レミリア提督   作:さいふぁ

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だいぶ間が空いてしまいましたが、帰ってきました。
シンガポール編は今回でほぼほぼ終わりです。


レミリア提督47 Battle of Marina-Bay

 サクヤが考えていた「次善の策」が妙案であると、ウォースパイトは考えなかった。その認識は、彼女がウォースパイトを背負い、自らの力で翼もないのにもかかわらず宙に浮いたところで、より強い確信に変わった。

 時間を止めたりすることが出来る人間が、身一つで空を飛ぶことに今更驚いたりはしない。目の前で起きたことをありのままに受け止めて動揺することのなくなったウォースパイトは、今の状況が自分たちにとって悪くなりつつあると断じた。サクヤはショッピングモールの先のウッドデッキからマリーナ湾の上空へ舞い上がったが、その様子は日本人の追手に見られていたのだ。

 明らかに早すぎる登場だった。駅でサクヤが足を潰した追手は四人。当然、その他にも居るだろうとは考えていたのだが、ショッピングモール内まで瞬間移動したにもかかわらず、さほどのタイムロスで追い付いて来るのはいくら何でも対応が早いと感じた。サクヤの力はこの世の摂理から大きく逸脱するが、それを前にしても動揺が少ないのではないか。少なくとも、何らかの対策が講じられているのは間違いなさそうだ。

 単純な手段を考えるなら、位置情報を発信する機器をこっそりと仕込んでおくことか。すると、思い出されるのはバーでの一幕。サクヤに急襲された鈴谷はすぐさま対応し、反撃に転じてマウントを取るところまで持って行った。その後に頭を殴られて彼女は昏倒してしまったが、確実にその時身体接触はあった。

 仕込むとしたら、その時だろう。

 

「失礼するわ」

 

 一言断ってから、サクヤの懐をまさぐる。「何かあるのですか?」と従者が訝しむ間に、彼女のスカートのポケットの中に小さな機械が入り込んでいるのを見付けた。取り出してみると、案の定GPSの発信機である。

 

「これよ。この発信機で日本人たちは私たちの居場所を把握していたんだわ」

 

 一瞬の格闘の間にこれを気付かれることなく仕込んだ鈴谷の手際の良さに感心しつつ、発信機を海に投げ捨てる。

 この事実は、ウォースパイトにある確信を抱かせた。

 

「誘い込まれたわね」

「どういうことです? デイム。ここは海の上ですよ」

「海の上だからよ!」

 

 サクヤの居る世界に艦娘は存在しない。彼女には、艦娘がどういう存在かが実感出来ないのだろう。

 海の上を飛んでいれば、例え人間大の大きさしかなかったとしても、レーダーで感知することは難しくない。サクヤの時間操作能力がどの程度の時間有効なのかを考える。ウォースパイトの目の前では鈴谷への襲撃と駅からショッピングモールへの移動にしか使わなかったので、あまり長時間(サクヤの主観時間で)使用出来ないのかもしれない。尋ねてみる。

 

「自分一人だけなら何時間でも使え続けますが、人ひとりを運びながらだと体力的な限界があります」

 

 曰く、自分以外の物体(生物を含む)に対しては、時間停止中はほとんど干渉出来ないのだという。せいぜいが移動させるくらいであるが、移動させられるということはそこに「速度」という概念が存在しているということに他ならない。既知の通り、速度は距離を時間で割ることで得られるが、仮に時間停止の世界=時間[0]とするなら、ゼロ除算して速度を得ることは出来ないから、これはおかしなことになる。もしくは、時間を最小限に細分化しているのだとしたら、速度は限りなくその上限、すなわち光速度に近付いていくが、そうなると彼女やウォースパイトが移動した時に押し退けられた空気が衝撃波として拡散するはずである。そうなっていないので、これも矛盾する。

 もっとも、彼女の世界の法則はこの世のものではないのだから、この世の常識で考えるのは不都合が生じるものであろう。鈴谷にそう言ったばかりなのに、ウォースパイト自身が物理学でサクヤの異能を説明しようとするのは自己矛盾もいいところだ。

 何にせよ、サクヤの能力には限界がある。それは異能の力のことでなく、サクヤが人間であるが故の限界だ。体力的、精神的、知力的な限界というのは、サクヤが身体的には普通の人間と同等である以上、こちらの世界の人間とそう大きくは変わらない。冷静沈着な振る舞いと特殊過ぎる力の保有によりつい忘れがちになるが、サクヤはあくまで二十歳前後の若い女でしかなく、体付きを見ても屈強さはいささかも感じられず、むしろ華奢な方だと言えよう。事実、鈴谷との肉弾戦ではあっさり上位を取られてしまっていた。

 対して、相手は正真正銘、本物の艦娘である。それを言うなら、ウォースパイトだって紛れもない艦娘なのだが、鈴谷との決定的な違いは艤装を持っているかいないかだった。あくまで休暇でシンガポールに来ていて装備は何も持っていないウォースパイトと、バーに現れた時に持参していたボストンバッグに最低限の艤装を詰め込んでいたであろう鈴谷とでは、まったく次元が異なる。今のウォースパイトはただの泳げない女でしかないが、鈴谷は海の上を疾走することの出来る兵士だ。この差はウォースパイトたちにとって致命的と言っても過言ではない。

 

 ところで、先程ヘリのローター音が聞こえてきた。姿は建物の陰に隠れて見えなかったが、音が聞こえたということは近くまで来ていたということ。すぐにどこかに飛び去ってしまったようだが、そのヘリが民間機やシンガポール当局の所属機体であると考えるほどウォースパイトは楽観的ではなかった。こんな時にこんなところでヘリを飛ばすのは、どう考えてもシンガポール租借基地の日本軍だけだろう。そこにあるのはすべて輸送ヘリだと聞いているが、それではあのヘリが何を運んで来たかが問題である。艤装をヘリで空輸し、海上で艦娘本人に受け渡すようなことは決して頻度は高くないものの、かといって珍しい戦術でもなかった。それ専用に艤装の運搬ケースが開発されたくらいだ。

 

 

 ヘリが運んで来たのは、増援の艦娘か、あるいは鈴谷の艤装の残りか。

 果たして、その答えはどうやら後者だったらしい。

 

「何か聞こえます」

 

 初めに異常を察知したのはサクヤの方だった。

 

「プロペラ音でしょうか」

 

 そう言われてウォースパイトも耳をすませば、確かに波音や耳元を吹き抜ける潮風の声に混じり、低く連続する音が聞こえる。間違いなくプロペラ音だ。

 こんな街中を、夜中にセスナが飛んでいるわけがない。艦娘の艤装の一つである艦載機も考え辛いが、それでもこちらはないわけではない。実際、ウォースパイトの副官ポジションに居る空母娘は、夜間にソードフィッシュ艦上雷撃機を運用する能力を持っている。艦娘艦載機による夜間行動はあり得ないことではないのだ。

 英国や合衆国に比べ、日本はこの分野においては後塵を拝していると言われてきたが、大規模な空母機動部隊を運用している彼らが空母娘による夜間航空攻撃を諦めているとは到底考えられない。むしろ、もう既に夜間機を実装していてもおかしくはないだろう。そして、今考えられる限り、シンガポールにおいて艦載機を運用可能な艦娘は鈴谷ただ一人である。何故なら、ウォースパイトには艤装がないし、シンガポール基地に元から所属する日本の艦娘は全員駆逐艦だからだ。

 

「一機や二機じゃないわ」

 

 プロペラ音は複数聞こえてきた。それも、上空から聞こえるように思える。

 空戦の基本は、高度を取ること。位置エネルギーはそのまま運動エネルギーに変換出来るし、低空を低速で飛ぶなど、撃ち落としてくれと言っているようなものだからだ。

 突如、空が明るく輝く。天から降ってくる眩い光。ウォースパイトはその光を直接目に入れないように注意しながら、上空に航空機の姿を探す。

 照明弾だが、発射音はしなかったから主砲から撃ち上げるタイプではなく、航空機から投下するタイプなのだろう。ならば、近くに投下した機体が飛んでいるはずだった。そう思って探してみると、非常に分かり辛いが確かに一機見付けた。

 

「居たわ!」

 

 叫んで指をさす。

 見え辛いのは、夜間の視認性を悪化させるため、暗色に塗装してあるからか。それでも、ウォースパイトの目には主翼の下にぶら下げられた二つのフロートが確かに映った。

 空母が扱うタイプの機体ではない。戦艦や巡洋艦が搭載している水上機だ。

 

「デイム! これは!?」

「警告よ!」

 

 鈴谷たち日本軍の目的がウォースパイトの持っている情報ならば、彼女たちは捕縛しようとするはずである。今の状況なら、どこかの陸地に強制着陸させる以外に手段はない。何しろ、ウォースパイトは海を泳げないからだ。さすがに溺死に追い込まれるようなことはないと思いたい。

 

「そして、予告でもある! 二時の方向、上空に機影が見えるわ!」

「あれですか!」

 

 すぐに見付けられたあたり、サクヤは視力が良いのだろう。それはウォースパイトにとっても良いことだった。何しろ、見付けた水上機が翼を翻し、こちらに向かって急降下してきた時、サクヤはすぐに反応して左に回避しようとしたのだから。

 自分たちの右側を曳光弾が尾を曳いて海に落ちていく。明らかに威嚇射撃と分かる距離があったが、照明弾だけでなくまさか本当に撃ってくるとは思わなかった。艦娘の操る艦載機は模型のような小さく精緻な作りになっているが、模型と違ってこれには動力があり、実際に空を飛んで戦闘をすることが出来る。撃つ弾はもちろん銃弾で、もしそんなものが人体に直撃すれば「痛い」では済まないだろう。

 ただ、そんなことはそもそも艦娘が人間を攻撃することが厳しく禁じられているから起こり得ないことだったはずだ。

 もちろん、本当に撃墜するつもりで撃ってはこないだろう。あくまで警告のための射撃。だが、夜間に水上機を飛ばし、さらにわざと当てないように警告射撃を行うには相当の技量と技術力が必要なのではないかと思われた。

 鈴谷はウォースパイトの想像以上に手強い存在に違いない。彼女の艦種は恐らく巡洋艦クラス。空母であれば水上機を使わないし、駆逐艦や潜水艦にはそもそも水上機の扱いが無理だ。戦艦と言うにはそんな雰囲気もなかったし、一部水上機母艦という艦種もあるにはあるが、サクヤと対峙した時に瞳に宿った凶暴な光は、水上打撃部隊で自分の「お供」がよく見せていたものに近かった。

 主砲弾での殴り合いを主任務とする戦艦や巡洋艦は、それ故に戦闘時には獰猛な闘争心を見せる。ウォースパイト自身はあまり自分がそういう野蛮さを持っているとは思いたくないが、最も危険な砲弾の雨の中に突っ込んでいかなければならないのだから闘争心というのは欠かせられるものではない。とりわけ、戦艦より火力と防御に劣り、速力に勝るために突撃の先頭を担うことの多い巡洋艦クラスの艦娘は、恐怖に打ち勝つために人一倍闘争心が強い傾向にある。

 鈴谷もそうだった。後方での活動が多い水上機母艦ではあの眼光は持ち得ないだろう。そこに艦載機扱い能力が加わるのだ。これは甚大な脅威と言えた。

 とすれば、彼女の艦型には一つ心当たりがある。それが正解なら、鈴谷は相当厄介な相手と言わざるを得ないだろう。あれは普通の巡洋艦ではない。

 

「事前情報と違います。シンガポールに航空攻撃可能な艦娘が居るとは聞いていません」

「彼女は恐らく『航空巡洋艦』ね」

「航空……?」

「ええ。艦載機扱いに長けた巡洋艦の艦娘よ。日本独自のものね。通常の巡洋艦は、偵察や弾着観測に使う非武装の水上機しか扱わないけれど、航空巡洋艦は制空戦や空襲まで可能な武装した水上機を扱えるの。以前、日本の友人からそのような能力を持つ巡洋艦を導入する構想を聞いたことがあったわ。それが実現していたのよ」

 

 恐らく、ウォースパイトは「航空巡洋艦」と呼ばれる珍しい艦種について、世界で五番目以内に入るくらい詳しい。何故なら、この艦種の発案者にして創設者である日本の艦娘に対して、彼女が自分の案をより洗練されたものに昇華させるにあたって数多くの助言を授けたし、またそれらが彼女の案の中に織り込まれていることをよく知っているからだ。在英大使館駐在武官だった当時、榛名は自らが考えたこの新しい艦種の構想について、ウォースパイトに語ってみせた。榛名の構想が現実に産声を上げ、現場で実際に運用されて成果も出し始めているということも、ウォースパイトはよく知っている。諜報活動の妙では日本を歯牙にも掛けない自国政府がそうした情報を収集していたからだ。

 サクヤが空に飛び立つ前に鈴谷の艦種について思い当たっていたなら、ウォースパイトはレミリアの従者をもっと強硬に引き留めていただろう。通常、巡洋艦の運用する水上偵察機は非武装だから、追われてもそれほど脅威にはならないと軽んじたのである。何より、ダウンタウンのビル街に逃げ込んでしまえば追跡は不可能。シンガポール政府は日本軍の航空機が、例えそれが艦娘が操る玩具のようなものであれ、自国領土の上空を飛ぶことを一切許していないからである。ましてや、人口の密集する市街地など論外だ。

 

 鈴谷の目的ははっきりしていた。水上機は連続で襲ってくる。ウォースパイトも、サクヤも、それが鈴谷の思い通りにサクヤを飛ばせるための誘導だと気付いていたが、だからと言ってどうしようもなかった。放物線を描く曳光弾の軌跡に当たった時、二人に訪れる運命が何なのかは想像するまでもない。避ける以外になかった。

 照明弾が海に落ち、眩いばかりに輝いていたマグネシウムの光が消え、湾の上は不夜城にぼんやりと照らされる世界に戻る。それでも、水上機による威嚇射撃、意図したニアミスといった「ソフト」な攻撃は続けられた。正確に、絶え間なく、だ。

 時間が経てば経つほど、ウォースパイトの中で鈴谷の脅威レベルが高騰していく。大体の戦艦や巡洋艦の艦娘は水上機を扱えるが、その能力の差は素体本人の艦載機扱い適性によってピンからキリまである。ただ、ウォースパイトの経験上、大砲を振り回す能力と飛行機を飛ばす能力が両立した例はほとんどないと言えた。前者が優れていれば戦艦・巡洋艦に、後者が優れていれば空母になる。この二つの適性あるいは能力が、二律背反であるという証明がなされたことは知る限り一度もないが、経験則としてそれに近い関係にあるのではないかと考えていた。だから、榛名から「航空巡洋艦」の構想を聞かされた時も、その実現性について憂慮したし、友人に対してそれに拘らないようにという助言も行ったくらいだ。

 榛名は友人からの助言を真摯に受け取ったが、現実はどうやらウォースパイトの考えを凌駕していたようである。鈴谷は砲艦としての適性と、艦載機扱いの適性を高い水準で両立させている艦娘だ。もし鈴谷が王立海軍の所属であったなら、ウォースパイトは自分の持つ権力を存分に振るって彼女を己が麾下の艦隊に編入させたことだろう。こんな希有な能力を持つ艦娘は非常に有用であるに違いない。

 もちろん、これは皮肉である。そんな皮肉でもって現実をなじらなければ、脳髄が焼き切れそうだった。

 屈辱と羞恥が、火刑の炎のように急速にウォースパイトの身を焦がしていく。栄えある王立海軍“艦婦”艦隊の旗艦にとって、顔をぬかるみに押し付けられるような屈辱を味わうことは本当に久しぶりだった。

 以前に同じような思いをしたのは、もう十数年も昔のことだ。その頃はまだ駆け出しで、今はウォースパイトの副官として辣腕を振るってくれている空母娘も田舎から出て来たばかりの泣き虫だったし、今ではもう二度と顔を見れない艦娘も居た。ある時、ブリテン島の東岸を襲ってきた深海棲艦の迎撃に失敗し、命からがら敗走したことがあった。それだけならまだしも、艦娘を蹴散らした敵は本島に上陸、近隣の港町を散々荒らしまわって多数の市民を虐殺したのである。

 ウォースパイトの艦隊は逃げ帰ってきた時誰も欠けていなかったし、残弾もまだあった。敗走することになったのは、事前情報の誤りであったり、コミュニケーションの失敗であったり、そうしたミスが重なった結果だった。それでも、残弾はまだあったのだからもう少し長く戦っていれば市民を避難させられたのではないか。あるいは敵が諦めて撤退したのではないか。そんなどうしようもない悔恨の念が無尽蔵に湧き出してきて、自らの無力さを徹底的に思い知らされたという苦い記憶がある。

 その時は不可抗力もあったとは言え、責任の一端は間違いなく自分にあると断言出来た。だからこそウォースパイトを強く立ち上がり、戦い続けられたのだ。この時の屈辱は決して忘れないだろう。

 だが、屈辱にも種類があるのだということを、ウォースパイトは今日学んだ。艦娘として、戦艦として、王立海軍旗艦としての矜持と自負を踏み躙られるような屈辱。厄介なのは、そこに嫉妬が含まれていることだった。もう少し深く言えば、嫉妬は羨望の裏返しだった。鈴谷は自らの艤装と足で海に立ち、ウォースパイトは人に背負われて運ばれる。

 

 総て艦娘は艤装に身をくるめば海に立てるが、一度それをはずせば海はおろか、水に入ることすら禁忌とされる。ただ一人の例外もなく艦娘は水に浮くことが出来ず、したがって泳ぐことも出来ない。一般にはあまり知られていない事実だが、当の艦娘たちにとっては無視出来ない重大な事実だ。そのせいで風呂に入るにも細心の注意と同伴者が必要になるくらいである。ウォースパイトが初期に携わったいくつかの重要な仕事の一つに、入浴方法のマニュアル作成という作業が含まれていたことは特筆に値するだろう。

 

 普通、人体には肺という胸腔の大部分を占める大きな浮袋があるため、溺れない限りは水に沈まない。アルキメデスの原理の通り、物体の平均密度が水のそれより小さければ浮力が生じるのだから、肺という空気の入った袋のお陰で人体の平均密度は水の密度を下回り、浮くことが出来る。一方で、鉄の塊を背負っているにもかかわらず水面に立てる艦娘にはこの原理は適用されないようで、しかもそれは艤装を外しても同じだった。言うまでもなく艦娘の素体の体内にも肺袋は存在するし、その容積は艦娘ではない同年代の同程度の体格の人間とさほど変わらないにもかかわらず、全く水に浮くことが出来ないのだ。

 これは艦娘が抱える大きな謎の一つであると認識されていたが、重要なのはそんなことではない。水に浮けない以上、艦娘にとって水とは、海とは、恐怖の対象でしかないのである。それは、あまねく艦娘にとって共通の認識だった。人々が考えているのとは裏腹に、艦娘は水と、とことん相性が悪い。

 

 足元を見れば、漆黒の世界が広がっている。夜光に照らされて空が夜とは思えないほど明るいのと対照的に、海はあの世に繋がっていると思わせるほど不気味に暗く、淀んでいた。今が艤装を身に着けていないという状態であることはあまり関係がない。仮に艤装を身に着けていても、ごく稀に足元の水面の下を想像して、言い知れぬ恐怖に心を絡め捕られてしまうことがあった。もし、今この艤装がその力を失ったとしたら? 誰も、どうして艤装があれば海に立てるか解明出来ていないのに、ある日突然艤装が機能を失ってしまう恐れがないということを証明出来ようか。

 

 こうした恐怖を感じた時、それでもウォースパイトが海に立てたのは、結局のところ心の底で己の艤装を信じたからである。仕組みのよく分からないその機械は、何にも替え難い戦友なのだ。幾度となく敵と戦い、敵を沈め、己を生き永らえさせてきた艤装に、ウォースパイトは自分が置ける最大限の信頼を置いている。その信頼は、紛れもなく王立海軍の旗艦をそうたらしめる矜持の源泉であった。

 

 では、艤装のない“ただの泳げない女”である今のウォースパイトに何があるだろう? あるいは、“ただの泳げない女”であることを嫌というほど自覚させる鈴谷の攻撃はウォースパイトに何を与えただろう?

 現況において、海はおろか空さえも支配しているのは紛れもなく鈴谷だった。彼女は手の届かないところに居て、殴られても傷一つつかない堅牢な装甲に身を包んでいる。何をしようとウォースパイトは絶対的に無力であった。

 ウォースパイトは戦艦である。鈴谷が持つ主砲の何倍もの威力がある巨砲を容易く振り回し、水平線に重なる豆粒のような標的を正確に撃ち抜く技術にも自信がある。鈴谷が何機航空機を送り込んでこようが、針山のような機銃と対空砲ですべて撃墜してみせよう。だが、それらの内のどんなことも、艤装がなければ一つとして実行出来ない。

 何より腹が立つのは、鈴谷にとってウォースパイトは何の脅威でもなく、彼女はそれを当然のこととして行動している、という事実だ。つまり、鈴谷にとって脅威なのはメイドの能力であり、ウォースパイトなどはむしろ無力な野兎に等しいと考えているということだ。そして、その考え、あるいは認識は、まったくもって的確であるという点だ。

 未だかつて、ウォースパイトをここまで軽んじた人物は居なかった。鈴谷は特段他国の艦娘に対して侮蔑的であるわけではないだろう。彼女はある意味では“誠実な”姿勢で取り組んでいると言える。正しく状況を俯瞰し、正しく脅威を見積もり、それに基づいて適切に行動する。鈴谷は間違いなく優秀な兵士だった。

 

 真実、今の状況ではウォースパイトは何の役にも立たない。それでもせめて何か出来ることはないかと考えて眼下に巡洋艦の姿を探すが、黒い絵の具を厚く塗り込めたような海原にその姿は気配すらなく、そこにはただ何があるかも分からない闇が広がっている。恐らく世界で最も明るい部類に入るであろうシンガポールの大都市を眼前にして、海は驚くほど暗い。日本の小・中型艦の艦娘の用兵思想においては、欧州各国海軍のそれよりも夜間戦闘能力に対する比重が特筆するほど大きいと聞いたことがあるが、まさにその話を裏付けるように鈴谷は夜闇に紛れ、影をも追わせず、息を潜めながら艦載機を操るだけでウォースパイトたちを束縛してしまった。

 

 他方、日本の艦娘たちと違って夜戦に傾倒した訓練を行ってきたわけではない戦艦が目視での索敵に失敗している内に、その身を背負う人間の従者はそろそろ体力の限界を迎えようとしていた。しかし、ウォースパイトには彼女の呼吸が荒く、速くなっているのに気付いたとしてもどうしようもない。執拗で的確な鈴谷の「威嚇」はサクヤに不必要な回避行動を強要し、時間を浪費させ、さらに精神をナイフのように切り刻んで削り取っていった。仮に彼女がSAS(英軍特殊部隊)の屈強な隊員だったとしても、消耗しきるまでの時間がいくらか伸びた程度の違いしかなかっただろう。このままサクヤが体力の限界を迎えて海に墜落すれば、ウォースパイトに待っているのは溺死する運命だけだ。そして、それはもういつ起こってもおかしくない。

 だから、戦艦に出来ることと言えば、一番近くの陸地に着陸するように指示することくらいしかなかった。自分でも分かっていたのだろう、サクヤは何も答えずに頷きを返しただけで、フラフラと漂いながらゆっくりと陸地に近付いていく。彼女の不安定な飛行はウォースパイトの脳を不愉快に揺さぶり、墜落への極大の恐怖まで与えてくれたが、しがみつく以外にどうしようもないので、ただただ彼女の体力の限界が訪れないことを祈るだけだ。首筋には玉のような汗が浮かび、苦しそうな呼吸の音が不気味に響いて聞こえた。鈴谷の水上機は周囲を飛び回るだけで威嚇射撃をして来なくなったが、プロペラの音が蜂の羽音のようにも聞こえてそれがさらに不安を煽り立てる。

 サクヤが向かったのは、シンガポールで最も有名な場所だろう。絶えず続く水の音。普段はライトアップされているのに今晩に限って街灯りにしか照らされていないマーライオン像だ。そこへ、サクヤは一心不乱に向かって行った。

 確かに、マーライオン像の傍は護岸の上から海に降りれるように階段状になっている。普段は観光客が大勢たむろしているが、像がライトアップされていないのもあって、人の姿はそこにはない。杳として居場所の知れない鈴谷がどこかで息を潜めている可能性はあったし、海の上に姿が見えないなら、むしろそうとしか考えられないという現実的な思考が頭に浮かんだ。論理的に考えれば四方を市街地に囲まれたマリーナ湾は夜でも明るいはずで、ウォースパイトの目に暗く映ったのも、抱いた恐怖がなせる錯覚だったのかもしれない。それなのに一切姿が見えないのは明らかに不自然だし、すると考えられるのはサクヤが着陸するのを見越して遮蔽物の多い陸地に揚がって身を隠している以外にないだろう。

 脅威が分かっていても、対処のしようがなかった。サクヤの体力が限界に近付いているし、その限界がすなわちウォースパイトの寿命でもあった。敢えて言うなら、日本人たちの巧みな誘導に嵌められて空に上がった瞬間、勝負は決まってしまっていたのだろう。

 

 遂にサクヤがマーライオン像の近くに着陸する。彼女は足がコンクリートの階段に触れた瞬間、脱力して身を投げ出したので、疲れ切った従者を押し潰してさらに消耗させてしまわないようにウォースパイトは横に転がらなければならなかった。背負っている方は言うまでもないが、自分より体格が小さな人間に背負われている方も気付かぬ内に体力を消耗してしまっていたらしい。お世辞にも居心地の良い場所とは言えなかったが、それでもしばらく階段の上に横たわっていたいと思った。

 だが、そうも言っていられる状況ではない。姿は見えないが艦載機がずっと追跡して来ていたし、今も頭上を飛び回っているから鈴谷は二人がどこに降り立ったか把握しているだろう。そして、彼女や彼女の仲間たちが捕縛に急行しない理由は何一つ考えられなかった。

 

 過去、戦争中には体力を十分に回復出来ない状況というのにもうんざりするほど遭遇してきたから、ウォースパイトは割合すぐに立ち上がれた。問題はサクヤだったが、彼女も状況を正しく認識していたようで、顎の先から滴を垂らしながらも顔を上げ、戦艦に向かってこう言った。

 

「逃げてください。貴女様、一人だけでも……」

 

 言葉を発するだけでも苦しそうだが、それだけにその忠言には無視出来ない重みがあった。彼女がその特異な能力を発動させるのにどれだけ体力を消費するのかは分からないが、移動するだけの体力を回復させるにもしばらく待たなければならないだろう。そして、日本人の狙いがウォースパイトであることがはっきりしている以上、疲労困憊のサクヤを連れて逃げるのは捕縛される確率をいたずらに高める結果にしかならない。

 残したところで死ぬわけではない。そう信じてウォースパイトは頷き、踵を返して階段を駆け上がる。上がり切ってからふと気になり、背後を振り返った。

 

 その瞬間、乾いた音が鳴り響く。

 気付かなかった己の失態を自覚するが、既に手遅れだった。マーライオン像の陰から身を覗かせている人物の手には拳銃が握られており、しかもその銃口は海の方、つまり今まさに立ち上がろうとしていたレミリアの従者に向いていたのだ。従者はその場に崩れ落ち、ウォースパイトが立ち止まったことに気付いたその人物がこちらを仰ぎ見た。

 最も警戒するべき対象。薄暗く判別付きかねるが、それでも確かに鈴谷が少しだけ歯を見せながらナイフで切ったような邪な笑みを浮かべたのを見た。

 

「逃げて!」

 

 絞り出すようなサクヤの怒鳴り声に背中を押され、ウォースパイトは再び走り出すしかなかった。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 航行用の艤装を履いて地上を歩くのは、ちょうどスキーブーツで歩くのと近い感覚だというのが、鈴谷の偽らざる考えだ。艦娘の中でスキー経験のある者はそう多くはないが、鈴谷は少数派になるその内の一人だった。どちらも足首が固定されていて、ソールに全く柔軟性がなく、非常に歩き辛い。しかも、航行艤装で上手に地上を歩くためには少々コツが必要で、それは踵に付いている推進器と舵を傷付けぬよう、爪先立ちをしなければならないという点である。

 艤装の型によって地上歩行がまったく出来ない物もあったが、幸いにして最上型のそれは可能な物だった。とは言え、出来るからと言ってしていいわけではなく、むしろ航行艤装を履いたままでの歩行は大事な部分を傷付けてしまう恐れがあるために原則として禁じられていた。だから、航行艤装を履くのは出撃の準備の中で最後にくる工程だったし、そうして海に立てるようになった艦娘はまず専用のキャリアーに乗せられ、火薬の力によってレールの上を滑るキャリアーごと水面に“飛ばされる”のが常だった。陸上の基地から出撃する場合も、艦娘母艦から送り出される場合も、どちらも同じようにした。よって、敵に追われて島に逃げ込んで身を隠したりするような経験がなければ、多くの艦娘は航行艤装を履いたまま地上を歩くことはないだろう。

 

 鈴谷は違った。鈴谷が「まとも」な艦娘であった期間はキャリアの半分にも満たない。鈴谷の敵が深海棲艦だったのはほんの数年程度で、残りの期間は普通では体験出来ないような任務に赴き、時に悍ましい汚れ仕事に携わることもあった。そうした仕事の中で、時たま艤装ごと地上に揚がって歩き回ることがあっただけのことである。鈴谷は海軍で唯一無二の特殊な役割を与えられた艦娘で、ある意味では組織の汚点を一身に背負う身でもあった。だから、普通の艦娘なら深海棲艦に通用しないからほとんど扱わない拳銃の扱いにも慣れていたし、それで誰かを撃ったことも初めてではなかった。

 鈴谷はどうやら飛び道具を扱う才に恵まれていたらしく、艤装の艦砲と同じく銃での射撃成績も良好であるし、射撃訓練も暇を見付けては小まめに勤しんでいたから、薄暗い中でも人間の足を撃ち抜くのは造作もないことだった。激痛と被弾のショックに十六夜咲夜が崩れ落ち、ウォースパイトが彼女を置いて逃げるのを見送ってから、推進器と舵を傷付けぬよう細心の注意を払いながらコンクリート製の階段を下りる。村井たちの到着はまだだったが、ウォースパイトは遠くに逃げられずに間もなく捕まることだろう。

 

 メイドが倒れていたのは階段が海面と接するすぐ傍であり、艦娘である鈴谷は一旦海に出てから階段にもたれかかる様にして苦しんでいる彼女に近付いた。釜に火を入れ、暖機しながらいつでも動き出せるように備える。

 情保隊の本来の目的はウォースパイトを捕まえることである。彼女を捕まえられさえすれば十六夜の方は放っておいてもいいし、鈴谷もそう思わないこともないのだが、今はメイドも捕まえる絶好のチャンスで、これを見逃すのはとてももったいない気がした。何より、このメイドはスカーレットに最も近い人物であり、聞けば吸血鬼の寵愛を一身に受けているという。だから、身動きを取れなくなっている彼女を捕縛すれば実に様々なことに利用出来るだろうと考えた。情報を吐かせるのも良し、軍隊らしく「捕虜交換」と称して奪われた加賀の身を取り返しても良し、あるいは鈴谷のもっと個人的な目的のための取引材料にしても良しである。

 

 ウォースパイトに言った「死者蘇生」という案を、鈴谷は割と本気で考えていた。この世で否定されたはずの理不尽な存在が当たり前のような顔をして戻って来ている今、自然の摂理に反することでも起こせるのではないか。拒否はされたが、否定をされたわけではない。まずは実現可能性を探るところから取り組むべきだが、鈴谷は荒唐無稽と言われようと「死者蘇生」に一縷の望みを託していた。

 熊野を取り戻せたのなら、艦娘としての立場など顧みるつもりはない。例え、脱走艦娘として追われることになってもいい。どの道、熊野も咎人なのだ。最愛の人となら世界のどこへでも逃げられる気がしたし、幸いにして仕事の報酬は良い上にあまり使わずにいるから口座には結構な額の金が残っている。それを逃亡資金にして、狭苦しい島国とはおさらばしてしまおう。皮算用だと分かっていても、そんな妄想をするのはとても愉快だった。

 

 だからこそ、鈴谷は本気だ。この上なく本気だ。

 

 あまり近付きすぎることがないよう、少し間合いを開けて十六夜咲夜を見下ろす。威嚇射撃だったとしても、当たれば確実に死ぬ弾道に囲まれながら追い立てられたことは体力だけでなく精神も消耗させただろうし、その上出血も強いられてメイドはもう既にボロボロだった。

 

 

「さっきの話だけどさあ」

 

 「死者蘇生」という言葉を発したのはウォースパイトに向けてだったが、鈴谷はメイドがその話を聞いていた前提で話し掛けた。

 

「あんたたちは死んだ人間を生き返らせられる魔法とか、そういうのを知ってる?」

 

 問い掛けにメイドはしばらく答えなかった。彼女は荒い息を吐きながら鈴谷を見上げていた。足を見れば出血をしていたが、動脈を傷付けるような当たり方はしていないし、それ程重症のようにも見えない。

 

「……定義に、因りますわ」

 

 不意に、十六夜が口を開いた。てっきり彼女が心の中で問い掛けについて沈黙を維持することを決定したものだと考えて、次にどうしようかと思案し始めた航巡は少々意表を突かれた形になり、すぐに遠回しなその言い方に対する質問を投げ返すことが出来なかった。一方、メイドは鈴谷がすぐに答えなかったことを、先を促されていると感じたのか、望み通り解説を入れてくれた。

 

「単に、魂を取り戻すことならそれほど難しくはありません。何らかの方法で魂を確保して容れ物を用意し、そこに放り込むだけです。生前の肉体とは違いますが、まあ同一人物と言えるでしょう。あくまで、魂魄という視点から、ですが」

「どういうこと?」

「仮に魂を取り戻し、仮初の肉体に宿したとしても、生前の人物と同一の精神性や自我まで残っているとは限らないということです」

 

 それは悪い情報だった。仮初の肉体とやらが何を指すのか分からないが、メイドが言うように何らかの方法で熊野の魂を取り戻し、それを肉体に入れ直すことまで成功した場面を想像してみた。今までしたことのない類の想像だったので、具体的な様子を思い浮かべるのは難しかったが、脳裏に出て来た映像は抜け殻のようになった熊野に自分がかいがいしく食事を与えている場面だった。本当に“これ”が熊野なのか。熊野の格好をした何かではないか。呼び掛けても応じず、日がな一日中虚空を見詰めているだけの等身大の人形。きっと自分は疑うだろう。熊野の魂は本当に戻って来たのだろうかと。

 不愉快な想像だ。多大な失望を感じながらも、それでも往生際の悪い航巡は諦めることはなかった。第一、メイドが言っていることが真実であるとは限らない。何しろ、鈴谷を含めこの世界の誰もが与り知らぬ法則で動く異世界のことなのだ。それが正しいか正しくないかを判定出来るだけの材料は何もない。メイドが他の方法を知らないだけ、という可能性もあり得る。

 だから、鈴谷の中でメイドの価値はさらに上がっていった。それは恐らく吸血鬼の手下が企図したのとは逆の結果だろう。もちろん、その主人に対する人質としての価値のことだ。ウォースパイトは「悪魔の契約」では締結した人間側が大切な物を奪われると警告したが、では最初からその悪魔の大切な物を手に入れた上で取引に臨めばどうだろうか。

 

 やることは変わらないわけである。後は、“逃げる隙を窺っている”彼女を如何に引き留め、捕縛するかだった。方法として例えば、メイドが顔を真っ赤にするくらい激怒するような挑発を投げ掛け、彼女から冷静さと、逃走という合理的な手段を放棄させる、という手段がある。問題は何と言えば彼女がそこまで怒るかだったが。

 

 

「そっかぁ、それは難しいね」

 

 

 一つ、思い付いたことがある。メイドはそこまでキレないかもしれないが、確実に鈴谷に殺意を向けて来るであろうことだ。

 

「あ、そうだそうだ。今閃いたんだけどさ、『赤城』を利用するって手もあるんだよねぇ」

「……」

「『赤城』はさ、昨日の晩にあったことを全部白状したよ。深海棲艦になったこと、自分が元『赤城』で今は記憶を失っていること、レミリア・スカーレットに取り戻すように言われたこと。そうすれば、加賀を回復させられること」

 

 十六夜は相変わらず鈴谷の前から逃げ出す隙を窺っている様子だったが、右手に持った拳銃がそれをさせないという持ち主の強い意志を表明していたがため、中々実行に移せないようであった。体力が回復しきっていないというのもあるかもしれない。いずれにせよ、時間を止めて逃げられる彼女はその気になればいつでもここから立ち去ることが出来る。そうなると、せっかく仕込んだGPS発信機も捨てられてしまった今、彼女を追い駆けるのはほぼ不可能であろう。だから、早く鈴谷はメイドから逃走の意志を奪う必要があった。そして、その目論見は次の一言によって上手く達成出来た。

 

「鈴谷はね、それを妨害することが出来るんだよ」

 

 

 探るようなメイドの目に、鋭い光が宿る。暗さに目が慣れてきていた鈴谷は、彼女がわずかに眉間に皺を立てたのを見逃さなかった。それで、自分が賭けに勝ったことを確信する。

 

「わざわざ実力行使で奪ってきたんだから、あんたの“お嬢様”にとって、加賀は余程大事なんだね。もちろん、『赤城』も。去年、『赤城』の居た鎮守府が壊滅した時、大慌てで助けに行ったそうじゃん? 単なる潜伏先としか考えていなかったなら、リスクを冒してまでそんなことはしない。だから、昨日『赤城』と加賀を引き合わせたのも、あいつにとっては必要な儀式だった。違う?」

 

 メイドは答えない。彼女を逃がさないために、理性を飛ばすほど怒らせる以外の方法は一つ。鈴谷に対する認識を“回避すべき追

手”から“排除すべき脅威”へと改めることだった。スカーレットへの忠誠心が強いという十六夜なら、主人を邪魔する障害を排除しようと考えるだろう。賭けに勝てるだけの見積もりはあったし、実際にそうなった。

 

「昼間、目を覚ました大尉、もとい『赤城』に事情聴取したのは鈴谷だけ。だから、『赤城』が何を白状したか知っているのも鈴谷だけ。だけどぉ、鈴谷だって組織の一員だからさあ、報・連・相ってのが求められるわけ。分かるでしょ? 今後、『赤城』があんたのご主人様の言に従って記憶を取り戻すことが出来るか出来ないかは、鈴谷の匙加減次第なの」

 

 メイドは知らないし、今真実を知る術はない。だから、嘘やハッタリもこの場だけなら通用する。実際には「赤城」の告白は彼女の上官たる柳本中将も知っている。というより、部下の艦娘から報告を受けた中将が、「赤城」と一対一でヒアリングをしていたから知っていて当然だ。しかし、中将は「赤城」から聞いたすべてを村井に伝えたわけではなかった。彼は、彼と「赤城」に都合の悪いことは言っていない。では、何故鈴谷がそのことを知っているかというと、これはとても単純なことである。単に、ヒアリングの場を盗聴していたからだ。

 ヒアリングの場は医務室で、「赤城」が寝かされている部屋だった。盗聴を警戒して、中将は部下にコンセントを確認させたり、電波探知機まで持ち出したりして随分念入りに部屋を調べ、盗聴器が仕掛けられていないことを確認していた。だが、彼は失念していたのだ。普通の人間には見えない、艦娘たちが操る「妖精」と呼ばれる存在。彼らとその主人たる艦娘は意識が繋がっているということを。

 盗聴するのはとても簡単なことだった。鈴谷は自分の艤装の妖精を一人、「赤城」の医務室に忍び込ませていた。なので、そこで何が話されていたかはすべて筒抜けで聞くことが出来たのである。

 

 そして、メイドに対して吐いた嘘は一つだけだった。『赤城』が白状した内容を知っているのが鈴谷だけ、という点のみ。つまり、“彼女の今後が鈴谷の匙加減次第”というのは本当なのだ。鈴谷は盗聴した内容を村井に伝えていないどころか、盗聴していた事実さえ報告していない。だが、それで叱責されることはないし、この後基地に帰り、ウォースパイトを捕まえてご満悦の彼をさらに喜ばせる報告をするのは難しいことではない。彼が「赤城」の告白の内容を知ればどうするかは予想がついた。だからこそ、中将も村井には自分たちにとって都合の悪いことを伝えなかったのである。

 

 実際、「赤城」が海軍という巨大組織の中で、記憶を取り戻すなどというある種の“私事”で動くには、それなりに強力な後ろ盾が必要なはずだ。スカーレットがそれについてどう考えているのかは定かではないが、彼女も一時だけとは言え海軍の中に居たのだから、組織の中で個人が自分勝手に動けないのは分かっているだろう。だが、わざわざそうするように諭したのだから、何かしら算段があるのかもしれない。ただし、村井や彼の情報保全隊にはその算段が何であれ、「赤城」を捕えての妨害をすることは非常に簡単に出来るのだ。

 

 

 と、賢いメイドならここまでのことは当然理解したはずである。吸血鬼の力は強大だし、イギリス海軍にも強い影響力を持っているようだが、同じような力が日本海軍に通用するわけではない。スカーレットの目的は未だ不明だが、加賀を回復させることが最終目的であれ、あるいは中間目標であれ、それを妨害することをメイドは良しとしないだろう。

 

 それに、と考え、鈴谷は可能な限り悪辣に見える笑みを浮かべる。

 

「別に、加賀や『赤城』のことが重要じゃないって言うんなら、もう鈴谷は追わないからさ、どこへでも逃げていいんだよ。だけど、あんた一人にウォースパイトの逃走を任せたあんたのご主人様はさ、自分の腹心が護衛対象を捕まえられた挙句、『赤城』の邪魔をされるのを知らされて逃げ帰って来たら、とっても失望するんじゃないかなぁ? まあ、優しいあんたのご主人様はあんたを責めたりしないかもしれない。けど、あんたはそれじゃあ余計に惨めになるだけだよね?」

「露骨すぎるわ。そんな見え透いた挑発に乗るとでも? それにお嬢様の支援がないとでも思う?」

 

 メイドは案外落ち着いた口調で反論してきた。だが、内心は見掛けほど冷静ではないようだ。その証拠に、丁寧語が取れてしまっている。

 彼女はこの期に及んでスカーレットの存在を仄めかして逆に威圧しようとしてきたのだから、往生際の悪さは鈴谷と遜色ないのかもしれない。だが、メイドが孤立しているのは明白だった。

 

 マリーナ湾の上空をメイドが戦艦を背負って飛んでいる間、鈴谷が最も警戒していたのがスカーレットからの助太刀で、曲がりなりにも「提督」として着任していたのだから、自分の手下と“お友達”がどれ程危機的状況にあるか、吸血鬼には分かるはずだった。にもかかわらず何の支援もなかったのだから、既にスカーレットとその一味は、メイドを残してシンガポールを去ったと見て良いだろう。何しろ昨日あれだけ派手に暴れたのだから、これ以上シンガポールに潜伏し続けるのは難しい。

 こけ脅しを見破った鈴谷は彼女が自分の術中に嵌っていることに気を良くし、反論を無視して続けた。

 

「分かってる? さっきも言ったけど、昨日『赤城』がどうなってたかを知ってるのは、今のところ本人と鈴谷だけなんだよ。何しろ、この目で見たからね。深海棲艦になったっていうのは、それだけで重罪なんだ。ついでに言えば、そうなった、あるいはそうなりそうな艦娘を見付けて始末するのも鈴谷の仕事の内なんだよねぇ。だから、明日からも『赤城』が生きていられるようにすることも出来るし」

 

 

 メイドが目の前から姿を消すのと、鈴谷が左手で飛行甲板を持ち上げて胸と首を守り、右腕を後ろに振るのは同時だった。

 

 

 

 

「すぐに処刑しちゃうことも出来るわけさあッ!!」

 

 怒鳴りながら背後に現れたメイドを迎撃する。拳銃が火を噴き、攻撃が読まれたことに意表を突かれた十六夜の肩を掠めた。顔に動揺が現れたのは一瞬で、自動拳銃がブローバックするわずかな間に姿を消して逃走した。

 失敗したか、という懸念は、彼女の姿がマーライオン像の陰に見えたことで払拭された。逃走ではなく、態勢を立て直すための一時的な撤退らしい。

 

 いいよ、そう来なくっちゃ!

 

 アドレナリンが脳内に充填されていくのを自覚しながら、鈴谷は笑う。全身の神経が一斉に騒ぎ出したような興奮が身体を支配し、居ても立ってもいられずに海を蹴ってマーライオン像の前に回り込む。メイドもその動きに対応したのか、すぐに姿を消した。

 今度こそ、彼女が逃げたわけでも撤退したわけでもないと確信した鈴谷だが、次の攻撃を直感で察知することは出来なかった。それでも、反射的に身を屈めて攻撃の回避に徹する。

 

 頭上をナイフが一閃した。宙に浮いたメイドに向かって発砲。だが、その時には彼女はもう居ない。顎に衝撃を食らって、加えられた応力により強制的に顔が天を仰ぐ。脳が揺さぶられて視界が明滅する中、無我夢中で左の太ももに装着させている主砲塔を旋回、海面に向けて発射した。

 

 間近で響く轟音と風圧、足元から突き上げるような波が盛り上がり、マーライオン像の倍はあろうかという巨大な水柱が立った。艦娘である鈴谷だからこそ至近弾には耐えられるが、生身の人間なら風圧、というより衝撃波で身体がバラバラになっているだろう。頭上から滝のように海水が降ってくる。

 メイドがやられたとは思えない。暖機していた機関と航行艤装の推進装置を接続して動き出す。こんな陸の近くで主砲を放つことになるとは思わなかったし、したくなかった。今の発射音と着弾の轟音で野次馬が集まってくるだろう。それはあまり好ましいとは言えない事態である。

 よって、鈴谷は陸地から離れた。完全に敵意に囚われている十六夜は追い掛けて来るだろうから、即座にスピードに乗り、マリーナ湾の中心方向へと向かう。タブレット端末を操作して片眼式のヘッドマウントディスプレイに上空の無人ヘリに搭載されたレーダーの画面を表示、メイドが追いついて来たかを確認する。

 

 と、そこで鈴谷は奇妙なものを目にした。

 レーダー画面を移動する自分自身を表す塗り潰された三角形のフリップ(光点)。そこに薄ぼんやりと別のフリップが重なるように表示される。

 初めて見る現象だった。それが何を意味するかを考察する前に、野性的な“勘”とも言うべき強い危機感により、鈴谷は背後に飛行甲板を振る。本来そのように使う物ではないが、鉄の塊であるから素材自体が持つ硬さによってある程度物理的な衝撃を阻止することが可能だ。例えば、刃物での斬撃など、である。

 金属と金属を打つ音が鳴り、飛行甲板を通じて軽い衝撃が腕に伝わってくる。振るわれていたのは、刃渡り30㎝はあろうかという大振りのバヨネットだった。人間の肉を骨から削ぎ落とすには十分な威力を持つ凶器。その狙いは明らかに鈴谷の首筋だった。

 

 先程もそうだ。人口ツリーの屋上バーで襲われた時も、メイドは明確に鈴谷の首の付け根、もしくは後頭部を狙って来た。これが偶然ではないのなら、メイドは何らかの理由があってその場所を狙っていることになる。確かに後頭部は急所の一つだが、もっと狙いやすい場所は他にもあるし、何度も同じところを狙って来るならいくら時間操作能力を絡めて攻撃しようとも、段々手が読めてくる。当然、メイドはそのリスクを承知しているだろう。それにもかかわらずこだわるということは、強い理由があるからだ。そして、鈴谷の想像力が及ぶ限り、その理由というのは一つしかないように思われた。

 

 ――脳内チップか。

 

 「艦娘脳波リンクシステム」の核とも言うべきのが、鈴谷の後頭葉と頭蓋骨の間に差し込むように設置された脳内チップである。チップは複数あり、それぞれ「読み出し」用と「書き込み」用に分かれているが、いずれも後頭部に位置している。このチップの存在が鈴谷のBMIが高侵襲性であることの何よりの証だった。

 無論、外部からの衝撃が加わればデリケートな部品であるから簡単に壊れてしまうし、破損したチップが脳内に残留していると持続的に脳出血や脳ヘルニアを引き起こす原因となるだろう。もし、メイドが本当にチップを狙って来ているのだとしたら、なるほどなかなか的確なものである。

 だが、そうすると大きな疑問が生じる。どうして彼女は脳内チップのことを知っているのかという点だ。

 

 ただし、状況が状況だけに鈴谷はこの疑問について答えを考えるのを後回しにせざるを得なかった。言うまでもなく今は交戦中であり、じっくり考え事などしていればあの大きなバヨネットによってなます切りにされてしまう。あんな物、世界一武器類の所持に厳しい日本でなくとも、大抵の国で所持は違法だろう。

 

 そしてもう一つ、むしろこちらの方が鈴谷の興味を惹く事柄がある。

 シャドウだ。レーダー画面に現れたシャドウ。

 

 通常、レーダー画面がこのようなシャドウを映すことはない。真っ先に考えられるのは故障や不具合の類であるが、そうでないことはすぐに判明した。

 再び、ヘッドアップディスプレイのレーダー画面にシャドウが映る。それは鈴谷の進行方向に現れた。ほぼ同時に、目の前に無数の光る何かも出現した。

 驚きに声を上げることさえ出来なかった。避けようとして避けられるものではない。鈴谷はその時艤装の推進力を使って前方に二十ノット程度の速度で進んでいた。路肩を走っているロードバイクよりやや早い程度の速度だが、波もありそれなりに重量のある艤装を背負って走っているのであれば、慣性の法則により当然すぐには止まれないし、急に舵を切っても転ぶだけ。さほどの速度ではないとは言え、抵抗の強い水面にそのまま倒れ込めば頑丈な鈴谷自身は負傷しなくとも装備が破損する恐れは大いにある。デリケートな電子機器が多いのだ。

 かと言って、しゃがんで避けることも出来なかった。何しろ、それらはご丁寧にも何本かが下から突き上げるようにして鈴谷に向かうように“配置”されていたのだから。

 無数の、刃が煌めく鋭いナイフ。刃先をすべて鈴谷の身体と向かい合うように“配置”されたナイフが空中に並んでいる。誰がそんなことをしたのかは明白だったが、問題はどう対処するかだった。考える時間も避けるスペースもない。

 身を縮めて少しでも見掛けの表面積を小さくし、両腕で頭と胸を同時に庇う。飛行甲板という“盾”を身体の前に持って来る余裕さえなかった。

 痛みというより、腕や太ももに無理矢理ねじ込まれるような異物感の方が強い。自らの慣性と鈴谷の慣性によって相対速度が高められた結果、ナイフは深々と艦娘の身体に刺さった。それも、一つや二つではない。両手の指で数えてもまだ足りないだろう。

 けれど、急所は外していたし、元より頑丈さには自信のある鈴谷は気にしなかった。そんなことよりも、ヘッドアップディスプレイのレーダー画面に生じた三度目のシャドウの方が余程重要だった。それは鈴谷を現すフリップに重なるように現れる。真上ではなく、若干右寄りに。

 

 シャドウの正体には勘付いていた。

 メイドは自分の能力に絶対的な自信を持っているだろう。そりゃそうだ。「時間を操る」なんて、他に出来る奴はこの世に居ないに違いない。けれど、だからこそ彼女は鈴谷の動きへの対応が遅れた。勘では見破れないと思っていたであろう攻撃を、鈴谷が迎撃したからだ。巨大なバヨネットを振り、鈴谷の身体のどこかを破壊しようとしていたメイドに銃を持ったままの右手を裏拳で叩き付ける。

 殺さない程度に軽く。もっとも、ナイフが全身に突き刺さった状態ではあまり力を込められなかった。それでも十分意味のある攻撃にはなる。反応しきれなかった十六夜は裏拳を顔に食らい、反対方向に吹っ飛んだ。

 碌に力が入っていなかったので、今ので首の骨が折れたりはしていないだろうが、顔面から伝わった衝撃は確実に脳を揺さぶったはずだ。自らの身一つで宙を飛べる幻想郷住人であっても、意識を飛ばされれば当然墜落してしまうものらしい。ましてや、艦娘と違って艤装による浮力の提供を受けられない“ただの”人間である十六夜には、海面に落ちた時に浮かぶ術がなかった。

 

 メイドを捕まえる絶好のチャンスだったが、さすがに先に刺さったナイフを抜かないとまずいので、手早く抜いていく。痛みには慣れている。歯を食いしばりながら十数本のナイフを抜いて海に捨てると、まだメイドはその場に浮いていた。ところが、ようやく身柄を拘束しようと鈴谷が手を伸ばした時には、運良く目を覚まして海に落ちたはずのメイドはそこに居ない。けれど、鈴谷は焦らなかった。

 メイドがどこに行ったかはレーダー画面を見ればいい。原理は不明だが、彼女が「時間を操る」能力を発動して移動した時、移動の直前、移動先に妙なシャドウが現れるのに気付いたからだ。どうしてそんなことが起こるのか素人なりに見当をつけてみるとする。恐らく「時間」に関わる能力だから何らかの形で量子に作用し、それがレーダー波を構成する光子にも影響を及ぼした結果、シャドウとして発現したのかもしれない。

 重要なのは原理ではないし、そんなものは後でじっくり考察でもすればいい。今重要なのは、それによってメイドの動きが読めるようになったという点に尽きる。同様の現象に気付いてから、二回目にそれを目にした時は半信半疑だったが、三回も見れば確信を抱くには十分だった。シャドウの出現とメイドの能力使用のタイミングが一致することに気付けば、二つの事象がリンクしていることを理解するのに時間は必要ない。

 

 メイドの動きには明らかな動揺が見て取れた。彼女が次に現れたのは鈴谷の背後の少し離れ位置だったが、航巡はすぐに振り返らずに上空で待機していた瑞雲を動かす。振り返れば彼女は鈴谷が自分の動きを読めることを察するだろう。そうすると、理由はどうあれ鈴谷が自分の動きを分かる前提でメイドは次の行動を決めるだろうし、それではせっかく得たこの大きなアドバンテージが無意味になってしまう。だが、“どこに移動したか気付かないふり”をすれば、先程の一撃も勘によるものかもしれないと思うはずだ。不正確な状況観察による誤った情勢判断の結果、メイドの意思決定と行動も不適切なものになる。特に、動揺を見せて動きを止めるなど致命的だ。

 

 ところで、瑞雲はただの水上機ではなく、それなりに武装可能な機体だった。装甲の薄い敵の小型艦なら、爆撃で十分撃沈出来るくらいのペイロードがあったし、もちろん先程用いたように機銃掃射も可能で、何かと使い勝手がいい。速度が遅いのと機動性があまり良くないのが欠点だが、空戦をするのでなければそれはあまり気にならない。特に、止まっている目標に牽制を行うのには十分であった。

 メイドは気付いていない。脅威は鈴谷自身だけでなく、手足のように操れる頭上の艦載機にもあるのだということを、艦娘について深い知識がないであろう彼女には分かりっこない。着弾の衝撃で戦闘能力を奪ってしまえばこちらの勝ちだ。

 だから、鈴谷は自分が勝利まであと一歩のところに居ることをその瞬間まで信じて疑わなかった。疑う要素など何もなかった。気付かなかったのは鈴谷の方だったのに。

 

 

 メイドは脅威の数をちゃんと把握していたのである。鈴谷がそのことを理解したのは、瑞雲がすべて撃墜され、自分の意識とパイロット役の妖精との接続が遮断された時だった。艦載機のコントロールが突然手の中から零れ落ちる不愉快な感覚。よく知っているし、だからこそ瞬時に何が起こったのかを把握したが、どうしてそうなったのかが分からなかった。

 反射的に顔を上げれば、無残に破壊された瑞雲の残骸が空から降ってきていた。だが、鈴谷はそんな光景をぼんやりと見上げている場合ではなかったのだ。

 

 どん、という衝撃を受ける。肝臓の辺りに焼けるような感覚があって、見下ろすとちょうど該当の個所の制服が本来の色を失ってどす黒く染まっていた。

 

 全身からが力が抜けていく。痛みという痛みを感じないのに、立っていられなくなった。こういう場合、艦娘本人に代わって姿勢制御を行うのはその艦娘の艤装である。どんな艦娘の艤装にも付いているパワーアシスト機能がそうさせるのだ。

 例によって鈴谷もその場に倒れ込むことはなかったのだが、さすがに腹を刺されて平気ではいられなかったし、直感で「おかしい」と確信するだけの“異常”があった。傷は深く確実に内臓を傷付けていて、服を絞れるほどの出血がある。普通の人間なら余命幾ばくもなくなるような致命傷だが、幸か不幸か艦娘である鈴谷はこの傷であっても死ぬことはない……のかもしれない。

 

 いや、少し前までならそこは断言出来ていただろう。しかし、今はそうではなかった。

 傷の治りが遅い。大量のナイフで刺された時の傷はさっそく塞ぎ始めていたが、鈴谷の基準で言えば「時間が掛かりすぎ」ている。

 

 艦娘の中には、常人には不可能なことが可能な者が存在するのは知られた話だ。艤装のパワーアシストを受けられるとか、水面に立てるとか、そういったことではない。その艦娘個人に属する“体質”のようなものであろうか。例えば星月の明かりだけで夜でも昼のように見ることが出来たり、音速を越える砲弾を目で追えるような動体視力を持っていたりと、常人には不可能な類の能力である。

 こうした能力、あるいは“体質”はいずれも艦娘になった瞬間に獲得されるものらしく、艦娘になる前の素体本人の身体能力に起因するものではない。鈴谷もその内の一人だった。鈴谷の場合、その身が得た能力は尋常ならざる回復力だ。

 

 元より、修復材を浴びればどんな致命傷でも治癒するのが艦娘だが、鈴谷には修復材ですら不要だった。例え頭を切り落とされようとも瞬く間に元に戻るし、もちろんそれで死ぬことはない。どれ程高威力の攻撃を受けようとも、たちどころに回復してしまう化け物じみた能力なのだ。

 自分が異質な力を得たことを初めて知った時には大いに戸惑ったものの、それが非常に有用であることに気付くと戸惑いは綺麗さっぱりなくなり、反対に回復能力に対する深い自信を持つようになった。深海棲艦の攻撃など何も怖くないし、電車に轢かれようが大量の放射線を浴びようが(そんな経験はいずれもないが)、それで自分が死ぬとは全く思っていない。完全な不死ではないにしろ、この世界で誰よりもそれに近い存在だという確信がある。

 

 だからこそ、メイドの攻撃が大量の出血を強いた時もさしたる危機感はなかった。鈴谷らしいとても簡単な物言いをすれば「すぐ治るから気にしない」である。

 が、事実は予想に反しており、傷は鈴谷が想定していたよりもずっと治りが遅かった。数は多かったが致命傷が一つもなかったのと、傷の修復に伴って血液の再生産も行われているようだから貧血で判断力が鈍るようなことがなかったのは幸いだった。

 ところが、今度は洒落にならない。刺されたのは肝臓であり、常人なら即死を免れないような急所で、艦娘でも致命的になる部位だ。メイドは正確にそこを狙ってきた。偶然ではないだろうし、一撃で重要な臓器を破壊することが出来るようになるには余程人体の構造に熟知していなければならない。鈴谷が死ななかったのは艤装を身に着けていたことと、特異な回復力を持っていたからに過ぎなかった。その鈴谷をもってしても肝臓への一撃は致命傷と呼べるくらい重大で、戦闘不能に陥ってしまう。

 

 

 殺されると思った。

 自分自身の生命への執着はさほどない。熊野を喪ったあの日から、鈴谷はずっと生ける屍に等しい存在に成り下がっていたから、今更本当の屍にされること自体にはどうとも思うことはない。だから、メイドに殺されることに対して抵抗したのは別の理由があったからだ。鈴谷は、熊野を生き返らせる方法がある可能性を探っていた。それを得るためにメイドと戦っていた。そういう理由があるなら、今、命を手放すのはとても都合が悪い。

 

 とは言え、回復力が完全に失われているわけでも阻害されているわけでもない。刺された傷を手で抑えつけて圧迫止血を試みる。場所が場所だけにそれだけで止血するのは無理だろうが、かといっていたずらに血液を失うのは賢明なことではない。メイドを含め、幻想郷の住人たちはこの世に非ざる力の使い手である。メイド自身の能力が時間操作に関するものであるなら、鈴谷の回復能力に何らかの干渉をして治癒を遅らせていると思われるのはその道具、すなわち彼女の武器たる刃物であろうか。ナイフやバヨネットに何らかのからくりがあるのかもしれない。

 傷口を左手で塞ぎ、さらにその上から拳銃を持ったまま前腕を押し付けて圧迫する。とめどなく溢れ出てくる自分の血で左手の感触が気持ち悪いし、抑え切れない血液が右の手首から滴となって海に落ちていく有様だ。それでも、鈴谷の化け物じみた回復力はこの傷をも少しずつ治していく。

 

 両手が塞がり、脱力して艤装の力でその場に“立たされている”だけの艦娘。誰がどう見ても無防備な獲物だった。実際、鈴谷には抵抗する力などなかった。

 再び、レーダー画面にシャドウが現れる。メイドの次の攻撃。当たり所が悪ければ今度こそ本当に死んでしまうかもしれない。

 鈴谷は目を閉じる。腕には力が入らず、牽制のために拳銃を持ち上げることすら出来ない。

 

 

 

 

 ――さあ、行きますわよ。鈴谷――

 

 懐かしい声が聞こえた。きっと、気のせいだろう。

 

 

 いつも自分の前を行っていた同じ制服姿。優秀な彼女はよく旗艦を任され、そういう時は鈴谷が必ず二番艦になった。

 

 誰よりも近くから熊野を見ることの出来る場所。無線で飛んで来る指示を一言も聞き漏らさないように真剣に聞いている横顔も、高く結われたひと房の髪が潮風になびくのも、すらりと長い指が艦隊の随伴員に敵の位置を示すため伸ばされるのも、主機が鳴らす騒音の中でもよく聞こえる独特で力強い喊声も。全部目の前の熊野の姿だった。

 

 簡単に手折れそうなくらいほっそりした身体で、不安になるくらい華奢な背中で、熊野はいつも迷うことのない航跡を残しながら進んでいた。鈴谷は彼女を追い掛けるばかりだった。

 

 

 あの子はとっくに沈んでしまったはずなのに。……いや、生き返らせようとしているんだっけ。

 

 

 

 

 

 

 乾いた銃声が響く。予備動作を勘付かれないように、腕を組むようにして右手の拳銃を左の脇に差し込んで射線を通す。

 目暗で撃った不意打ちにしては上出来だった。背後で重い物が落ちた水音がしたのを聞き、鈴谷は自分の足で立ち上がる。メイドの武器にどんなからくりがあるにせよ、それは鈴谷の回復力を完全に喪失させる程度のものではなかった。遅々としながらも確実に傷は塞がり、血は補充されていったのである。

 振り返れば撃墜されたメイドが海面でもがいていた。狙って得た結果ではない。肝臓を刺されて死にかけていたのは事実だし、身動きが取れなくなったのも隙を見せて攻撃を誘う演技というわけでもなかった。気が付けば身体に力が戻っていて、どうにか追撃を妨害しようと牽制を撃ったら、偶然命中したらしい。だからこそ、メイドにもこの結果は予想出来ず、彼女は失態を演じることになってしまったようだ。

 お得意の時間操作能力で逃げなかったところを見るに、傷は浅いものではないのかもしれない。必死で手をばたつかせて浮かんでいるのは、一見すると水で戯れているようだが、そう判断するのは誤りである。これは溺れているサインであり、このまま溺死されても困るので、銃を持っていない左手でメイドの腕を引っ張る。ところが、左手はまだ自分の血でべっとりと濡れていたので、メイドの腕はぬるりと滑ってしまった。それでさらに吸血鬼の手下は無様に沈みかけてしまうので、慌てて左手を海面に突っ込んで血を洗うと、もう一度、今度はしっかり腕を掴んで引っ張り上げた。その間、銃口を彼女に向け続けることはもちろん忘れない。

 十六夜咲夜は抵抗しなかった。理由を探して彼女の身体を確認すると、左の脇腹で服が黒くなっている。恐らくは血の染み。致命傷ではないが、重傷であろう。戦闘能力を奪うには十分な一撃が入っていたようだ。目にはまだ敵意が残っているが、眼光に鋭さはなく、表情にはどちらかと言うと疲労と苦痛が現れている。

 鈴谷とてまだ十分に回復し切れていないが、圧倒的に優位な位置にはいる。時間を操る能力の底が知れないので、まだ何をしてくるか分からないし警戒しなければならないが、“ただの人間”であるからこそメイドの限界は目前に迫っているのが明白だった。もちろん、火事場の馬鹿力という言葉ある通り、追い詰められた人間が底力を発揮して思わぬ反撃を繰り出してくることは十分考えられる。だからこそ、必要以上に相手を追い込むのは却って危険を招くし、捕まえるならさっさと気絶させた方がいい。

 

 この人間は情報の塊なのだ。スカーレットの目的に、能力や鈴谷の回復力を奪った武器のからくりなど、聞き出したいことは山のようにあるし、スカーレットとの取引にも使えそうだ。

 

「大人しくしてなよ」

 

 鈴谷はメイドの腕を中途半端に引っ張り上げ、あえて彼女の下半身が海に浸かるようにしていた。負傷による出血と戦闘での疲労が蓄積されている上に負荷の強い姿勢に固定されていることによる体力の逓減が彼女から確実に抵抗の意志を奪っている。鈴谷に掴まれていない方の手を傷口に当てて圧迫止血を試みている十六夜は、恨みのこもった眼で航巡をねめつけているが、いかんせん視線に迫力がない。そんな彼女にゆっくりとした口調を心掛けながら話し掛ける。追い込むだけでは土壇場の抵抗を誘発するので、こうして逃げ道を用意してやるのも一つの手だ。

 

「暴れなきゃ、こっちもこれ以上乱暴には扱わない。だけど、抵抗すれば鈴谷はすぐに撃つからね。話を聞かせてもらえなくなるのは残念だけど、死体からも得られる情報ってのはいっぱいあるから」

 

 分かった? と尋ねてみるが、メイドの顎は微塵も動かなかった。喋ることはおろか、頷くことすら拒否しているようである。もっとも、鈴谷も彼女から今何か芳しい反応を得られるとは考えていなかった。

 遠くからはヘリのローター音が聞こえてくる。先程、鈴谷の艤装を運んで来てくれたマーライオン3が戻って来たのだろう。マリーナ湾で鈴谷が戦闘に突入した場合、基地に引き返したヘリが応援を運んで再び来る手筈となっていた。その応援が、昨日砲口を向け合った相手であるかは定かではない。昨日の一件があり、近隣のリンガ基地に出張していたシンガポール基地所属の別隊が戻って来ていたので、そちらが来た可能性もある。鈴谷としてはなるべく江風とは顔を合わせたくなかった。

 

 ともあれ、これで状況は沈静化する。連絡はないが、陸では村井たちがウォースパイトの捕縛を完了させている頃合いだろう。戦闘中にその連絡があって集中を切らすのが嫌なので、余程緊急のことでなければ鈴谷が戦闘に入ったら連絡をしないように彼には頼んであった。もっとも、鈴谷は万に一つも彼がしくじるとは考えていないので、例え連絡がなくとも何の心配もしていないのだが。

 ヘリの音はメイドの耳にも入っただろう。それに対するリアクションなのか、それまで黙って鈴谷を睨むばかりだった彼女に動きがあった。と言っても、わずかに口を開いて苦しそうな息を吐き出したくらいである。ただ、彼女はその口を閉じずにそのまま喋り出した。

 

「お嬢様が、貴女たちの妨害について、何もお考えではないと思う?」

 

 痛みと疲労で息は切れ切れだったが、メイドは何かしらの強い意志を持って話し始めたらしかった。鈴谷はこの言葉には特に反応を示さない。先程はこちらの話を無視していたのに、どうして急に話し出したのか、その意図を計りながら会話に乗るかどうかを逡巡していたからである。

 

「お嬢様の目的は、あの『加賀』という艦娘を、治癒すること。それを、妨げる者が居るなら、お嬢様は一切容赦しない」

 

 どうやら、親切にも警告を発してくれているようだ。もちろん、それだけではないだろうから、ひとまずメイドの会話に応じることにした。笑いながら肩をすくめて、「そりゃあ、怖いね」と応えてみる。

 

「お嬢様のことを、過小評価しすぎよ。貴女たちでは束になってかかっても敵わない」

「そうなんだ。そんなに強い奴なら、正体を暴かれたくらいで泣きべそかきながら逃げ出したりしないはずだけど。じゃあ、二年前にうちの鎮守府に潜伏していたのがバレて追い出されたどこかの誰かさんは、あんたのご主人様とは別人だったのかな?」

 

 メイドの視線にはっきりと殺意が宿る。鈴谷は、ちゃんと“打って響いた”ことに気を良くした。

 

「理由があるわ」

 

 だが、気を取り直したのか十六夜咲夜は不敵な笑みを浮かべる。

 

「無知な貴女には分からないのでしょう。自分が何者なのか、艦娘とは何なのか、貴女と貴女の仲間たちはまるで分かっていない」

 

 吸血鬼の手下は笑みを濃くする。最早その口元には隠し切れない邪ささえ見て取れた。

 意味が分からない。まるで、メイドは艦娘の正体を知っていると言わんばかりだ。

 

「自分の中に流れている血の味を知っている? どうして艦娘が生まれたのかを知っている? どうして海の上に立てるのに、生身では泳げないのかを知っている?」

「何が、言いたいの?」

「哀れね」

 

 表情を一転させ、メイドは吐き捨てるように短く言い切った。こちらを煽るような笑みは引っ込み、代わりに抑え切れない感情が表れている。

 

 憎悪、いや、嫌悪。

 この世で自分が一番嫌いなものを目の当たりにした時のように表情を歪め、メイドは掠れながらも、溢れる感情の籠った声で怒鳴り始めた。

 

 

「哀れだと言っているのよ!! 自分が何たるかも知らない、世の理も分からないくせに、その力の恩恵だけは受け取る卑しいお前たちが! 

知らないようだから教えてあげるわッ! お前のその体の中には、お前が仇を為そうとしているレミリア・スカーレット様の血が流れているのよ!! お前たちは所詮、お嬢様のまがいもの。その血を分け与えられて、限られた力を振るうことしか出来ない複製品。そんなものが、本物のお嬢様に敵うわけがないでしょうがッ!!

艦娘っていうのはねえ、精霊魔法と境界を操る程度の能力を掛け合わせ、その力に対して人体に親和性を持たせるために希釈されたお嬢様の血を注入された人間たちのことよ。だから、お前たちは水面を境界としてその上に立てるし、その代償として水に浮けなくなった。お前のその回復力も、お嬢様に由来するわ。

私の武器が刺さった傷は治りが遅かったでしょう? 理由を教えてあげる。私の武器は全て銀で出来ている。退魔の力を持つ金属よ。だから、吸血鬼の血が流れ、その力の一部を得たお前にはよく効くの! ――こういう風にねッ!!」

 

 

 メイドが絶叫する。左腕が鈴谷の身体から分離し、痛みを感じる前に胸に衝撃を受けて海面に倒れ込んだ。

 

 喉の奥から込み上げてくるものがあって、たまらずにそれを吐き出すと鉄の臭いが鼻腔を一杯に満たして、それがさらに嘔吐を促進させる。けれど、仰向けに倒れてしまったから吐き出そうとするもので喉が詰まり、息が出来なくなった。

 それでも、息をする必要はなくなったのかもしれない。何かを思う前に、視界が暗転する。最後に見たのは、鈴谷の身体を踏みつけながら、左胸に刺さったバヨネットを引き抜くメイドの姿だった。

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

「撃て! 撃てぇ!!」

 

 江風が怒鳴り、ヘリの機上整備員がドア・ガンの引き金を引く。毎分二千発以上の7.62mm弾をばらまく六連装ガトリング機関銃が、文字通り火を噴く。「ミニガン」の愛称で呼ばれるこの機関銃は、発射速度が速すぎて夜間などは銃口から火を噴いているようにしか見えないので、その発射の様子は時に「竜の吐息」と比喩されることもある。

 地上や海上の敵兵力への面的制圧には絶大な威力を発揮するこの武器は、常日頃から海賊への対処に追われているシンガポールのSH60哨戒ヘリに本来取り付けられる必要がある物ではない。「無痛ガン」と呼ばれるくらいに人間を一瞬で細切れにすることが可能なこの銃も、深海棲艦相手には嫌がらせ程度にしか通用しないし、海上警察の代行としての海賊の追跡は基本的に逮捕を目的としているので、海賊船諸共海の藻屑にしてしまうようなミニガンは過剰火力だった。それでもヘリに搭載されているのは、海賊に紛れて本物のテロリストがしばしば現れることがあり、彼らに対しては時に容赦なく発射することが推奨されるからだ。

 今回は、味方の艦娘に取り付いた不審者を追い払うのに使われた。

 最も小型の部類に入るとは言え、駆逐艦の主砲の威力はかなりのものだし、そんなものをヘリの機上で発射すれば衝撃でヘリが墜落してしまう。その点、いかな「竜の吐息」と言えど、艦娘には深海棲艦と同じく通常兵器は通じないので、ミニガンは悪い選択肢ではなかった。誤射してしまっても傷付ける恐れはないので、安心して撃てるというわけだ。

 

 銃身の回転音と発射音が混じり合った特有の音が響き、排出ベルトから薬きょうが滝のように海に落ちていく。鈴谷の周りの海面に小さな水柱がカーテンのように立ち上がると、航巡の上に立っていた不審人物は姿を消した。嵐の見間違いでなければ、彼女はそこから“消えて居なくなった”。

 

「消えた!?」

 

 嵐が驚いて頓狂な声を上げると、江風が「撃ち方止め」と怒鳴る。ヘリはすぐには高度を落とさず、上空を旋回し出した。そうして、不審人物が再び襲って来ないか警戒していたが、あまり時間を掛けると下の艦娘が無事ではなくなる可能性もあるので、江風がパイロットに合図を送り高度を下げさせた。それでも、普段ヘリから海に飛び降りる高度よりはずっと高いし、速度も出ている。危険な試みだが、戦場で危険でないことは何もないので、江風は自分に続いて飛び降りるように嵐と萩風に言い、そしてさっさとヘリから海に身を投げた。

 

「萩、行くぞ」

 

 僚艦に声を掛け、嵐も意を決して空中に躍り出る。すぐに重力に捕まり、そのまま海面まで引き込まれて派手な水柱を立てることになった。艤装の浮上機能が作動して、海面下に沈んだ嵐の身体を押し上げる。背後で同じように大きな音がしたので、萩風も無事飛び降りたのだろう。

 すぐに主砲に装填されていた照明弾を撃ち上げる。先に行った江風は探照灯を回転させて周囲を警戒しているようだ。

 

「嵐は鈴谷の下に向かえ。容体を報告しろ」

「了解っす!」

 

 周辺警戒は上空を飛び回っているヘリと僚艦たちに任せ、指示の通り鈴谷に近付く。照明弾が光を放ち、浮かんだまま波に揺られる艦娘を照らし出した。

 ぴくりともしない。波間を漂っている浮遊物と見間違いそうになる。

 鈴谷に近付くと、海面に少し色の違う部分があることに気付いた。その理由を探ろうとして足元に視線を落とす。息を飲む。

 

 道理で動きがないわけだ。鈴谷を中心として、彼女から流れ出した膨大な量の血が海を染めているのだ。頭に装着したヘッドライトを着けて鈴谷に光線を向ける。血が流れ出しているのは彼女の胸からだった。

 絶望的な気持ちになりながらも、言われたことはその通りにしなければならず、最早動くことのない航巡の身体に触れる。昨日会ったばかりだが、一度は会話した相手が変わり果てた姿になっているのは、正直に言って直視に堪えなかった。半ば諦めながら顎の付け根を圧迫して脈を確認する。左側と右側、どちらを確認しても良かったのだが、右側は口から溢れ出た血でべったりと汚れていたので、左側を抑える。案の定、脈はなかった。

 見れば分かることだ。ミニガンで追い払われる直前、倒れ込んだ鈴谷の上に立っていた人物は、その胸から何かを引き抜く動作を見せていた。今更、それが何だったか考える必要はないだろう。

 

「嵐、どうした? 報告しろ」

 

 無線から嚮導艦の声が飛び込んで来て我に返る。

 

「あ、いや。鈴谷さんですけど、脈がありません……」

 

 こういう場合、どう言っていいか分からなかった。自分の知っている人が目の前で死に、それを誰かに報告しなければならないという経験は初めてだったのだ。嵐は戦場に出ていたが、艦娘は滅多なことでは死なないし、仮に死んだとしても死体が残る死に方はしない。頭を吹き飛ばされても艤装が生きている限り死にはしないというのはよく言われることだが、嵐は実際にそのような場面に遭遇したことはない。萩風が深海棲艦に堕ちる瞬間は見たことがあったが。

 

「し、死んでます」

 

 自分で言って後悔した。その言葉を発したが故に、本当に鈴谷が死んでしまったような気がしたからだ。

 

「そンなわけあるかよ!」

 

 だが、江風に一蹴される。

 間もなく主機の音が近付いてきた。探照灯を切り、周囲の警戒を終えた嚮導艦だった。脅威は去ったと判断したのだろう。

 

「見せろ」

 

 鈴谷の傍にしゃがむと、血で汚れるのも厭わず、江風は脈を計る。そして、嵐と同じことを知ったのだろう。だが、そこからの反応は真逆のものだった。

 

「おい、起きろ!」

 

 昨日の一件があったためか、江風には容赦がなかった。軽く、ではなくそこそこ力を込めて鈴谷の頬をはたく。それでも、力のない航巡は当然何の反応も示さなかったし、虚ろな目が動くこともなかった。

 鈴谷は本当に死んでしまったのだと思った。

 

「艦娘はこの程度じゃ死なねえ。だが、血を流しすぎてンな」

 

 嚮導艦はそう呟いてから無線でヘリを呼ぶ。大至急、基地に搬送するように指示を出していた。シンガポール基地には、最近流行りの緊急修復材が置いておらず、当然嵐たちも持ち合わせていないので、この場で鈴谷を回復させることが出来ない。それがあれば、注射のように打つことで彼女の体内に薬材を流し込み、損傷を修復させることが出来ただろう。

 最後に萩風もやって来て、彼女は鈴谷を見るなり小さな悲鳴を上げたので、嵐は立ち上がった。親友にあまりショッキングな光景を見せないよう視界を遮るのと、ショックを受けたであろう彼女を慰める必要があった。

 

「大丈夫なの?」

 

 萩風もなるべく鈴谷を視界に収めないようにしているのか、嵐に目を向けて尋ねた。

 

「江風さんは死んでないって言うけど」

 

 訊かれたところで、嵐にも答えようがない。どう見ても鈴谷は死んでいたが、艦娘は沈まない限り死なないというのが定説だ。それどころか、沈んだからと言って必ず死ぬわけでもないのは嵐たちが身をもって証明している。

 

「大丈夫、よね?」

 

 答える代わりに、震える萩風の手を握ってやる。ヘリのローター音が近付いて来たので、振り返ると背後で江風が誘導棒を振りながらマーシャリングを始めていた。

 それを見ながら、嵐はもうこりごりだと思った。

 

 昨日の晩から、異常なことが続いている。ブラニ島での出来事は消化出来そうにないし、今晩だっておかしなことの連続だ。そもそも、鈴谷はどうしてあの不審人物と戦っていたのだろうか。深海棲艦でもない、昨日の“恐ろしい存在”でもない何かと、彼女はマリーナ湾で戦闘になった。夕食後にそれを知らされ、慌てて艤装を装着してヘリに飛び乗ったのが十分ほど前のことだ。

 いい加減、嵐は疲れてしまった。これなら、海賊を追い払うだけの変わり映えのない毎日を過ごしている方が余程ましである。深海棲艦と戦いたいわけではないが、自分の理解の範疇を越える出来事に翻弄される一方なのはもうたくさんだ。

 これで終わってほしいと、切に願う。ヘリのサーチライトが三人の居る場所を照らし出す。光が目に入らないように顔を背けた嵐の足に、何かが触れた。

 

 ぞっとするほど冷たかった。

 

 一瞬、海の底に居た頃を思い出す。その時も常に隣に居てくれた萩風。今の彼女の手は血の通った温かさを持っているが、当時の彼女は氷のように冷たかった。嵐も同じようなものだっただろう。

 足から伝わってきた冷たさは、その頃のことを思い出させた。あまりにも突然のことで、抑止する間もなく驚きが口から飛び出す。

 直後、嵐は僚艦に引っ張られ、バランスを崩して彼女の身体にもたれ掛かる格好になってしまった。萩風は友人を庇うように一歩踏み出して身体を前に出すと、主砲を構える。同じように、ヘリの誘導をしていた江風もそれを中断して主砲を下方に向けた。

 

 

 その砲口の先、嵐に向かって手を伸ばしていたのは、「死んでいた」はずの艦娘だった。未だ海面に横たわったままだが、彼女は血に濡れた口を開き、嵐の方を向いて手を伸ばしている。その手が、足に触れたのだ。

 かすれた声で彼女が何事かを呟く。だが、吐き出した血がまだ喉に残っていたのか、それは声にならない声だった。言葉の代わりに湿った音がして、伸ばされていた手が海面に落ちる。

 死体に対して耐性はなかったが、相手が生きているなら話は別なのだろう。主砲を向けるべき脅威が何もないことを理解した萩風の行動は迅速で、すぐに鈴谷の傍によってその身を助け起こした。

 

「俯せにして血を吐き出させろ」

 

 ヘリの誘導に戻った江風が指示を飛ばす。萩風は鈴谷をひっくり返し、背中を擦った。嵐はその様子を呆けて見ているだけだった。

 江風の言った通り、鈴谷は死んでいなかった。だが、それは重要ではない。

 

 彼女はさっき、何と言ったのだろうか。言葉をはっきり聞き取ることは出来なかった。自分の血で溺れ掛けていた鈴谷は、まともに言葉を発せられる状態ではなかったからだ。

 しかし、音を聞き取れなかったものの、嵐には鈴谷が何を“言った”のかが分かった。分かってしまった。これが嵐の脳が生み出した妄想などではないとしたら、彼女は確かにこう言ったのだ。

 

 ――熊野、と。

 

 

 聞いたことのある名前だった。

 勘違いでないのだとしたら、その名は横須賀鎮守府の秘書艦になるはずだった艦娘のものではないか? 嵐が正式に艦娘として着任した年の春、悪天候下での訓練中に消息不明になり、そのまま殉職扱いになった艦娘が、確か「熊野」と言った。

 

 どんな艦娘も、初めて艤装を背負う場所は横須賀鎮守府だ。艦娘の候補生たちは教育隊でまず基礎課程を修め、その後横須賀鎮守府に異動して訓練生となる。嵐たちが艦娘訓練生だった頃に、次期秘書艦に内定していたのが熊野だった。彼女はしばしば訓練生の演習の相手になり、戦闘訓練の手ほどきをしてくれた。

 熊野は教官ではなかったが、訓練生時代に演習で先輩艦娘の部隊を破ったという伝説の持ち主で、その勇ましい武勇伝とは裏腹に落ち着いて優雅な振る舞いをする人だったから、嵐はよく覚えていた。教え方も上手だったし、秘書艦に内定するくらいなのだから実際優秀だったのだろう。そんな人が、悪天候の中で行方不明になり、そのまま帰って来なかったという出来事は、嵐の心に影を落とした。

 嵐には萩風や舞風、野分という大事な「姉妹艦」が居るように、熊野にも大切な人が居たのだろう。それは相手にとってもそうだった。熊野の場合、その相手というのが鈴谷だった。

 

 

 萩風に掴まり、顔を少し起こしてこちらを見上げる彼女の目から涙が流れ落ちるのを見る。

 それは、紅い月の夜、深海棲艦になった自分たちを助けに来てくれた舞風が、野分が、流した涙と同じものだ。大切な人を喪い、長い間その傷に苦しみ続けてきた者の流す涙だ。嵐はその苦痛を誰よりも理解している。

 舞風と野分には、最後の最後で救いが与えられた。離れ離れになったとは言え、彼女たちが助けたかった姉妹艦は戻って来れたのだ。

 けれど、鈴谷にはそんな僥倖は、なかったのだろう。それが分かったところで、嵐にはどうしようもなかった。嵐には、沈んでしまった誰かを、大切な人を喪ってしまった人を、救うことなど出来ないのだから。

 

 

 

 

 

 


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