レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督43 The great descendant of tepes

 最初の衝撃でゴルフボールのように弾き飛ばされたレミリアは、コンテナの山の中に墜落した。だが、そこは人間より遥かに頑丈な吸血鬼。相当な勢いで鋼鉄製の四十フィートコンテナの側面に激突しても、コンテナを凹ますだけで自分の身体には全く傷を受けなかった。墜落の際にしたたかに打ち付けてしまった背中の筋肉を解すように背伸びをすると、何事もなかったかのように立ち上がる。

 そこは船から下ろされたコンテナの仮置き場のような場所で、レミリアが立っているのはコンテナの山と山との間、動線となっている谷間にあたる。前後にはコンテナが壁のように積み上げられ、視界が遮られているので自分を吹き飛ばした赤城が今どんな状態になっているのか、直接それを目で確認することは出来なかった。もっとも、見るまでもなく想像はついたが。

 

「お嬢様!」

 

 加えて、レミリアは独りではなかった。真っ先に駆け付けて来たのは、レミリアの最も信頼する腹心であり片腕である、メイド長の十六夜咲夜である。暗闇の中なので純粋な人間たる彼女にはほとんどレミリアの姿は見えないであろうが、吸血鬼たる主人には彼女の姿ははっきりと目に映っている。「事」が起こる直前に、彼女には寝たきりで無防備な加賀の保護を頼んであった。時間停止という極めて貴重な能力の持ち主であるこの人間は、その威力を如何なく発揮ししつつも、突然の爆発に慌てて馳せ参じたらしい。加賀を抱えたままの状態で、彼女は主人のすぐ傍に現れた。

 

「加賀は、無事そうね。ありがとう。そのまま彼女を安全な場所に退避させて」

「御意に。しかし、お嬢様。これは想定外の事態では?」

 

 ほとんどの事情を説明してあるので、今何が起こっているのかを把握している使用人の顔は深刻だ。ところが、レミリアは首を振り、

 

「いいえ。想定内よ。いくつか想定したパターンの中で一番悪いパターンだけど」

 

 と、肩をすくめる。

 こうなることは予想していた。もっとも、「最悪こうなるな」と考えていた程度に過ぎないが。

 

 レミリアとしては、記憶のほとんどをなくした赤城(今は黒檜と名乗っている)を加賀と面会させて、ある程度記憶の想起を促すつもりだった。消滅したわけではないが、記憶と共に赤城としての自我も封印されてしまっているので、今の赤城に「赤城」としての自覚はない状態である。要するに、その自我を思い出させようとしたのだ。

 もちろん、それはきっかけに過ぎない。だが、何のきっかけもなければ彼女は今後も「赤城」とは別人として生きていくことになっただろう。それはレミリアの望む未来ではなかった。

 故に、加賀が歪な形であるとは言え、引き揚げられたことは望外の知らせであったし、彼女と赤城を再び引き合わせることで、赤城の中での変化を促進する狙いがあったわけだ。そして、事態は狙い通りに進行した。進行“し過ぎて”しまった。

 

 過去、赤城は一度だけ深海棲艦になりかけたことがある。この時、彼女を堕落せしめようとしていたのは空母水鬼と名付けられた上位の深海棲艦だったのだが、赤城の中に深海棲艦化する極めて大きな要因があったことが、あのような事態を招いてしまった。言うまでもなく、戦友である加賀の喪失である。

 加賀の存在は、赤城の心を支える大黒柱であった。実姉を震災で亡くした彼女にとって、加賀という女性は単なる友人以上に重い意味を持った人だったのだろう。本質的に赤城には他者に心の拠り所を求めずにいられない脆さがあるとレミリアは考えている。赤城本人がそれを自覚していたかどうかは怪しいし、赤城にとって加賀は掛け替えのない存在だったとしても、加賀にとっての赤城はそうではなかったかもしれない。二人の関係性をレミリアとて正確に把握していたわけではないので、断言出来ないところは多々あるが、それでも赤城が精神的に崩れないために加賀は必要だった。ところが、突然にその支柱がなくなってしまったものだから、赤城に走った衝撃の大きさは想像を絶するものだったはずだ。だからか、彼女の精神が瓦解をし始めるのに時間は掛からなかった。

 

 艦娘は精神の在り方、その変容により、存在そのものまで変化してしまうことがある。その意味では、艦娘は人間よりもずっと妖怪寄りであると言えよう。この存在の変化というのが、人間が名付けた「深海棲艦化」と呼ばれる現象だ。つまり、あの時赤城に起こった変化も、加賀という大きな存在を失ってしまったことで起こったことだった。

 とはいえ、今の彼女は記憶のない「空っぽ」の状態であり、赤城としての自我も忘れて別人を名乗っているし、当人はそのことを疑ってもいない。だが、だからと言って赤城が赤城であることに変わりはないので、例え過去を思い出せなくとも、別人格が芽生えていたとしても、根本的には変わっていない。

 要は、その根本を引っ張り出すために、未だ目覚める徴候のない加賀と会わせたのだ。目論み通り、これが記憶を失った赤城に大きな変化をもたらした。問題は、その変化がレミリアの望まぬところまで進んでしまったことにある。

 加賀との無言の再会は、加賀の喪失が直接的原因である故、一度は阻止出来た深海棲艦化を再度進行させることにもなってしまった。それが今の状況だ。

 

「このままでは、大変なことになるのでは?」

 

 メイドは心配顔であるが、レミリアは落ち着いて彼女の懸念を否定する。

 

「それ程大事には至らないでしょう。確かに赤城は深海棲艦になろうとしている。けれど、完全に変化することはないし、その力を発揮することもない。何故だか分かる? 彼女が『空っぽ』だからよ」

「『空っぽ』だから、ですか?」

「ええ。今の赤城は主要な記憶がない。ミソは、『主要』という点よ。艦娘になったこととか、その後に起きた出来事の思い出とか、加賀の喪失なんて、みんな覚えていない。だけど、彼女が覚えていないのは見聞きした事実に関する記憶ばかりで、その時々で彼女の内面に起こった感情についてのものはちゃんと残っているわ。そうした感情はあの子の魂に刻まれた記憶だから、弄ることが出来なかったのよ。だから、加賀を失った時の衝撃と、喪失感が残っている故に、今こんなことになってしまったのね。でも、加賀を失ったこと自体の記憶はないし、艦娘としての記憶もない。当然、その自覚もない。今の赤城は“限りなく人間に近い”存在よ。そして、幻想を否定されたこの世界で、“限りなく人間に近い”赤城が、ほぼ完全な幻想種である深海棲艦になることはあり得ない。今あそこに現れたのは、張りぼての深海棲艦もどき。その意味で『空っぽ』と言ったの」

 

 元々レミリアたちの計画に深く関わっておらず、後から事情説明されただけで理解の浅いメイドは、分かったような顔をして頷いているものの、実際にはさほど状況を理解していないだろう。ただ、今の赤城がそれ程脅威ではないということくらいを分かった程度か。もちろん、彼女が行動するにはその程度の理解で十分である。

 この使用人は意外と口うるさく、特にレミリアが深海棲艦排除の計画に失敗して幻想郷に帰って来た辺りからそれが顕著になってしまった。だから、少しでも説明をしておかないと、後でやかましく言い立てられる。それが煩わしくて、レミリアはわざわざ解説を行ったのだ。

 

「お嬢様! 大変ですよ! 大変なことに!!」

 

 そのタイミングで、大声を出しながら駆け付けてくる部下がもう一人。こちらは時間停止などと言う便利な能力は持たないので、走ってやって来た。

 

「ああ、美鈴ね。大丈夫よ。落ち着いて。想定内だから」

「でも、あの人深海棲艦に……」

「いいの、何とかなるから」

 

 今の赤城に出来ることは少ないので、多少目を離していても問題ないから時間的余裕はまだあった。しかし、咲夜にしたのと同じ説明をもう一度する気にはならない。

 

「いいんですか」

「いいのよ」

 

 美鈴の場合、説明はあまり必要ではない。彼女はメイドほど口うるさくないからだ。部下としてはほとんどの面で美鈴より咲夜の方が優秀なのだが、扱いやすさという点においては圧倒的に美鈴の方が勝っている。咲夜は根が真面目すぎるが、美鈴は力の抜き方をよく心得ているのだ。これは年の功であり、人間であるメイドと、妖怪である門番の、生きてきた時間の長さの違いによるものだろう。

 色々と察したであろう美鈴は、指示待ちの姿勢になった。それを確認してから、レミリアは門番に手を差し出す。

 

「あれ持ってる?」

「あ、はい」

 

 美鈴は懐からペンケースを二つ取り出した。受け取ったレミリアはそれぞれのケースを開けて中に注射器が一本ずつ収められていることを確認する。注射器のには「ERM(緊急修復材)」と書かれたラベルが貼られている。

 ケースの蓋を閉じてからレミリアはくるりと振り返ってメイドに顔を向けた。

 

「状況を鎮静化し次第、速やかに撤収に移るわ。まず、咲夜はさっきも言った通り、加賀を安全な場所に退避させて。それと、撤収の準備もお願い」

 

 使用人は短く「御意に」と答えた。それから今度は美鈴と向かい合い、受け取った緊急修復材のケースを一つ差し出す。

 

「美鈴には二つの指示を与えるわ。一つは、これをあいつに渡して私の指示を伝えて。言うわよ、いい? 『今の赤城に戦闘能力はなきに等しいけれど、あの子が本質的に艦娘であることに変わりはないわ。中途半端とは言え深海棲艦化が起こって、艤装は出て来ているから海に立つことは出来る。海に出られたら私に手出し出来ないから、そうなった場合はこの注射を赤城に打ち込んで。そうすれば艤装の解除が出来るはずだから』」

 

 門番は恭しく頷いた。

 

「あと、もう一つ。美鈴自身は例の魔法を起動させて。やり方は説明した通りよ。覚えているわよね?」

「ええ、もちろんです。それで、お嬢様はどうされるんでしょう?」

「招かれざる客の相手をしなければならないわね」

「それは……」

「霊夢よ」

「巫女が来ているのですか!?」

「ええ」

 

 別に不思議なことではなかった。レミリアはもう一年以上外の世界に出たままなのだ。妖怪の賢者たちが連れ戻そうと考えるのはごく自然なことだし、そのために宛がわれる人選として博麗の巫女たる少女に白羽の矢が立つのも理に適っている。そして、幻想郷で生まれ、幻想郷で育ったがために外の世界のことに疎い霊夢を支えるため、近年外の世界からやって来たもう一人の巫女が選ばれるのも不思議ではない。

 と言っても、レミリアが二人がシンガポールまで追って来ているのを知ったのは、ごく最近、「ついさっき」のことである。美鈴の運転する車を追跡していた艦娘と思われる女。その女が追跡に失敗して川に落下した時、助けに入った二人の日本語を喋る少女が居た、という報告を受けていたからだ。わざわざ川に飛び込むような勇敢な日本語話者の少女が、都合良くシンガポールに二人も居たりしない。偶然ではないなら必然。ならば、必然性を持ち得る人物として考えられるのは、レミリアを追う妖怪の賢者たちの手駒以外にない。簡単な推論である。

 では、一体誰がレミリアにその報告を入れたのか。それは、吸血鬼に与する王立海軍の気高き艦娘――ウォースパイトだ。彼女は在シンガポール英国高等弁務官事務所(英連邦加盟国における大使館に相当)の職員を密かに動かしていた。美鈴が追っ手を振り切れない場合はこの職員が妨害に入る手筈になっていたのだ。だが、美鈴は首尾よく逃げ切り、職員が追っ手の「その後」を確認してウォースパイトに連絡を入れている。

 よって、レミリアは現況の把握について、それが正確であることに自信を持っている。赤城が暴れ出せば、お得意の神懸った「勘」でそれを察知した霊夢は大急ぎで駆け付けて来るだろう。当然早苗や救助した追っ手の艦娘も一緒のはず。だが、状況と霊夢の性格上、早苗との共闘は考え辛い。霊夢はレミリアを探し、早苗と艦娘は赤城に対処しようとするだろう。

 もちろん、ここにやって来ようとするのは彼女たちだけではない。言うまでもなく、シンガポール駐在の艦娘部隊も出動する。レミリアは可能な限り状況の混乱を抑えたかった。招かれざる客は、巫女たちだけで十分間に合っている。霊夢たちが来てしまうのは状況鎮静化の障害にしかならないのだが、感情は理性とは全く異なることを求めていた。

 

 今の自分の力が、どこまであの不思議な巫女に通用するのかを知りたい。“お遊び”の弾幕ごっこで彼女とは何度も戦ったことがある。勝ったこともあったし、負けたこともあった。遊びではあったが、まごうことなき真剣勝負。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。ただ、そこには命のやり取りはない。厳密に言えば事故で死んでしまうこともあり得るが、弾幕ごっこそれ自体は相手の死を目的にしていない。あくまで、相手より派手で、美しく、そして攻略の難易度の高い弾幕を張ることがその目的なのだ。その大前提の上で、レミリアは今まで霊夢と戦ってきた。

 しかし、時に霊夢は妖怪を意図して殺すことがある。それは彼女の「博麗の巫女」としての役割が要請するものだ。幻想郷は、そこに暮らす人間を殺す妖怪を、あるいは自ら望んで人ならざる者への変化を遂げた人間を、容赦しない。端的な実力行使の担い手として「博麗の巫女」は存在する。

 

 では、今のレミリアはどうだろうか? 自ら望んだわけではないが、「人間」だった赤城を「深海棲艦」に変貌させたレミリアなら、「博麗の巫女」の懲罰対象になるだろうか。例えそれが他人であっても、“そうなるかもしれない”と分かっていながら積極的に阻止しなかった未必の故意が成立したとしても、「博麗の巫女」は御幣を振るうだろうか。

 目的が本来のものからずれていっているという自覚はある。わざわざ強敵と正面から戦う必要はない。単に、レミリアがそうしたいからそうするという、我がままなだけ。個人的欲求でしかない。

 こんなことが出来るのは、保険をしっかりと掛けていたからである。つまり、レミリアは自分自身が何もしなくとも今の状況を鎮静化させられるだけの十分な準備を整えているということだ。

 

「面白いでしょ? 今夜はいい夜になりそうだわ」

 

 こんなに楽しいのは久しぶりだった。自分でやり始めたこととは言え、“詰まらない仕事”ばかりだったここ最近、本心では退屈していたのだ。こうして気持ちが昂るのは随分と久しい気がする。

 

「霊夢は私が相手をする。さあ、二人とも行って。今宵の宴はまだまだこれから盛り上がるんだもの!」

 

 

 

****

 

 

 

 

 巫女と吸血鬼が激突する。

 上空に血の色のような「赤い」巨大な魔方陣が描かれ、そこから同じ色の、これまた縮尺を間違ったのではないかと思うほど大きな槍が次から次へと射出され始めた。そのすべてが一人空を飛ぶ博麗に向かって放たれている。一発一発が途方もない威力を持っているのだろう。だが、どんな攻撃も避けられてしまえば意味がない。吸血鬼の背後、光背のように掲げられた魔方陣は、海側から接近する博麗に向けて槍を撃っているが、すべてが巫女には回避されていた。

 威力が大きいと分かったのは、標的に命中せず海面に着弾した槍が轟音と共に数十メートルはあろうかという巨大な水柱を立ち上げるからだ。それは、槍の一本一本が長門型の41㎝砲弾匹敵すると思われるエネルギーを持っているということの証左である。そんなものを生身の人間が食らえば一溜りもないどころか、小さな肉片すら残さず粉みじんに砕かれてしまう。

 しかし、博麗は何も恐れている様子ではない。それどころか、彼女は果敢にも吸血鬼に立ち向かおうとしていた。戦艦の主砲に撃たれるということがどんなに恐ろしいかを、鈴谷は身に染みて理解している。例えそれが味方で、発射されるのも演習砲弾で、自分が絶対に死なないという状況であったとしても、耳をつんざく砲音と見上げるほどに大きい水柱の前に、足より先に心が逃げ出しそうになる。慣れればその内度胸のようなものを手に入れるが、それでも大口径主砲による砲撃に対する恐怖を完全には拭い去れない。高い運動エネルギーを持つ砲弾を撃ち出す攻撃には、物理的なそれ以上に、精神を圧迫するエネルギーが含まれているのだ。

 そんな攻撃にもかかわらず、まったく怯む様子を見せることなくひらりひらりと槍を躱す博麗の肝っ玉はどれだけ大きいのだろう。自分の背後で轟音を立てて海に着弾する槍の威力を分かっていないわけではないはずだ。分かった上で、しかし彼女はまるで恐れていない。もちろん、変に委縮して動きを止めてしまえば被弾するのは目に見えているから、博麗は正しい選択をしている。けれど、それと肝の太さを両立させるのは並大抵のことではないのだ。

 

「あれ、弾幕じゃない。遊びじゃないです。本気の攻撃ですよ」

 

 空を飛べない鈴谷を背負うのは東風谷。彼女も槍の威力に唖然としているようだ。彼女曰くは、幻想郷の住人たちはスポーツ感覚で「弾幕勝負」なる遊びに興じるらしい。人間も妖怪も関係なく、皆が平等に参加出来る遊びとのことだが、今のスカーレットは「遊んで」くれるほど甘い存在ではないということだ。

 あまりにも常軌を逸脱した光景に、言葉が思い浮かばない。翼もないのに空を飛ぶなんて芸当を見せられて一度驚いているので、もう何があっても少々のことでは驚かないだろうとたかを括っていたのだが、想像を絶する吸血鬼の力には絶句するしかなかった。こんな破壊力のある攻撃を機関銃のように連続で撃ち出せるのだから、それは深海棲艦の大艦隊も簡単に全滅してしまうだろう。

 そしてまた、博麗に危なっかしさが一切見受けられないのにも驚く。彼女の周囲にはいつの間にか玉のような物体が、衛星のごとく周回している。何かしらの攻撃準備のようで、徐々に近付いてくる巫女を見て警戒したのか吸血鬼は行動を変えた。

 槍の発射台となっていた巨大魔方陣が消える。次の攻撃はすぐさま始まった。スカーレットは腕を振り、そこから先程とは別の小さな槍を飛ばす。この槍は三本ずつ発射されるようで、スカーレットが腕を振る度、次々と生成されていった。まるで、巫女を寄せ付けないようにしている。

 だが、今度は博麗も避けるだけでなく、反撃に出た。自分の周りを周回させていた玉を前へ飛ばす。玉と槍が激突して爆発音が鳴り響いた。なるほど、確かに博麗にはスカーレットを連れ戻す人員として選ばれるにふさわしい実力があるのだろう。二人のそれは拮抗しているように思えた。多少分が悪いと考えたのか、あるいは他に何か狙いがあるのか、それまでコンテナヤードの上で浮かんでいた吸血鬼が動き出す。博麗から離れていっているように見えた。

 当然、博麗は後を追う。その間にも二人は槍と玉の応酬を続けていた。スカーレットはともかく、巫女の方もどこからともなくあの玉を無尽蔵に作り出せるようで、“残弾”の心配は不要そうだ。というより、今二人の間で起こっていることを科学的に真正面から説明しようと試みることは無駄な労力に違いない。あれは、鈴谷の持っている常識や知識で測れる現象ではないのだ。

 

「鈴谷さん、霊夢さんが戦ってくれている内に急ぎましょう」

「あ、うん」

 

 東風谷に声を掛けられて、鈴谷はようやく戦いに釘付けになっていた視線をそこから反らすことが出来た。

 

 二手に分かれたのは、博麗が吸血鬼を相手している内に東風谷と鈴谷で現れた深海棲艦に対処するためだ。どうやらあの吸血鬼はこの状況を意図的に起こしたか、もしくは想定の範疇として利用しているらしい。博麗との交戦を避けない辺り、そのように考えても問題ないだろう。同時に、彼女にはまだまだ幻想郷に帰る意思もないことを示していた。

 だが、まず優先すべきは深海棲艦である。種類が分かれば対処法も自ずと決まるので、相手を確認することが先決だった。ただ、深海棲艦はしばしば新種が現れることがあり、その場合はまた面倒なことになるのではあるが。

 それはさておき、やることが明確であっても実際にそれを為すのは簡単ではないのが現実だ。鈴谷の眼下に広がるコンテナヤードは不気味なほど暗く、静まり返っている。光源と言えば上空でやり合っている吸血鬼と巫女が放つ弾幕の光か、接岸している貨物船にぽつりぽつりと燈る灯りくらいしかない。これはコンテナヤードが完全に停電しており、船は自家発電装置で電力を得ていることを意味していた。

 

「あの、船の人は避難されているのでしょうか」

 

 ふと、東風谷がそんな疑問を口にする。接岸中の貨物船はまさに荷役中だったと思われる。当然、船の船員、ガントリークレーンの操縦員、コンテナを荷扱う荷役要員などの人員がそこには居るはずだが、上空からでは暗すぎるのもあって、少なくとも人間が動いているようには見えなかった。

 

「いや、逃げる暇なんてなかったでしょ」

 

 どう考えても、深海棲艦が出現し、博麗がスカーレットと戦い始めるまでのさほど長くない時間に、この広大なコンテナヤードから人が掃けたとは思えない。ましてや突然停電したのだから逃げる暇などなかっただろう。

 しかも、あのスカーレットの槍の破壊力を鑑みるに、あんなものが地上や船舶を直撃したら大惨事になるのは誰の目にも明らかだった。東風谷もそこに思い至ったのだろう。彼女は徐に上着の中に手を突っ込み、すぐに何かを引っ張り出した。

 玉である。ソフトボール大で、白と黒の二つの滴が絡み合うような紋様が描かれている。どこかで見たようなデザインだと思ったら、すぐに韓国の国旗に似たような図柄があることを思い出した。

 どこからともなく玉を取り出した東風谷は、それを何に使うのかと鈴谷が見詰めている間に徐に口元に近付けて、「霊夢さん!」と語気を強めに友人の名を呼んだ。

 

「何よッ!」

 

 すぐに応答があった。鈴谷の聞き間違いでなければ、博麗の声が東風谷の手中にある玉から聞こえたように思える。実際、それは聞き間違いでも幻聴でもなかった。東風谷が玉に向かって会話し出したからだ。

 

「まだ下に人が残ってます! レミリアさんの攻撃がそちらに向かないようにうまく誘導してください!」

「はあ!? ムチャ言わないでよ!」

 

 紛れもなく博麗の声だ。巫女が喚いている。その余裕のなさは、スカーレットと激しい攻防を繰り広げている光景と矛盾していない。

 玉はまるで無線機だった。信じがたいことに、東風谷はこれでどうやら博麗と遠隔通信を行えているらしい。どのような原理で何を媒介にして可能としているのかまるで理解出来ないが、用法は無線や電話とさして変わらないのだろう。

 

「レミリアさんの攻撃の威力、本気ですよ!」

「んなこたぁ分かってるわよッ! あいつ、幻想郷に居る時より強くなってるわ!! どういうことよ。外に来たら弱体化するって、紫の奴が言ってたのに!!」

「海の上で戦うようにしましょう!」

「吸血鬼は海の上を飛べないはずよ。その証拠に、陸地の上空から移動しようとしないわ! こっちは大丈夫だから、そっちはそっちの仕事をやって!」

「……分かりました。こちらは引き続き深海棲艦を探します」

 

 どうやら、博麗は吸血鬼に圧され気味なようだ。だが、だからと言って彼女に今から助太刀に行くわけにもいかない。深海棲艦がまだ見付かっていないのだ。本体はおろか、先程ヘリや鈴谷たちを攻撃しようとした艦載機も、その影を見せない。

 博麗の言っていた「スカーレットが強くなっている」という情報も気になるが、今はそれより深海棲艦が優先される。海に出た可能性もあるので、巫女と吸血鬼の戦闘による閃光を頼りにしながら暗い海上に視線を這わすが、漆黒の海は異形の存在を隠匿しているのか、はたまたそこには何もないのか、鈴谷は怪しい影も発見出来なかった。

 こういう時に対水上電探があればすぐに索敵出来るのだが、夜間に、それも肉眼で人間大の深海棲艦を探すのは困難を極める。

 だが、この状況下で深海棲艦を探すことが難しいという事実自体に違和感を覚えた。博麗とスカーレットが上空でぶつかり合い、派手に戦っているのを深海棲艦が把握していないわけがない。ましてや、ここは市街地至近の港湾エリアなのだ。人間ないし艦娘を攻撃する習性のある深海棲艦が何の行動も起こしていないのは不可解極まりない。

 いや、違う。何もしていないわけがない。鈴谷が知る限り、深海棲艦と言うのはこの状況、この場所で静観に徹するような行動原理を持たない。持たないからこそ、連中は人類最大の敵として恐れられ、優先的な駆除の対象になっているのだ。

 しかも、相手は高い機動力を持つ航空機を操るタイプ。仮に本体が動かずとも、自分の子供たちを飛ばせば良い。航空巡洋艦として、本格的な航空母艦ほどではないが複数の艦載機の運用も時には行う鈴谷だから、航空戦のいろはは分かっているつもりだ。もし自分なら、この場合はどうするべきかと考える。すると、答えは自ずと導き出された。

 

「上!」

「え!?」

「上から来る!!」

 

 今まで地上と海上を見下ろしていた目を、今度は上空に向ける。自分たちの頭上。幻想の戦いの光で照らされる夜空の中。

 暗幕に紛れて蠢く影がある。それらはまさに鈴谷と東風谷に向かって急降下を仕掛けてきたところだった。鈴谷が警告の叫びを上げる前に自力で向かい来る脅威に気付いた東風谷が身体を捻り、強引に機動を変える。

 複数の風切り音が響いて深海機が真横を通り過ぎた。一機、二機なんて数ではない。少なく見積もっても二十機は居ただろうか。まるで艦爆隊の急降下爆撃のように隊列を組みながら整然と突っ込んで来たのだ。

 東風谷の無理矢理な旋回に振り落とされそうになるが、何とかしがみ付いて耐えた鈴谷は、やり過ごした深海機が隊列を組んだまま反転するのを視認する。

 

「もう一度来る!」

「応戦します! 秘術『グレイソーマタージ』!!」

 

 再び向かって来る深海機の編隊に向けて、彼女はまるでそれを遮ろうとしたかのように片手を伸ばして指を広げる。「来るな」と言っているかのような動作。ただし、その手は宣告と共に伸ばされたものだ。

 風祝の伸ばした右手が光る。閃光と言っても良い眩い輝きはすぐに分裂して形を作った。

 五芒星。それが部分部分で重なりながらいくつも現れる。空中に刻まれるように描かれた光る紋様は、まるで意志を持っているかのように重なり合った間隔を拡大し、そして捩じれるように形を崩していく。星を描いていたのは線ではない。小さな光の粒が規則正しく並んで、まるでビーズで作った星のアクセサリーのようだった。

 光るビーズがバラバラになって夜空に飛び散る。少女の手の先に生まれたのは、白や「緑」に光る大量の弾幕だった。生半可な数ではない。何しろ、元となる五芒星の大きさからして、一つひとつが東風谷がすっぽり収まるようなサイズだったのだ。それぞれの辺を構成していた弾の数もそれ相応に多かった。そしてそれらが今、捩じれるような軌道を描きながら東風谷を中心として全周囲に拡散し始めたのである。

 まるで、花火を爆発の中心から見ているような光景だった。しかも、東風谷はさらにもう一度同じ弾幕を生み出した。先の弾幕が広がり切らない内にまた五芒星が描かれる。五個ずつ、二層に重なるように配置された五芒星が互いの斥力で弾き出されるように展開し、形を崩して弾幕となる。

 こうして出来た濃密な弾幕の壁は、向かい来る深海機を迎撃するに十分なものだった。輪形陣で展開した空母機動部隊が針山のように装備した高角砲と対空機銃を全門発射したとしても、ここまで密度の濃い弾幕は張れないであろう。東風谷の弾幕は、鈴谷をしてそう思わせるに足る防壁であったし、実際にその効果は「覿面」の一言に尽きた。

 光るビーズは単なる光ではなかった。確実に質量を持っていた。そこに無謀にも突っ込んだ深海機はたちまちの内に無数の破孔を穿たれ、飛行に必要な形状を失って重力の虜になる。弾幕はしばらくして消えたが、その頃には深海機もすべからく空の塵となって海に降り注いでいるところだった。

 

「ふぅ……。危なかった。でも、意外といけますね、私」

 

 自らが起こした結果に対し、あまりにも軽々しい東風谷の言葉に、あっけにとられていた鈴谷は我に返る。

 どんな艦娘だって、あんな濃密で、あんな威力の高い弾幕を張ることは出来ない。鉄火を噴く艦娘の兵装では成し得ぬことなのだろう。

 それ故に幻想。それ故に不可思議。

 つくづく思い知らされる。彼女たちは、鈴谷が与り知らぬ世界からの来訪者。そこでは鈴谷の知らぬ法則が働き、鈴谷の知らぬ力を持つ者たちが暮らし、鈴谷の知らぬ現象が起きるのだ。普通の少女のように見えて、東風谷も立派な不思議の国の住人なのである。

 

「そう言えばさっきの飛行機、撃ってきませんでしたね」

 

 目の前で起こった魔法のような現象を受け止めきれない航巡の様子に気付いていないのか、気付いていてあえて無視したのか、何事もなかったかのように問い掛けてきた。

 

「え? あ、うん。そうだった、ね……」

 

 半分上の空で同意した鈴谷は、二拍ほど間をおいて、ようやく言われた内容を正しく認識する。

 

 そうだ。深海機は撃って来なかった。

 深海棲艦との戦闘についてはまったくの素人であるはずの東風谷でさえおかしいと感じたのだ。連中の習性をよく知る艦娘からすれば、おかしいどころか「異様」とすら感じられる。

 そう言えば、深海機は警察のヘリを追い払った時も発砲していなかった。そもそも、空を自在に飛び回れる深海棲艦の航空機を前にして、ほぼ非武装の警察ヘリが“生きて帰れる”こと自体がおかしいのだ。普通なら機銃掃射で穴だらけにされて、乗員全員が殉職していただろう。

 先程の上空からの奇襲もそうだ。攻撃対象と見做した東風谷と鈴谷を、深海機は上から好きに狙える状況だったのに、たった一発も撃たなかった。だからこそ二人は今五体満足で居られるのだが、本来はあり得ないことだ。深海機は夜間も活動出来るから、夜だからというのは理由にならない。あの機動性からも飛んでいたのは恐らく戦闘機で、こいつらの武器と言えば機銃しかない。

 まるで、弾切れになってしまっていたかのようだった。しかしそれも奇妙な話。母艦(もしくは基地)となる深海棲艦は、つい先ほど現れたばかりなのである。燃料も弾薬も不足するはずがない。

 何かがおかしい。そして、おかしなことはもう一つあった。

 

「ねえ、マリーナ・ベイ・サンズはどこ?」

「え? マリーナ?」

「マリーナ・ベイ・サンズ。ホテルだよ。ほら、さっき見たでしょ? 三つのビルの上に空中庭園が乗っかった建物」

「あ、さっき横を通って来ましたよね。あれ、そう言えばあんな目立つ建物なのに、見えない……」

 

 東風谷はもうコンテナヤードの上空まで飛んで来ていた。高度はガントリークレーンの先端が間近に見える程度の高さしかないが、それでも派手なシンガポールのランドマークはここからでもよく見えるはずである。件のホテルはマリーナ湾とシンガポール港の間に半島状に突き出した場所に立地しており、海からはよく見えるはずだ。

 ところが、辺りを見回してみてもそれらしき建物が見えない。それどころか、ぎらぎらと眩しく輝いているはずの街の灯り自体が見えない。ただぼんやりと明るく、星も見えない夜空があるだけだ。海や陸地との境界線は曖昧で、すぐ近くにあるはずのリゾート地のセントーサ島も、どこにあるのかが分からなかった。

 それ以前に、スカーレットがコンテナの山の上に姿を現した時、ヤードの島全体が停電を起こしたようにすべての明かりを消した。深海棲艦によって送電線が切断されたのではないかと考えたが、事実はそうでなかったとしたら、あの時一体何が起こったのだろうか。

 

「ねえ、おかしいことばかりじゃん? 深海機は威嚇射撃すらしてこなかった。突然停電も起こった」

「ええ、これはまずいかもしれません。停電したり、見えるはずの街の景色が見えないのは、ひょっとしたら何らかの結界が張られたからかもしれません」

「結界?」

「領域を二つに分け隔てる結界です。だからこちらから外側の景色が見えないし、電気が遮断されてしまったから島内で停電が起きたのかも。どうやら、私たちは閉じ込められたみたいですね」

 

 閉じ込められたって、と言い掛けて、誰がそれをしたのかに思い当たった鈴谷は代わりに別のことを口にした。

 

「どうすりゃ出られるの?」

「普通、結界はそれを張った本人か、何かしらの条件を満たす者しか通れません。それ以外は力づくで無理矢理突破するしかないです。ただ、結界を通るにしろ破るにしろ、その結界の種類や仕組みを正しく理解していることが最低条件になります」

「どういう結界かっていうのは分析出来る?」

「ある程度は出来ますけど、簡単じゃないでしょうね」

「これも、吸血鬼の力なの?」

 

 それまですらすらと答えていた東風谷だったが、この質問にはすぐに答えなかった。代わりに、彼女はずり落ちかけていた鈴谷をもう一度背負い直す。言うべき言葉を探す間に、間を持たせるためにそうしたようだった。

 

「いいえ」と、答えを探し当てた風祝が再び口を開く。

 

「恐らく違います。この結界はかなり大きい部類に入ると思いますが、ここまで大きい結界を作れるには高度な魔法が必要なんです。レミリアさんは力の強い妖怪ですが、こんな大規模な結界を展開出来るほど魔法に通じているわけじゃありません。ただ、レミリアさんには魔法使いのご友人が居て、その魔法使いならこれだけの結界も容易く作れるでしょう」

 

 今度は魔法使いときた。いや、この世であり得ないものと否定された諸々が集まる幻想郷である。魔法使いなんてポピュラーな存在が居ても何ら不思議ではない。世にも恐ろしい吸血鬼や霊験あらたかな巫女が跳梁跋扈する世界なのだ。

 問題は、スカーレットには長髪の女以外にも仲間が居るということだった。あの長髪の女が東風谷の言うような魔法使いであるとは考え辛かった。結界を張れる力があるなら、わざわざ車で黒檜を拉致する必要もないだろう。魔法使いというくらいなのだから結界を張る以外のことも出来るだろうし、それこそ鈴谷には想像もつかないことが可能であっても不思議ではない。だから、お得意の魔法とやらで鈴谷の追跡を躱せたはずだ。それをしなかったということは、長髪の女は魔法使いではなく、この結界の作成者は別に存在することになる。

 厄介なのはそこだった。馬鹿げた力を振り回す吸血鬼に、未だ姿を見せない長髪の女。そして、新たに存在が示唆された魔法使い。他に仲間が居るかもしれない。巫女二人の説明からも、スカーレット一味の中で最強なのは間違いなく吸血鬼なのだが、彼女にばかり気を取られているわけにもいかないというわけだ。

 

「あいつの仲間って、一体何人居るの?」

「私の知る限り、他に二人は居るかもしれません。レミリアさんの片腕のメイド長と、レミリアさんの妹です」

「妹? 血縁者が居るの?」

「私も見たことがないですし、引き籠りだって聞いたことがあるから来ていないかもしれませんけど。ただ、メイド長の方は確実にいらっしゃるかと……」

「そのメイド長ってのは、何者なの?」

「人間です。本当に、ただの人間ですけど」

 

 東風谷はやけに言い辛そうだった。どうも誰かに忖度して、メイド長なる人物について打ち明けることを憚っている様子だ。

 それが鈴谷を不愉快にさせる。短気が過ぎるのは良くないし、東風谷に当たっても仕方がないと自覚しつつも、ついつい問い詰める口調が厳しいものになってしまった。

 

「ただの人間なら、大したことないんだよね!? それとも、そいつも何か特殊なことが出来るの?」

「え、ええ。時間を操れるそうですが……」

「はあ!?」

「突然目の前に現れたりしますから、あの人のことも警戒しないといけないんですけど」

「……マジかよ」

 

 どうやら、悪い意味でスカーレット一味は粒揃いらしい。時間を操れるという人間に、巨大結界を作る魔法使い、長髪の女の能力は不明だが、異世界から来た割には車の運転を卒なくこなしていたので、それはそれで厄介である。何よりも、一番はあの吸血鬼だ。

 

 未だ、博麗との戦いは続いている。互いに、先程の東風谷のような弾幕を出し合い、空中で激しくぶつかり合っている。

 

「弱体化するってのは、期待しない方がいいみたいだね」

 

 博麗の言った通りだ。スカーレット自身は、本来弱まるところを、何かしらのからくりで逆に強化されている。ひょっとしたら、その仲間たちもそうかもしれない。

 

「多分、そうですね。聞いていた話と全然違います。何もかもが狂ってるし、全部がおかしい。ここは外の世界なのに、当たり前みたいに幻想が存在している。外の世界には外の世界の常識があるはずなのに、それが全部壊れてしまってる。もう何が何だか、訳が分かりませんよ!」

 

 しっかりしているように見えて、東風谷はやはりまだ大人になり切れていない少女なのだろう。半分泣き言のように吐き出した言葉には、彼女の混乱が明瞭に現れていた。

 こんな時、この少女に対して、あの子なら何と言葉を掛けただろう。心優しい熊野なら、きっと温かい言葉を与えたはずだ。想定外の事態の連続で混乱の極みにある東風谷に、熊野なら落ち着かせるようにしただろう。

 

「一回、地上に降りよう」

 

 熊野ならこう言うだろうと考えた鈴谷は、その通りのことを口にする。東風谷の肩を軽く叩いて注意を引き付ける。

 

「恐らくだけど、スカーレットの奴があれだけ派手に動いているのは陽動だよ。あんたたちを自分に引き付けるためにそうしているだけ。何でそんなことをしているかと言えば、きっと深海棲艦に近付いて欲しくないからだと思う。逆を言えば、今この状況を打開するには、どうにかして深海棲艦を見付け出して倒すしかない。弱くなっているはずの奴が逆に強くなっちゃってたとかさ、巨大な結界に閉じ込められちゃったとかさ、そういうことを考え始めると収拾がつかなくなるよ」

 

 東風谷は二度、三度鼻をすする。

 

「……結界の外に、深海棲艦が居る可能性はありますか?」

 

 と、質問を投げ返してきた少女の声は、思いの外しっかりしていた。感情の高ぶりではなく、理性的な響きに、取り乱しかけていた彼女が落ち着きを取り戻したことを知る。

 

「それは多分ない。スカーレットからしたら、その結界の中に入ってわざわざ邪魔者たちの相手をしようとは思わないでしょ。どっかの結界に閉じ込めとけばそれで済むはずなのに、陽動するってことは結界の中に深海棲艦が居るからだよ」

 

 スカーレットは、理由はどうあれ、鈴谷たちを深海棲艦から遠ざけたいと考えているようだ。結界を張ったのは博麗たちの接近拒否をしようと目論んだからだろうし、他にも邪魔をしそうな勢力が存在する。言うまでもなく、シンガポール基地の艦娘部隊だ。そして、恐らくそちらは狙い通りになったのだろう。何しろ、完全に「こちらの世界」の住人である艦娘部隊に、幻想の結界を突破する術などないのは間違いないからだ。

 とすれば、もう邪魔になるのは東風谷と鈴谷だけになる。スカーレット自身が博麗への対処に専念している今、こちらに対応してくるのは長髪の女か東風谷の言うメイド長なる人物のどちらか。残り一方は深海棲艦に何かしらの行動を起こすと思われる。存在のはっきりしない魔法使いは、この際居ないものと考えるべきだ。少なくとも、鈴谷がスカーレットなら手持ちの戦力をそのように割り当てる。もちろん、他に仲間が居ればまた違ってくるが。

 

「なら、深海棲艦を見付けて倒すしかなさそうですね」

「倒したらどうなるのかは分からないけど、少なくともスカーレット一味にしたらその深海棲艦には生きていてもらわないといけないみたいだからね」

 

 東風谷は深海機を見事に撃墜したが、同じことは通常兵器、つまり人間が従来から持っていたミサイルや銃弾によっても可能である。一方で、深海棲艦の撃破については歴史上これを成し得たのは艦娘以外に存在しない。彼女たちが「こちらの世界」の法則が通用しない人間であるということが、一体どれほど深海棲艦を撃破するのに重要な要素となり得るだろうか。

 そこは未知数だが、上手くいけばスカーレットに対する交渉材料として活用出来るかもしれない。今回現れた深海棲艦に対し、スカーレットはどうやら何かしらの価値を見出している様子だからだ。言葉を換えれば、それは「恫喝」とも言う。

 

「もうそんなに離れたところに居ないはずだよ。結界の範囲はそれ程広くないはずだから、探す範囲もそれ相応だよ」

「そうですね……」

 

 風祝が頷いた時だった。

 

 

 

「早苗ッ!! 構えて! 来るわよ!!」

 

 唐突に博麗の怒声が響く。先程東風谷が遠隔通信用として使っていた白黒の玉から聞こえてきた。その玉を東風谷は胸元に仕舞い込んでいたが、尋常ならざる叫び声に東風谷は慌ててそれを取り出した。

 

「何ですか!? 霊夢さん!」

「上を見なさいッ!!」

 

 二人はつられて顔を上げる。そして、ようやく博麗の警告の意味を知った。同時に、構える時間などほとんど残されていないことも。

 コンテナヤードの上空で戦っていた吸血鬼と巫女。その片方の周囲を禍々しい「赤色」が渦を巻いていた。まるで、そこにブラックホールがあって周囲の何もかもを吸い込もうとしているような光景だ。他方、博麗の方は白っぽく光る半透明の箱型の何かを纏っている。誰かに解説されたわけではないが、直感的にそれが防護用の障壁、あるいは結界のようなものだと理解する。

 あの巫女が、吸血鬼と対等に渡り合っていた巫女が、全力を防御に投じている。障壁は博麗の身体をすっぽりと囲うに十分な大きさを持っていた。そうしなければならない攻撃が来るという意味だった。

 

「まずっ……!!」

 

 東風谷が唸る。彼女は両手を前に突き出し、博麗のそれと似たような障壁を繰り出した。

 それと同時だ。夜空の一点に集中していた禍々しい光が、直線となって空を「紅く」切り裂いたのは。

 

 

 大音響が鳴り響く。博麗が吸血鬼から射出された真っ直ぐな閃光に対し、障壁を斜めに当てた。避弾経始と同じ原理であろう。向かって来る飛翔体(あれをそう言っていいかは別として)に対し、その進行方向に斜度がつく形で装甲を用意すれば、飛翔体は装甲上で跳弾して別方向に飛んで行ってしまう。装甲に伝わるエネルギーは、垂直に受けた場合に比べて小さくなる。見かけ上も装甲が厚くなるので、防御力が向上するというのが避弾経始の考え方だ。

 鳴り響いた轟音は、射出された何かと博麗の障壁が衝突した音で、スカーレットの攻撃は上空に弾かれて明後日の方向に飛んでいく。それが何か分からなかった。ただ眩しいだけの光ではなく、限りなく大質量を持った砲弾に近いように思われた。それも、特殊な炸薬を込められた砲弾だ。核、あるいはそれに匹敵するエネルギーを内包した炸薬を。

 

 咄嗟に瞼を閉じて顔を背けたのは正しい判断だった。両手両足で東風谷の身体にしがみ付かなければならなかった鈴谷は腕で顔を庇うことが出来なかったのである。

 だから、桁違いの光度の閃光を目にして網膜を焼き切られることはなかった。それでも、薄い目蓋の皮膚を貫通して、世界中を照らし出せるくらいの眩しい光が目に飛び込んできた。

 何が起こったのかを理解する前に、衝撃波と轟音が到達する。前者においては東風谷の張った障壁がいくらか緩和したが、後者については全くなす術がなかった。何しろ、両手が塞がっていたので耳を保護出来なかったのだ。鼓膜が破壊される。

 両耳に走る猛烈な痛みと上方向から叩き付けられた尋常ではない圧力に悲鳴を上げた。上げたつもりだった。実際には自分が本当に悲鳴を上げたのかなんて判らなかった。

 

 目の前で起こったのが巨大な爆発だと直感する。襲ってきた光と音と空気の壁は鈴谷の頭から思考能力を根こそぎ奪い去り、ただ宙に浮いていただけの二人を容赦なく圧し潰そうとした。だから、何も認識することさえ出来なかったのだった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「萩、嵐。様子がおかしい。警戒しろよ」

 

 第百十七駆逐隊の嚮導艦が低い声を無線に吹き込んだのは、彼女を先頭に単縦陣で進む部隊が、マリーナ・ベイ・サンズを右手に見つつフェリー用の埠頭の眼前を通り過ぎ、シンガポール島とセントーサ島に挟まれた狭い場所に収まっているブラ二島をようやく視認出来る位置までたどり着いた時だった。江風がこのような警告を発した理由は明確で、そこにあるものが妙な見え方をしたからである。

 すなわち、ブラニ島は見えた。しかし、どうにも薄っぺらい、奇妙な見え方だった。

 

 大部分がコンテナヤードとして利用されている他は元々の島の土地に当たる部分にまだ緑が残されているブラニ島は、明暗がはっきり分かれている。昼夜問わず稼働しているコンテナヤードは非常に明るく、緑地は鬱蒼と暗い。しかも、島の北側は水路を挟んでさらに貨物ヤードが広がっており、高速道路を境にしてその外側は高層ビル街となっていて、こちらは夜であることを忘れているかのように煌々と光っている。

 様々な方向から放たれた光は、複雑な陰影の濃淡を作り出す。それが立体感を持って人間の目に映るわけだが、今目の前に見えるコンテナヤードの島は、一見していつもと変わらぬ様子である。

 まず、それがおかしい。現況はこの島内に突然深海棲艦が出現するという非常事態下であるはずだ。にもかかわらず、“いつもと変わらぬ様子”というのはあり得ない。ただ、それ以上に奇妙だったのは、まるでそう見えるようにそこに島の画像がプロジェクターで投影されているかのような印象を受けたことだった。三次元に存在する島ではなく、島を撮影した写真を見せられている気分になったのである。

 警察のヘリを襲ったという深海棲艦の航空機が影も形もないのも気になる。例え肉眼で見えなくとも、嵐は対空電探を装備しているのだから見付けられそうなものであるが、その気配はない。恐れていた市街地への襲撃も今のところ報告はなく、辺りは不気味なほど静まり返っていた。

 

 おかしなことはもう一つあり、非武装の警察ヘリが、深海棲艦に撃墜されていないという事実がそうだ。本来なら遭遇してしまった時点で、ヘリの命運が悲劇的なものになるのは確実なのだが、幸運なことにヘリは生きて帰ることに成功した。ただし、深海棲艦のことならそれ専門の研究者よりも詳しいという自負のある嵐の見立てでは、そんな幸運など起こり得るはずはなく、何らかの理由によってヘリは深海機の攻撃を受けなかっただけなのである。その理由が何なのかは皆目見当もつかないのだが。

 江風の警告を聞いていたオペレーターは「警戒しながら島に接近しろ」と命じた。隊内通信用の近距離無線でも、シンガポール基地とは見通し圏内にあるこの位置からなら交信可能だ。通常は旗艦もしくは随伴艦の中から選ばれた任意の艦娘が長距離無線機で司令部と交信するものである。

 

「百十七駆、了解。これよりブラニ島に東より接近する。対空、対水上警戒を厳となせ」

 

 いつも砕けている江風の口調が、今日に限っては異様なほど硬い。それだけでも彼女の警戒ぶりが伺い知れた。

 そうは言っても、深海機や深海棲艦がを襲ってきたら、二人と違って巡洋艦の艤装という大荷物を抱えている嵐はいささか回避に難が生じる。いくら警戒したところで、避けられなければ意味がないのだ。口にしても埒の開かぬことであるからあえてそれを言う愚は犯さないが、内心は心底深海棲艦が大人しくしてくれることを祈っている。

 緊張のあまり、妙な汗までかき出した。目を皿のようにしてブラニ島を見続けるが、映像を見ているような違和感は拭えなかったし、それ以外に妙な様子なども発見出来なかった。深海棲艦など初めから居ないかのように、辺りは平穏であった。例えそれが仮初のものでしかなかったとしても、これから何かが起こる予兆のようなものは一切見当たらない。様子がおかしな島は、ただそれだけが異様なのであって、そこに何かしらの兆候を見出すことはなかった。

 

「止まれ」

 

 不意に江風が合図を出したので、前を行く萩風が急に航行を停止、そこに追突しそうになって嵐も慌てて止まった。

 目の前には背の低い橋がある。街灯が一定間隔に並び、上をサイレンを鳴らしながらパトカーが走って行く。恐らく、避難誘導のために派遣された警官隊のパトカーであろう。

 これはおかしなことだった。嵐たちは東からブラニ島に接近していた。ブラニ島へ渡る橋は、シンガポール島からセントーサ島に繋がる橋から枝分かれしており、ブラニ島西端に接続する。つまり、嵐たちが来た方向から見て、シンガポール島と二つの島を結ぶ橋は反対側に存在している。東側から端に接近するにはブラニ島を北か南に回り込む必要があるのだが、江風がとった航路はまっすぐ進むものであった。普通ならそのままブラニ島にぶつかるのだが、橋に到達してしまった。つまり、地図上で言えば三人は島の上を「航行」してきたのである。

 もちろん、上陸などしていない。あり得ないことだった。まるで、そこに島がなかったかのように、三人は海の上を走ってきたのだ。

 

 背筋を悪寒が走り、嵐は身震いする。

 ブラニ島は見えていたはずだ。なのに、そこには海しかなかった。

 

「江風さん、これ、どういうことっすか」

「江風に訊くなよ。こっちが知りたいぜ。何がどうなってンだ!?」

 

 嚮導艦は振り返って、島があるはずの背後を見た。その顔には嵐や萩風と違い、四ツ目の暗視ゴーグルが装着されている。嵐たちは特殊な眼を持っていて、暗視ゴーグルなしでもほとんど光のない暗闇を見通せるのだが、“普通の”眼を持つ江風には夜間行動にあたって暗視ゴーグルが必要になる。そのゴーグルはわずかな光を増幅させて肉眼でも十分見えるようにする仕組みのもので、周りがこれだけ明るければ何をどうしたところで島を見落とすことなんてあるはずがなかった。むしろ、江風の“普通の”肉眼だってブラニ島を十分網膜に捉えられるだろう、と思うくらいに周囲が明るいのだ。

 

「まるで、島まるごと神隠しにあったみたい。完全に消えちゃった……」

 

 萩風の言葉を、嵐は妙にすんなり飲み込むことが出来た。

 そう。まさに神隠し。島を一つ丸々隠し込んでしまう神隠し。

 

「もう一度確かめに行くぞ」

 

 江風は針路を東にとり進み出す。目の前にはブラニ島。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、そこにあるはずの島は決してたどり着けぬ場所にある。立体映像を見ているような感覚だ。目には映っているし、触れられそうだが、手を伸ばしてもそこにあるのは空気のみ。

 

「江風よりチャンギHQへ。敵機影は確認出来るか?」

「こちら基地司令部。レーダーに感なし」

「ブラニ島の島影は映ってるかい?」

「こちらからでは元よりブラニ島をレーダーで捉えることは出来ない。シンガポールの市街地の陰に隠れるからだ」

「了解」

 

 嚮導艦と基地のオペレーターの短い交信を聞いていた嵐は、では深海機はどこに行ったんだ? と喚きたくなった。そんなことを口にしてもどうにもならないのは分かっているが、あまりにも理不尽で不可解なことが連続すると、どうにも気が立ってしまうようだ。

 

 二度目も嵐たちは“無事”島を通過した。してしまった。気付けば島の東側に来ていた。目の前には貨物ヤードの島が見える。

 ブラニ島内にはPCG(警察軍沿岸警備隊)の本部もあるが、現在のところ当局もこちらとの連絡がつかないようである。

 

「また素通りした!? どうなってンだよッ!」

 

 訳分かんねー! という悪態が無線から聞こえてきた。それはまさに、三人の心情を表す言葉だった。

 

「基地司令部より百十七駆逐隊へ」

 

 そこに、先程のオペレーターとは違う、落ち着いた声音の主が話し掛けてきた。この声、喋り方は間違いなくシンガポール基地司令官の柳本中将だ。

 

「こちら第百十七駆逐隊。どうぞ」

 

 基本的に、無線で相手の階級は呼ばない。軍用無線は傍受が難しい様に特殊な技術が使われているが、それでもどこで誰が聞いているか分からない。嚮導艦曰くは「壁に耳あり、障子に目ありだぜ」とのことだが、情報漏洩には細心の注意を払うのは当たり前のことだ。

 嵐は頼りの中将の登場に内心歓喜したし、それは江風も同じだろう。だが、彼女の声は努めて抑揚を抑えているような響きがあった。恐らく、声が浮つかないように無理矢理抑え込んだのだろう。

 

「少し、待機しよう。目下のところ、深海棲艦の動向が確認されていない。これは、その場に『居ない』と考えて良いだろう。現在、リンガ基地から増援を呼び寄せている。これが到着するまで君たちは周辺を警戒しつつ待機せよ。以上だ」

「了解」

 

 現状、理解不能なことが連続して発生しているし、未だ継続もしているが、特段差し迫った脅威が存在しているわけではない。萩風の表現を借りるなら、ブラニ島自体が神隠しにあったようなもの。つまり、そこに居ると思しき深海棲艦諸共島がどこかに行ってしまったのだ。だから、隠されてしまった島が戻って来ない限りどうなるというものでもない。

 

「待機は分かりますけど、でも江風さん。ブラニ島にはまだ人もいらっしゃるんですよね? その人たちはどうなるんですか?」

「萩、言いたいことは分かるぜ。だけど、こんな状況じゃどうしようもねーよ」

 

 僚艦の懸念はもっともなものだった。

 どこかに消えた島。その島の中に居た人々はどうなる? しかも、そこには同時に深海棲艦も存在しているかもしれないのに。

 同じことは萩風も考えていたようだ。

 

「深海棲艦が島に居るとしたら、島に居た人たちが傷付けられちゃうんじゃ」

「ああ、分かってる。分かってるぜ。だけど……」

 

 不意に、江風からの無線が途切れた。

 話しながら、三人は単縦陣でブラニ島とシンガポール島の間の水路――ケッペル・ハーバーをゆっくり進んでいる時だった。前を見て、「何か」がおかしいことに気付いた。江風がどうなったのか見えない。猫のような夜闇を見通せる目をもってしても見えぬ暗黒が、そこにある。

 

 

 いや……、

 

 

「江風さん? あれ? 何? いやっ!」

 

 今度は萩風の悲鳴。嚮導艦と僚艦の身に何が起こったか分からない内に、嵐は異様なものを目にした。

 

 

 不夜城の如き都市の灯りが間近にあって明るいはずの海。そこに、光を全く通さない「何か」が存在していた。それは嵐の針路を塞ぐように目の前に現れた。艦娘は船舶と同じくすぐには止まれない。あっと思った時には、そこにある「何か」に突っ込んでいた。

 だが、何よりもそれが異様だったのは、嵐の勘違いでなければ、確かに“目が合った”ことだった。そう、その「何か」の中からこちらを覗く、無数の目玉と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……し! ……らし! 嵐!」

 

 気付けば大声で名前を呼ばれ、肩を揺さぶられていた。

 

「しっかりしろ!」

 

 目の前には江風の赤い髪。たくさんの目玉が消え、四ツ目のゴーグルを外した嚮導艦の顔がそこにある。周囲も明るく、江風の安堵したような表情も、すぐ傍に立っている無二の親友の無事な姿もはっきりと見て取れた。

 

 先程のあれは何だったのだろうか。

 

「あの、江風さん? 目玉、一杯あって、見ました? なんか、異様なのが……」

「落ち着け。目玉を見たみてーだな。萩もそうか?」

 

 江風に尋ねられると、萩風はやや強張った顔のまま頷いた。

 

「ってことは、三人とも同じもン見ちまったンだな」

「い、一体何が起こったんすか?」

「どうやら、神隠しされちまったみたいだ。さっきのあれは、こちら側へ繋がる入り口だったみてーだな」

「え? 神隠し? こちら側? って、何なんすか?」

「言葉で説明するより、見た方が早い。これだよ」

 

 江風は身をひるがえして自身の陰に隠れていた光景を嵐の前に開示する。目に映ったのは、灯りこそ消えているものの、貨物船が接岸したままのコンテナヤードの島。

 つい先程まで血眼になって探していたブラニ島だ。今度は、偽物の幻影ではない。

 

「あの、これって……」

「周りに街の景色がない。つまり、江風たちは隠されていた島の方に来たンだ」

 

 振り返る。背後には間近にビル街のネオンが見える……はずだった。そこには何もなかった。ただ、ぼんやりと明るい夜闇が広がっているだけで、目に映るはずの街はどこにもない。

 区切られた海。切り取られた空間。何か大きな力によって檻に閉じ込められた。出ることは叶わず、戦うことを強いられるコロッセウムのように。

 

 このような体験をするのは、実は二度目だった。

 一度目は忘れもしない、あの不吉極まりない紅い月が昇った南国の夜。コロネハイカラ島を望む真夜中の海。嵐は確かにそこで出会ったのだ。何人も抗えぬ圧倒的で絶望的な、真実の理不尽と。

 あの時、嵐も萩風もまだ深海棲艦だった。自分たちを狩りに来た艦娘の部隊(そこには江風も含まれていた)と戦い、逃げた先は決して出れぬ牢獄だった。海には不可視の壁がそそり立ち、天にはこの世のものではないグロテスクな月が浮かんでいた。追って来た艦娘と戦う中で目にしたのは、迸る銀の光と、それに跨る紅く小さな人影。しかしてその人影は人にあらず、常世の果てから生まれた闇の具現。

 脳裏に刻まれた恐怖は忘れようとしても忘れられるものではない。ふとしたきっかけで思い出してしまうと、今でも身震いする。あの力がこの世界のどこかに未だ存在しているということが恐ろしかった。また出会ってしまうのではないかと、唐突にあの力が振るわれるのではないかと、いつかそんなことが起きる気がしてならない時がある。

 

 ネオンも何も光っていないはずなのに、不思議と空は明るい。月も星もない夜なのに、地上は薄ぼんやりと照らし出されている。

 その理由は考えるまでもなかった。星の代わりに空で煌めく無数の弾幕を見上げれば、それが光源であることに疑いの余地はない。白い弾幕、青い弾幕、緑の弾幕。色とりどりの光の洪水が空を流れていく。さながら花火のように美しく花開く。

 

 だが、それらすべてを食い尽くさんばかりに天を覆う弾幕があった。

 

 紅い、鮮血のような弾幕。空一面を埋め尽くし、他の弾幕さえも隠してしまう。それは、嵐には、コロネハイカラ島の夜に、自分に向けて振るわれたものと同じであるように見えた。膝を立てても、頭から無理矢理抑えつけて地面にのめり込ませようとする、問答無用で乱雑な暴力。それが今、再び目の前に存在している。

 予感していた通りのことが現実となることを認識し、嵐の胸中を絶望的な諦観が埋め尽くしていく。

 

 恐怖は、何か、誰かと戦っていた。それが白い弾幕の使い手なのかもしれない。だが、戦況は芳しくないようだ。紅い力は圧倒的だった。

 

 

 

「あれは……」

「……夜の王!」

 

 口から漏れ出た言葉を、同じ恐怖に曝された萩風が引き継いだ。嵐があの夜のことを思い出した時、不思議と萩風も決まって同じ記憶を想起していた。だから、同時に同じ恐怖に苛まれた二人は、その度に抱き合って互いを慰め合った。そうでもしなければ、とても一人では耐えられなかったから。

 思い出すのと、もう一度本物を目の当たりにするのとでは真に迫ってくるものが違う。端的に言えば、それは恐怖の質であり、今や二人は最も質の良い恐怖に囚われて、足すら動かなくなってしまっていたのだ。

 けれど、この場にはもう一人居る。彼女は同じ夜、同じ戦場で嵐たちと戦った。今では誰よりも二人の支えになってくれる人だ。

 

「お前ら、どうしたンだよ!?」

「江風、さん……」

「あそこに居るのは、私たちがあの夜に戦った相手なんです。夜の王。私たちにとっての、恐怖そのもの……」

 

 嵐は、萩風は、救いを求めて、助けを求めて、江風に手を伸ばす。彼女なら、躊躇うことなく伸ばした手を取ってくれると期待して。

 果たして嚮導艦は期待通りに二人の手を取った。彼女は身体が固まってしまった二人の首元にそれぞれ腕を回すと、二人纏めて正面から抱き込んだ。

 

「落ち着け」

 

 丁度、二人の頭の間に自分の頭がきた江風は耳元で囁く。

 

「落ち着け。お前らがビビっちまうのは分かる。あの日、あの夜、江風たちが撤退した後何が起こったかを知らねえけど、お前らがこうなっちまうようなことが起こったンだよな。で、あの時お前らに恐怖を植え付けた奴が、今そこに居ンだよな」

「そ、そうっす」

「ああ、解ってる。だけど、お前らにはこの江風さんが付いてるンだぜ? 怖いかもしれねえ。けど、お前らなら乗り越えられるさ」

 

 二人にとっての恩人であり、師匠である艦娘は、身体を離し、両手を二人の肩に置いて弟子たちを正面から見据えた。迷いのない瞳で、いつものような飄々として不適な笑みを浮かべながら。

 

「いいか、お前らは一人じゃない。二人だけでもない。三人だ。江風入れて、三人居るンだ。三人居たら実行力! って言うだろ?」

「自己啓発スローガンですか! 何っすか、それ。初めて聞きました」

「今思い付いたンだよ! まあ、今みたいに、ボケにはちゃんとツッコミ入れれるくらいの余裕を持とうぜって話だ」

 

 江風の話は、誰がどう聞いてもこじ付けだと思うだろう。なまじ口がよく回る分、普段から適当なことばかり言っている。

 ただ、下らない戯言でも、それで嵐が少しだけ自分を取り戻せたのは事実だった。少年のように邪気のない笑顔を見せる江風を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。すると、強張っていた体中の筋肉が解れていくのだ。

 

「よし、いい面構えになったな!」

 

 嚮導艦は満足げに頷くと、「それじゃあ、深海棲艦を探そう」と言った。

 

 彼女曰く、ブラニ島が隔離されたような状態になっているのは、ここに深海棲艦が居るからだという。嵐たちが“こちら”に来れたのは偶然なのかそうではないのか定かではないが、この状態から島を解放し、元に戻すには深海棲艦の討伐が必要だろうとのことだ。

 常識では考えられないようなことが連続して起こっているが、艦娘としてそれなりの数の修羅場をくぐり抜けてきた江風は嵐たちほど動揺していない。何よりもそれが、二人にとっては頼もしかった。心情的なものだけでなく、論理的にもこの局面で部隊指揮官が落ち着いているのは非常に重要なことだ。

 

「嵐は情報保全隊付きの艦娘を探せ。『勘』が正しけりゃあ、そいつはもうここに来てるだろうよ」

「『勘』っすか?」

「『勘』だ。まあ、正確には予知夢ってことなンだろーけど」

「予知夢?」

「そうだよ。時々夢を見るのさ。少し先の夢。しかもそれが不思議と正夢になるンだよなぁ。今日のことも、ちょっと前に夢に見たことがあンのさ」

「じゃ、じゃあ、江風さんはこうなることが分かってたってことっすか!?」

「全部じゃないけど、大よその流れはね」

 

 なるほど、と嵐は内心頷いた。嵐や萩風と同じく彼女は特殊な能力の持ち主で、江風の場合は“そういうことが出来る”のだろう。彼女は予知夢が見れるのだ。

 そこまで思い至って妙に納得してしまうと、頭が冷えてきた。江風の言う通りなら、「情報保全隊付」という胡散臭い肩書きを持つ艦娘もここに来ている。彼女は巡洋艦クラスであるらしいから、艤装の受け渡しが無事に済めば現況で最大の火力源となってくれるだろう。圧倒的に人手も火力も足りない状況だから、彼女の参戦は喫緊である。江風もそれを分かっていて、嵐には単独で件の艦娘を探すように指示を下した。自分と萩風は深海棲艦を探すという。二手に分かれ、嵐は島を東回りに周り、江風たちは一旦西側に向かった。ただし、島の西側には島に接続する道路があるので直接行き来は出来ないため、二人はまた戻って来なければならない。

 

 江風の予知夢は、それ程精度の高いものではないらしい。寝ている時、あるいは目を覚ましている間に断片的にある場面を第三者的に「目撃する」体裁で見ることが出来るだけに過ぎないという。つまり、その場で何が起こるかは分かっても、例えばそれが何時なのか、どういう経緯で起こり、どういう結果に至るのか。そういった詳しいことについては分からない。彼女が得られるのは極めて断片的な情報であり、事が起こる前にそれらの情報を繋げて何が起こるのかを予測するのは不可能だ。言ってしまえば、デジャブに毛が生えたようなものである。

 事実、今回も江風にはブラニ島が隔離されてしまったこととか、自分たちが隔離された島の側に侵入出来ることといった情報しか、予知夢で見ることが出来なかったようだ。どうすれば隔離状態を解除出来るのかという肝心な情報は、そこには含まれていない。

 故に、それが起こることは江風さえも知らなかった。ただ、彼女は豊富な実戦経験の中で培われてきた鋭い洞察力によって、事態の危険性を予測したようだ。二手に分かれて五分もしない内に、警告の怒声が無線から飛んで来た。

 

「嵐! 衝撃に備えろ!!」

 

 言われるまでもなく、上空に異変が起きていたことは察知していた。

 見上げれば、先程までの花火の撃ち合いが落ち着いている。それは、空の上で戦っていた二つの勢力が戦闘を止めたということではない。単に、局面が少し変化しただけのこと。

 

 片方が青白い光に覆われている。もう片方には、黒と赤が混ざり合ったような名状しがたい色が渦を巻いて集まっていた。それが、何かの攻撃の予兆、それも特大のものであることを察した嵐は、とっさの判断で海に潜った。

 嵐はれっきとした水上艦の艦娘であるが、潜航した経験は他のどの水上艦艦娘よりも豊富だという自負がある。それは決して自慢するようなことではないが、冗談ではなく事実としてそうなのだ。何しろ、嵐と、そして愛すべき僚艦萩風の人生において、最大の汚点とも言うべき「駆逐水鬼」だった数年間、二人は海に潜って姿を隠し、身を潜めながらその時間の大部分を過ごしてきたのだから。

 思い出したくもないが、潜航する方法についての記憶は残っていたし、何より身体が覚えていた。例え元の艦娘に戻ったとしても、その頃に覚えた技術を使えば潜航することは不可能ではない。萩風に至っては、江風も一緒に海面下に引きずり込んだだろう。この手の技術については、嵐よりも萩風の方が上手だった。

 

 果たして、その決断は全くもって最善であった。例え海面下数十㎝と言えど、空気中に身を晒しているよりは余程良い。

 上方向から押さえ付ける様な異常な圧力。自らの意志で水に潜った嵐の身体が、さらに水中に押し込まれる。膨大な気泡の音に混じって、腹の底に響くような轟音が聞こえる。目を瞑っていても分かるくらいに周囲が明るくなっている。

 呼吸を止めながら秒を数え、それが“7”までいったところで、艤装の浮力に任せて浮き上がる。最低限、目を開ける程度に水を振り払い、周囲に視線を走らせて状況を観察する。海面上は未だ猛烈な風が吹き荒れ、海は狂ったように波立っていた。襲って来た爆風の影響だろうか、コンテナヤードや接岸している貨物船に積み上げられたコンテナの山は無残にも崩れ去り、頑丈なはずのガントリークレーンでさえ歪んでしまっている。上空から降り注ぐ眩い光によって、その様子を明瞭に見ることが出来た。

 嵐は海の上で立ち上がり、耳元の防水無線機から軽く水を払って叫んだ。無線機がカタログスペック通りなら、身体が完全に水没してもその性能を発揮するはずだ。

 

「江風さん! 萩! 応答してくれ!!」

「嵐! 大丈夫か!? こっちは二人とも無事だ!!」

 

 無線機は正しく機能した。安堵の息を吐くが、すぐに別の懸念が頭に浮かんだ。

 

「すごい爆発でした! 核爆発っすか!?」

「いや、核じゃないッ! 核なら電磁パルスで無線機がイカれてる! こいつが無事ってことは、あれは核以外の爆発だったってことだよ」

 

 そう。核爆発ではない。あの攻撃の予兆は大爆発がこの世に非ざる力で引き起こされたことの何よりの証明になる。

 嵐の知る限り、これだけの現象を発生させられるだけの力を持つ存在はただ一つ。並の艦娘部隊なら歯牙にも掛けなかった「双子の駆逐水鬼」を、赤子の腕を捻るが如く容易く叩き潰してしまった。それが、あの「夜の王」の力。

 

 あの日、あの夜。

 彼女は確かにこう名乗った。

 

 

 ――栄えあるツェペシュの末裔!

 

 ――紅月の夜の王!!

 

 

 その御名こそは、

 

 

 

 

「レミリア・スカーレット!!」

 

 

 

 

 

 

 

 


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