レミリア提督   作:さいふぁ

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ぼくのかんがえたさいきょうのかんむす。


レミリア提督46 Brain-Machine Interface

 英国高等弁務官事務所――英連邦諸国間において相互に設置される大使館に相当する在外公館であり、接受国に常駐する外交使節団の長たる高等弁務官が主に執務を行う施設だ。英連邦諸国間において「大使」ではなく「高等弁務官」が置かれるのは、大使が「女王陛下の特命全権大使」という位置付けであるためで、英連邦においては元来が大英帝国とその植民地であったことから、国家元首は英国国王(または女王)であった。今でも英国女王と同一人物を国家元首として戴く英連邦王国とそれ以外の英連邦各国に分かれるが、後者においても慣習的に英連邦からの外交使節団長は「高等弁務官」とされ、在外公館は「高等弁務官事務所」になる。すなわち、「高等弁務官」とは、大使が女王の代理人であることに対し、彼らは「女王陛下の下の政府の代表」ということになる。実際、シンガポールの国家元首は大統領だが、シンガポールと連合王国は高等弁務官を交換している。

 当然、高等弁務官事務所は大使館に準ずる施設であり、その内部は接受国の法が及ばぬ範囲となる。英国高等弁務官事務所は島のやや内陸にある丘の麓に建っていた。シンガポール最大の繁華街であるオーチャードの界隈から西にそこそこ歩いたタングリン通りにあり、周囲には合衆国やPRCの大使館、オーストラリア高等弁務官事務所、ブリティッシュ・カウンシル、そしてシンガポール外務省が立地している。

 

 突然現れて日本の艦娘を昏倒させたレミリアの従者はウォースパイトを高等弁務官事務所まで「護衛する」と告げた。そこに行けば、ウォースパイトは母国から自身に関するあらゆる権利の保護を受けられるためだ。

 正直なところ、ウォースパイト自身はそのようなことは望んでいなかったし、望ましいとも考えていなかった。自分はシンガポールに来てからずっとマリーナ・ベイ・サンズの一室に宿を取っており、母国での煩雑な業務から解放されて優雅なホテル暮らしを満喫していたのだ。植物園のバーで酒を愉しんでいたのは、そこがホテルにほど近く、夜景が素晴らしいからという理由以外になかった。完全にプライベートの時間である。それなのに、何が悲しくて外交官のお堅い面などを拝まなければならないのだろう。高等弁務官事務所に行けば、母国との煩わしいやり取りや手続きが待っているのは目に見えていた。

 それに、あの日本の艦娘は少なくともウォースパイトに対して敵意や害意のようなものを持っているようには見えなかった。彼女の職務は彼女にウォースパイトを然るべき場所へ連れて行くことを要求していただろうが、彼女個人の意思はそこから乖離しているように思われた。だから、少しだけ話を、話さなくてもいい話をしたのだろう。

 結果、彼女は思いがけない望みを口にした。「死者蘇生」。この世に非ざる者たちなら、そのような外法の術を知っているかもしれない。一度死んでしまった者をよみがえらせることがこの世界において不可能で、仮に可能だったとしても禁忌とされているのなら、この世界ではない別の常識の下にある世界の法則なら可能なのかもしれない。「鈴谷」というあの艦娘は、そう考えたのだろう。そう考えるに至る何かを背負っているのだろう。

 ウォースパイトには彼女の背負っているものが想像出来てしまった。仮にも、深海棲艦とは戦争と呼べるほど熾烈な衝突を繰り返している艦娘だから、“ありきたりな”悲劇というものを抱え込んでしまうことは珍しくない。鈴谷もきっとその手合いで、およそ幸福からは程遠いところに居る艦娘なのだろう。

 ありきたりな悲劇。だが、本人にとっては何よりも耐え難い。もう、喪われた命は戻って来ないという諦めが前提にあるからこそ、鈴谷はあんなことを尋ねたのだ。本人も、そのことにあまり期待を寄せていないだろう。レミリアが「死者蘇生」を受け入れてくれるなどとは本気で考えていないはずだ。けれど、思わずそんな妄言に近いことを口にしてしまうくらい、彼女の背負ってしまったものは大きく、重い。

 仮に、レミリアの従者に邪魔をされなかったとしても、ウォースパイトが口にしようとしていた答えは、鈴谷にとって空虚なものでしかなかっただろう。従者が鈴谷を攻撃した時に制止しなかったのも、今大人しく「護衛」されたままなのも、ウォースパイト自身、鈴谷に自分の出した答えを言いたくないからだった。彼女とまた顔を合わせれば、沈痛な問い掛けに対する答えを言わなければならなくなる。それは言いたくないことで、高等弁務官事務所に行くことで身に降り掛かる面倒事と天秤にかけてもなお、忌避してしまうくらい嫌なことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 従者は地下鉄で移動すると言った。ここ数日で覚えたシンガポールの地下鉄網を思い出しながら「地下鉄で行くの? どの駅から?」と尋ねる。

「はい、デイム」恭しく従者は頷いた。女王陛下よりナイト爵を叙勲された艦娘“ウォースパイト”は「デイム」の敬称を付けて呼ばれるに値する。

 

「ベイフロント駅からです。そこからMRTを乗り継いでオーチャードへ向かいます」

 

 MRTはシンガポールの地下鉄のことで、マリーナ・ベイ・サンズ直下にある駅がMRTダウンタウン線のベイフロント駅だ。ここからダウンタウン線に乗り、ニュートン駅でMRT南北線に乗り換えれば次の駅が目指すオーチャード駅である。オーチャードの界隈から英国高等弁務官事務所はいささか離れているが、あの辺りならタクシーが絶えず走っているので足には困らないはずだ。

 この従者はレミリアに付き従っている者たちの内の一人で、主人が最も信頼する手下である。種族を聞けば、驚いたことにただの人間であるという。吸血鬼であるレミリアが“歯形”の一つも付けずに大事に手元に置いておくなど、余程お気に入りなのだろうと思った。実際、彼女は有能な人物で、必要なこと以外喋らないし、主人より前には絶対に前に出ない。名前を聞けば「イザヨイ・サクヤ」と返ってきた。見た目はどう見ても白人種なのだが、日本人のような名前である。聞けば、主人より賜った大切な名前だそうだ。その割に話す英語ははっきりと分かるくらいのスラブ訛りなので、出身は東欧なのかもしれない。

 

 考えるまでもなく、サクヤがウォースパイトを“助けに”きたのはレミリアの指示によるものだった。だが、一体何故? という疑問が生まれる。ウォースパイトには、自分がレミリアの庇護を受け、高等弁務官事務所まで護衛される理由が思い当たらなかった。

 鈴谷は害意を持った相手ではなかったし、仮に日本軍がウォースパイトを何かの容疑で捕縛しようとも、旧知の仲である榛名という頼り先がある。榛名は、彼女が在英日本大使館に駐在武官として着任した当初からの知り合いで、一緒に様々な仕事をする内に仲良くなって今では友人同士と言える関係である。仲間想いであるし、頭が良く、日本軍の中ではかなり権力を持っているから、何かあっても助けてもらえるだろう。よって、何も心配することはないはずだった。

 

「残念ながら、お嬢様は貴女様に差し迫った脅威があると断ぜられました」

 

 しかし、従者は否定する。

 

「日本軍は貴女様を不当に拘束し、重要な情報を搾取しようと目論んでおります。私たちと貴女方の関わり。貴女方にとって特に知られてはならないのは、お嬢様が貴女方の軍事作戦を全面的に支援し、欧州棲姫以下の深海棲艦を壊滅させた先日の決戦の舞台裏です」

 

 植物園の薄暗い遊歩道を早足で進みながら、従者は小さな声で、しかもとても早口で喋った。少しでも離れれば聞き取れないので、必然的にサクヤとの距離は密着と言えるほどに近くなる。人に聞かれてはならない話をしているのだから当然だが、すれ違う人間はほとんど居ない。

 確かに、彼女の言う通りウォースパイトと王立海軍、あるいは英国政府が今最も他人に知られたくない情報は、レミリア・スカーレットという吸血鬼が数か月前の欧州での大海戦を勝利に導いた実質的な立役者であるということである。魔力で構成された竜に騎乗して「流水を渡れない」という吸血鬼の弱点をも超克したレミリアの活躍ぶりは凄まじかった。いや、活躍などという言葉では足らないだろう。ただただ一方的な虐殺であった。深海棲艦はその艦種やクラスに関わらず、レミリアに触れられた傍から沈んでいった。

 深海棲艦の最も恐ろしいところは、いつ、どこに、どれくらいの数、どの艦種・クラスが出現するかが分からないことである。しかし、レミリアが居ればそんなことも事前に分かったし、適切な戦力配置を行うことで最大限の効率で敵を撃破出来るようになった。戦力が足らない戦域があればそこにはレミリア自身が赴けばいい。場合によっては彼女の活動する戦域に艦娘を派遣する必要もない。潜水艦でさえレミリアからは逃げられなかった。堅牢さで悪名高い戦艦棲姫は、不要になった紙を破き捨てるような気軽さで八つ裂きにされた。

 もちろん、こうした出来事は決して表に出されないように厳重に秘匿されている。よって、表向きはウォースパイト率いる欧州連合艦隊が欧州近海と北大西洋から深海棲艦を駆逐したとされているし、歴史に刻まれるであろうこの“事実”を修正する予定はない。実質的にはほとんどレミリア個人の戦果だったとしても、彼女が英雄になることは絶対に起こり得ないことだ。

 仮に、このことが外部に漏れてしまったらどうなるだろうか? レミリアが吸血鬼であるという情報がどこまで人々に受け入れられるかは未知数だが、少なくとも「ウォースパイトらが欧州での戦争を終わらせた」という“事実”を、世界の人々が少なからず疑うことになるのは確実だ。そうなると都合が悪いのは他ならぬ英国政府である。何しろ、欧州と北大西洋から深海棲艦の脅威が消えた今、既に「戦後」の覇権争いが水面下で始まっている。英国政府はその中心にあり、かつての大英帝国の栄光を取り戻さんという大きな野心を胸に、合衆国やロシア、ドイツとの熾烈な競争を繰り広げていた。

 しかし、未だ「戦中」である極東の島国にとっては“遠い国の事情”のはずだし、英国政府としてそれはしばらくそうであって欲しいだろう。欧州での決戦の真実が明らかになるということは、日本がこの競争に参加するということでもあり、「欧州戦線を終結に導いた」という連合王国の偉業が台無しにされるということでもある。

 当然、ウォースパイトもこんなことは百も承知だった。正直、自国政府がパイの奪い合いに勝とうが負けようが興味なかったし、当面の休暇を得られたことに概ね満足して、後は最終的な自分の望み――対深海棲艦戦争の終結――が叶えられればそれで良かった。ただ、だからと言って機密情報を口にするほど愚かではない。それを踏まえた上で先程のサクヤの発言を受け取ると、どこからどう聞いても失言と言うしかない。

 人に聞かれてはならない事柄であるから、ウォースパイトも小声で話した。小声で、不躾なことを口にしたレミリアの片腕を叱る。

 

「私がそんな口の軽い女に見える? レミリアが本当にそう考えているなら、それは大変な思い違いだということを伝えなさい」

「デイム。お嬢様は貴女様に敬意を払っておられます。最大限に。しかし、日本軍の持つ技術は我々の想像を上回る水準にまで至っているのです」

 

 小さくも強い口調で戦艦に迫られても、サクヤは表情を微塵も変えなかったし、声に動揺が含まれることもなかった。伝説の吸血鬼の従者という肩書は伊達ではないらしい。彼女の言葉には何ら迷いが含まれていなかった。不確かなことを言う時に混じる自信のなさも見受けられなかった。つまり、サクヤは日本軍がウォースパイトに与える脅威の深刻さについて強い確信を抱いているのである。

 

「貴女様が不必要なことを喋らないのはお嬢様もよく承知しておられます。ですが、懸念されているのはそのようなことではありません。日本軍は恐ろしいことに、誰かの脳内を直接覗き見る技術を既に手に入れているのです」

 

 サクヤは非常に深刻な表情で語ったが、その内容は信じがたいものだ。彼女の言う「懸念」が、日本人がMRI装置をフラフープ並みに小型化することに成功した、という程度のことであればどれほど安堵しただろうか。

 

「思考の盗聴。あるいは、読心術と呼べる類のものです」

 

 従者は付け加えた。

 

「信じられないわ」

 

 思ったことが素直に口を突いて出る。これがジョークなら、サクヤのジョークセンスは大変嘆かわしい水準にあると言えよう。ジョークでないなら……、現実は大いに嘆かわしいということである。

 

「ブレイン・マシン・インターフェース。あるいは、その中に含まれるブレイン・ストリーミング(脳の読み込み)技術を、彼らは高い水準で既に実用化させているのです」

 

 幻想の世界から来たという少女の口がやたら小難しいことを喋った。

 

 ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)とは、文字通り人間の脳と機械を接続する機器やその方法のことだ。人間が手足を使って操作するヒューマン・マシン・インターフェースと違い、BMIは脳波、あるいは脳の電気信号などを直接機械が読み取り、あるいは感覚器官を通さずに直接脳に情報(刺激)を送り込むものである。まだ研究と開発が始まったばかりの分野であり、BMI用のハードウェアやソフトウェアは試作段階にある。それでも、この分野の研究が将来にもたらす利益は莫大なものと見られていて、投資を積極的に行っている投資家も存在している。事実、ウォースパイトも密かに注目していた。

 今のところBMIに寄せられている期待のほとんどは医療関係者と一部の難病患者、身体障害者らからのものだろう。後天的な理由で半身不随などの後遺症を背負ってしまった人々は機械を通して自らの手足を動かせるようになるし、失明した患者が再び光ある世界を見ることが出来るようにもなる。

 次いで注目しているのは、ウォースパイトを始めとした軍事関係者。パワードスーツや、軍用ロボットの遠隔操作などに応用出来るのではないかと考えている。その点で言えば、艦娘がやっていることは軍事分野でのBMIの活用の想定に近い。艦載機の操縦などはまさに、BMIが目指す軍用端末の遠隔操作そのものである。

 

 BMIには二つのアプローチ――脳内チップを埋め込む侵襲式と頭部に外付け機器を装着するだけの非侵襲式――があるが、前者においては医学的なリスクや人に適用する際の倫理上の問題が付きまとい、後者においてはそのようなリスクや問題点は少ないが、頭蓋骨という「障害物」を通して脳波を読み取ることになるので正確性に難が生じる。いずれにしろ、この分野の研究はまだほとんど進んでいないし、実用化もされていない。少なくとも、ウォースパイトはその認識である。艦娘の艦載機操作方法はBMIへの落とし込みが可能と考えられており、民間の研究機関の依頼に応じて実験に参加したこともあったので(被験者となったのは副官の艦娘だったが)、ある程度BMIについては知識を持っているつもりだった。

 

「先週、私たちが日本海軍の研究施設を強襲したのはご存知ですね」

「ええ。もちろん知っているわ」

「それには二つの目的がありました。一つは、捕らわれていた艦娘を保護・回収すること。もう一つが、彼らが進めているこの研究についての情報を得ることでした。私が仰せつかったのは後者の目的を達成すること。お嬢様と門番が表で人間たちの気を引いている間に施設に侵入した私は、そこで日本人たちが行っている脳の研究の資料を読み漁りました。驚きましたわ。彼らはもう既に脳の中に機械を埋め込み、人の思考を読み込んだり、あるいは何らかの情報を書き込んだりする技術を手に入れていたのです」

「侵襲式の技術を実用化していたということ!?」

 

 サクヤが驚いたように、ウォースパイトも驚かざるを得なかった。侵襲式のBMIが、非侵襲式に比べてあまり研究が進んでいないのは、それが人間を対象にして実験を行うことが出来ないからだ。せいぜいが動物実験を繰り返すくらいで、今の段階で人間を対象とした実験を行うにはあまりにも医学的リスクが高すぎるし、倫理上の問題もついて回る。

 だが、日本海軍の研究者たちはそうした問題を克服して実用化に漕ぎつけたという。母国と日本とで技術者の能力に極端な差があるとは考え辛いから、彼らは何らかの好材料を得て実験を繰り返せたと見るべきだ。そして、ウォースパイトの思い付く限りそのような好材料はただ一つしかない。

 

 生きた、人間だ。

 

 彼らは人体実験をしていたのだ。そうでなければ、侵襲式のBMIを実用化出来るはずがない。時間も、何十年とかけてやってきたわけではないだろうから(そもそもBMI研究が始まったのが、脳波測定技術が確立されてからである)、長くとも十年程度の研究期間だったはずだ。それだけしかない時間でより難しい侵襲式を実用化するには、犠牲を顧みないような非道な人体実験を繰り返すしかないだろう。なにせ、脳を直接弄るのだ。実験体となった人間は死亡する可能性が高いし、良くても後遺症が残ってしまう。

 それが事実なのだとしたら、ウォースパイトやレミリアのことなどより余程大きなスキャンダルである。

 しかし、それは考え辛いと、自分の中の冷静な部分が指摘する。日本のように戸籍制度が確立され、権力の分立と整備された法体系、汚職の少ない法務執行機関を持つ先進国で、人の命を浪費するような人体実験が果たして行えるだろうか? 警察の捜査や内部告発を掻い潜って続けられるだろうか?

 

「いかにも、その通りです」

 

 以上のようなウォースパイトの指摘に対し、サクヤは頷いた。

 

「人体実験は行われていましたが、仮に失敗しても死なないような被験者が選ばれていたのです。そうです。艦娘です」

「確かに、修復材をかければ脳の損傷でも治せてしまう。けれど、数が少なく常に深海棲艦との戦いに追われている艦娘がそんな実験に自分を差し出すかしら? 考え辛いわ」

「いえ、確かに実験に協力した艦娘は存在するのです。それも、貴女様が知っている艦娘ですよ」

「何? どういうこと?」

「たった今まで、貴女様の前に居た艦娘です。デイム」

 

 そう言われて、本当にさっきまで自分の目の前に座っていた艦娘の姿を思い出す。かすかに憂を含んだ瞳。「死者蘇生が可能か」と問うた時の疲れ切った声。ああ、確かに彼女なら自分の身体を人体実験に差し出しても不思議ではないだろう。

 妙に納得してしまって、それを自覚すると胸の内に広がるのは同情と虚しさだった。同じ艦娘として、人体実験に身を差し出すことを選ぶに至った艦娘が存在することに心が痛んだ。彼女のような艦娘が生み出されてしまう現実にも打ちひしがれた。

 

 鈴谷も“ありきたりな悲劇”を抱え込んだありきたりな艦娘なのだ。“ありきたりな悲劇”だから、別に艦娘ではない普通の兵士でも抱え込んでしまうことはあるし、退役した彼らが抱える問題が社会問題化してしまうのもまたよくあること。どこの国でも、どこの軍隊でも、戦争をしているのだから必ず一定数、そういう兵士や退役軍人は生まれてしまうし、艦娘もその例に漏れない。

 軽度のPTSDで済めばまだいい方だ。酷い時は自殺したり、錯乱して周囲を傷付けたり、あるいは死ぬまで悪夢に捕らわれて気が狂ってしまう。もちろん、艦娘だからといってそうならないわけじゃないし、むしろうら若い乙女を徴兵しているのだから、目の前で仲間の轟沈を目にすれば相当な規模でその精神が傷付いてしまう。結果、どこかおかしくなってしまった艦娘が生まれてしまうわけだ。幸いなのは、艦娘はほぼ艦娘だけで行動し戦闘する上、艦娘の轟沈など滅多に起きないから、ほとんどの艦娘が精神を壊さなくて済んでいることだろうか。ウォースパイトだって人死にを見なかったわけではないが、精神構造が強かったのか、自分が狂ってしまうようなことはなかった。辛い思い出は、友人への手紙にしたためることで遠くに居る彼女と分かち合えた。

 鈴谷は不幸にもウォースパイトのように強くもなければ、辛さを分かち合える誰かを持たなかったのだろう。あるいは、その誰かを喪ってしまったのかもしれない。

 いずれにせよ彼女もまた、他の“ありきたりな悲劇”に遭遇してそれを上手く消化出来なかった兵士たちのように、どこかをおかしくしてしまったのだ。幻の力に縋ってでも取り戻したいくらい大切な人を喪い、彼女は壊れてしまった。こうなる前の鈴谷をウォースパイトは当然全く知らないが、少なくとも自分の脳みそを科学者に差し出そうとするような人物ではなかっただろう。想い合える人が居るなら、自分自身のことも大事にしようと考えるからだ。

 大切な人を喪い、なげやりになった鈴谷は自分の脳をBMI研究に供出した。事実は大方そんなところだろうか。

 

「何にせよ、日本軍は貴女の脳から情報を引っ張り出す技術を持っています。このような読心術は幻想郷でさえ、あらゆる能力の中で最も忌み嫌われているものであります。場所が違えど、誰しも心と精神の安寧を求めるものですから」

「悪い冗談だわ」

 

 既に読心術が存在してそのこと自体も周知されている幻想郷の異質具合も大概に思うが、科学技術を持って同じことをしようとする人間がこの世に居ることに辟易する。

 思想・良心の自由は、人類にとって絶対的に守られている自由である。何故なら、誰も他人の思考を覗き見ることが出来ないからだ。少なくとも、五分前まではウォースパイトはそう考えていた。ところが、今やそんな大前提ですら脆くも崩れ去ってしまったのだ。

 これが冗談であれば、例えそれがウォースパイトの逆鱗を刺激するほど悪辣だったとしても、どれ程良かっただろうか。レミリアは人を本気で怒らせるような冗談を決して口にしないくらいには賢いし、彼女が最も重い信用を置く腹心も軽率に妄言を吐くような愚か者ではないようだ。サクヤが入手したBMIに関する情報はかなり確度が高いのではないか。そう考えたからこそ、レミリアもサクヤをウォースパイトの下まで派遣したのだろう。

 

「デイム、残念ながらもう一つ悪い情報です。尾行されています」

 

 サクヤは前方に視線を固定しながら早口で囁いた。もうすぐ遊歩道を抜ける。その先は地下鉄の駅だ。

 

「貴女の他には?」

「お嬢様と美鈴、それともう一人、日本の艦娘は今日の日没と同時にシンガポールを発っております。私のみ、貴女様の護衛のため少し遅れて出発する予定でした」

「そう。……高等弁務官事務所から迎えを呼ぶ時間はあまりなさそうね」

「呼んでも来られないでしょう。私たちの行き先は、恐らく日本人たちも把握しているはず」

「じゃあ、事務所の前で妨害に遭う可能性もあるわ」

「その程度なら突破出来ます」

「後ろの追跡者は排除出来る?」

「容易いことですが、あまりこちらの手の内を晒したくはありません。私の能力は奇襲にこそ向いておりますので、使い時を選ぶ必要がございます」

 

 サクヤには時間を操作出来るという特殊能力があるらしい。「らしい」というのは、ウォースパイトにとってはまるで実感がないものだからだ。先程、鈴谷を強襲した時に使ったようだが、単に素早く動いているだけなのか、それとも本当に時間を操作して動いていたのかは見ているだけでは分からなかった。現に、今もごく普通に歩いているだけで、そのような特殊能力を用いて素早く移動しようという気配は感じない。あまりにも現実離れし過ぎていて、本当にそんな力を持っているのかは、正直眉唾だと思っている。

 だが、こちらの常識が通用しないのが幻想郷。読心術が既に存在しているようなところだから、種族が人間と言えど、とんでもない能力を持った者が居ても何らおかしくはない。

 

「もうすぐ、地下への入り口です」

 

 植物園の敷地を出ると目の前に大通りがあるが、交通量が多いので地下道で潜れるようになっていた。地下道はそのままベイフロント駅に直結している。待ち伏せには格好のポイントだった。

 

「気を付けて」

 

 ウォースパイトはレミリアの従者に注意を促したが、従者はやけに自信たっぷりと「待ち伏せはありません」と答えた。「見て来ましたから」とも。

 思わず、耳を疑った。従者はまったく変わらぬ様子でウォースパイトの少し後ろを歩いている。

 

「見て来た?」

 

 振り返って尋ねると、従者はさも当然だと言わんばかりに頷いた。

 

「はい、確かに」

 

 いつ? と聞き返そうとして、彼女の能力を思い出す。もし、時間操作が本当に可能なら、そのような問い掛けはまったく無意味だろう。もっとも、時間操作能力者のサクヤが能力を使っている時のことを「いつそうしたか」と尋ねられて何と答えるかには少しだけ興味があったが。

 

 閑話休題。言葉遊びをしている場合ではない。サクヤが見た限りでは待ち伏せはなかったようだが、安心出来る状況ではないのは変わりない。

 実際、地下道に入っても本当に待ち伏せはなかったし、何か不穏なことが起きている様子もなかった。すれ違う人、同じ方向に向かう人。彼らは皆、日常の中にあってそこから逸脱していない様子だった。尾行して来ているのは鈴谷なのか、あるいは彼女の仲間なのかは定かではないが、とても緊迫したような状況には思えない。それでも、従者の表情は強張っていたし、周囲の人間に不審なところがないかを素早く観察していく彼女の瞳は猛禽類のように鋭い光を宿している。

 

「切符は?」

 

 結局何事もなく改札の前にまで来る。シンガポールには改札にタッチして使うタイプのICカードが存在するが、短期間だけ滞在することになっていたウォースパイトは電車に乗るには切符を買わなければならなかった。そんなウォースパイトの事情を見越していたのか、サクヤは迷うことなく懐から切符を二枚取り出し、一枚を差し出した。準備の良いことだと思いつつ、ありがたくそれを受け取る。

 そして、改札に切符を通し、プラットホームへと降りるエスカレーターに向かう途中。駅のコンコース内にけたたましいベルの音が鳴り響いた。

 二人で思わず天井を見上げてしまう。恐らくは、火災報知器のベルだろう。

 煙はどこにも見えなかったし、焦げ臭い臭いもしなかったが、ベルが鳴ったのならその可能性がまず考えられる。そうでなければ機械の誤作動などによる誤報であろうが、従者が思い当たったのはそのいずれでもないようだった。彼女は舌打ちこそしなかったものの、苦々しく顔を歪め、焦った様子で言った。

 

「まずい! 駅を出ましょう。今ので電車は止まりました。これは罠です!」

 

 従者は改札を指さす。ウォースパイトにも彼女がどんな可能性に思い当たったのがようやく察せられた。未だ鳴り響くベルは、日本人たちの仕業だった。彼らはどういう手段をもってか、駅の火災報知機を作動させ、電車の運行を妨害したのだ。言うまでもなく、ウォースパイトの足を奪うためである。

 そして、ここは地下鉄の駅。出入口は限られており、包囲するにはとてもやりやすい場所である。入り口で待ち伏せがなかったのも当然だった。招き入れてから出入り口を封鎖してしまえば、もうウォースパイトたちの逃げ場はなくなる。改札を通った後のホームへ降りる前というタイミングも絶妙だった。振り返れば改札の向こう側からスーツを着たアジア人が何人も向かって来ている。

 

「デイム、少しだけ失礼致します。包囲を突破するのに能力を使いますので」

「ええ、いいけれど」

 

 従者の申し出にウォースパイトが頷くと、彼女は恭しく頭を垂れ――、

 

 

 

 ――気付けばショッピングモールの中に居た。

 

 そこは、紛れもなくショッピングモールで、駅ではない。自分の位置を確認して、理解出来ないことが起こったことに愕然とする。今までレミリアたちの常識はずれな力を目の当たりにしてきたし、彼女たちに驚かされるのにもいい加減に慣れてきたと思っていた。だが、今回は違う。我が身に直接それが起こったのだ。これがサクヤの能力によるものだと頭では分かっていても、やはり何故そうなるのかが理解出来ないし、自分の身にそれが作用したことに少なからずショックを受けた。

 ベイフロント駅は、ウォースパイトとサクヤが入った地下道からの出入り口とは反対側が、マリーナ・ベイ・サンズのショッピングモールと直接繋がっている。このショッピングモールの最大の特徴は、建物の中にまで水を引いて運河を作っていることだった。運河は最も下のレベル、地下二階にあり、そこから地上階までが吹き抜け構造となっている。

 駅は地下二階と地下一階の中間のところにあり、ウォースパイトが居たのは運河を一つ下の階に見下ろす場所だったので、地下一階だろう。改札の中から、一瞬にしてショッピングモールの中にまで移動していたのだ。

 だが、状況はウォースパイトに驚いている暇を与えない程に厳しい。

 

「デイム」と呼び掛けられて、我に返る。

 

「失礼ですが、デイム。状況がひっ迫しておりますので、私が先行させていただきます」

 少し息切れした様子の従者はそう言って、今度は自分が先を進み始める。前を行くのにわざわざ断る辺り、レミリアにはよく教育されているようだった。こんな時でも焦らずに落ち着いているサクヤを、ウォースパイトは少しだけ気に入り始めていた。

 何はともあれ、彼女のおかげで一旦危機は脱した。「ありがとう」と礼を述べると、「まだ早いです。先程見えた追手は全員足を潰しておきましたが、まだ他にも居るはずです」

 サクヤは少しだけ得意気な顔で、懐に仕舞っていたハンマーの柄を見せる。こんな物で身体を殴られたら、痛いだけでは済まない。追手に少しだけ同情しつつも、ウォースパイトは一拍子の間だけサクヤに視線を合わせる。意図はそれで十分伝わった。従者はさらに足を早めた。

 

 サクヤの言う通り、追手は他にも居るだろう。鈴谷をウォースパイトの前の椅子まで送り込んだ組織があるのだから、あの程度の頭数ではないはずだ。彼らが巨大な官僚機構である日本軍の内のどの部署の人間たちなのか、ウォースパイトに思い当たる候補は一つしかなかったが、それが正しいという確信は得られなかった。

 レミリアは情報と共に、実験台となっていたある艦娘を奪取している。当然、取り戻そうとする連中が出張ってくるだろう。日本軍の防諜組織だ。

 それに、追手と言えば、間違いなくあの鈴谷もその内に入るだろう。彼女がいかなる理由で防諜組織に手を貸しているのかは想像が及ばないが、BMIの実験に協力するような立場なのだから、相当特殊な立ち位置に居るはずだ。防諜組織と動きを同調させ、この後、再び現れるかもしれない。

 彼女は艤装を着けていた。昨日はそうではなかったから、こうなることをある程度予見していたようだ。すると、厄介なのはサクヤの方である。従者の能力は強力無比だが、攻撃手段がハンマーによる打撃しかないのであれば、いくら何でも艦娘である鈴谷には通用しない。先程は上手く昏倒させることに成功したが、次はどうか分からない。

 

「けれど、ここに来たということは何か次善の策を考えてあるのでしょう?」

「仰る通りです。ただ、先に申し上げておかなければならないのですが」

 

 地上階へのエスカレーターを登りながら、サクヤは一旦言葉を切って少しだけこちらを振り向いた。彼女は警告を発することなく続きを口にしたので、恐らく追手はまだ来ていないのだろう。

 

「いささか不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。あまり快適ではないことはどうかご覚悟下さい」

 

 サクヤは少しだけ申し訳なさそうに眉尻を下げた。あまり表情が変わらないタイプだから、こういう仕草は珍しい。それが本心から出たものなのか、あるいは従者としてのパフォーマンスなのかは分からないが、少なくともウォースパイトが気を悪くするようなことはなかった。正確には、“より気を悪くするようなことはなかった”だが。

 

「ご心配なく。もう、十分不愉快な思いをしているから。貴女のせいではなく、不躾な日本人たちのせいだけど」

 

 従者は軽く微笑み、エスカレーターを登り切って出口へと足早に進む。

 既に夕食の時間帯を過ぎて閉店時間が迫ってきているショッピングモール内は行き交う人の数も少なくなってきており、中にはもう閉めてしまった店舗もあった。まだ開いている店も店員は帰りたそうな顔で客も来ない中時間が来るのを待っている。

 不夜城のようなシンガポールでも、街が眠りに就く時間というのは少なからず存在する。このショッピングモールも今まさに就寝のための準備を整えつつあって、日中の喧騒などとは対照的な穏やかな静けさがモール内を包み込んでいた。そんな中で、足早に歩く使用人服姿のサクヤは人目を集めている。やはりと言うか、まるで18世紀から抜け出してきたようなその格好は、現代資本主義の象徴とでも言うべきこのショッピングモールの中にあって、いささか悪目立ちしているようだ。

 しかし、従者はそんなことなど毛ほども気に留めることなく、颯爽と歩いて行く。少々早足なので、ウォースパイトも意識して付いて行かなければ置いて行かれそうだった。

 ショッピングモールから出ると、ヤシの木の並木があり、その反対側がウッドデッキになっていてさらに向こうにマリーナ湾が広がっていた。湾の向こう岸は窮屈そうに並ぶ高層ビル群で、水を吐くマーライオン像と昨日のパーティ会場になったホテルが見える。恋人と夜景を眺めながら語らい合うには絶好の場所だが、厳つい男の集団から追われて逃げる先としてはかなり不適切な選択のように思えた。ここまで来たら左右どちらかに行くしかない。右に行けばマリーナ湾を渡る橋で、左に行けば湾岸沿いにダウンタウンに向かうことが出来る。だが、迷うことのないサクヤの足は海へと向かっていく。

 

「ねえ、どうするの? もう行き止まりよ!」

 

 ウッドデッキと海を区切る手すりに到達したサクヤは、呼び掛けたウォースパイトに反応するようにそこで立ち止まって振り返った。まさか、泳いで海を渡るとでも言うのだろうか。しかし、艦娘であり且つ現在艤装を身に着けていないウォースパイトには水に入ることが不可能だ。厳密には、なす術もなく沈没するだけである。

 

「飛びます」

 

 果たして、従者の答えは耳を疑うような言葉だったのだが、彼女はまるで英国女王の名前を答える時のように平然と言ってのけた。信じられない気持ちになって、ウォースパイトは思わず聞き返してしまう。

 

「冗談でしょう?」

「残念ながら、そうするより他ありません。さもなければ包囲されてしまいます」

「……冗談よね」

 

 何度聞いても答えは一緒のようだ。先程の、唐突な釈明の意味が分かった。なるほど、確かにあまり愉快なことにはなりそうにない。

 同時に、今頃ホテルの部屋でくつろいでいられるはずが、どうしてこんな目に遭わなければならないのかと、うんざりした気分に陥った。ウォースパイトは単に、お国からもらった細やかな休日をシンガポールで楽しみたいだけだったのに。それもこれも、すべては不躾な日本人たちの“粗相”で台無しになってしまった。

 

「どうやって飛ぶの? 私に翼はないわ。貴女の背中にも見えないけれど」

「問題なく。翼がなくとも空は飛べます。ですが、それは私だけですので貴女様は恐縮ですが私がお抱えしてお運びすることになります」

 

 いよいよ、ウォースパイトは頭を抱えてその場に膝を着きたくなったのだが、生憎そんな反応さえ許されない程時間は逼迫していたのだった。

 

「追手が来ました」

 

 従者は静かに、しかしひっ迫した口調で告げた。顔を上げると、右からも左からも(つまり海の方向以外すべてから)、こちらに近付いてくる人影が見えた。やはり、追手は地下鉄駅に現れたあの数人だけではなかったのだ。

 

 

 

****

 

 

 

 

 地下鉄の駅からウォースパイトとスカーレットの手下が“消えた”という報告は、多分に戸惑いを含んだ村井の口から伝えられた。彼によると、二人が改札を通り過ぎた後に手筈通り地下鉄の火災報知機を作動させて電車を止め、逃げ場がなくして追い詰めたところ、忽然と消えてしまったのだという。その時、追跡要員は四人。改札を挟んで向き合っている状況だったし、近くに身を隠すようなものもないコンコースのど真ん中。それが、瞬間移動をしたかのように消えたのだ。しかも、その瞬間に四人とも足に強烈な痛みを覚えた。まるで、何かで殴打されたような激痛で、あまりの痛さに駅の真ん中で大の男が四人、転がることになった。

 村井はそれを「情けない話だ」と憤慨して言ったが、鈴谷にすれば仕方のないことだろうと思うばかりである。というのも、ウォースパイトを連れて逃走を図っていたスカーレットの手下が、異能の力の使い手だからだ。

 名前は「十六夜咲夜」。年齢は十代後半から二十歳前後と思われるが、正確には不明。職業は家庭内労働だが、本質的にはレミリア・スカーレット専属の使用人ということになるようだ。種族は単なる「人間」ということだが、かの大英帝国さえ畏怖せしめた稀代の吸血鬼が、最も重い信頼を置き、最も寵愛する「人間」である。「餌って意味じゃないの?」という、いささか不躾な鈴谷の疑問に対し、十六夜咲夜について豊富な警告を与えてくれた博麗の巫女は首を振った。

 

「あいつは咲夜の奴をかなり気に入ってるわ。実際、何度か『吸血鬼にならないか』って誘ってるみたいだし。その度に断ってるって言ってたけど」

「咲夜さんは人間ですから、吸血鬼になったりしたら霊夢さんに退治されちゃいますもんね」

 

 と、東風谷が合の手を入れると、博麗は頷いた。

 

「それが幻想郷の掟なんだからそうするわ」

 

 博麗の本来の仕事は妖怪退治らしい。妖怪たちが逃げた先にある幻想郷で「妖怪退治」をするのはどうなんだ、という疑問が浮かばないこともないが、そこにはどうやら何かしらのルールがあるらしく、そのルールに基づいた秩序を維持するのが博麗の仕事であるようだった。それは神職と言うより、警察の役割に近いだろうか。今回、スカーレットが博麗に追われることになったのも、その秩序を乱すような危険性があるため看過出来ないとなったからである。

 幻想郷の秩序を尊重している内は博麗の妖怪退治の対象にならず(彼女の言葉の端々を繋げて考えると、どうもスカーレットは少なくとも一度は博麗の妖怪退治の標的になったことがあるようである)、友好的な関係にあるというが、ひと度その秩序を乱せば恐ろしい巫女による制裁が待っている。十六夜咲夜においてもそれは同じらしく、普段は良好な関係だそうだが、今は博麗の制裁対象とのことだった。

 

 今、この場に彼女たちが居てくれれば大いに助けにはなっただろう。しかし、二人は今頃ホテルの部屋でくつろいでいるところだ。携帯電話も持っていない人種だから呼び寄せる手段がないし、仮にあったとしても二人を呼ぶつもりはなかった。理由は単純に、自分と二人との接点を村井に知られたくなかったからである。それに、現段階ではまだスカーレットと決定的な対立関係には陥っていないと考えていたのだ。

 

 もっとも、今は違う。

 地下鉄駅での出来事を聞くに、スカーレットのメイドは想像以上に厄介な手合いに違いない。博麗か東風谷かのどちらかの手を貸してもらうようにしたら良かったと、早くも若干の後悔が湧き出していた。

 そもそも、十六夜咲夜がウォースパイトを助けに現れたのは少々想定を外れていた。というのも、今まで鈴谷たち情保隊が認知する限り、スカーレットのサポートをしていたのは「紅美鈴」という名の中華系の女である。博麗曰くは、これも妖怪らしい。実力で言えばスカーレットの足元にも及ばないが、色々出来る器用な妖怪らしく、普段は昼行燈だが、爪を隠した鷹というのが博麗の評価だった。

 実際、紅美鈴はスカーレットが偽提督として振舞っていた間、飲料会社の社員を装って鎮守府に出入りしていた形跡があるし、追放された時の逃走にも手を貸している。そして、六ケ所の襲撃や黒檜の拉致も行っており、その行動はスカーレット自身の行動、あるいは意思にかなり密接にリンクしているようである。

 だから、初め鈴谷もウォースパイトを助けに来るとしたら紅美鈴だと考えていた。面は割れているのだから、鈴谷がウォースパイトと直接対峙している間、紅美鈴が近付いて来ないか警戒する人員を配置していたのである。

 しかし、実際に来たのは十六夜だった。バーのある人口ツリーの構造物周辺には情保隊のメンバーが警戒線を張っていたにも関わらず、メイドは気付かれることなく侵入し、鈴谷を強襲してウォースパイトをそこから連れ出した。

 狙いはあくまでウォースパイトの身柄確保であるし、妖怪である紅美鈴を捕まえるのは難しい上にリスクが大きい。よって、もしバーからウォースパイトが逃げたら、すぐには捕まえようとせずに尾行するように、という指示が下されていた。そして、徒歩で逃走した場合に捕まえる場所として想定されていたのが、ベイフロント駅だった。ウォースパイトが逃げるとしたらイギリス高等弁務官事務所しかなく、そこに行くには車でなければ地下鉄しか考えられなかったからだ。

 駅の改札を二人が通った後、わざとボヤを起こして火災報知機を作動させ、電車の運行を止めるところまでは上手くいった。その後が、常軌を逸脱していただけである。

 

 時間操作――それが、十六夜咲夜の持つ異能の力。単なる人間が持つ力だ。

 

 スカーレットの退治に対して自信ありげな博麗でさえ「厄介」と評し、東風谷に至っては「訳が分かりません」と匙を投げるような、法外な能力である。十六夜はその力を躊躇うことなく使用し、遺憾なくその威力を見せつけた。鈴谷を襲った時、構えていたにもかかわらずあっけなく後頭部に打撃を食らったのも、駅で追い詰められた状況からあっさり逃走し、おまけに反撃のように追跡者の足を潰していったのも、時間操作の能力を使ったからだろう。実際にその力を目の当たりにしてみて、なるほど博麗や東風谷が口を揃えて警告を発した理由というのがよく理解出来た。

 だが、対処のしようがないわけではない。情報は本当に大切なものだ。鈴谷には貴重な情報提供者がおり、彼女たちは少なくない回数、十六夜咲夜と戦ったことがあり、その能力も性格も熟知していて、そうした情報を鈴谷に与えてくれたのである。

 十六夜は主人のように、防ぎようのない馬鹿げた破壊力を持っているわけではない。身体能力はただの人間と同じレベルなので、何かと時間操作の能力に依存する傾向があるという。なまじ、それが強力無比なだけあって頼りすぎるのが彼女の弱点だと博麗は言った。それに加えて、攻撃手段が普段はナイフに限られる点も挙げられよう。実際、鈴谷を襲った時にはハンマーを振るっていたが、ナイフにしろハンマーにしろ、それ自体は銃ほど脅威になるわけではないし、スカーレットの常軌を逸脱した攻撃とは比較にならない。あくまで、十六夜咲夜は人間なのだ。

 正面から相手を制圧するだけの力がないので、必然的に十六夜は搦め手を使うことがほとんどだと言ったのは、東風谷だった。スカーレットのように不可解に力が強化されている恐れもあまりないとも付け加えた。従って、遮蔽物の多い陸上ではかなり有利に振舞えるであろうが、そういったものが何もない海上ではどうだろうか。

 彼女の力は厄介だが、勝算は決して低くない。そして、十六夜さえ排除してしまえば、ウォースパイトを捕縛するのは簡単な仕事だ。

 

 

 

 

 

 バーで気絶させられた鈴谷だがすぐに覚醒して、村井にウォースパイトと十六夜が逃げたことを伝える。もちろん、彼は人口ツリー周辺を固めていた部下たちから報告を受けていたのでそれを把握していたし、すぐに鈴谷に準備をして海に出るよう指示した。上手くいけば地下鉄の駅で捕縛出来るが、そう簡単に事が進むとは村井も考えておらず、万全を期するため、予めウォースパイトがスカーレットの手下の助けで逃亡した場合はマリーナ湾に展開する手筈となっていた。鈴谷は既に艤装の最も基本的な部分――装着部を身に着けていたし、持参したボストンバッグには航行艤装を入れていた。

 ボストンバッグを肩に引っ掛け、植物園を出て北に向かう。植物園のある公園からは一部、マリーナ湾へ直接降りられるようになっていて、遊歩道を外れて海辺まで来ると、バッグから航行艤装を取り出して装着する。バッグに入れていたのは航行艤装と他にいくつかの機器だけであり、残りはシンガポール基地からヘリが輸送してくる。

 案の定、いくらも待たない内にローター音が聞こえてきた。コールサイン「マーライオン3」、SH-60対潜哨戒ヘリだ。ヘリは艤装運搬ケースを懸架している。正直、このケースを持って来るためだけに動かすには少々大きい機体だと思うが、シンガポール基地にある他のヘリと言えば、遥かに小型のMH-6しかないので仕方がないのだろう。ヘリが鈴谷のすぐ傍まで来てケースを陸地に置くと、素早くその中から艤装の残りを取り出す。主砲、背部、飛行甲板、それからいくつかのウェアラブルコンピューターやIR(赤外線)カメラ、ヘッドセット、無線機、そしてアンテナ類。

 鈴谷が必要な物をすべて取り出して合図を送ると、ホバリングして待っていたヘリは上昇して基地へと帰っていく。ローター音を聞きつけて野次馬が集まり出していたので、大急ぎで装備を装着し終えると、鈴谷はマリーナ湾へと泳ぎ出した。

 

 常夏の国でも、海の上は少し肌寒いくらいに涼しい。潮風を肩で切りながら、マリーナ湾を西へ進む。そうしながら、取り敢えず身に着けただけの機器を順に起動させていった。まず脚部の航行艤装に外付けされている小型発電機を動かす。他に背部艤装にバッテリーがあるので、ウェアラブルコンピューターなどの電子端末への電力供給は、初めこのバッテリーから行われるが、長時間使用するには発電機が必須だ。

 次いで起動させるのは肩甲骨の間、胸椎の上に乗せるように装着されている小さな装置である。仮称だが、鈴谷たちはブレイン・マシン・インターフェース制御コンピューター(BMICC)と呼んでいる。その名の通り、脳と接続された小型のコンピューターだ。厳密に言うと、鈴谷の脳内に埋め込まれている小さな集積回路のチップとの情報をやり取りするためのデバイスである。

 

 鈴谷は世界で唯一の特殊な役割を持たされた艦娘と言えるかもしれない。防諜機関に所属しているという身分の特殊性を除いても異例尽くしであるし、中でも殊更なのは高侵襲性ブレイン・マシン・インターフェースの生体サンプルであり、その技術の発展に最も貢献しているという点であろう。これはつまり、脳内にチップを埋め込み、艤装を含めた数々の電子機器と接続、実用化への必要なデータ収集を行っているということである。

 BMIは脳からの情報の読出し、脳への情報の書き込み、いずれも双方向に行うもので、体内においてその起点となるのがチップだが、チップよりワイヤレス通信で送られてきた情報、あるいはチップに情報を送り込むのがBMICCの仕事だ。この機械は脳から得た、あるいは脳へ送る情報と、それ以外の電子装置とやり取りに使う情報を所定のプロトコルに基いて変換する役割を持つ。それ以外にも、BMIの稼働状況の監視やエラーチェックなど、システムを維持・管理する仕事も行う。

 BMICCを起動して真っ先に鈴谷はエラーチェックを開始させた。先程、頭を鈍器で強打させられたので、脳内チップに影響が出ていないか確認する必要があったからだ。

 エラーチェックにはしばし時間が必要なので、その間に他の機器も順次起動させていく。片眼式のヘッドマウントディスプレイが付属しているヘッドセットはベースを日本の艦娘に支給されている製品にしてあるから、鈴谷にとっても使い慣れているものだ。スイッチを入れてソフトウェア無線を起動し、スマートフォンを接続して村井に電話を掛ける。スマホは制服のポケットに突っ込んでいても無線機と接続しているので、ヘッドセットを介して通話可能だ。

 

「鈴谷、海に出ました」

 

 彼に電話が繋がると、すかさず状況を伝える。

 

「了解。交戦許可はもう下りている。ただし、市街地への発砲は禁止。艦載機が陸地の上を飛ぶのも禁止だ」

「分っかりましたぁ。それで、あいつらは今どこに?」

 

 余計な言葉は差し込まず、必要最小限のやり取りだけをしながら、手首に巻き付けるタイプの腕時計型端末のスイッチを押す。すると通信システムが立ち上がって、鈴谷を戦術データ・リンクに参加させた。鈴谷の装備は電子端末を中心に固有の物が多いが、これはどの艦娘も身に着けている物だ。

 電子装置の装備品が多い鈴谷だが、その中心となるのは胸部に装着するタイプのタッチパネル式タブレット端末である。こちらの端末は既存の戦術データ・リンクとは別のデータ・リンクを接続するもので、さらに指揮制御用のソフトウェアも入っている。

 

「ショッピングモールに現れた。いつの間にか移動したようだが、一体どういうからくりなのかまるで想像がつかん。今、何とか海辺に追い詰めるところだ」

 

 村井は呆れたようにそう言ったが、メイドとウォースパイトが“どうやって瞬間移動をしたか”を既に把握している鈴谷は抑揚のない声で返答した。

 

「じゃあ、予定通りに行きますね」

 

 通話しながらタブレット端末を操作して必要なアプリケーションを呼び出す。データ・リンクにレーダー画面、兵装の指揮制御システム。忘れてならないのは射撃管制装置で、ハードは腰元に着けている。

 

「ああ。こちらは先回りしておく。GPSは拾えているか?」

「問題ありませーん」

 

 間延びした声で応じつつ、タブレットの画面にマップを表示させ、そこに現れているGPS信号の位置を確認する。信号はマリーナ・ベイ・サンズの西側、マリーナ湾の海辺に居た。一方、自分自身を現す信号も表示されており、こちらはマリーナ・ベイ・サンズの北側から湾を回り込むように移動している最中だ。

 

 十六夜に襲われた時、鈴谷はただ抵抗していたわけではない。隠し持っていたGPS発信機をこっそり彼女の懐に忍び込ませることを試み、それに成功した。気付かれた様子はないから、これでしばらく追跡を続けられる。例えあの使用人が時間を操作してどこかに逃げようとも、その位置情報はリアルタイムでこちらの手に入るのだ。

 鈴谷は村井との通話を切ると、今度はシンガポール基地への無線を繋いだ。

 

「こちら情報保全隊鈴谷。シンガポールHQ(基地司令部)へ。捜査対象が逃走を開始。協力者が居ます。ファイアスカウトの準備は出来ていますか?」

 

 無線のインカムに向かって呼び掛けると、司令部のオペレーターが慌てたように応答をした。不測の事態があると考えてバックアップのために待機させていたのだが、担当者は気構えなどしておらず、漫画でも読んでサボっていたのかもしれない。

 

「き、基地司令部より鈴谷へ。無人機は発進可能だ」

「じゃあ、出してください」

「おい、くれぐれも、市街地上空での交戦はするなよ」

「分かってまーす」

 

 話半分に聞いていた鈴谷は気の抜けた返事をする。タブレット端末は鈴谷が装備している各種電子機器を操作するためのインターフェースだ。データ・リンクのアプリケーションをデスクトップに展開させて少し待つと、ダイアログが出て来て既知の端末とのデータ・リンクを繋げるかどうか訊いてきた。

 もちろん、「はい」を押す。ダイアログの中にデータ・リンクの接続先として一つのコードが表示されているが、それは「MQ-8B ファイアスカウト」無人偵察ヘリコプターを指すコードだった。

 

 ファイアスカウトはどこかの戦術部隊から借りてきた物ではなく、完全に鈴谷の裁量によって使用出来る兵器で、そのリンク・レベルは艤装と同じだ。さすがに整備は専門職に任せないといけないが、その他の多くは命令コードの入力一つで自在にコントロール可能なようになっている。ファイアスカウトはいわば鈴谷にとっての「空の目」であり、多数のセンサー類で探知した情報をリアルタイムでデータ・リンクを介して母艦に送ることを役目としている。

 また、このデータ・リンクも特別仕様だった。正式名称は多機能艦娘間データリンク(Multifunction Inter-Girlships Date Link:MIGDL)と言い、既存の腕時計型端末が司るリンク16の戦術データ・リンクとはまるで異なる代物である。データ・リンクの仕様が異なればアンテナも違い、小型で貧弱な出力のリンク16用アンテナとは別に、背部艤装から頭上に伸ばされたマストの先端に取り付けられた平たい円盤がMIGDLアンテナだ。この中に発信機と受信機が収められていた。

 リンク16はUHF帯の周波数を利用し、やり取り可能な情報はテキスト・データのみとなっている。現在のところ、NATOや日本を含むそのオブザーバーの軍で最も普及している戦術データ・リンクのフォーマットがリンク16だが、通信速度の上限が低く、鈴谷のような高度にシステム化された艦娘が要求する水準を満たさなくなっていた。

 

 鈴谷を除くすべての艦娘は、現代の軍隊の水準から言えば驚くほどわずかな電子装置しか搭載しない。元となる艦娘が小さいユニットなのであまりごてごてと機械を取り付けられないという事情はあるが、それにしても少ないのだ。標準装備となっているのは、妖精が操る艤装の電探や水中探信儀などを除くと、簡単な無線装置とリンク16の端末、ヘッドセットとアンテナくらいなものである。

 

 だが、鈴谷は違う。従来の艦娘とは比べ物にならないほどシステム化された鈴谷という“戦闘ユニット”は、必然的に膨大なデータ通信を要求する。その要求を満たすため、リンク16に加えて伝送速度が速く容量の大きい新たなデータ・リンクが必要になった。そこで開発されたのがMIGDLだ。

 このデータ・リンクはCバンドの周波数帯を利用し、大容量の高速データ通信が可能で、動画の送受信も楽に行える伝送速度になっている。その反面、見通し圏内でしか通信を行えないが、ファイアスカウトなどの滞空している無人機を中継することで水平線以遠との通信も不可能ではない。

 本来はその名称通り、艦娘同士での情報のやり取りに使用するものであるが、鈴谷以外の艦娘が未だMIGDLに対応していないのと、先に対応したのが無人航空機やイージス艦、早期警戒機などの新たに電子装備を搭載する余力のある戦闘ユニットだったため、今のところこれらの航空機や戦闘艦と鈴谷を結ぶのに使われているだけである。ただし、将来的にはもちろん鈴谷以外の艦娘にも普及させる予定なのは間違いない。

 

 

 多数のコンピューター、複数のセンサーのフュージョン、高度な通信システム、そしてBMI。こうした最新技術で出来た電子装置によって身を固めた鈴谷は、既存の艦娘とは全く異なる次元に位置している。

 現代の軍隊は、「ネットワーク化」された戦闘ユニットの集合体と言っても差し支えない。排水量が10万トンを超えるスーパーキャリア(巨大航空母艦)から、最も階級の低い一人の兵士まで、ありとあらゆる戦闘ユニットが通信システムを介して相互に繋がり、巨大なネットワークを構築している。ネットワークは陸海空の垣根をも取り払った。例えばある兵士が堅固な目標を発見した時、その情報は自身の部隊内のみならず部隊外にも直ちに共有され、空を飛んでいるAWACS(空中早期警戒管制機)が情報を仲介し、数百キロ離れた海上を航行中のイージス艦がAWACSの指示の下、対地巡航ミサイルを発射してこの目標を撃破する。そんな芸当も当たり前のように可能になっているのだ。

 このような現代の軍隊の中にあって、無誘導の艦砲と魚雷、貧弱で低性能なレーダーとソーナーしか持たない艦娘は、とても“時代遅れ”な代物と見なされていた。深海棲艦の撃沈には艦娘の力が必要不可欠だが、問題は彼女たちをネットワークに組み込むことが容易ではないという点に尽きた。

 艦娘はその装備の全てが深海棲艦を攻撃するためにあると言っても過言ではない。しかして体格は人間の少女と同じであり、後付け出来る装備の量には限りがある。よって、今までは腕時計型の携帯端末とリンク16用の通信アンテナ、そして短距離用の無線くらいしか装備させられなかった。艦隊の中に一人だけ長距離用の無線機を背負わせることで基地との連絡はつくようにしていたが、可能であってもその程度である。

 しかし、陸上の歩兵一人ひとりがネットワークに参加している現代において、艦娘にそれが出来ないという道理はない。そこで、艦娘をネットワークに参加させるシステムの構築と通信端末の開発が始まった。そして、出来上がった試作品の試験のため、既にBMIの生体モデルとして実戦における運用データの収集を行っていた鈴谷に白羽の矢が立ったのである。今ではBMIと指揮管制システム、データ・リンクなどの通信システムが一体運用され、その生データを取ることが鈴谷の仕事の一つとなっていた。

 

 そもそもを言えば、現代の軍隊が「ネットワーク化」されたのも深海棲艦に対処するためだ。

 艦娘と同じく兵装のフォーマットが古い深海棲艦はミサイルでは撃沈出来ない厄介な敵であったが、その進撃を食い止めることは艦娘でなくとも可能だった。敵の艦型の識別は可視光画像の他、逆合成開口レーダーなどを用いれば可能であり、敵機の行動可能圏外から敵艦隊を観察、指揮・統制を行っている鬼・姫クラスの旗艦を特定さえ出来れば後はそこにミサイルを撃ち込めばいい。深海棲艦の対空火器では対処不能な超音速対艦ミサイルならピンポイントで旗艦に命中させることも可能で、撃沈には至らなくとも戦意を喪失させれば、それで取り敢えずの防衛には事足りる。こうした考えの下、日本海軍もイージス艦を始めとした戦闘艦を複数配備しており、それらの艦には超音速対艦巡航ミサイルが搭載されている。艦娘が居なくとも、最低限国土は守れるようにはなっていた。

 

 無論、同じようなことを艦娘が出来ればそれに越したことはない。そこで生まれたのが、「鈴谷」と言う艦娘だったのだ。

 鈴谷は、海軍が目指す艦娘の完成形の実証である。高度な通信システム、高性能なセンサーと計算速度の速いコンピューターによりネットワークのノード(節)としての役割を果たす新たな艦娘。それは現代艦のそれぞれが複雑に構成されたシステムであり、自身もまた軍事ネットワークという巨大なシステムの一端を担う「システム艦」であるように、艦娘もまたシステムの中に、それ自体がシステムとして組み込まれることを意味していた。システム・オブ・システムズ。フォーマットの古い艦娘の艤装さえも取り込んだ、高度にシステム化された艦娘である。

 

 鈴谷たちはそれを「システム艦娘」と呼んでいた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 無人ヘリは離陸したし、鈴谷とのリンクも繋がったが、マリーナ湾上空に来るにはもう少し時間が掛かるだろう。だから、先に場を整えておいた方がいい。

 鈴谷は肩掛け式の大きな艤装に手をやる。それこそ、鈴谷の最大の特徴と言ってもいい。そう、飛行甲板である。

 飛行甲板は独立した艤装であり、表面は鉄製の甲板、その裏は格納庫になっている。格納庫には取っ手がついておりそれを引っ張って開けると中には艦載機が収められている。これを取り出してカタパルトに設置すると発艦準備が完了、後は鈴谷の合図で発艦となる。

 これも不思議なもので、格納庫に収まっている時の艦載機は手の平よりも小さいのだが、取り出して飛行甲板に乗せると倍くらいの大きさになる。もっとも、空母たちは矢や紙を飛行機に変えているのだからこの程度で驚いてはいけない。

 艦載機の発艦準備が整ったところで、急いで飛行甲板を上空に向けて艦載機に命じる。爆竹を鳴らしたような音が連続し、勢い良く水上機が飛び出していく。黒塗りの、鈴谷特別仕様の水上攻撃機「瑞雲」だ。合計四機を射出し、発艦作業を終える。

 

「マリーナ湾上空にアンノウンを検出。陸地から現れたように見えたぞ。警戒しろ」

 

 今晩、情保隊が活動するのでその支援を行うように、という指示しかもらっていないであろう基地のオペレーターは、戸惑いを隠し切れていない声で言った。彼には何が起こっているのか全く分かっていないだろう。だが、もちろん鈴谷には分かっていた。湾上空に現れたのは十六夜咲夜。村井たちに追い込まれて彼女は空へと飛び立ったのであり、その姿をレーダーが探知したのだ。

 

「りょーかい!」

 

 状況は予想通りに進行している。メイドが空に飛び立ったのも、計算の内だ。

 彼女のような幻想郷住人は翼がなくても空を飛べるらしい。その理由について考えることは無意味である。そういうものなのだ。ウォースパイトが言ったように、彼女たちにはこちらの常識が通用しないのだから、“翼がなければ空を飛べない”などという道理は通用しない。事実、博麗も東風谷も身一つで空を飛んだし、十六夜も同じことが出来ると二人は断言した。もちろん、紅美鈴も。

 当初の想定は紅美鈴がウォースパイトを助けに来ることだったので、陸上の逃走経路を遮断すれば、空へ逃げると踏んだのだ。やや内陸にあるイギリス高等弁務官事務所へマリーナ・ベイ・サンズの界隈から向かおうとした場合、その手段があるならばマリーナ湾を渡るのが最短のコースになる。マリーナ・ベイ・サンズを含むウォーターフロントのエリアはまだまだ開発途上であり交通手段は比較的乏しいが、ダウンタウンまで逃げればそれこそ移動手段など選り取り見取りである。したがって、ダウンタウンまで逃げられた場合、警察の支援が期待出来ないこともあって、情保隊には追跡が困難となってしまうことが予想された。

 その一方で、艦娘である鈴谷にとってマリーナ湾という海の上はホームグラウンドと言っても差し支えない。空に飛び上がればなおさら追い詰めやすくなる。ウォースパイトを助けに来たのが時間操作能力の持ち主だったのは想定外だったが、彼女の能力は障害物の多い陸上でこそ威力を発揮し、逆に遮蔽物も何もない海上ならかなり脅威度は低くなるだろうから、無理に当初の予定を変える必要がなかったのは幸運だった。

 しかも、空を飛べる人間の飛行速度はまったくもって速くない。一方、艦娘の航行速度は、鈴谷のように高速艦で且つ湾内のような波の穏やかな場所ならば40ノット以上も出せる。GPSに加えレーダーでも探知しているのだから、彼女がいくら時間を弄ろうとも逃げられはしない。この湾の中で必ず捕まえてやる、と鈴谷は仕返しを誓った。

 

 BMICCがエラーチェックを完了させ、異常がなかった旨を報告してくる。その報告はタブレットの画面にダイアログとして表示された。ダイアログを消すと、BMI――鈴谷を始めとした関係者が「艦娘脳波リンクシステム」と呼ぶそれを起動させる。

 

 それこそが、航空巡洋艦にして兵装実験艦「鈴谷」の最大の秘密であり、最重要な兵装。空母や航空巡洋艦が艦載機を操縦する仕組みと、レミリア・スカーレットが実現した無人機を使用した夜間航法にインスピレーションを得て、鈴谷が中心となって開発した新しいリンクシステムである。戦術データ・リンクやMIGDLといった通信インフラに艦娘の脳を組み込むことがこのシステムの根幹であり、艦娘の艤装やあるいは他のデータ・リンク参加ユニットが得た情報を艦娘の脳を介して艦載機と共有する。艦船や電子戦機といった高度な電子探知装置を持つユニットが、鈴谷の艦載機をレーダーで補足し、その位置情報を鈴谷と艦載機とで共有することで、航法を確立させるものだ。もちろん航法だけに使うわけではなく、索敵や攻撃目標の識別、選択、そこへの誘導も、すべて他のユニットに任せてしまうことで、戦闘をより効率化させることを実現した。

 

 BMIを使用して艦娘をネットワークの中に組み込むのは共同交戦能力(CEC)を獲得することを目的としているからである。情報共有は戦術データ・リンクを介して行えるが、そこから先に進んだCEC――例えば、空母から発艦した艦載機をその瞬間からAWACSが誘導、目標データの提供、攻撃の指示など、普段空母が行っていることの全てを引き受けるといったようなこと――が可能になる。この例えで言えば、空母はそれまで同時展開可能な艦載機数が、自分自身の空母適性により制限されていたのが、発艦させてからの管制を他の戦闘ユニットが代替出来るなら、制限を取り払えるようになるということである。また、損傷度合いが大きくなった場合に艦載機管制能力を喪失して攻撃出来なくなるという致命的な弱点も補えるようになると見込まれていた。

 空母に限らず、艦娘は自身の艤装を究極的には脳によって操作している。特に艦載機制御においてはそれが顕著である。もし、「艦娘脳波リンクシステム」を通して艦娘の脳の内、艤装の制御に関わっている部分に直接情報を送り込めるようになるなら、外部からその艤装を操作出来るようになる。それは今までとは比べ物にならない精度での射撃、数々の制限の突破、幅広く柔軟な運用を可能にし、より効率的に深海棲艦を破壊することが可能になるという意味だ。人が狙って撃つより、コンピューターが正確な発射諸元を元に弾道計算をして射撃する方が、無誘導の砲弾でも遥かに高い命中率を得られるようになる。

 

 究極的には、こういったことも出来るだろう。

 艦娘の主砲や魚雷を無人艦艇に搭載し、「艦娘脳波リンクシステム」とMIGDL、射撃管制装置で艤装を遠隔操作、艦娘本人は本土の基地にある空調の効いたコンテナボックスの中で、同じく無人航空機が撮影する映像を見ながらコーヒーカップ片手に目標を選定し、射撃を指示して敵を撃破する。そんな冗談のような戦い方さえ可能になるのだ。被弾して自分の内臓の色を確認することもなければ、轟沈のリスクを背負うこともない。傷一つ付かないことを保証された絶対的な安全圏から戦争をして勝てるのである。戦いが終われば何時間も掛けて母艦に帰るようなことはなく、任務明けすぐに自室のベッドに飛び込んで睡魔に身を任せるのだって容易い。戦場に直接赴くわけではないのだから、「戦う場所」を変えるのは接続する艤装を変えるのと同じ行為になる。アリューシャン諸島の沖合で敵を撃破した三十分後に、オセアニアで戦闘を始めるなんてことも当たり前のように出来るだろう。

 

 もちろん、こんなことはある程度知識のある軍人なら誰でも思い付く。今は、昔のように人の目で見て敵を探すような戦い方はしない。レーダー波か音波が敵を探し出す時代なのだ。それも、数百キロ、時に数千キロの距離から。

 今までは思い付いてはいても、実際に試そうとする人間も艦娘も居なかった。艦娘は艤装のすべてを自身の脳で司るわけだから、艦娘本人だけならともかく、艤装までネットワークに参加させるとなると、どうしても脳をいじることになるためだ。軍人たちは“国民からお預かりした”艦娘に人体実験まがいの試みを行うことを忌避したし、艦娘たちにとっても忙しい日々の任務の合間を縫って危険な人体実験に身を差し出すような暇はなかった。何よりリスクを考えれば誰しも避けた。どんな艦娘も、成功するかも分からない実験に参加して自分が使い物にならなくなるくらいなら、戦場で敵を一隻でも多く沈めることが本分であると考えている。

 ただ、一部の軍人や研究者たちはそうした試みに興味を持っていて、そこに鈴谷が現れたので、こんな酔狂な実験が行われることになったのだ。鈴谷は他の艦娘とは違う特殊な立ち位置にあって、何かあって「自分が壊れる」リスクも恐れなかった。自暴自棄に近いような厭世感があったのと、この新しい実験が退屈な人生に刺激になるんじゃないかと考えたから、鈴谷は六ケ所の研究所に自分を売り込んだ。レミリア・スカーレットの夜間航空攻撃を参考に、航空巡洋艦としての知識を総動員してシステムの叩き台を作り、直接六ヶ所の所長と話をした。

 当初渋っていた彼も鈴谷の熱心な説得を受けて実験を承諾した。その結果、鈴谷は自分の瑞雲をネットワークに参加させられるようになったのである。

 こうなれば昼も夜もない。副産物として、鈴谷は水上機と同じ要領で無人機をも操縦出来るようになっていた。これで、鈴谷は全天候における航空攻撃能力を獲得した。嵐の日でも、積乱雲の上から無人攻撃機を操ってミサイルを撃ち込める。

 

 人と機械の融合。サイボーグにでもなった気分だが、実際それに近い。そもそも、艦娘という存在自体がそういうものなのだから。

 しかし、今までは試験会場でシステムを動かすばかりだった。海の上をプログラムで動く無人のボート相手に爆撃したりミサイルを撃ったり、結果が分かり切っているようなつまらない試験しかしてこなかった。鈴谷の瑞雲が無人ボートを木っ端微塵に吹き飛ばす度に科学者たちは大はしゃぎでデータを採取して回ったが、新しい“玩具”を手にしたら実戦でそれを試してみたくなるのが艦娘の性。当然、作られた環境での試験など面白いものではない。

 一時はこの実験を降りようかと思っていた。いつまで経っても実戦での試験運用の許可が降りなかったからだ。

 それでも鈴谷が居なくなれば実験は続けられなくなる。いつの間にやら熱意が逆転した科学者たちに引き止められて今日までこのシステムを持っていたが、やはり止めなくて良かったと思う。降って湧いたようなこの機会を逃すわけがない。

 本当ならシステムを使うのには研究所の許可が必要だったが、今は先日の襲撃で機能停止した状態だし、そもそも鈴谷は誰の許可も取るつもりはなかった。そうやって意味不明なルールで己を縛るすべてを、鈴谷は敵視している。やりたいようにやる。それが鈴谷のモットーだ。

 しかも、相手は異能の力の使い手なのだ。鈴谷の未知の力を持つ信じられない存在なのだ。あの使用人服の少女に、鈴谷の「科学」がどれだけ通用するかという興味もあった。

 

 

 発艦させた瑞雲四機での追撃戦。マリーナ湾上空にようやく到着したファイアスカウトは鈴谷と瑞雲の「眼」となるから、少し高度を取って状況を俯瞰させる。レーダー画面では、十六夜咲夜を現すフリップ(光点)は、ちょうどマリーナ湾の真ん中にまで来ていた。

 逃げも隠れも出来ない海の上。こちらにはセンサー満載の無人機と、四機の艦載機。何より、海の上なら自在に動ける鈴谷自身が居る。

 これで場は整えられた。鈴谷は自然に口元が吊り上がるのを抑えられない。

 

「さてさて、やっちゃうよ!」

 

 さあ、狩りの時間だ。

 

 

 

 

 

 


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