レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督45 Science is not so common

 

 昔、中国にとても優秀な役人が居た。役人は能力が秀でていたが、同時にとてつもなくプライドが高く、役人に甘んじていることに不満を持ち、また大変詩の才能があったため詩人になることを志した。彼は人との交流を絶って詩を書き続けたが、先達に教えを乞うこともなかったため大成せず、結局家族を食わせるのに困って元の役人に戻ることになってしまう。ところが、その頃にはかつての部下たちが遥かに出世しており、彼は元部下たちに使われる日々を過ごすことになる。プライドの高かった彼はそれに耐え切れず、ついに発狂して山に逃れそのまま帰って来ることがなかった。

 後の日に、その役人と旧知の仲だったある人が山を通ると、人食い虎に襲われる。しかし、虎は何かに気付いて草陰に身を隠してしまった。そしてそこから、人の声で語り掛けてきた。曰く、その虎は通り掛かった人の友人、かつて山に逃げた男だったのだと。しかし、今は自尊心と羞恥心に圧し潰され、醜い虎に変わってしまい、人の心を忘れつつあるのだと言う。虎は友人に、自分が書いた詩を残すこと、家族に自分は死んだと伝えること、そしてここから離れてから一度振り返ることを頼んだ。友人がその通りにすると約束すると、やにわに草むらから虎が飛び出してきて、月に向かって吠えたのだった。

 

 ――言わずと知れた「山月記」のあらすじである。

 この話ではある男が「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」によってやがて虎に変わってしまう。人は誰しも心の中に獣を飼っている。男の場合は自尊心であり羞恥心であり、それらは虎のような獣であった。男はこの獣を飼い慣らすどころか太らし続け、遂に自分自身の姿さえも内面の獣の姿、つまりは虎の姿に変えてしまった。

 虎は、通り掛かった友人に己の末路をなるべくしてなったものと言いながらも、悲嘆と悔恨に塗れて、せめてもと作った詩を残すように依頼する。その後に、残してきた家族のことを頼むのだ。このように本来は先に家族の身を案ずるべきところを、詩を残すことを先に頼む性情であるからこそ、己は虎になったのだと、男は自嘲した。

 翻って、自分はどうだろうかと、黒檜は回顧する。

 昨晩、己が“人ではなかった”という事実がもたらした最初の衝撃からようやく復帰した黒檜は、医務室の寝台の上で半身を起こし、膝を立てて昔読んだ詩のことを思い出していた。黒檜が知っている中で、人から人ではないものに変化した話というのはいくつかあったが、それらの中で最も初めに思い浮かんだのが、この虎になった男の悲劇譚であったのだ。

 男は心の内に獣を飼っていた。やがて、獣そのものになった。では、黒檜は獣を飼っているのだろうか。

 今までそのような自覚もなかったし、心当たりもなかった。自尊心や羞恥心ではないかもしれない。人を人でなくする醜悪な何某かが己の心の内に巣食っているのだろうか。

 男は虎になった。黒檜は――深海棲艦になった。

 

 

 

 昨晩、パーティに参加した後誘拐され、目覚めたら狭いコンテナの中で、あの不思議な女と二人きりだった。彼女は黒檜に記憶がないと言い、それは自分のせいで、そのケジメをつけると、宣言するように口にした。黒檜は深海棲艦に成りかけの艦娘「加賀」と引き合わされ、その前で慟哭し、クリスティーナ・リー、もといレミリア・スカーレットに懇願するように涙を流したのだ。どうすれば加賀が戻るのか、と。

 彼女は、かつての仲間と出会い、記憶を取り戻せと告げた。それは黒檜としてではない。艦娘「赤城」としての記憶だ。

 しかし、「赤城」としての記憶、それについて聞かされた後、黒檜の身体は確実に変化した。あの、全身が燃えるように熱くなる悍ましい感覚。忘れようとしても忘れられない。

 気が付けば、黒檜は海に立っていた。艤装を持たないはずなのに、身体には艤装が“まとわりついていて”、本当に海に立っていた。動くのも自在だった。けれど、ある一定の範囲から出ることは出来ず、ふらふらと水路の上を彷徨いながら、時折空の上で繰り広げられる派手な花火が咲くのを見上げていた。だが、それも長くは続かず、見知った顔に見付かり、また別の誰かに捕まって、三度気を失うことになった。そして、目が覚めたら今朝、この寝台の上で天井を見上げていたのである。

 場所が、自分の所属する基地の医務室であることはすぐに分かった。まず、どうしてこんなところで寝ているのだろうと疑問を抱き、昨晩のことを思い出し、自分が深海棲艦になっていたという記憶を想起して絶望した。

 

 目覚めてからは医官や柳本、情報保全隊の村井という中佐、そして江風と萩風が様子を見に来てくれた。医官は黒檜の身体に異常はないと告げ、柳本は昨晩起きたことを彼らが把握している範囲で伝え、村井はリーに攫われている間に起ったことを尋ね、江風は川内という艦娘が助けてくれたのだと教えてくれた。

 村井の質問に、黒檜は正直に答えなかった。答えられなかったと言うべきだろう。リー=スカーレットのことも、記憶のことも、もちろん加賀のことも、深海棲艦になったことも、全てについて口を閉ざし、記憶が混濁してはっきり覚えていないという旨の回答をした。そうでなければ、後に何が起こるか想像するだけでも恐ろしかったのだ。

 ここには、かつて深海棲艦として人類を襲ったことのある艦娘が二人居る。二人とも大変な強運によって艦娘としての地位を保証された例外中の例外である。二人には、彼女たちのために尽力してくれるたくさんの人々が居たのだ。故に、本来であれば極刑に処されてもおかしくないほどの罪を犯してしまった二人だけれど、無罪放免となり、それどころか再び艦娘として戦うことすら出来るようになった。

 だが、黒檜に同じ強運が訪れるだろうか。昨晩、深海棲艦になっていた間の記憶が完全に残っているわけではない。途中で途切れている。何よりも恐ろしいのは、記憶が残っていない間に自分が何をしていたのかが分からないということだ。ひょっとしたら誰かを傷付けてしまったかもしれない。殺めてしまったかもしれない。自分が取り返しのつかないことをしでかした可能性がある。何しろ、深海棲艦だったのだから。

 それを誰かに尋ねるわけにもいかなかった。どうやら軍は昨晩現れた深海棲艦の正体を把握していないようで、黒檜のことを単なる被害者と見做しているらしい。

 真実を打ち明けるべきか否かという葛藤がないと言えば嘘になる。国を想えば、周囲の人々を想えば、何をするのが正しい選択なのかは明白だ。また何時、深海棲艦になるかも分からないのだから、どこかに隔離しておくのが正しい対処法だろう。少なくとも、昨晩の真実を知ったのなら、海軍の上層部はそのように判断するはずだ。実に妥当な決定である。

 しかし、黒檜は到底真実を、覚えていることを、正直に告白する勇気を持てそうになかった。黒檜を躊躇わせるのは、何のことはない、単なる自己保身への執心である。浅ましく、醜く、驚くほど愚かな感情であるにもかかわらず、それは途方もなく強固で抗いがたいものだった。“元駆逐水鬼”に対する海軍の反応が、あと少し何かが違っていたら二人とも今頃生きていなかったであろうことが容易に想像出来るような苛烈なものであったという経緯を詳しく知る身としては、昨晩のことが露呈したら自分にも同じことが起きるのだという恐怖に捕らわれてしまう。萩風と嵐は色々な歯車が上手い具合に噛み合わさって最良の結果を得た。だが、そんなことが二度も三度も起こると思うほど黒檜は夢見がちではない。

 深海棲艦になってしまった以上、黒檜は本質的に艦娘なのだろう。艤装を背負えて、修復材で傷が治り、海で泳げないのだろう。昨日よりもっと前の、記憶がない期間に黒檜は何某という艦娘だったのだ。“彼女”にはレミリア・スカーレットが関わっており、かつての自分の上官ですらあった。

 きっと、碌でもない艦娘だったのだろう。国や人々を守ることより保身を優先するような性質なのだから。

 

 

 

 

 医務室には窓がないが、時計を見ればそろそろ日没の時間であるというのは分かる。そんな頃になって、ようやく一人の艦娘がばつの悪そうな顔をしながら黒檜の前に現れ、丸椅子の上に華奢な身体を座らせた。そう言えば、いつも一緒に行動している相方が嚮導艦と共に先に見舞いにやって来ていたのに、何故か嵐の姿はそこになかったし、居ない理由を尋ねても相方は要領の得ない答えしか口にしなかったので、どうしたのだろうと気にはなっていたのだ。昨日の一件で怪我をしたとは聞いていなかったし、実際に目の前に座った部下の艦娘は、元気そうではある。

 裏表がないという貴重な美徳の持ち主である彼女は、裏を返せば隠し事が出来ない性格で、要するに本人が上手く何かを隠しているつもりでも周りから見れば挙動不審であるので隠し事があるのが一目瞭然になってしまうタイプだ。明らかに何か本題を抱えているだろうに、嵐と言えば「身体は大丈夫か」とか、「暇じゃないか」とか、「昨日の晩は危ないところもあったが、無事に帰って来れて良かった」とか、中身のない話しかしなかった。黒檜は彼女が自分から何かを切り出すまで待とうとしたのだが、十分経っても本題が出そうになかったので、しびれを切らして単刀直入に尋ねた。

 

「嵐さん、私に何か話があるんじゃないの?」

 

 まさに言葉を詰まらしたという様子で、それまで饒舌に喋っていた口を閉ざす嵐。視線が黒檜から逃げるように泳ぎ、行儀よく膝の上に置かれた両手に力が籠められる。

 良い意味で、嵐は単純だ。分かりやすいということが欠点ではなく美点として挙げられるのは、偏に彼女の人柄ゆえだろう。黒檜はそのことをとても好ましく感じていたし、彼女の顔が強張っていても身構えることもなかった。

 大よそ、話の内容は見当がついている。だからこそ、その話をしに来たのが、“知った”のが、嵐で良かったと、本心からそう思えるのだ。

 

「あ、あの! 誤解をしないで欲しいんですけど、俺は何も言うつもりはないし、ただ、大尉がひょっとしたら気にしているんじゃないかって思って……」

「気にしていないって言ったら、嘘になるわ」

 

 嵐は口を一文字に結んだ。

 江風の話では、昨晩は嵐だけが作戦当時別行動をとったらしい。それは鈴谷に艤装を届けるためだったそうだが、ということは鈴谷も目撃者なのだろうか。

 

「俺は、言うつもりないです。大尉には恩が一杯あるし、居なくなってほしくないし」

「昨日の夜、嵐さんがどう行動していたかは江風さんから報告を受けています。嵐さんが『見た』ということは、一緒に行動していたその人も見ていたのよね? 鈴谷さんも」

「鈴谷さんは……俺が起きたら基地の中に居ませんでした。でも、江風さんも司令も何も言ってなかったし、鈴谷さんからそういう報告があったら、今頃大尉は大変なことになっていたと思います。俺、あの人が帰って来たら頼み込んでみるつもりなんです。大尉のこと……」

「嵐さん」

 

 黒檜は駆逐艦の言葉を遮った。それは、理性が導いた判断だった。

 鈴谷のことはよく知らない。昨日、初めて会ったばかりの艦娘だし、好き勝手に振舞っているようなので、わざわざ黒檜が口出すこともないだろう。川内も、戦闘の後にどこかに消えたというのが事実なら、考え辛い可能性ではあるが、ひょっとしたら脱走した艦娘なのかもしれない。

 だが、嵐はその二人とは違う。正規の部隊に所属している一般の艦娘で、他とは少し違った来歴を持っている。その来歴を考慮しても彼女はよく働き、結果も残して、この度それが評価されて「改装」という栄誉に与かることになった。まごうことなき、彼女の努力の賜物である。

 だからこそ、今はとても大事な時期だ。嵐がするべき報告を怠り、しかもその内容がかつて彼女自身が遭遇した状況と類似したものであるなら、周囲の人間はそのことをどう捉えるだろうか? 嵐の特殊な来歴――かつて深海棲艦であったということ――が、悪い意味で再評価されてしまうかもしれない。そして、彼女の今までの努力をふいにしてしまうかもしれない。最悪の処分を下されてしまうかもしれない。

 嵐は言わなければならないのだ。昨晩、黒檜が深海棲艦であったこと、それを目撃したという事実を。正直に告白しなければならない。

 

 不思議なことに、自己保身と嵐の将来を天秤にかけた時、それは嵐の方に傾いてしまう。そして、黒檜自身、そうであることを何ら疑うことなく受け入れることが出来た。

 黒檜とて我が身がかわいい。自分を守りたい。嵐が見たことを報告してしまったら、それが命取りになることも十分理解している。本音を言えば、彼女にこのまま黙っていて欲しいという気持ちもある。

 けれど、沈黙を維持することで万一それが露呈した場合、嵐は取り返しのつかない損害を被ってしまうだろう。それが黒檜からの頼みでなくとも、彼女が忖度して口を閉ざしたとしたら、少なからぬ責任が黒檜にあるということになる。確かに自分を守りたいが、それ以上に黒檜はこの慕ってくれている艦娘を守りたいと思ったし、自分のせいで彼女が傷付くのは何にも増して耐え難い。

 嵐は、嵐だからこそ、事実を明らかにした後の黒檜の処遇について経験に基づき、正鵠を射た理解をしているだろう。何が問題視され、誰がどんな反応をしてどのような判断を下すのかを、彼女は正確に予言出来るはずである。同時に、自分が口を閉ざした時、つまり隠蔽を計った場合のリスクについて、それが自分のみならず萩風や江風にも損失を与え得るものであるということも重々承知しているのだ。故に、彼女は葛藤し、迷いながら黒檜の前に現れた。

 だが、黒檜が思うに、嵐はここで事実を告白するような性格ではない。むしろ、その隠蔽を選ぶ方だし、実際にそうしようとした。黒檜が思っている以上に嵐は黒檜に対して恩義を感じているようだが、その想いが強ければ強いほど、彼女は黒檜に損失を与える選択肢を選び得ない。あわよくば隠し通せばいい、と考えるだろう。それが誤った判断であることを彼女に教えられるのは、黒檜以外の他に誰も居ない。

 

「言うのよ。私のことは大丈夫だから。報告をしない方がまずいことになります」

「でも! そんなことしたら大尉は!」

「いいの。昨晩、見聞きしたことを正直に報告しなさい。これは、貴女の上官としての命令です」

「……いや、でも! 大尉は知らないかもしれないけど、俺と萩が助かった後、六ケ所の研究所に送って研究材料にしようって話も出て来てたんです。そうはならなかったけど、今度こそってこともあるかもしれないし……」

「でももへちまもねーだろうがよぉ」

 

 医務室の扉が雑な音を立てて開けられ、不機嫌極まりない声が飛び込んできた。いつからか扉の外で聞き耳を立てていたらしい。他に誰かの姿はないので、現れた江風以外にそこには居なかったのだろう。

 盗み聞きされていたこと自体には少し肝が冷えたような気がしたが、奇妙なことにそれをしていたのが江風であることに黒檜は安堵した。聡い彼女のことだから、嵐を説得して適切な言い方で報告を上げてくれるだろう。黒檜は江風に対してそのような信頼感を抱いている。

 百十七駆逐隊の嚮導艦はゆっくりとした足取りで部屋に入って、自分の部下を見据えながら唸るような声で続けた。

 

「お前が何かを隠してンのは皆分かってンだよ。萩も、中将も、情保隊の村井って中佐もな。特に、情保隊にはバレるとヤバい。そうなる前に、包み隠さず打ち明けた方が賢明だ」

「……分かってるっす。だけど、大尉が、それでもし大変なことになったら。俺、どうしたらいいか……」

「大尉、大尉って。うるせーよ」

 

 ついに嵐の前に立った江風は、その胸倉を掴んで引っ張り上げた。掴まれた本人は少し引き攣りを起こしたように喉を鳴らし、嚮導艦の粗野な行動にもまったく無抵抗だった。「江風さん!」と黒檜は咎めたが、一瞥さえくれなかった。金色の瞳は餓狼が獲物を狙うが如く、嵐に据えられて微動だにしない。

 

「よく考えろよ。元駆逐水鬼のお前らを引き取って世話を見てるのは誰だ? 中将だろ? そういうことには理解のあるお人さ。散々世話になったくせに、お前は中将が大尉を守らないような薄情者に思えたのか?」

「いや、違い、ます……」

「だろ? それにもう一つ言うなら、お前らが六ケ所で変態マッドサイエンティスト共のオモチャにならずに済んだのは、裏で榛名さんが色々と動いてくれてたからだ。あの人は江風たち艦娘の守護神みたいな人だからな。大尉のことだって言えば助けてくれるはずさ。特に、昔馴染みなンだから絶対にそうさ」

「榛名さんって、あの、呉鎮の?」

 

 江風は部下を放し、「そうだよ」と頷いた。

 本土における四大鎮守府の一つ、横須賀鎮守府に次ぐ規模の呉鎮守府において、そこに属するすべての実働部隊の責任者であるのが金剛型三番艦の「榛名」だ。このような立場に就くのは通常艦娘ではない高位の軍人であり、平たく言えばフォースユーザー(事態対処責任者)なわけである。艦娘艦隊の部隊は基本的には基地や鎮守府ごとの所属になり、ある程度の規模の拠点になれば後方支援をする部隊の総責任者たる地方総監と、実働部隊を指揮する艦隊司令官が別個に存在することになる。榛名はフォースユーザーたる艦隊司令官に史上初めて就任した現役の艦娘であり、今後二例目が出ないであろうと予想されている逸材でもあった。

 その名は黒檜とて幾度となく耳にしてきた。あまりにも有名な人物なので、良い噂も悪い噂も色々と聞こえてくるものである。

 しかし、江風の言うような「艦娘の守護神」という表現は聞いたことがなかったし、それが江風のパーソナリティによって捻り出されたものなのか、あるいは他の誰かが榛名を表してそう言ったのを借用しているのかは分からない。いずれにしろ、「守護神」と例えられるような何かしらの下地となる事実は存在しているのだろう。

 

 だが、それにしても――、

 

「私と榛名さんが、昔馴染み?」

「ああ、そうさ。そういや、大尉は記憶喪失なンだったな」

 

 さっきまで嵐が座っていた椅子に当たり前のように腰を下ろしながら江風は言った。座るところを奪われた部下の艦娘は居辛そうな顔でその後ろに立ち尽くしている。

 

「江風はさ、結構人の顔を覚えるのは得意なンだ。一度見た人のことはほぼ忘れない。だから、大尉のことも会った時にすぐに分かったよ。有名で色ンなところに露出があったから尚更さ。なあ、“元”第一航空戦隊の『赤城』さん」

「え!? 第一航空戦隊? って、あの……?」

 

 真っ先に反応したのは、江風の後ろで聞き耳を立てているだけだった嵐だ。目を見開いて嚮導艦と艦娘担当官を交互に見遣り、「マジですか」と呟きを残した。

 

「何だよ。知らなかったのかよ? 萩は気付いてたぜ」

「え、そうなんすか!? っていうか、気付いてなかったのって、ひょっとして俺だけ……」

「そうだなあ。皆、分かってたしなあ。公然の秘密になってたから誰も何も言わなかったけど、まさか気付いてなかった奴が居るなンて、そっちの方が驚きだぜ」

 

 きひひ、と上機嫌に笑う江風に対し、嵐は赤面して俯いた。僚艦で大親友の萩風さえ知っていたことに自分だけ気付いていなかったことが余程恥ずかしいのだろう。それを言うなら、当の本人も知らなかったわけだから、嵐が恥じることは何もない。

 江風は機嫌を直してくれたようだし、嵐は何ともまあいじらしいところを見せてくれたので、少しだけ強張った筋肉から力を抜いて、頬を緩める。江風の言っていることに間違いはない。昨晩、レミリア・スカーレットも黒檜のことを「赤城」と呼んだし、だから一航戦のもう一人だった「加賀」と引き合わせたのだろう。

 そして、記憶はなくとも知識はある黒檜は、赤城と加賀の一航戦がどういう部隊で、どれ程の活躍をしたのか、それは覚えている。主観的な経験ではなく、客観的な事実としての情報だ。かつて第一航空戦隊が、「金剛」と「榛名」によって構成された第三戦隊と一体運用され、艦娘の基本的な運用法の確立に戦術思想の醸成、そして言うまでもなく深海棲艦を多数撃沈して国難を凌ぐという戦果を挙げたことを知っている。だから、赤城と榛名が昔馴染みであることには納得出来た。

 

「まずは中将と相談してみるよ。大尉に居なくなられちゃ困るのは皆同じだからねぇ」

「嵐さんのことは、責めないであげてね。迷うのは仕方のないことだと思うから」

「分かってるって」

 

 少年のように悪戯っぽく笑う江風を見て、ふと心の内から不安感が消えているのに気付いた。今後の自分の処遇とか、嵐の将来だとか、頭を悩ませていた物がきれいさっぱりなくなってしまっている。

 不思議だと思った。江風の言葉には妙に説得力がある。振る舞いこそ軽薄に見られるようなものも多い彼女だが、経験豊富で頭の回転も速いので、普段から黒檜は頼りにしていたのだが、それを差し引いても今の彼女は大いに頼もしいと思えた。同時に、こうやって自分のために力を尽くしてくれようとする江風や嵐という何物にも代えがたき仲間に巡り合うことが出来ていたことに感謝する。

 考えるべきことは多いし、分からないことも多い。それでも、こうして身近なところに味方が居るのは思いの外、黒檜に勇気を与えたのだった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 夜、赤道直下と言えども気温が下がり、昼間よりずっと過ごしやすくなる。場所が海に近く、風通しが良い建物の屋上ともなれば尚更のことで、だからこそこのバーは夜間にしか開かれない。顔を上げずとも街の灯りは視界に入ってくるし、ひと度目を向ければ三棟のホテルや巨大観覧車の放つ煌々としたネオンが間近にあり、その向こうには市街地が夜の営みのまま煌めいている。翻って海を見れば、投錨して入港を待っている無数の商船の航行灯が暗幕に砂金を撒いたように光っていて、どこを探そうとも視界の中に暗い場所がない。

 

 つい最近開業したばかりの植物園の中心に、鋼鉄製の樹木が十二本生えている。その中でひと際高い「樹」の頂上は露天のバーになっており、景色を眺めながら酒と会話を楽しんでいる男女の組がいくつか座っていた。ただ、その中で一人だけ、誰も連れずに飲んでいる女が居る。

 孤独というより、孤高と表現した方がふさわしい居住まい。背中を流れる長いブロンドは薄暗いバーの中では銀色に輝いているようにも見え、静かにグラスに口づけする横顔は絵画のようで、不夜城の明かりに照らされ尚更に神秘性を纏っている。どこまでも気品高いこの女に話し掛けようという者はおらず、彼女は街の明かりを遠目に見ながら、静かに酒を嗜んでいるようであった。

 相席者は居ない。時折彼女は注文を出して酒を追加するので、その時に給仕が近付くくらいである。

 遠い過去を心の内に再現しているのか、ここには居ない誰かに想いを巡らせているのか、彼女は独り淡々とグラスを呷っていた。その様はまるで厳かな神事の最中のようで、何人も触れることを許されないような隔絶の向こう側にある。バーの店員はそんな彼女のことを時折視線をやりながら観察していたが、入店してから小一時間経っても、少しも様子が変わることはなかった。楽しんで酒を飲んでいるようには見えない。他の客に比べ、一人で居るというのもあってか、少しばかり飲むスピードは速いようだ。

 安易に話し掛けることが禁忌であるのは弁えていたし、店員にとっては彼女の正体などどうでも良かった。ただ、まともな人間ではないと感じていたし、纏っている雰囲気もそこらの白人の観光客とは明らかに異なっている。出来れば早く出て行って欲しかったし、面倒事なんてまっぴらだ。

 だが、そんな彼の細やかな願いはあえなく手折られた。場が変化したのだ。

 

 孤高の女の前に来訪者が現れる。雰囲気で分かった。日本人だ。

 新たな登場人物は静かにバーに上がってくると、カウンターの前を通り掛けにビールを注文して、音も立てずに女の下に歩み寄っていく。肩に下げていた大きなボストンバッグをその場に置いて、何の断りもなく彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。そして、まるでそれが当たり前かのようにリラックスしたように背もたれに身を預ける。それでも、女の静謐とした居住まいは何ら乱れることはなかったし、やって来たばかりにしては信じ難いほど厚かましい客はそんな彼女の醸し出す空気について何ら考慮していないようだった。

 寄りにも寄ってどうしてそこに、と一部始終を目にしていた店員は呆れ返った。どう見ても二人は親しい間柄にあるようではないし、それどころか知り合いのようにも思えない。新しい客はマリーナ・ベイ・サンズを背にして少しばかり笑みを浮かべていたが、そこに握手をしようという意図は一切見て取れなかった。

 店員は悪い予想が当たってしまったことに辟易してた。二人の傍に近付きたくなかったが、新しい客が注文したビールは持って行かなければならない。

 

「Good evening」

 

 新しい客はインド系の給仕がビールを自分の前に置き、逃げるようにその場を去るのを見送ってから、やや平らな発音の英語を発した。

 

"Good evening"

 

 対して、女はとても流暢な早口の短い挨拶を返した。英語はやや慣れないもう一人の耳にはもっと別の言葉に聞こえたが、一秒、二秒の時差をもってようやく脳が同じ挨拶を返されたのだと認識した。

 

「Nice to meet you. I am Suzuya and a ship girl of the Japanese Navy」

「Nice to meet you too Suzuya. 後は日本語でいいわ」

 

 女は続けてそう言った。それで鈴谷はほっと胸をなでおろす。決して英語が喋れないわけではないし、ある程度のレベルの会話までなら自信はあったが、それでも母語を話せるのとそうでないのとでは雲泥の差がある。片や、相手の日本語はややぎこちなさがあるものの、日本人である鈴谷が聞いても十分聞き取りやすい水準であった。

 

「日本語お上手だねぇ」

 

 純然たる敬意を表する。思った通りのことを口にすると、顔が強張っていたウォースパイトがようやく、口元だけだが、表情筋を弛緩させた。

 

「ありがとう。たくさん勉強したの」

「日本が好きなの? 京都とか来た?」

「いいえ。まだ日本には行ったことがないの」

「ふーん。じゃあ、どうして流暢に話せるようになるくらい頑張って勉強したの?」

「理由を知りたい? ふふ」

 

 王立海軍随一の淑女は謎めいた小さな笑みを浮かべた。それから静かに持っていたワイングラスを置き、空いた両手を膝下に下ろして椅子に寄り掛かる。

 その表情は鈴谷がやって来た時よりは幾分もリラックスしており、歴戦の艦娘としての貫禄が垣間見えるようになっていた。いくらか余裕を取り戻したであろう彼女は、それを示すような微笑みを浮かべたまま鈴谷にこう言った。

 

「準備は怠りたくないからよ。戦いも、他のことだって同じ。もし将来、日本で暮らすことがあるなら、日本語を勉強しておくのは必要なことでしょう?」

「それもそうだねぇ。準備って大切だもんね。ところで、そこまでして日本で暮らすことを考える理由って、やっぱりあの人のことなの?」

「あの人? Who is?」

「金剛さん」

 

 ウォースパイトはたおやかに微笑んだままである。笑みは彼女が友好的な心情を抱いたから浮かべているのではなく、単に今鈴谷に見せるべき表情として顔面に張り付けているだけだ。つまり、内心を悟られないためのポーカーフェイス。しかし、そうしていること自体が彼女の内心が揺れていることの証に他ならない。

 目の前の英傑と、日本で一番古い艦娘の因縁は鈴谷も知っている。特段、機密指定されている情報ではないが、知っている者は非常に限られるであろうと言える類の情報である。ウォースパイトはかつて、初めて艦娘が生まれたバローの造船所で金剛と一緒だったことがある。しかも、二人は浅からぬ関係にあったようで、今でも手紙のやり取りは続けているらしい。「通信の秘密は、これを侵してはならない」ので、やり取りの内容までは知り得ないが、二人が今でも深い繋がりを持っているのは間違いないようだ。それこそ、ウォースパイトが多忙の合間を縫って日本語の勉強を続けるくらいの仲なのだから、推して計るべしであろう。

 

「勘違いしないで欲しいんだけど」

 

 戦艦は一見して穏やかな顔をしているが、目だけは鋭く光っているので、明らかに鈴谷に対して不信感を抱いているのだと分かった。だから、少しだけ自分の立場についての説明を交えつつ、釈明をしなければならない。

 

「鈴谷はあくまで『クリスティーナ・リー』っていう女が私たちの懐から何の情報を盗み出したのかを知りたいわけ。あいつがそっちの回し者じゃないのは分かってるけど、何故かあなたは協力関係にあるみたいだよねえ。鈴谷たちは情報が欲しい。それも、出来れば穏便な方法で」

「取引をしたいということ?」

「そうだよ」

 

 ウォースパイトはようやく偽物の笑みを引っ込め、腕を組んで何事かを考え始める。端正な顔の眉間に皺を立て、目を閉じて悩まし気に物思いにふける様子は、それを写真に撮っただけで値段が付きそうな美しさがあった。

 オスカー像を抱え持って笑っていても可笑しくない美貌。公然の秘密となっている由緒正しき高貴な血筋。華奢な体躯からは想像も出来ない勇敢で強靭な精神と徹底的な勝利への執着心。そして何より、歴史に刻まれてしかるべき功績の数々。

 彼女はあまりにも大きな存在で、あまりにも目立つ人物だ。その名は彼女の祖国の中に留まらず、全世界に響き渡っている。ひと目見れば誰しも悟った。この類まれな美貌の女は、単に美しいだけの花ではないということを。あまりにも大きく、美しく、故に今まで彼女の武器になったであろうそれらが、今は諸刃の剣となって彼女自身を傷付けてしまう。

 わざわざ「穏便な方法で」と口にしたのは、「穏便でない方法」も選択し得るということを暗に示すためだった。それに気付かないウォースパイトではない。彼女は持ち上げられるだけの偶像ではなく、怜悧な頭脳と勇敢な心をもって敵を打ち倒してきた英雄なのだ。

 

 しかしてその英雄はしばしの熟考を終えると、目を開いて冷然と言い放った。

 

「しないわ。その理由がないもの」

 

 非常に洗練されていて且つ一義的な拒絶の通告であった。あまりにもはっきりと、当然のように告げられたので、言われた瞬間は鈴谷も何の疑いもなくその言葉をそのまま飲み込んでしまったくらいだ。「ああ、そうなんですね」と、思わずうなずいてしまいそうになった。

 もちろん、こんなところで「はいそうですか」と納得して引き下がってはいけない。鈴谷とて仕事でこの場にやって来てウォースパイトと話をしている。情報保全隊の中では鈴谷より上位にある村井が、そのように指示を出したからだった。彼はこのEU艦隊の旗艦を懐柔して、スカーレット一味の情報を手に入れようと画策していたのである。

 

「そっかぁ」

 

 軽い揺さぶりにはびくともしない堅牢な戦艦の勢いに飲まれてはいけないと自分を戒めつつ、鈴谷は醜悪に見えるような表情を浮かべた。

 

「だったら、その理由を作ってあげればいいわけじゃん?」

「面白い冗談ね」

 

 ウォースパイトは吐き捨てるように言うと、置いていたワイングラスを手にとって静かに口に運ぶ。さすがに一筋縄ではいかない手合いだ。

 

「そう思う? けど、私たちが持っている情報のいくつかをつまびらかにすると聞いても、同じことが言えるかな?」

 

 クリスティーナ・リーとウォースパイトの関係。そして、リーが日本とシンガポールで犯した悪行。何も、公的な発表でなくても良い。ゴシップ誌にでもこっそりリークすれば、彼らは盛大に書き立てて、出歯亀たちの興味と関心を掻っ攫ってくれるだろう。リーの会社は緊急修復材の製造を独占することであまりに急激に、そして大きくなり過ぎた。ウォースパイトもまた重要な存在になり過ぎた。そんな彼女たちのことを快く思わない連中は必ずどこかに存在するし、そうした連中にとって、ウォースパイトとリーのスキャンダルは格好のネタになるだろう。彼らは批判するためだけに批判を展開し、ここぞとばかりに攻撃を畳みかけようとする。

 黒檜誘拐の主犯格でもあるクリスティーナ・リー=レミリア・スカーレットがウォースパイトと近い関係だったというのは、英国戦艦にとっては致死的なスキャンダルである。彼女は最初からリーのサルマン社に協力しており、しかもその関係性を隠してはいなかったのだから、リーの犯罪はウォースパイトにとっては非常に都合が悪い。一部では政界進出も囁かれている彼女だから、スキャンダルによるイメージの悪化というのは避けたいはずだ。

 別に鈴谷もウォースパイトの邪魔して恨みを買いたいわけではない。彼女が政治家になるかどうかなんて微塵も興味がなかったし、つまらない権力闘争に関わるつもりもない。

 日本でもシンガポールでも、リーの悪事はそれぞれの国の警察が捜査を担っている。ただ、案件が案件だけに情報保全隊とその隊付艦娘の鈴谷が関わる必要があった。それも、ただ関わるだけでなく、鈴谷たち情報保全隊は事件の特殊性からそれぞれの警察の捜査に対してかなり大きな発言力を持っている。艦娘の問題は国家の安全保障と人権問題や経済問題が複雑に絡み合った非常にデリケートな領域にあって、軍の、それも一部の部署を除いて部外者が安易に口出し出来る問題ではなく、その特殊性が故に艦娘関連の問題についてはその情報を守る情報保全隊に事実上の大きな権限が持たされていた。縦割りの官僚機構の中で、警察が垣根を破って勝手に情報公開をすることは決して許されないし、少なくとも情報保全隊の同意がない内には決して行われない。リーが六ケ所の研究所を襲って多数の負傷者を出し、黒檜を誘拐した挙句、シンガポールに損害を与えた事実は、情報保全隊の匙加減で世に公にするかしないかが決められる。

 

 

「本当に、面白い冗談だわ」

 

 それでも、超然としたウォースパイトの姿勢は何ら崩れることがなかった。グラスに残っていたワインを飲み干し、音もなくそれを置いた彼女は鈴谷の背後に目を向ける。そこにあるのはもちろん、シンガポールの新しい象徴であった。

 

「貴女が知っているかは分からないけれど」

 

 遠くを見つめたまま、淑女がそんな言葉で話を再開させる。何を言い出すのかと、鈴谷は耳を傾けた。

 

「私の国の首相の義理の弟がBritish Petroleumに居るの」

「……」

「彼は、最近会社が立ち上げたProjectの責任者に任命された。そのProjectの目的が、North Sea oilの開発よ」

 

 唐突に始まった石油の話。彼女が迂遠なことを言い出したのには何か理由がある。イギリス首相の義弟が石油メジャーに居るという情報は初耳だが、わざわざ口に出したのだから重要なことなのだろう。

 それにしても、「石油か」と思わずにはいられない。最近、その関連で熱い話題と言えば、鈴谷も一つしか思い浮かばなかった。ウォースパイトが口にしたある油田。North Sea oil――北海油田だ。

 1960年にイギリスが開発を始めたこの新しい油田は、それから間もない1963年に付近で客船が深海棲艦によって撃沈、220名が死亡するという大惨事が発生したことによってその開発が無期限休止となっていた。これ以後、長らく北海は深海棲艦が跳梁跋扈する危険な海域となり、海を渡ることはおろか、その上空を飛行することさえ禁じられる有様であった。

 一方で、開発が途中で放棄された北海油田は膨大な埋蔵量があると目されており、これを惜しんだ人類側による北海の制海権奪還が以後数十年試みられることになる。この戦いが決着したのはつい最近のことで、欧州近海を巣食っていた深海棲艦がようやく駆逐され、北海は人類が進出してもいい海に戻ったのだった。

 もちろん、長い時間と決して少なくない血を消費して取り戻せた利権を人類が手つかずのままにしておくはずがない。待っていましたとばかりに国際石油メジャーが北海に殺到し、現在油田の開発プロジェクトが次々と立ち上げられ、多数が進行しているところだ。

 当然、その中には日本の商社も含まれている。金の臭いに鋭い彼らがこんな大きな獲物をみすみす見逃すはずがない。だが、手の早い国際石油メジャーが既に牛耳りつつある中、出遅れた日本企業に出来るのは、彼らとパートナーシップを締結して開発事業に何とか参加させてもらうことだけだった。

 

「貴女の国の会社がNorth Sea oilの利権を欲しているのは知っているでしょう? だけど、それはどうしてだと思う?」

「お金が欲しいから……ってわけじゃないよねぇ」

「もちろん、それもあるでしょう。でも重要なのはそんなことではないわ。重要な事柄は、私たちの国はOPECに参加しないということよ」

 

 そこまで言われれば、鈴谷もウォースパイトの言わんとしていることを理解出来た。

 現在、世界の原油のほとんどをOPEC11か国が産出している。当然、この主権国家による巨大カルテルは原油価格の安定と自分たち産油国の利益を守るために協調減産を行い、高値維持に努めていた。世界中で深海棲艦との戦争が続いている以上、石油の需要は常にひっ迫している状態であり、主たる消費国であるアメリカやEU、そして日本と、OPEC各国との間で増産についての応酬が繰り広げられるのが常だった。対深海棲艦戦争において戦費高騰の要因の一つがOPECの協調減産による原油価格の高止まりであることは間違いない。

 だからこそ、OPECに関わらない新しい産油地として北海に脚光が浴びせられているのである。北海油田の主な開発者となる欧米系の石油企業やイギリス、ノルウェーなどの新しい産油国は今までOPECに散々煮え湯を飲まされてきており、その強力な価格決定力を削ごうとするだろう。高止まりする原油価格とそれによる戦費高騰にあえぐ日本としては、北海の新しい石油は喉から手が出るくらい欲しいものに違いなかった。しかも、そこに開発利権まで絡んでくるというのであれば、それこそ挙国一致の姿勢で北海に資本をつぎ込むだろう。

 問題は、遠く離れたところに存在する日本が北海で石油と利権を受け取れるかどうかはイギリスの匙加減で決まるという点にあった。つまり、今、日英関係が悪化するようなことがあれば、日本はこの魅力的な油田に対する優位な権利を手に入れられない恐れがある。普段国民がガソリンスタンドでいくら支払っているかを気にも留めたことがない政治家も、さすがに北海の石油利権を失うような愚は犯さないだろう。そして、文民統制の原理がある限り、軍人たる鈴谷たちは決して政治家には逆らえないのだ。

 

「それともう一つ。クリスティーナはBPのこの新しいProjectに出資している」

「なるほどね。そういうことかぁ」

 

 どうしてクリスティーナ・リーもとい、レミリア・スカーレットが日本やシンガポールであれほど好き勝手に振舞い、暴れ回ることが出来たのか。自分を追ってやって来る日本人たちを歯牙にもかけない素振りを見せたのか。これが理由だったのだ。彼女は周到に自分の身を護る手段を講じていたし、それによって日本側が手出し出来ないこともきちんと計算していたのである。シンガポールはコモンウェルスの国で、もうとっくに根回し済みだろう。

 やはり、巡洋艦では戦艦を落とすのは無理なようだ。こっちの砲撃は向こうには効かず、逆に相手の砲撃はこちらに致命傷を与え得るほどに強力だ。

 

「あーあ。や~っぱ難しいよねぇ」

 

 姿勢を崩し、両手を上げて鈴谷は背もたれに身を預けた。降伏の合図。ウォースパイトは微塵も表情を変えずに静かに見つめている。

 村井は何とかウォースパイトを懐柔したいようだが、考えてみれば百戦錬磨のこの英国人が簡単になびいてくれるわけがない。それこそ、彼女を落としたいなら旧知の仲で頭も切れる榛名を使うべきだったのではないだろうか。鈴谷ではなく榛名が同じことを言ったのなら、ウォースパイトもまだ取り付く島くらいはあったかもしれない。

 だがここに呉鎮守府の女傑は居ないし、彼女を頼ることも出来ない。プランAは失敗だ。

 

 

 

****

 

 

 

 

「これは個人的な興味なんだけどさ、何でクリスティーナ・リーに協力してるの?」

 

 職務上、スカーレットを追うことになったのはかつて彼女の“部下”だった艦娘の失踪にスカーレットが関わっている可能性が疑われた時からだが、鈴谷は個人的にも彼女に興味を寄せていて、しかもそれはより以前からのことだった。ある時、水上機の運用方法の拡大を模索していたところに、とある航空戦隊が前代未聞の夜間航空攻撃を成し遂げたという情報を手にしたのだ。

 

 それは当時夜戦において航空戦力を活用する方法を探っていた鈴谷にとって、降って湧いたような僥倖だった。調べてみると随分アナログで荒削りな方法だったが、インスピレーションは十分にあった。全天候型の無人偵察機に航空隊を道案内させ、探照灯で標的を照らして攻撃を誘導するという原始的な手段だったが、卓越した空母娘の操縦術と息の合ったコンビネーションが奇跡的な結果を生み出すことになった。

 公的に記録が残っているもので、夜間航空攻撃を成功させた事例は今のところこれしかない。故に、鈴谷は記録を徹底的に調べ上げた。

 この戦闘でのやり方は、司令官を乗せた船が敵艦隊に追撃されている中で、ほとんどその司令官の思い付きで試された方法だったから、これをそのまま活用することはないだろう。うまくやればもっとスマートに出来るはずだと考えたのだ。

 無論、本人たちに聞くのが一番いいやり方だったのだろうが、生憎実行した一航戦は壊滅し、当時彼女たちを指揮した司令官は追い出された後。それがレミリア・スカーレットだったのだ。他に類を見ない横文字の名前が気になった。

 さらに調べてみれば、彼女はとても奇妙な経緯で日本にやって来ていることになっているのが分かった。疑問点を追求してみると、さらにいくつかの情報を入手出来たのだが、最終的に鈴谷がこの経緯の全体像を把握したのは、偽物の提督が鎮守府を追い出され、内部調査が行われてからだった。

 

「今から二年くらい前に、日本のある鎮守府にイギリスからやって来た『レミリア・スカーレット』っていう名前の女が指揮官として着任したんだけど、これがまた胡散臭い奴でね。英国貴族の子女って言うじゃん? その英国貴族の子女はイングランドの出身で、出身地がウィンダミア。割りと、バローの近くなんだよねぇ。しかも、ご丁寧なことに『ウィンザー家の人と遠縁である』っていう“血統書”まで付いていたんだって。そこまでされたら軍も受け入れるしかなかったんだけど、無理してねじ込んだ形だったからおかしなことだらけになっちゃった。例えばホームページでは参謀長のはずの人が司令官になっていたり、レミリア・スカーレットのことを知らない将軍がいたり」

 

 二人の間のテーブルの上には空のグラスしかない。ウォースパイトは飲み干したワインの追加を頼まなかったし、鈴谷もビールを継ぎ足そうと考えなかったからだ。バーの店員は穏やかではないテーブルの雰囲気を察して近寄ろうともしなかった。この店は景色はいいが、店員の対応があまり良くない。少なくとも、日本の丁寧なサービスに慣れている鈴谷の目にはひどく素っ気なく映った。もっとも、この国ではこれが当たり前なのかもしれない。

 何よりビールは薄くてあまり酔った気がしなかった。

 

「普通ならそんな“血統書”を用意するのなんか無理。だけど、王立海軍にはそれが可能な人が一人だけ居た。その人はレミリア・スカーレットを自分の遠縁ということにして、権力とコネを使って日本にねじ入れることが出来たんだ。ねえ、――さん」

 

 鈴谷はウォースパイトの本当の名前を呼んだ。彼女が生まれた時に与えられた名前。艦娘として覚醒する以前に名乗っていた正式な名前。ファミリーネームのない、長ったらしい名前。

 ウォースパイトは顕著な反応を見せない。目を閉じて黙り込んでしまっている。話を聞いているのか、それとも聞いているふりをしているのかは定かではないが、前者だと信じて鈴谷は続けた。

 

「日本と英国の海軍には日英同盟の時代からの長い付き合いがある。お互いにお互いの国に行ったことのある軍人なんてたくさん居るし、手の届く範囲で日本へのコネを探そうなんて思えばいくらでも出来たはず。

実際それは容易くて、貴女はまんまと偽提督を潜入させることに成功した。しかもそのレミリア・スカーレットが行った先が、同郷の『金剛』が居る鎮守府だったんだから、もう出来過ぎだよね」

 

 戦艦が目を開く。それを見て、鈴谷は確かな手ごたえを感じ取った。

 一見、平然として表情をいささかも変えていないように思えるが、ゆっくりと開かれた目蓋の奥に、隠し切れない敵意の光が宿っているのを見逃さなかった。ここに来て初めて見せた人間らしい反応。

 

 スカーレットが潜入していた鎮守府には当時、加藤少将という幕僚長が所属していた。彼はレミリア・スカーレットを正規の司令官ではないと断じて金剛や赤城と結託し、不届き者を追放した張本人である。まあ、追放と言っても、格好付けのために報告書にそう書いただけで、実際のところは捕まえようとしてまんまと逃げおおせられてしまったのだろう。秘書艦でありレミリア・スカーレットの片腕だったはずの赤城をどうやって寝返らせたのかは気になるところだが、真実は忘却の彼方にある。つまりかつての赤城である黒檜が忘れているだけなのだ。

 黒檜は、というより赤城は、レミリア・スカーレットの鎮守府の生き残りである。当人は深刻な記憶喪失のために情報を引き出す対象には今のところなっていないが、思い出してくれさえすれば色々と聞きたいことがある。だがそれはすぐにどうこう出来る類のものではない。まず集中すべきは目の前のウォースパイトだ。

 

「レミリア・スカーレットは逃げた後の行方が分からなかったんだけど、つい最近別の名前で表に出て来た。『クリスティーナ・リー』って名乗りながらね。あなたとは昔馴染みで、随分と仲良くしているみたいだけど、何でそんな仲良しなのかなって気になってさ」

「仲良し、ね……」

 

 意味深に呟き、ウォースパイトは両腕を腹の前で交差させて天を仰いだ。一秒、二秒そうやってマイセンのような白い喉元を鈴谷に見せつけた後、彼女は顎を下ろし、やたらと低い声で話し始めた。

 

「私とレミリアは仲良しや友人関係ではないわ。適切に関係性を言い表す言葉が見付からないけど、そんなに友好的なものではないことは確かよ」

 

 彼女の話には大いに興味をそそられるが、何よりも鈴谷はウォースパイトが質問に答え始めたことに驚いていた。先程までの様子を見るに、どうあっても口を割りそうになかったので、ダメ元で何かリアクションを得られればいいとしか考えていなかったのだが、意外や意外、ウォースパイトは鈴谷の望むように答えてくれている。声が低く聞き取りにくいのもあって、自然と身体がテーブルの上に乗り出した。

 

「昔、レミリアがWindermereの近くに住んでいたのは真実よ。今はもうそこには住んでいないし、それどころかEnglandからも去ってしまったけれど、それまでは彼女は非常に恐れられる存在だった。あまりにも強大な力を持つ故に。

私の国の政府は今でもその力を恐れている。自分たちにそれが振るわれればひとたまりもないことをよく理解しているから。けれど、ひと度他人に、特に連合王国に害を与える何者かにその力が振るわれるならば、それは大いに私たちの力となるでしょう。

利用出来るなら、そうするに越したことはない。そして実際にレミリアの力を必要としたことが過去に一度だけあったわ。それが、Battle of Britainの時。Naziの爆撃に喘ぎ、奴らの上陸を恐れていたSir Winston Churchillは、もしもそのような事態になった場合、レミリアに力を貸して欲しいと頼み込んだ。レミリアはこれを承諾して、もし本当に連中がブリテン島の地を踏んだ時には、彼女が奴らを撃退することが約束された。当時はそこまで逼迫していたのよ」

 

 ナチス・ドイツのイギリス本土上陸作戦を「アシカ作戦」と呼ぶ。実際にドイツがそう名付けたからだが、これは作戦計画だけで実行に移されることはなかった。ドイツ空軍が制空権を、ドイツ海軍が制海権を、それぞれ確保することが出来なかったからだ。しかし、もし仮に当時のドイツが作戦決行に必要なそれらの条件を達成してしまったとしたら、まだソ連侵攻を始める前で、国内のリソースを対英戦のみに注ぐことが出来たドイツを、イギリスは押し留めることが出来なかっただろう。後世の人々がそう考えるのだから、当時イギリスを率いていたチャーチルの頭は危機感で一杯になっていたに違いない。

 ウォースパイトの言が正しいなら、スカーレットの力は恐れられると同時に、最悪の事態に陥った時の保険としての働きを期待される程に強大だったということになる。「困った時の神頼み」ならぬ、「困った時の化け物頼み」と言ったところか。本当にそれ程逼迫していたということでもあるし、当てにされる程強かったということでもある。

 その強大な存在が、戻って来たのだ。往時を直に知る人物はイギリス政府内でももう居ない。だが、戦後生まれのウォースパイトが大戦中のエピソードを知っているところを見るに、知識の継承は為されているようだから、イギリス政府としてもスカーレットの帰還は心休まらぬ事態であったのだろう。

 だから、この戦艦や、あるいはその背後に居るイギリス政府はスカーレットに協力するのだろうか。

 

「私の血筋は知っているわね。艦娘になったくらいだから分かるとは思うけど、私の家系は一族の中でも末端に位置していた。血統は良くても、それ程重要ではなかったの。だから、代々私の家系にはある役割があった。それが、レミリアとの折衝役としての役割よ」

 

 レミリア・スカーレットは過去幾度となくイギリスで暴れ、その度に膨大な犠牲が出た。人間はどれ程の軍勢を送り込もうとも、どんな実力ある聖職者を連れて来ようとも、ただ一度も彼女を押し留めることは出来なかった。その内に誰もが彼女に抗うことを諦め、全ての言に従い、ただひたすら怒りを買わぬようにやり過ごすようになっていく。それは時の国王も同じであった。

 国の安定のために、吸血鬼を刺激してはならない。求められればすべて答えなければならない。欲しいと言った物を差し出さなければならない。彼女の機嫌を損ねぬよう、そして人間が二度と彼女に抗わぬという“忠誠心”を持っていることを証明するために、国王は自らの一族に連なる者を一人、人質としてスカーレットに差し出すようになった。

 本家筋から最も離れた分家。形式上は王位の継承もあり得るとされているが、実質的にその望みがない、普通なら下野させるような末端の家系を、その人質に宛がったのである。血は薄いとは言え、君主の血筋の者。形だけだとしても、吸血鬼のプライドを傷付けぬ身分の人質だ。この人質を入れた効果は確かにあって、吸血鬼は徐々に暴れることがなくなっていった。

 

「人が長く生きていけば落ち着きを身に着けていくように、レミリアも時代が下るごとに大人しくなっていった。私の祖父の代からは人質という意味は薄れ、政府との連絡や折衝と、茶飲み相手を兼任するような状態になっていたの。父も、私もそうだった。特に、私には同性だからか懇意にしてくれたわ。私が父から茶飲みの相手役を引き継いだのは五歳の時だったから、彼女にしたら新しい友人を得たような感覚だったのかもしれない。

けれど、幼い頃の私でも、彼女が自分とは違う何かであると察していた。隠そうとしても消えない血の気配を感じ取って、私は彼女が怖くて怖くて仕方がなかった。父も表面上は友好的に接しながらも、いつも怯えていたわ。それも私は感じていたから、尚のことレミリアを恐れたのよ。彼女を怒らせてはならない。彼女の言葉を否定してはならない。今はそれ程でもないけれど、昔はそんな強迫観念のようなものに憑りつかれていた」

 

 でも、恐れは当然のことだった。

 

 ウォースパイトは言う。似たようなことを、博麗霊夢という少女も言っていたことを思い出した。

 

 実を言うと、鈴谷はここに来る前、幻想郷から来た二人の聖職者の少女たちと再度の情報交換をしていた。特に昨晩の戦いでは、二人にとっても不可解なことが続いていたらしく、少しでも状況を正確に把握するためにお互いに知っていることを打ち明けている。曲がりなりにも国家公務員の一員である鈴谷は職務上知り得た情報をおいそれと外部の者に明かしてはならないのだが、二人の少女たちとの関係は村井にさえ報告していない、完全に独断専行で維持しているものだった。

 鈴谷はスカーレットが東北地方にあった鎮守府に潜入していた時に何をしたか、そしてその鎮守府が深海棲艦に強襲された日にどうやってこれを防いだかを、考察も交えながら語った。いずれも機密情報だが、構いはしなかった。時にリスクを冒さなければ得られない情報というのも存在するのだ。

 無論、鈴谷から語るばかりではない。博麗は、昨晩のスカーレットの力は異常だと、明確に感じていたらしい。特に、巨大な槍の投擲によって引き起こした大爆発は今まで見たこともないほど力が収束していたものだったと。東北の鎮守府を襲った深海棲艦を消し飛ばしたのも、同じ技ではないかと東風谷が指摘したので、そうかもしれないと鈴谷も頷いた。あの威力なら確かに強大な深海棲艦の艦隊を十把一絡げにしてあの世まで吹き飛ばせてもおかしくはない。

 普通、レミリア・スカーレットのような妖怪や怪異、あるいは祟り神は、人々から畏れられれば畏れられる程、その力を増していくものだと、博麗は解説した。スカーレットは元々幻想郷のパワーバランスを担う一角と認められるくらいだから、彼女に対する畏れもまた相応に大きかったはずである。それは今のウォースパイトの話によって裏付けされよう。七つの海を支配し、帝国主義を極めた大英帝国が、機嫌を損ねることさえ恐れた相手なのだ。力があるから畏れられたのか、あるいは畏れられたからこそ力を得たのか、どちらが真実かは分からないし、重要ではない。それはそういうものだ、と巫女は説いた。

 その上で昨晩のことを考えると、スカーレットに対する畏れが増したのでなければ、あれだけの力は持ち得ない。だが、長らく「こちらの世界」から離れていたスカーレットが、今更人々にそんな畏れられるものだろうか。博麗も東風谷も、そこが引っ掛かっているようだった。

 イギリス政府にしてみたら、居なくなったと思った吸血鬼が今頃になってひょっこり戻って来て、迷惑千万に違いない。ただ、この吸血鬼の存在は秘匿されていたし、仮に公開したところで人々が簡単に存在を信じるはずもない。妖怪は自分に対する畏れが広まれば広まるほどその力を増していくというのだから、ごく一部の限られた人間だけが畏怖していても大して強くはならないらしい。

 博麗たちはこの謎を探ってみると言っていた。鈴谷は、スカーレットの真意を量ることに専念する。

 

「私自身、レミリアの振るう暴力を直接目の当たりにしたことはないわ。言い伝えはうんざりするくらい聞いてきたけれど。

そこで貴女に尋ねたいのだけれど、貴女は昨晩、レミリアが戦うのを見たはず。どうだった? 彼女の強さは」

「……控えめに言って、とんでもないものだったよ」

「そうでしょう。艦娘では敵わないはずよ。昨晩レミリアに対抗し得た存在が居るとしたら、貴女と行動を共にしていた少女たちくらいかしら?」

 

 何で知ってるの? と思わず聞き返しそうになるのを堪えて、表情が崩れないように内心を落ち着ける。博麗と東風谷との関係は一切秘密にしているつもりだったのに、既にウォースパイトに知られているとは思いも寄らなかった。だが、よくよく考えてみると、ウォースパイトにそのことを教えられたのはスカーレットくらいなものだろう。何しろ、一緒に行動しているところを彼女は見ているはずなのだ。伝わっていても不思議ではない。

 

「もう知っていると思うけれど、彼女たちは私たちとは違う世界に生きていて、違う法則に支配されている。私たちが忘れ去った物、私たちが否定した物。それが彼女たちの世界には存在する。そこは私たちからすれば全く異なる世界。

中でも、レミリアは異質な存在よ。彼女には特異な能力がある」

「能力? それって、魔法が使えるとかそういうこと?」

「違うわ。レミリアは色々なことが出来るけれど、そのほとんどは『吸血鬼』という種族に裏打ちされているか、彼女自身の経験と努力によって獲得したかしたものよ。でも、レミリア個人が持っているその能力はそれらとはまるで異質なもの。彼女のみに宿った力。仮に彼女と同じ吸血鬼が居るとしても、決して真似は出来ない。その力とは、『運命を操る』というもの」

 

 普段の鈴谷なら、大真面目な顔で「運命を操れる」などと言われたら、その瞬間に吹き出していただろう。いくら何でも荒唐無稽に過ぎる。冗談にしても、ひどくチープな出来で、笑うとしても「嘲笑」の意味での笑いしか出て来ない。

 ただ、今はそんな風にはならなかった。というのも、ウォースパイトの話に集中し過ぎていたからだ。もちろん、戦艦は秀逸な本場仕込みのブリティッシュ・ジョークを披露したわけではないし、イギリス流のアイロニックなメタファーを口にしたわけでもない。あまりにも現実離れし過ぎていて、脳の認識がついて行かなかったのだ。話をしている途中に、突然学者に難解な専門用語を差し込まれた時のような感覚に似ているだろうか。意味を理解しようとして、しかし出来ず、脳が一瞬フリーズする。

 

「分からない、という顔をしているわね。でも、安心して。私自身も理解をしているわけではないから」

 

 と、言った本人でさえこんな調子だ。

 

 では、「運命を操る」力とやらは、一体何なのだ? 

 

「問題は、まさにそこにあるわ。あれだけの力を持った存在の固有の能力が、“一体全体何なのか分からない、ひどく抽象的なもの”ということ。分かる? 相手の手の内が分かれば、対処のしようはある。けれど、それが分からなければ対策も対応も不可能よ」

「嘘じゃないの?」

「嘘? レミリアに、そんな嘘を吐く理由なんてない。虚飾する必要もないほど強い。それに、私は一度だけ彼女の能力を体験したことがあるわ」

「体験?」

「そう。体験よ。言葉選びは間違っていない。それは、こういう話よ。

私の父は、もう死んで十五年になるけれど、晩年は癌に侵されていたの。発見された時には既に全身に転移が始まっていて手遅れだったわ。私がそれをレミリアに伝えたら、彼女はこう言ったの。『彼には良くしてもらった。癌の苦しみは長引くと聞くから、せめて苦しまずに死ねるように死因を変える』とね。

実際に、父は癌では死ななかった。自宅での療養中に、私の目の前で階段から落ちて首の骨を折り、死んだの。あまりにもあっけない最期だった。レミリアにそのことを言うと、『一瞬だったでしょう』と返って来たわ」

 

 眉唾のような話だが、ウォースパイトは嘘を言っているようには見えない。彼女の父親の病気と死因は、後で調べれば裏付けが取れるだろう。もっとも、ウォースパイトなら調べて分かる範囲のことで嘘を吐くような浅慮なことは言わないだろうから、父親が事故死したのは事実とみて間違いない。

 スカーレットの言ったことが本当なら、この吸血鬼は人間の死に対して介入し、癌で苦しんでいた彼を介錯したことになる。ウォースパイトは実際にそうだったと信じ込んでいる様子だが、スカーレットが事実について都合の良い解釈を勝手に述べただけかもしれないし、記憶違いを起こしているだけかもしれない。そして、確かめる術もない。ましてや、この真偽不明な話が「運命を操る」力とやらの実証であると言われても、鈴谷からすれば到底肯定出来るものではなかった。

 

 けれど、本当にそんなことが可能であるのだとしたら? 「運命」などという不確かな物を操作し、他人の人生を変えることが出来るなら? 

 

 それは最早、神にも等しい力ではないだろうか。理屈も何も、あったものではない。

 

 

「信じられる? 信じられないでしょう?」

 

 戦艦は小さく首を傾げた。問い掛けに、鈴谷は頷くしかなかった。

 

「私たちは深海棲艦という既存の生物学理論では説明の難しい存在を日常的に相手にしているから、現代科学から外れた事象を前にしてもそれを頭ごなしに否定することはない。実際、貴女はレミリアのことを深海棲艦の延長線上にあるものとして捉えているようね。艦娘であるならそういう捉え方になるのも仕方がないことではあるけれど、はっきり言ってそれは誤りよ。あれは深海棲艦なんかと同じ軸で見ていいものではない」

 

 ウォースパイトの言っていることはよく分からない。スカーレットは宇宙人か何かとでも言うのだろうか?

 吸血鬼と深海棲艦が全く異なるものだというのは、最初に聖職者二人から説明を受けた時にそう認識したし、今までその認識の上で行動してきた。深海棲艦は、現代科学でも解明されていない「新種の生物」であって、吸血鬼は伝説の存在だ。

 それをウォースパイトに説明すると、芳姿の艦娘は頷いた。

 

「そう。やはり、思った通り」

 

 ただし、彼女が頷いたのは鈴谷の言を肯定したからではなく、自らが口にした通りだったことを確認したからだった。

 

「貴女はレミリアを、『この世に存在する不思議』として捉えているのよ。仕方ないことだとは思う。何故なら、レミリアは元々この世界に存在していたし、今も存在し、“人間”として活動しているから。けれど、この認識は、本来は誤りよ。

彼女は存在してはならないモノ。この世にあってはならないモノ。世界に否定されたということは、世界に存在することを許されなくなったということ。貴女は、どうすればレミリアを捕まえられるかと考えているようだけれど、根本的にそれは間違っている。彼女に、私たちの常識は通用しない」

「常識が、通用しない?」

「そう。彼女の世界にはその世界なりの理屈があるのでしょう。けれど、それらはきっと私たちの理解可能なものではないに違いないわ。

レミリアが暮らす『Genso-kyo』という世界は、私たちが想像するよりももっと異なる世界でしょう。何故なら、私たちは私たちの暮らすこの世界を基準にしてしか想像力を働かせることが出来ないから。四次元の世界を想像しようとしても、その景色を思い浮かべることが出来ないのと同じ」

「……」

「例えて言うなら、そうね。私たちが今居る世界は海の中よ。『常識』という名の水が当たり前に存在する場所。私たちの『常識』は『科学』によって作られている。私たちの周りで起こる事象は、ほとんどに合理的な説明を付すことが可能よ。『科学』で説明出来ることがありふれているとも言える。未だ説明出来ないことも、単にそうするに十分な知識が不足しているというだけ。

では、逆に魔法はどう? 私たちが魔法という単語を思い浮かべた時、私たちはそれが存在する世界を想像しなければならない。けれど、その『想像』した魔法は、本当に魔法なのかしら? 別世界に実在する魔法が、私たちの『想像』から乖離していないなんて、一体誰が証明出来る? 出来るわけがない。何故なら、そんなものは身の回りにないから。魔法が存在する世界を説明出来るなら、それは魔法でも何でもなく、ただの科学かその知識を応用した技術よ。

魚にとって、自らの周りに水が存在するのは当たり前。彼らにとって、それが『常識』よ。裏を返せば水の中に囚われているとも言えるわ。水の中でしか生きられないということは、水の外は別の世界ということ。だから外のことは分からない。魚たちも同じように空気に満たされた空間を想像するしかない。けれど、その『想像』によって実際に空を飛んでいる鳥の姿を正しく思い浮かべられているかと言えば、きっとそうではないのよ」

「面白い例えだね。じゃあ、レミリア・スカーレットは空を飛んでる鳥だっていうの?」

「そうよ。彼女の姿を正しく知るには、肺を獲得して水の外に出られるようにならないといけない。空の下から見上げたなら、きっとその姿も目に映るでしょう」

「不思議を見るには、不思議の世界にいかなきゃいけないってこと?」

「その通り。彼女を理解したいのなら、今のこの世界の『常識』を捨てる必要がある。『科学』に捕らわれていたままでは、レミリアを見ることは出来ない」

 

 ウォースパイトの表現を借りるなら、鈴谷は今まで「水の外」の世界を見ることがなかった。その存在さえ知らなかったのだから当然だ。

 だが、今や「水の外」があることを知ってしまった。そこに空気があって、水中とはまったく別の世界が広がっていることを知った。空の上を鳥が舞い、風が吹き、底抜けの青空が天を形成しているということを、例えそれが伝聞であったとしても、鈴谷は知覚したのである。

 博麗や東風谷から幻想郷の説明を受けた時も、吸血鬼の桁違いの力を目の当たりにした時も、どうしてかしっくりと来なかった。だが、ウォースパイトの言う「水の外」の世界という考え方は、奇妙なことにすんなり受け入れられた。

 幻想郷から来た二人の少女は同じ人間なれど、根本的には異世界の住人である。物事の捉え方、考え方、とりわけスカーレットに対するそれが、鈴谷とは根本的に異なっている。特に博麗とはその乖離が顕著であると感じていた。東風谷は元々こちらの世界で暮らしていたと言っていたし、なるほどある程度こちらの技術や社会、文化について理解があるようだったが、二つの世界の差についてそんなに深い議論を交わしたわけではない。あくまで、鈴谷にとってこの二人は情報提供者でしかないのだ。

 そして、スカーレットの力そのものは、あまりに強烈過ぎて、まともに受け止め切れなかった。巨大な爆発も、壮大な弾幕も、“何かそうなる理屈があって”吸血鬼が作り出したものなのだろうという漠然と考えるしかなかった。むしろ、そのことについては博麗や東風谷が詳しいのだから、スカーレットがどういう力を扱えるようになっているのか、その分析は二人に任せてしまおうとさえ考えていた。そして、理屈が分かれば対処法もおのずと導き出せるだろうとも。

 

 昨晩、鈴谷は初めて「幻想郷」の技術を知り、それを実際に体験した。常軌を逸脱したそれらに対して驚きながらも、“そういうものもあるんだ”と捉えた上で行動した。だが、ウォースパイトに言わせるなら、そうした捉え方は誤りなのだ。スカーレットは、そもそも鈴谷の理解の範疇外に存在している。少なくとも、「幻想郷」を知らぬ鈴谷に、吸血鬼を理解することなど叶わないと宣う。同時に、それらはこの世界に存在してはならないものなのだと言う。

 

 

「世界は水の中だけじゃない。私たちの知っていた水中という世界は、全世界の半分にも満たない空間だったの。『科学』というのは、私たちが思っているほど一般的ではなかったわ。

そして今、私たちの世界には私たちの知らない世界からやって来た、本来存在するべきではない来訪者が紛れ込んでいる。

――レミリア・スカーレットとは、そういう存在よ」

「それってつまり、あの吸血鬼はこの世に居てはならないから、排除するべきってことかな?」

「究極的には、その通り。あってはならないモノがここにあるのだから、それは世界にひずみを生み出すわ。けれど、実際に彼女をこの世界から追い出すのは難しい。はっきり言って、彼女を妨げるのは無謀な挑戦でしかない。かつてと同じく、この世界に強者として君臨しているレミリアを打倒する手段はないに等しいわ。しかも、単に力が強いだけでなく、狡猾で、柔軟性があって、何よりこちらの『常識』が通用しない。これでは手の打ちようがないというものよ」

「常識が通用しない、ねぇ……」

 

 戦艦の言葉を口の中で転がすように反芻する。本当だろうか?

 スカーレットは何かしらの方法で「緊急修復材」を製造している。今のウォースパイトの話を聞くに、それも恐らく「幻想郷」の技術を用いて成したものだろう。ただ、タネが何であれ、「緊急修復材」が戦場に赴く日本を含むすべての国の艦娘にとって大いに役立っていることは紛れもない事実だ。一方で、秘匿されているものの彼女が日本に対して有害な行動を起こしたことも揺るぎようのない事実である。とはいえ、現時点では形式的には彼女はまだ日本の「敵」ではない。

 ただし、形式はあくまで形式である。防諜組織である情報保全隊としてスカーレットの調査を行うということは、もっとかみ砕いて言うと、スカーレットの弱みを探るということに他ならない。すなわち、スカーレットを潜在的な敵対者として見做し、対立関係が公になる前に脛の傷の位置を把握しておこう、という魂胆なのである。

 故に、情保隊としてはスカーレットについて可能な限り情報が欲しい。それとは別の文脈で、鈴谷個人もまたスカーレットに興味を持っている。

 だが、彼女に鈴谷の知る「常識」はまるで通用しない。それどころか、同じ世界から来たはずの博麗たちでさえ驚くようなことが起こっているらしい。ここまでくると、最早レミリア・スカーレットという存在を計る物差しはどこにもないんじゃないかと思ってしまうくらいだ。正直なところ、鈴谷もスカーレットについては計りかねるところが多々あって、どうにも考えあぐねていたのである。目的は不明、その力の限度も不明、おまけに「幻想郷」の人間にも分からないような強さを発揮しているというのだから、この手の存在と初めて相対することになった鈴谷には到底理解出来るものではなかった。

 言うまでもなく、「幻想郷」それ自体が鈴谷の知らない未知の世界だ。水の中とは別の、空気の中の世界となる。そこに水の中では考えられない奇想天外な何かが存在していようとも、「幻想郷」ではそれが当たり前なのだ。

 

 しかし、まったく理解不能な世界なのだろうか? 非科学的であるということは、理解不能と同値ではないのではないだろうか? 

 

 現に、水の中に住みながら空気の世界から来た住人と仲良く付き合っている物好きが居るじゃないか。本人たちの感情はどうであれ、ウォースパイト(とその背後に居る人間たち)とレミリア・スカーレット一味は明らかに協力関係にある。戦艦は口でこそ「恐れている」などと宣いながら、スカーレットに恐喝や強要されているという素振りを見せていないし、もちろん言及したわけでもない。思うに、彼女たちはスカーレットと手を組む上で何かしらの利益を得ているのではないか? つまり、ウォースパイたちとスカーレット一味の協力関係は“ギブ・アンド・テイク”で、片方が他方に従属しているような上下関係ではない。

 とするなら、仮にウォースパイトが内心本当にスカーレットのことを恐れているのだとしても、それこそ代々付き合いを続けてきた家系である。何かしら、スカーレットとの付き合い方というものを心得ていることは十分あり得た。

 

 確かに、スカーレットは手ごわい手合いだろう。表立って敵対的な関係にはなっていないが、この先そうなろうとならずとも、いずれにしろ彼女と相対するなら手を煩わされるのは間違いない。

 しかし、それが何だというのだ? 理解出来ないわけがない。現に、ウォースパイトよりスカーレットの本質を理解しているであろう“人間”が存在するのだ。こちら側とあちら側で、人間の脳や理解力に顕著な差異があるはずもない。博麗霊夢や東風谷早苗に出来て、鈴谷に出来ない道理はない。何より、欧州棲姫とその隷下の大艦隊を撃滅し、凱旋したポーツマスの軍港で彼女の雄姿を一目見ようと集まった記者や大衆を前にして、「人類の歴史は、常に我々が最終的に困難に打ち勝つことを証明し続けてきた」と言い切った張本人が、目の前に居るではないか。それもたった数か月前のことだ。

 スカーレットこそ、打ち勝つべき困難そのものではないか。鈴谷はそう思わずにはいられない。

 戦艦は、「レミリア・スカーレットに手を出すな」と警告している。だが、彼女たちの関係性がどういうものかによって、その警告のニュアンスは大きく異なるだろう。

 

 

「なるほど、分かったよ。きっと、あいつには鈴谷の想像も出来ないようなことが出来るんだろうねぇ」

「そういう捉え方もあり得るかもしれない。だからこそ……」

「あ、一つ誤解を解いておきたいんだけど」

 

 ウォースパイトの言葉を遮り、鈴谷は細くて肉付きの薄い人差し指を立てて、相手の注意を引き付ける。

 

「必ずしも、レミリア・スカーレットと対立するわけじゃないんだ。むしろ、鈴谷“としては”何かしら得られるものがあったらいいかなって考えてるんだけどぉ」

「彼女と取引をしたいということ?」

「そう」

 

 すると、ウォースパイトはひどく表情を歪めてしまった。今まであまり感情豊かな振る舞いを見せていなかったので、意外と言えば意外な仕草である。

 

「やめておいた方がいいわ。レミリアは、種族としては『吸血鬼』と呼ばれる種族だけど、その本質は天に逆らう魔物。つまり、悪魔よ。悪魔と取引しても、望みが叶うわけではなく、大切なものを奪われるだけという話を、日本では聞かないかしら?」

「『悪魔の契約』ってヤツ? まあ、日本でも有名だよ。でも、鈴谷としては、そこは別にどうでもいいんだけどね」

 

 戦艦はさらに眉間に皺を寄せ、それから徐にテーブルに片肘を突いて顎に手を当てて何事かを考え始めた。ところが、そうかと思えばまたすぐにその姿勢を解いて顔を上げ、こんなことを尋ねた。

 

「ちなみに、どんなことを彼女に頼むつもり?」

 

 それを訊いてくるということは、鈴谷が“本当に”個人的な事情でスカーレットと話をしたい用事があることに勘付いたのだろう。実際、少しそれを匂わすような言い方をしたのだが、やはり聡明な彼女はすぐに分かったようだった。

 職業人として、鈴谷はスカーレットの弱みを探らなければならない。これは軍が、情保隊がそのような方針をもって動いているから、そこに所属している鈴谷も共有しなければならない目的である。

 だが、それを差し引いても、鈴谷にはスカーレットを追う理由があった。それも、可能な限り穏便な方法で、だ。

 さほど強い理由ではない。期待を寄せているわけではない。ただ、博麗や東風谷と出会い、彼女たちからこの世界にはない摩訶不思議が「幻想郷」にはあって、レミリア・スカーレットという吸血鬼は聖職者の二人でさえも止められないくらい強大な存在に膨れ上がり、ウォースパイトから「水の外」の世界が広がっていることを聞かされた。だから、ふと思ってしまったのだ。

 

 もし、そんなことが可能ならばと。

 

 

「こっちの『常識』が通用しないってことは、私たちには考えられないようなことが起こせるってことだよね。だったら、『死者蘇生』とかも出来るのかなあ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――結果から言えば、鈴谷はこの問いに対するウォースパイトの答えを聞くことはなかった。出来なかったというのが正確だ。

 

 ただ、これは彼女の責任ではない。彼女が殊更に鈴谷に対して冷淡だったわけではない。少なくとも、ウォースパイトは何かしら自分の思ったことを述べようとしてくれていた。憂を含んだ視線で航巡を見詰めながら、戦艦は何かを言おうとしたのだ。問題は、そこで鈴谷が視界の端に黒い影を認めたことにあって、もっと言うならその瞬間に心臓を刺すような冷たい殺気を感じ取ったことにあった。

 

 何の予兆もない。あまりにも脈絡がなく、唐突過ぎる出現。自分の左に立った影に対して、鈴谷は可能な限り反射神経を稼働させて、振り下ろされた一撃を椅子ごと反対側に倒れることで回避した。同時に、テーブルを蹴り上げて襲撃者の追撃を妨害したのだから、奇襲に対する反応としては上出来だろう。

 襲撃者が倒されたテーブルに足を取られている間に立ち上がる。向かい合うと、煌々としたマリーナ・ベイ・サンズの明かりに照らされ、その人物の姿が明らかになった。

 

 年若い女。“見た目の”年齢で言えば、鈴谷とそう幾つも離れていないだろう。身にまとうのは西洋風の女中服で、彼女が変わった趣味の持ち主ではないのなら、身なりはそのまま身分を表すものだ。

 

 シンガポールではメイド――外国人家庭内労働者が相当な人数、存在している。何せ、メイド専用の就労ビザが発行されるくらいだ。そこから分かる通り、彼女たちは皆、シンガポールより所得水準の低い近隣国から出稼ぎにやって来た移民である。少なくとも、白人種ではないだろう。それに、今時メイドと言えど、どこぞの国のサブカルチャーのように、“それっぽい”服を着ているわけではない。きっと全員、この暑い国では涼し気でカジュアルな装いで働いているはずである。夜中でもさほど涼しくなるわけではないのだから、一体誰が丈の長いスカートを履き、長袖に手袋までするような暑苦しい格好をするというのだろうか。

 だから、目の前に急に現れた「メイド」はこの国に海外からやって来た身分の高い人物の付き人。

 では、彼女の主人はウォースパイトか? 否、それは違う。もしそうなら、ウォースパイトから制止の声が上がっていいはずである。ついさっきまで、鈴谷と話をしていたし、それが終わったわけでもないのだから。

 制止がなかったということは、鈴谷が思うに、この「メイド」の正体は一つしか考えられない。何より、そうでなければ手に小型のハンマーなど握っていないだろう。

 だが、それにしてはよく分からない武器の選択だ。あんな物で頭を殴られたら、例え女の力であっても脳に深刻な損傷を受けることになる。一方で、当たり所さえ悪くなければせいぜい骨が折れる程度で、瞬時にこちらの動きを止められる武器ではない。これなら、スタンガンやあるいは本物の銃の方が余程脅威だった。何しろ、鈴谷は艦娘であり、しかも今は服の下に艤装の装着部を着けていて、最低限の加護を得られる状態である。ハンマーで多少殴られたくらいでは致命傷を受けることはない。

 それとも、ピンポイントで後頭部を殴り付けられる方法があって、余程の自信を抱いているのだろうか。ただ、それを確認するつもりはなかった。何であれ、「メイド」が鈴谷に対して攻撃の意志を持っているのは間違いないことで、彼女が脅威であるのは紛れもない事実なのだ。脅威はさっさと排除するに限る。

 よって、鈴谷は銃を抜こうとした。そして、それが出来なかった。

 

 ふと、“目を離してもいないのに”、瞬きした瞬間に「メイド」の姿が消える。起こったことを理解する以前の話だった。状況を認識するのが精一杯で、次の瞬間には銃を抜く手に激烈な衝撃を受け、力が抜けていた。拳銃が床に叩き付けられる。その音を認識した時にはもう後頭部に衝撃を受けていた。そう、「メイド」にはあったのだ。ピンポイントで後頭部を殴り付けられる方法が。

 何が何だか分からない内に、意識が遠のく。けれど、そこまでされても気を失わなかったのは、鈴谷が他とは少し違う艦娘だったからかもしれない。すぐにダメージから回復した鈴谷は、あえて殴られた方の手を伸ばし、「メイド」の上着を掴む。意表を突かれた相手の足を払うのは簡単だった。床に引き倒し、組み付いてマウントを取ろうとする。

 だが、「メイド」がやられていたのはそこまでだった。今度は側頭部に強烈な衝撃。意識が飛び、身体が硬直する。それが二度、三度と続けばさすがに耐えることは出来なかった。徐々に意識が遠退いていく。

 

 消えゆく視界の中で鈴谷は思った。

 

 

 

 ――結果から言えば、鈴谷の問いに対するウォースパイトの答えを聞くことは出来なかったが、スカーレット側の明確な回答は得られた、と。

 

 

 

 


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