佐は「それでは可及的速やかに現場海域に急行せよ」と命じた。キャリアに乗せられたまま、工廠のすぐ外の海に放り出される。

 

 今回は航空戦力が確認されていることから、普段移動に使うヘリは使えない。もっとも、使わずとも「走って」行ける距離である。陽炎型より旧式の艤装を操るはずの江風の足は今までにないほど速く、艤装ケースを曳航していて速度の出せない嵐はそれに付いて行くだけで精一杯になってしまった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 ぞわりと、背筋を走った悪寒に鈴谷は身を震わせた。

 

 その時、鈴谷を含む三人は空を飛んでいる最中だった。東風谷と博麗はただの人間にも関わらず、神通力のような不思議な力で空を飛べるのだという。「それは女の子だからです」と東風谷は教えてくれたが、理由になっていないし、訳が分からなかった。

 なので、唯一空を飛べない鈴谷は二人に両側から抱えられてふわふわと遊覧飛行中だった。艦娘であるからヘリに搭乗した経験は何度もあるし、海の上に立つことなど日常茶飯事で、自分の足元が固体でないことに特別恐怖を抱いたりすることはないのだが、それでもたった二人の人間に支えられているだけの状態で空を飛ぶというのは、そんな鈴谷にさえ恐怖心を抱かせるに十分なことだった。東風谷曰くはどちらか一人だけが鈴谷を背負っても飛べるとのことだが、そんな飛行方法は願い下げである。

 二人の飛行速度は正直なところ、自転車並みの速度で遅いと言えた。それでも地上を走るよりはずっと速い。唯一注意しなければならないのは、逃げたリー、もといスカーレットの手下を上空から探しているシンガポール警察のヘリに見付からないようにすることだけんはずだった。

 夜ということもあって地上から見付かる恐れはあまり考えなくて良かったが、ヘリから身を隠すのに建物の陰に隠れるため、迂回したり高度を上下させたりしていたので、さほど距離は進めていない。ところが、鈴谷がようやくこの特殊な空輸方法と不安定さに慣れてきたところで、何かのっぴきならない事態が起きてしまったのである。二人共と密着していたからか、その瞬間に彼女たちも身を強張らせたことがダイレクトに伝わってきた。

 

 悪寒の発生原因と思われる異常事態が起きたのは、港の辺り。先程博麗が指さした方向だ。つまり、彼女の悪い予感は的中してしまったことになる。

 

「何ですか、今の……」

 

 呟いた東風谷の声が少し震えている。

 一方、鈴谷は何となく事情を察していた。先程感じた悪寒は、ある状況に遭遇した時に感じるそれによく似ていたからだ。こういう感覚は、恐らく前線に出たことのある艦娘にしか分からないだろう。東風谷や博麗には、悪い事態になっていることは察せられても、実際に何が起こったかまでは把握しかねるはずだ。

 

「深海棲艦だよ」

 

 だが、自分で言って理由に対する疑問が浮かぶ。どうして、深海棲艦がシンガポールの港に現れた?

 

「なんでか知らないけど、深海棲艦が出たんだ」

「最低の展開ね」

 

 博麗が吐き捨てる。見なくとも彼女が苦々しく顔を歪めているのが分かった。

 

「レミリアの奴、一体何をやらかしたのよ」

 

 そうだ。これには間違いなくスカーレットが関わっている。緊急修復材を開発して世界中に売りさばき、海軍の施設を強襲して「加賀」を奪取し、黒檜まで誘拐して、さらにこの上何をしようというのか。こんな都市に近い場所で深海棲艦が現れたらどういう事態になるのか想像出来ないはずがない。あるいは、彼女は吸血鬼と呼ばれる人外であるからこそ、人間たちへの被害も顧みないとでもいうのだろうか。

 鈴谷が怒りを感じるのは、スカーレットの傍若無人な振る舞いそれ自体ではない。スカーレットに自分たちがいい様に振り回され、後手後手になった挙句にこんな事態の対処をさせられることに腹が立つのだ。

 だが、無暗に腹を立てていても仕方がない。艤装を持って来ていない今の鈴谷に、深海棲艦相手で出来ることはほとんどないだろう。かと言って、今更シンガポール基地に戻っている時間もなかったし、そんなことをすれば真っ先にカーチェイスについての詰問を受けることになるから、その気も起きなかった。

 

「もう迂回せずに高度を取って真っ直ぐ向かって」

 

 ヘリに見付かるリスクは低まったとみて、鈴谷は二人にそう指示を出した。警察のヘリも異常を感知したのか、港の方に向かい始めている。

 

「あんた、武器持ってないんでしょ? 深海棲艦とじゃ戦えないんじゃないの?」

「うん。だから、現場に着いたら対応してもらえる? 吸血鬼を実力行使で連れ戻すくらいの力はあるんでしょ?」

「はあ? あんた、私たちを顎で使うつもり?」

「いえ、霊夢さん。それしかありません。今からどこかに立ち寄っている時間もありませんし、ここは鈴谷さんの指示に従いましょう」

 

 一瞬剣呑な雰囲気を纏い掛けた博麗は、東風谷に諭されて黙り込む。即座に反論をしないところを見ると、どうやら納得はしないもののこちらの指示に従うことを受け入れてくれたようである。

 

 レミリア・スカーレットの実力が如何程であるかは定かではないが、鈴谷はそれが“深海棲艦の大規模艦隊に匹敵する”程度と考えていた。根拠は、その大規模艦隊に攻撃を受け破壊された鎮守府の事後処理に赴いた時、明らかに深海棲艦の手によるものではない破壊の痕跡を見付けたことだった。海軍の公式の報告書では、鎮守府の破壊は全て深海棲艦と海軍との戦闘中に起きたもので、この戦闘により深海棲艦は“撃退”された、とされている。

 しかし、追撃部隊が編成され、付近を捜索したものの残存深海棲艦はただ一隻も発見されず、一方で逃げ延びた避難民の多数が、海上での巨大な爆発を目にしていた。その爆発はすさまじい規模だったようで、真夜中にもかかわらず昼間のように明るくなり、そして燃え上がるような赤いキノコ雲が発生していたという。だから、彼らの多くはその爆発が軍による核攻撃だと考えていた。その誤解がメディアを通して広まってしまったので、政府はそれを解くために幾度か記者会見を開かなければならなかったほどだ。

 ただ、当の軍にもこの大爆発を説明することが出来なかった。単純に何が起こったか分からなかったのである。したがって、件の報告書には爆発があったという事実のみ簡単に触れられているだけで、原因の追及などは一切記述されていない。

 未だに事の真相は不明だが、壊滅した鎮守府の現地調査を行い、報告書の作成にも一部携わった身として、先程の二人の少女の話は大いに興味を惹かれた。彼女たちと話す前から、鈴谷はレミリア・スカーレットが鎮守府が壊滅した日にその場に来ていたのではないかと考えていたからだ。もちろん、当時そこに居た所属の艦娘たちは誰も「口を割らなかった」が、“異なる状況で戦っていた”はずの全員が口裏を合わせたように同じことを語ったのが却って不自然だった。スカーレットを鎮守府から追い出す立役者となった戦艦娘でさえそうだったのだから余計に違和感を覚えた。

 

 現地の状況をこの目で見た鈴谷はそこに残されていた深海棲艦の仕業とは異なる破壊の痕跡から、深海棲艦でも艦娘でも、もちろん軍人・軍属の人員でもない何者かが当時そこに居たのは間違いないと、考えていた。先日の研究施設襲撃事件の調査と二人の少女の話から、鎮守府跡に痕跡を残したのはスカーレットであり、彼女が常軌を逸脱した破壊を生み起こせる何かしらの力の持ち主ではないかということに思い至ったのである。彼女は巨大な爆発の原因でもあったかもしれない。その推測が正しいことは、東風谷にスカーレットが二度目に「こちらの世界」に来た日付を確認することで、確信した。あの日、風前の灯火だった街と鎮守府を救い、巨大爆発まで起こして深海棲艦の艦隊を“撃滅”した張本人は、レミリア・スカーレットなのだと。だから、不自然な痕跡があったり、探しても一隻の深海棲艦も見付からなかったのだ。

 とすると、スカーレットの力というのは多数の艦娘が束になってようやく匹敵するような途方もないものということになる。それを、この少女たちは「弱体化した」と言い、自分たちならまだ実力行使でどうにかなると考えているようなのだ。それが本当かどうかはさておき、鈴谷としてはスカーレットの力を見ておきたいところではある。今後もしスカーレットに対して実力行使することが起こり得るなら、情報は出来るだけ持っておいた方が有利になるのは間違いない。真正面からぶつかって勝てる相手ではないと予想はしているが、突ける弱点があるのかないのか、それだけでも分かっていればスカーレットに対する対応というのも変わってくる。

 

 その点で言えば、博麗と東風谷は貴重な情報提供者だ。彼女たちは既に色々なことを教えてくれていたし、いっそのことスカーレットと戦わせてみればさらに多くの情報が手に入れられるに違いない。二人は生身で空を飛ぶという奇跡のような行為を実行しているし、他にも多くのことが出来るようだった。

 もっとも、目下の脅威は深海棲艦である。鈴谷自身が無力な状況で突如出現した深海棲艦らしき脅威と戦えるのはこの二人だけだった。スカーレットの相手をしてもらう前に、深海棲艦に対処してもらわなければならない。東風谷はそのことをすぐに理解したし、博麗も渋々ながら分かってはくれただろう。

 さて、問題はそのスカーレットが何をするかだった。この状況が彼女の意図の下にあるのか、それともそうではないのかが分からない以上、戦況が混迷に落ちていく可能性は十分考えられた。もちろん、シンガポール基地の方も静観などするはずがない。

 

「なんか出て来たわよ!」

 

 思考に没していると、隣で博麗が叫び、鈴谷とは反対の手に持っていたお祓い棒を進む先に向ける。

 

 雪の向こう側、マリーナ・ベイ・サンズから夜空に伸びる光線の先、貨物コンテナのヤードがあると思しきエリアから、素早く動く小さなシルエットが飛び出した。

 まさか、と嫌な予想をする。ダウンタウンに近いからか、ネオンの光で夜空が明るい。貨物ヤード自体も夜間も盛んに稼働しているためか、煌々と光を放っていた。おかげで先行する警察ヘリの姿もよく見える。

 先に異常を察知したのだろう。ヘリが突然急旋回を始めた。

 

「何か飛んでる?」

「そうだよ。あれは、深海棲艦の艦載機だ」

 

 博麗に答えた鈴谷は歯ぎしりする。ヘリに纏わりつくようにその周囲を飛び回っている影の正体、紛れもなく深海の艦載機だ。

 それが意味するところは状況がこの上なく悪いということだった。すなわち、相手は航空戦力持ち。航空母艦若しくは、陸上型深海棲艦である。

 ヘリはあっけなく撃墜されるだろう。そう鈴谷は予想したが、意外なことにヘリは追い払われる形にはなったが、逃げることは出来たようだ。というのも、深海機がヘリを攻撃しなかったからである。あくまで、その周囲を蜂のように飛び回って威嚇するだけだった。そして、ダウンタウンの方向へ逃げていくヘリを追い掛けたりもしなかった。こちらの理由も明白だった。次の目標を見付けたからである。

 

「こっちに来ますよ! 霊夢さん!!」

 

 東風谷に名前を呼ばれた巫女が御幣を振る。

 その動作が合図になっていたのだろう。目の前に半透明なガラス壁のような物が現れた。光の屈折率が違うのか、何かがそこに出現したことだけが見て取れた。

 材質は不明だが硬い物らしく、こちらに向かって来た深海機三機が、鳥がそうなるようにガラス壁にぶつかって潰れた。大きな打音が鳴り響き、原型を失った深海機が落下する。

 

「何!? 今の!」

「結界よ」

 

 鈴谷の問いに博麗は短く答える。彼女は当たり前のことを聞くなと言わんばかりの口ぶりだが、異形とは言え仮にも航空機を完全に阻止出来る遮断壁を即座に構築出来るというのは大概条理から外れている。少なくとも、艦娘の装甲より遥かに頑丈だと思われた。

 否、これこそが彼女たちが幻想の世界の住人である証なのだ。

 

「あの深海棲艦は、戦艦なんですか?」

 

 左の風祝が質問を投げてきたので、「いや、多分空母か飛行場姫みたいな陸上型だと思う」と答えたところ、質問者が首を傾げたのが視界の端に映った。彼女はどうやら現代の日本の一般市民程度の知識を持っているらしく、四十八都道府県のことや「戦艦」という単語について知っていた。内陸にあって他とは隔絶しているという幻想郷に在っては、「戦艦」について知り得る機会はまずないと考えられるが、そうした知識はどこで手に入れたのだろうか。

 

 それはさておき、東風谷の知識レベルに合わせて話す必要があった。少なくとも、深海棲艦の艦種類型についての最低限の知識もないと見て間違いないだろう。

 

「あいつらにも色々種類があるんだけど、今回出て来たのは多分、航空機を主兵装として扱う深海棲艦ってことよ。それが海の上に立っている奴なら『空母』、陸の上に陣取っている奴なら『陸上型深海棲艦』って呼ぶ」

「え!? 深海棲艦って、海にしか居ないんじゃないんですか?」

「中には陸の上に居る奴も存在するよ。そういうのを相手にするには、特殊な装備が必要で、たぶんここの基地にはないと思うけど」

「どうするんですか、それ! っていうか、どうしたらいいんですか!?」

「そもそも、シンガポールの駐在艦娘に空母は居なかったはず。敵が空母なら、こっちも空母を出さないと勝ち目がほとんどないんだけど」

「ますますまずいじゃないですか! 航空機って、さっきのがそうなんですよね? あんなのがもっと一杯出て来るってことですよね!?」

「そうだね」

「じゃあ、どうやれば……」

「空母とか、空母に近い性質の陸上型の特徴は、ある程度損害を与えれば航空機を操れなくなる。だから、さっさとぶっ壊してしまえば、あとはこっちが好き放題に出来る」

 

 鈴谷がそう言うと、二人の会話を黙って聞いていた右隣りの博麗が喉を鳴らした。

 

「ぶっ壊す、か。いいじゃない。そういう単純明快なの、悪くないわ。やることがはっきりしていて」

 

 思いの外、彼女は楽しそうだった。乗り気なのはいいことだ。

 

「そういうことだよ」

 

 鈴谷も同調して口の端を釣り上げる。

 

「そんな単純なことじゃ……」と東風谷は文句を言い掛けたが口を噤んだ。この二人には何を言ってももう無駄だと察したのだろう。鈴谷は、この東風谷の頭の回転の速さを好意的に評価していた。

 

「単純だけど、簡単じゃなさそうね」

「そうそう。一筋縄じゃ行かないと思うよ。あの吸血鬼も居るだろうから」

 

 会話の間に、さらにコンテナヤードの辺りから艦載機が上昇してくる。今度は四機。その様子に鈴谷は違和感を覚えた。

 何かがおかしい。だが、何がおかしい?

 次の深海機に対して、博麗は結界で防ぐのではなく自ら攻撃した。彼女はまた、御幣を大きく振るう。シャッと紙垂が鳴る。その幣串の先端から白い光弾が四つ飛び出し、それぞれが正面から接近する深海機に向かっていた。

 危険を察知したのか、編隊を組んでいた深海機がそれぞれ上昇と旋回を開始して光弾を回避しようとする。だが、光弾は逃げる深海機を追跡し、吸い込まれるように命中した。

 

 ミサイルかよ! 

 

 あまりに常軌を逸脱した光景に、思わずそう叫びたくなった。だが、それも束の間、「来たわよ!」と鋭い博麗の警告が聞こえて、意識がそちらに割かれる。

 見上げると、上から降ってくる黒い大きな影。見間違いでなければ、それは四十フィートの船積みコンテナではないか?

 再び結界が張られ、そこにコンテナが激突して轟音を立てた。下を見るとコンテナが落ちていくのは海だったので、地上に被害が出ることはなさそうだ。いつの間にかコンテナヤードの近くまで来ていたらしい。

 だが、それにしてもどうしてあんな物が宙を舞って飛んで来たのだろうか。果たして、その答えは「出たわよ」という博麗の尋常ならざる声によって示された。

 

 眼前である。

 積み上げられたコンテナの山の頂上。そこに、一つの人影が立っていた。背中に翼を生やした、「深紅」のドレス姿。明るいコンテナヤードの中にあり、その威容はよく見えた。

 不意に、ヤードに灯っていた明かりが停電したかのようにすべて消える。それによって辺りが暗闇に包まれても、ぼんやりとした「紅い」光を自ら放つ異形の王の姿は決して見失うことがなかった。見失うなど出来なかった。

 彼女はそこに存在し、ただそれだけで己以外の誰をも畏怖させる威厳を纏っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 


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