悪の魔法使い   作:アルパカ度数38%

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大体一ヶ月ぶりですが、新作です。
タグにあるとおりエヴァの過去話で、多分全7話ぐらいに収まると思います。
エヴァがまだまだそんなには強く無い頃のお話です。




 

 

1.

 

 

 

 肌を刺すような美しい冷気が、辺りに佇んでいる。

季節は冬に入り始めていた。

空気分子が陽光を散乱し作り上げた青空の下、2人の旅人が荒野を並び歩いている。

一人は背丈が低く、そのやや後ろを行く男は平均よりやや低い背丈であった。

 

「はぁ……」

 

 背丈の低い方、エヴァンジェリンが溜息をつく。

エヴァンジェリンは足を止め、その場で四分の一回転。

フード付き外套がふわりと浮き、その中にある芸術品の如き肢体との間に空隙を作り、ブーツとズボンを覗かせた。

エヴァンジェリンはフードが上がらないよう注意深く押さえながら、視線を斜め後ろへ。

視線を受け、男が小首をかしげる。

 

 男は、脳天気そうな笑みを浮かべた、十代後半ほどの青年であった。

背丈は男にしては低めで、糸目に彫りの浅い顔をしており一件モンゴロイドに見えるも、肌の色は白い。

茶色い布地の服に若草色の外套を纏っており、砂埃が少ない今フードは首の後ろに垂れている。

外套はふくれており中に何かあるのは明白だが、外套のボタンが留まっている為中身は見えない。

旅行者らしく、手には古びたトランクを持っていた。

何にせよその顔を見るに、あまり険吞そうな雰囲気は無い男である。

これがずっと、エヴァンジェリンと同じ道を歩いていなければ。

 

「どうかしたのかい?」

「…………」

 

 これまで通り、何かあると男が声をかけてくるが、エヴァンジェリンは完全に無視。

無言で己の手を見る。

一度も日の光なんて浴びた事はありませんよ、と言っているかのような白さでありながら、血管が浮く事なく陶器のような白さの肌。

肉付きはやや薄くすらっとした物で、指を曲げるその一動作にさえ嫋やかさが垣間見え、育ちの良さを露わにしている。

それだけ見れば、エヴァンジェリンに欲情した男がついてくる絵面は思い浮かぶ物だ。

嗚呼、忍んで旅路を行く貴族の令嬢に、野卑な男の劣情が襲いかかる、どうなる物やら、とでも。

 

 ――しかし、だ。

独りごち、エヴァンジェリンは視線を己の背丈へ。

低い。

低かった。

男の胸にも届かない程の背丈は、ローティーンとの境目に位置する肉体年齢を主張している。

自然胸や尻も育ち始めたばかりで、視線を落とせば視界良く足下が見えるのが自身でも恨みがましいぐらいであった。

お陰でフードを被って声を出さねば、男児と勘違いされる事も少なくない。

何せ物騒な世の中である、旅する子供というだけで珍しいのだ、それが女子などとは想像しづらい事だろう。

 

 さて、そんな己を追いかけてくる男と言えば?

追っ手、という言葉がまず思いつくが、つい最近撒いたばかりであるし、この男からは精霊の気配を感じない、まず無いだろう。

すると――。

エヴァンジェリンの脳裏で神経細胞が発火し、走る電撃が瞬時に答えを返す。

――男児愛好者である。

恐るべき想像と共に、エヴァンジェリンは視線を男にやった。

なるほど、男はニコニコと笑いながらその開いているのかよく分からない糸目をこちらに向けている。

見ればその笑みは欲情し劣情を催した男に見えなくもないし、その感情の色を見せない目も脳内妄想を表に出さない為の作戦と思えなくも無かった。

男はあの脳天気そうな笑みのまま少年を組み伏し、男自身でその尻を貫くに違いあるまい。

身震いするような想像に、エヴァンジェリンは小さく歯を噛みしめた。

そんなエヴァンジェリンの仕草に男は首をかしげっぱなしなのだが、疑念に満ちたエヴァンジェリンはそれも警戒心を解く為の罠と映る。

 

 撒くか。

結論に至ったエヴァンジェリンであったが、取れる手段はそう多くない。

何せエヴァンジェリンは、ある集団に追われていた。

エヴァンジェリンの持つ特異な力を発揮すれば今すぐにでも撒けるが、それは男に己を印象づけ、その特異な力の存在を知らせてしまう。

男がそんな話を酒の席ででも話せば、追っ手はその広い手で情報を掴み、またもやエヴァンジェリンを追って来ることだろう。

最近盛大に力を使い、ようやく追っ手をしばらく凌げそうだと言う所なのだ、それは避けたい。

 

 すると道は1つ、ペースを上げる他無い。

休憩して男に先を行かせても良いが、待ち伏せられるとやっかいなので、エヴァは道無き道を行かねばならない。

しかも結局目指している方向は同じなのだ、街で待ち伏せされていれば苦労は意味をなくす。

ならば身体強化や山道を駆使して男よりも先に街に着き、男が街に着くより早く街を出るほかあるまい。

それでも男に印象はつくだろうが、いきなり異能を発揮して空を飛び出すよりマシだろう、とエヴァンジェリンは独りごちた。

 

 決心すると、エヴァンジェリンは己の中の魔力を流動。

軽い身体強化状態になり、足を速めた。

靴裏で凹凸の激しい道を踏みしめ、半ば走りながら道を行く。

硬い靴底が踏みならされた地面の表面を削り、鉄心入りの重さが地面を踏み固めてゆき、足音を残した。

重なる足音に、エヴァンジェリンは男がついてくるのを感じる。

やはり、変態か。

脳内で半ば確信すると同時、エヴァンジェリンは足を速める。

男もまた、下半身のコンパスの動きを早めた。

 

 奇妙な競歩は、長らく続く。

平坦だった道は次第に上り坂になり、視線の先には山へと続く踏みしめられた道が見えた。

傾斜のついた道を、エヴァンジェリンは次々に踏みしめてゆく。

エヴァンジェリンは風のような速度で、軟らかな土を避け、硬く踏みしめられた土を靴裏で蹴っていった。

時に穏やかなせせらぎの上の岩を飛んで渡り、時に今にも落ちそうな古びた橋を渡る。

まるで重さなど存在しないかのように、エヴァンジェリンは優雅に山道を進んでいった。

しかし、時折視線を斜め後ろにやると、そこには何時もにこやかな男がついてきている。

 

「大分早いペースだけど、疲れは大丈夫かい?」

「…………」

 

 見かけに寄らずタフな男だ、とエヴァンジェリンは舌打ちした。

追っ手かと思いよく”視た”が、男は自身の強化こそ行っているものの、魔力ではなく気による物である。

とすれば追っ手の可能性は無い、恐らく天然物の、化け物退治とは無関係の存在か。

それを知ってからエヴァンジェリンは強化の度合いを増したが、それに男は平気でついてきた。

気の使い手である男から離れるには、どうせ超常現象のような身体能力を発揮する必要がある。

なのでここで飛んで逃げても別に構わない筈なのだが、半ば意固地になってエヴァンジェリンは身体強化の強度を上げ、山道を歩いた。

走りだすとなんだか急いでいるようで負けた気がするので、決して走りはしない。

そんなエヴァンジェリンを、男は娘でも見るような慈愛に満ちた表情をしつつ、顔色一つ変えずに追う。

 

「急ぎすぎじゃあないかい? 早く歩けるのは分かったけど、足下の注意とかもあるんだから、ほどほどにしたほうが良いと思うよ?」

「…………」

「やれやれ、私は別に何もしないよ? 離れて待てと言われれば、きちんと離れて待つさ」

「…………」

 

 いらつく話である。

エヴァンジェリンと同程度の身体強化でついてこられているという事は、男はエヴァンジェリンと同等以上に山歩きに慣れているという事だ。

事情あって山歩きに慣れており、ささやかなプライドすらあったエヴァンジェリン。

そんな彼女であるので、自然と足を更に速める事となった。

当然のようについてくる男を従え、エヴァンジェリンは早足で先へ先へと急ぐ。

 

 エヴァンジェリンがいくら急いでも、男は平気な顔でついてきていた。

自身がどれだけ力を出しても平気でついてくる男に対し、何時しかエヴァンジェリンは口元を緩め始める事になる。

何というか、好敵手を相手にしているかのようにすら感じるのだ。

ついてこれるか、と口にはせずとも思うエヴァンジェリンに、涼しい顔でついてくる男。

エヴァンジェリンは闘志を燃え上がらせ、気化せんばかりの熱血に全身を火照らせる。

更なる速度へと到達するエヴァンジェリンに、男も矢張り顔色を変えずについてきた。

フードで隠せぬ口元に思わず笑みをもらし、エヴァンジェリンは更に足を速める。

 

 辺りが夕焼けの赤い日に染まる頃。

エヴァンジェリンは昼前に見た山を半ば踏破し、下り坂に差し掛かっていた。

流石に注意を増し速度を落とすべきなのだろうが、それでもエヴァンジェリンは負けず嫌いな性格を発揮し、速度を落とさずかけてゆく。

さて、どうだ、と男の方に意識をやると。

相変わらず涼しい顔で、男。

 

「お~い、そんな早さじゃいくら何でも危ないんじゃないかい? お~いってば」

「…………」

 

 ふと、エヴァンジェリンは、胸の内に冷めた物を感じた。

エヴァンジェリンは男なら大丈夫、ついてこれると勝手に信頼し、勝手に燃えて速度を落とさなかった訳だが、それは一方通行だったのか。

当たり前だ。

言葉も交わさず、勝手に意思が通じ合う筈などあるまい。

それが酷く子供っぽい感情である事をエヴァンジェリンは自覚していたが、肉体の幼さ故にか、その気持ちは抑えきれなかった。

なんだか哀しくなったエヴァンジェリンは、男の声を無視し駆け足で往く。

斜面を半ば走るように駆け抜け、橋は板を一本抜かしで跨いでいった。

そして川の上の岩を渡る段に至っては、一歩につき一石分渡ってゆく。

帰りの川はそれなりの広さがあり、流れも速いが、今はとにかく男と距離を離したくて仕方が無かった。

 

「おいおい、流石に危ないって!」

 

 焦る男の声に、いい気味だ、とエヴァンジェリンは次の岩に足をつけると同時、口元を歪めた。

瞬間、つるり、と摩擦が零になる感覚が靴裏から。

エヴァンジェリンは視界が空へ傾くのを感じ、あ、と声を漏らした。

不意に風が吹き、エヴァンジェリンのフードをはだけさせ、顔を露わにする。

それを見た男が、糸目を見開くのを視界が捉えた。

意外そうなその顔に溜飲を下げると同時、エヴァンジェリンは川が己の天敵の一つである事を思い出す。

吸血鬼は流水を渡れない。

真祖の吸血鬼たるエヴァンジェリンは渡る事こそできるものの、極めて苦手な物の一つである事は確か。

自然、痛烈な痛みを覚悟し、エヴァンジェリンは目を閉じた。

 

「~~っ!」

 

 声にならない悲鳴を上げるエヴァンジェリンだったが、体を覆ったのは、凍り付くような水の冷たさではなく、暖かな何かであった。

ゆっくりと瞼を開くと、すぐ近くに糸目を見開いた男の顔があった。

数個前の岩に居た筈なのに、と目を見開くエヴァンジェリンに、男は泣きそうな顔で、こう漏らす。

 

「良かった……、本当に良かった……!」

 

 その声があんまりにも感極まった物であるので、エヴァンジェリンは何も言えず、暫くただただ男に抱きしめられたままになっていたのであった。

 

 

 

2.

 

 

 

 ぱちぱちと、たき火が弾ける音。

踊る火がもたらす温度に、エヴァンジェリンは頬を僅かに緩めた。

体の芯がじんわりと暖まってきて、僅かながら眠気を誘い始める。

エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは真祖の吸血鬼にして魔法使いである。

当然己を暖める魔法程度鼻歌交じりに使えるが、追っ手達に補足されないよう隠蔽を念頭において、というと結構な神経を使う。

すると当然集中力や体力を消耗する事になり、魔法を使うぐらいならば普通に薪を集め火を灯す方が楽になるのだ。

故に、たき火は自然の物であり、有象無象を区別せずに範囲内の物を全て暖める。

例えば、エヴァンジェリンの隣、少し間を開けた辺りに座り込む男をも、だ。

 

「…………」

「…………」

 

 無言の応酬は、先ほどエヴァンジェリンが男に助けられてからずっと続いていた。

先ほどまでは話しかけていた男も、急に無口になり、ただただエヴァンジェリンについてくるのみになったのである。

エヴァンジェリンも礼ぐらい言うつもりだったのだが、男の変調にタイミングを逃し、未だ彼に礼を言うことはできていない。

一体どういう事か。

辺りへの警戒に一定の意識を割きながら、エヴァンジェリンは視線を男へとやる。

 

 相変わらずの糸目は踊る火に向けられ、遠い何処かを見据えているようでもあった。

その相貌は先の脳天気な物とはひと味違い、僅かながら影のある表情だ。

太陽のようなこざっぱりとした顔に陰りがあると、エヴァンジェリンは自分が何か悪い事でもしたような気になってきてしまう。

無論川に落ちそうになったのは悪い事なのだろうが、それ以上に、男に対して。

 

 憂鬱になってくる内心に、エヴァンジェリンは頭を降った。

このままキノコでも生えてきそうなジメジメとした気分を続けるのは、性に合わない。

向こうが口を開かないのならば、こちらから開くしかあるまい。

という事で、エヴァンジェリンはフードを脱ぎ、顔を男へ向けた。

口を開いて名前を言おうとして、指名手配されている可能性に気づき、代わりに愛称を告げる。

 

「……私は、エヴァ。そう呼んでくれ。お前は?」

 

 急な言葉に、男は糸目を見開き、パチクリとしてみせた。

すぐに相好を崩し、最初出会ったときと同じような、脳天気そうな笑顔になる。

 

「私は、茶々。茶々と呼んでくれ、エヴァ」

「茶々……茶々か」

 

 妙な名であった。

しかし初対面で名前にケチをつけるのも、と眉間に皺を寄せるだけで済ますエヴァに、苦笑しつつ茶々。

 

「私の父親は東方の日本という国の出でね、名前も東方縁の物をつけたんだそうだ。この顔も相まって、行く先々で珍しがられるのだよ」

「そ、そうか……」

 

 エヴァンジェリンにも覚えのある事だ、珍しいでは済まない事は即座に察した。

異端は排除される。

幼い肢体で旅する少女も、東洋の名を顔を持つ男も、どちらの方が程度が上か分からないが、差別される事に変わりは無い。

吸血鬼であるエヴァンジェリンに成長は無く、故にその差別が永遠に続く事も似ていた。

人の傷を抉る詮索に答えさせてしまった事に、エヴァンジェリンは僅かに歯を噛みしめる。

 

「お陰で皆どうした物かと注意を払うからね。大道芸での小銭稼ぎが上手くいって、お得なものなのさ」

「そう、か」

 

 明るく言う茶々の言葉に、エヴァンジェリンは表情筋を統制し笑顔を作った。

そんなエヴァンジェリンに、続けて茶々が話す。

話の内容は、これまで旅してきた町々での出来事であった。

逃げ出してしまった飼い猫を少女の元に届けてやったり、飢えた子供を大道芸の助手にして得たお捻りを半分こにしたり。

時には父に教わった東方の薬を用い、薬師の真似事をした事もあった事があると言う。

同じ種類の植物が少なくて最初は本当に参ったけどね、と苦笑しながら言う茶々は、エヴァンジェリンの目から見ても輝いて見えた。

 

 エヴァンジェリンは、今まで町中で無事に過ごせたことなど無い。

優に茶々の3倍は生きているエヴァンジェリンだが、そも追っ手を撒ける機会すらここ十年ほどにようやくできるようになってきた事だ。

追っ手の手を離れたエヴァンジェリンは、町人はエヴァンジェリンという吸血鬼の存在を知らない街に入った事がある。

されど10歳の誕生日からずっと殺し合い以外の対話を持たなかったエヴァンジェリンは、そもそも上手く人と対話する事ができなかった。

殺し合いの中で磨いた感覚が致命的な事態だけは免れたが、騙され、奪われる立場である事は変わらなかったのだ。

 

 対し茶々はどうか。

エヴァンジェリンほどでは無いものの差別される要素を持つ彼は、しかし見事に街に溶け込んでいた。

明らかに白人では無い彼が、である。

今日日北欧に来る黄色人種など、商人ぐらいであり、彼のように大道芸で生計を立てる者など奇異の目で見られるに違いない。

町中でエヴァンジェリンが見る限り、彼らは店で相場通りの買い物ができる事など滅多に無いし、酒場に行けば因縁をつけられ、死体になる事も珍しく無い。

 

 それなのに、彼の話からは暗い部分が見受けられなかった。

かといって作り話かと言えばそうでもなく、エヴァンジェリンの知る街のディテールと一致した部分も多々ある。

無論一切作りの無い話かと言えばそうではないのだろうが、それにしても明るく心温まる話であった。

それだけの経験をするのに、どれだけの失敗があった事か。

ばかりか、人の良さもどこまで必要だったことだろうか。

 

 自然、エヴァンジェリンはふと、己の父の事を思い出した。

顔立ちは全く違うものの、彼もまた人徳で領民から慕われた人間であった。

優しく包容力があって、エヴァンジェリンが悪い夢を見ると、いつも一緒にベッドの中で寝てくれたものである。

何故だろうか、目の前の男が父と重なって。

エヴァンジェリンは、思わず体を僅かに縮こまらせた。

 

「おや?」

「ん? どうした?」

「いや、やっと笑ってくれたと思ってね」

 

 言われエヴァンジェリンが両手を顔にやると、確かに顔は緩み微笑みの形を作っていた。

ななな、と言葉の体をなさない声が漏れる。

頬は瞬く間にリンゴ色に染まり、顔が凄まじい速度で火照るのがエヴァンジェリン自身にも分かった。

この年になって父親の事を思い出して笑っていたというのも恥ずかしいが、それ以上に初対面の男に笑みを見せてしまった事が恥ずかしい。

当然のごとく茶々がエヴァンジェリンの内心など知るはずも無く、誤解があるのは当然のこと。

一体どう勘違いされたのかと思うと、恥ずかしさは二乗になり、エヴァンジェリンの脳機能を低下させてゆく。

 

「ち、違うんだっ! これは、その……」

「何が違うんだい?」

「それは、そのだな……」

 

 まさか父と重ね合わせていたなどとは言えないエヴァンジェリンは、言い訳がその辺に転がってはいまいかと、辺りを見回す。

数瞬後、自分のしている行動の滑稽さに気づき、更なる恥辱に頬を更に赤くしながらも、すぐさま唸り始めた。

とりあえず唸ってみれば何か言葉が捻り出せるかと思ったものの、何も思いつかない。

どうしようどうしようと言う言葉が頭のなかを堂々巡りするのみだ。

両手で頭を抱えながら顔色を赤青に目まぐるしく入れ替えるエヴァンジェリンに、思わず、と言った様相で茶々。

 

「ぷっ……」

「あーっ! こらっ、笑うなっ!」

「いや、涙目で言われてもねぇ……」

 

 言われ再び手を目尻にやると、確かに小粒の涙が今にも零れようと、その威容を増大させていた。

にゃにゃ、とエヴァンジェリンが漏らすのに、くすりと微笑みながら手を伸ばす茶々。

頭頂に、暖かな体温。

いっぱいいっぱいのエヴァンジェリンが気づいた時には、既に茶々の手がエヴァンジェリンの頭の上に置かれていた。

じんわりと広がる体温に、エヴァンジェリンは何故か安心し、焦りが体から抜けてゆくのを感じる。

そういえば、記憶に遠き父の手もこんな温度だった気がした。

魔法みたいだ、と大凡魔法使いらしくない感想を抱くエヴァンジェリンに、茶々が告げる。

 

「私の見間違いだった。エヴァ、君は笑ってなんかいなかったさ」

「……そ、そうだ。例え笑っていたとしても、それはあれだ、お前の滑稽な失敗を嘲笑っていただけだ」

「そうそう、その通りその通り。顔が赤いのも、たき火の光加減でそう見えるだけだね?」

「ふ、ふん、お前も男だったらそのぐらい見抜けるようになるんだな」

「精進しますよ、お姫様」

 

 言ってエヴァンジェリンの頭から手を離す茶々。

自然手を目で追ってしまうエヴァンジェリンだったが、茶々の微笑まし気な視線に気づき、強引に視線を外す。

外した視線を、しばし迷ってから、たき火の方にやった。

ぱちぱちと音を立てて踊る炎を前に、エヴァンジェリンは体育座りにした両膝の間にすっぽりと顔の下半分を隠す。

 

 しばし、沈黙。

しかし今度は先ほどまでと違い、何処か心地よい沈黙だった。

ちらりと視線をやると、茶々もまたたき火へと視線をやっている。

同じように体育座りをしている茶々は、その両手を膝の前で繋いでいた。

吸い寄せられるように視線を茶々の手にやり、エヴァンジェリンはしばし迷った。

何故私は、初対面の男にこんなにも気を惹かれているのだろうか。

父と似ているとは思ったが、それだけでこんなにも?

疑問詞が錯綜するも、それでも茶々の温度の暖かさは、人肌恋しかったエヴァンジェリンにとって誘蛾灯のような物だった。

視線を右往左往させてから、思わず腰を軽く浮かせ、茶々のすぐ隣に尻をつく。

 

「エヴァ?」

「……あれだ。その、寒かったからな。私は大丈夫なんだが、お前はどうか分からない。明日起きた時に凍死体があると、気分が悪いから……。それだけだっ」

「そうか、ありがとう」

 

 深く追求せずに礼を言い、茶々はマントを広げ、エヴァンジェリンごとすっぽりと包み込んだ。

エヴァンジェリンは一瞬目を見開いたが、仕方ないな、と呟きながら、両手で微笑もうとする口元をきゅっと一本字にする。

 

「なるべく近い方が暖かいからな」

 

 と口にしつつ、エヴァンジェリンは体をすり寄せ、両手で茶々の二の腕を抱きしめた。

久しく触れていなかった、人間の体温であった。

10歳になるまでは周りにあふれかえっていた、暖かな物であった。

たったそれだけの事実に、エヴァンジェリンは喉奥から眼窩まで熱い物がこみ上げてくるのを感じたが、歯を強く噛みしめ、じっと耐える。

涙の衝動に耐えきると、エヴァンジェリンは茶々との間に残った僅かな隙間を、体を押し込み消した。

 

 茶々の体温はエヴァンジェリンより低いが、不思議と体はよく温まるようエヴァンジェリンには感じられる。

熱い血飛沫でも、湯気を上げる臓腑でもない、暖かな人間の体温。

殆ど忘れかけていた感触にエヴァンジェリンは頬を赤らめるも、辛うじて不機嫌そうな顔は維持した。

そんなエヴァンジェリンに、茶々は苦笑しながら残る手で頭を撫でてやる。

不意に、茶々が口を開いた。

 

「なぁ、エヴァ」

「何だ?」

「良かったら、明日から次の街まで案内してくれないかい? 私はこの辺の地理に明るくなくてね、君の力を借りたいんだ」

 

 同じ提案をしようとしていたエヴァンジェリンは、虚を突かれ目を瞬き、すぐに頷きそうになるのを、必死でこらえる。

本当ならここで悪辣な笑みを見せてやるべきなのだろうが、茶々の顔を直視すると父と重なり笑顔になってしまうので、代わりにエヴァンジェリンは明後日の方向に視線をやった。

ぶっきらぼうな声色で、告げる。

 

「構わん。少なくとも、山では足手纏いにならなさそうだからな」

「あぁ、ありがとう、エヴァ」

 

 エヴァンジェリンは、思わず目を見開いた。

“ありがとう”。

一体何年ぶりに言われた言葉だっただろうか。

そしてその言葉は、こんなにも体を巡る血潮を暖かくさせてくれる物だったか。

嬉しいが、その嬉しさを素直に表す事に抵抗を感じ、結局エヴァンジェリンは視線を茶々に戻さず、代わりに声だけで答えた。

 

「……お互い様だ。こちらこそ、ありがとう」

 

 

 

3.

 

 

 

 茶々が声色を変え、悪い竜と勇者の声を、交互に喋る。

 

「勇者よ、勇者よ。誰も知らぬ場所で、今にも力尽きそうな勇者よ。傷を負い、毒を負い、力を奪われた勇者よ。お前は何故戦う、何のための立ち上がるのだ。どうしてお前の心は折れぬのだ」

「確かにぼくは、今にも力尽きそうだ。けれどぼくには、僅かな勇気をくれた人が居る。その人の為であれば、何度でも立ち上がれるのさ」

 

 すると膝をついていた勇者の人形が、万力を込めたかのように微細に震えながら、ゆっくりと立ち上がる。

悪い竜の人形は気圧されたかのように数歩下がり、それから首を曲げ、瞼を上下させながら信じられない物を見る目で自身の足下を見た。

 

「僅かな勇気? 一体何なのだ、それは。分からない、分からないぞ」

 

 茶々は少し震えた悪い竜の声を演じる。

直後普段通りの声で、ナレーション。

 

「勇者は思い出しました。悪い竜の火の息をすんでの所で避け、爪や牙をくぐり抜けるよりも尚、勇気が要った時の事を。まだまだ勇者が力も心も弱かった時の事を。何の準備も出来ていなかった時、弱い魔物を相手に震えていた時の事を。その時勇者の心を奮わせたのは、姫のたった一言でした」

 

 勇者の人形は、杖としてついていた剣を構え、腰を落とす。

対照的に、腰が引ける悪い竜の人形。

 

「”頑張って”……。ぼくにとっては、その一言だったのさ」

 

 言って、勇者の人形は悪い竜の人形へと駆けてゆく。

爪を避け、牙を避け、勇者の人形は手に持った剣を悪い竜の人形の眉間へと突き刺した……ように見えるよう、交差させた。

ぎゃああああ、と茶々が悪い竜の声色で悲鳴を上げる。

勇者の人形が離れると同時、悪い竜の人形が暴れ回り、そして倒れた。

薄汚れた幕が下り、数秒後に開くと、そこには勇者の人形と姫の人形が抱き合っていた。

再び、茶々のナレーション。

 

「こうして勇者は、みんなを懲らしめる悪い竜をやっつけたのです。王様はいたく感動し、国のみんなはパレードで勇者を迎えました。助け出された姫は勇者と抱き合い、羽のように踊りながら喜んだのです。その後勇者は姫と結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ。おしまいおしまい」

 

 見事な調子で言ってのけた茶々に、割れんばかりの拍手と歓声。

お捻りを投げ込む、硬貨と石畳がぶつかり合う音を背景に、茶々は見事な礼を見せ、劇を終えるのであった。

 

 それを少し離れた所で見ていたエヴァンジェリンは、すごいと思いつつも素直に人形劇に感動できず、フードの中から不機嫌そうな口元を覗かせていた。

劇中では竜が悪い竜とされていた細かい理由は示されず、裏付けのないまま勇者は竜を打ち倒す事になる。

“悪”のレッテルを貼られる立場は、どうしてもエヴァンジェリンが自身を重ねてしまう。

しかしそれでも、人形劇自体はエヴァンジェリンの胸の中に消えぬ何かを残していった。

 

 お捻りも収まり、硬貨を拾って街中の宿に戻る2人。

妹です、とエヴァンジェリンの事を紹介しながら、茶々はエヴァンジェリンを引き連れ部屋に入った。

人形劇の道具を整理する茶々に、エヴァンジェリンはベッドに腰掛けながら問う。

 

「なぁ、その、悪い竜って……、本当に悪い竜だったのか?」

「ん? そうだね、少なくとも今回の劇では、本当に悪い竜だよ」

「えっと、どんな感じに?」

 

 言われ、道具を仕舞い終えた茶々はベッドに腰掛けた。

底知れない知性を秘めた目で、茶々はエヴァンジェリンを見据える。

吸い込まれそうな目に、エヴァンジェリンは思わず目をそらした。

それに僅かに口元を緩めるだけにして、茶々。

 

「竜は、人を食べなければ生きていけない。だから人にとって、竜は悪なんだ」

「でも、それじゃあ、竜はただ生きていたかっただけなんじゃあ……」

「うん。でも悪だ」

 

 断じる茶々の声に、エヴァンジェリンはぴくりと体を震わせた。

弱々しい声で、エヴァンジェリン。

 

「何で……?」

「なぜなら、善とか悪とかは、人が決める物だからだ。竜や、吸血鬼や、狼男や……、異邦人が決める物ではないんだよ」

「…………っ」

 

 エヴァンジェリンは、思わず息をのんだ。

胸を打つような言葉であった。

茶々が意図せず吸血鬼の事を言った時もそうだが、それ以上に、彼の口から異邦人という言葉が漏れ出た時、エヴァンジェリンは頭を鉄槌で殴られたような衝撃を受けた。

頭蓋がぐらりと比喩ではなく揺れ、頭の中に詰まった考えがぐしゃぐしゃに転がったかのよう。

どうしようもなく胸の奥が苦しく、エヴァンジェリンは歯を噛みしめながら両手で胸を押さえた。

こみ上げてくる物を必死で飲み下し、言う。

 

「それなのに……茶々は、こういう劇をやるの?」

「劇を見るのはこの国の人間だ、異邦人じゃあない。そして劇を見る人が居なければお金は無くなり、食っていけなくなる。それだけの事さ」

 

 この人は、どうしてこんなにも穏やかな顔で、こんなにも自分にとって残酷な事を言えるのだろうか。

胸の奥がやりきれない思いでいっぱいになり、切なさではち切れそうになる。

何か言ってやらねばならない、とエヴァンジェリンは思った。

思ったが、しかし何も言うべきことは思いつかず、エヴァンジェリンの口はもごもごと声にならない声を漏らしただけで閉じてしまう。

そんなエヴァンジェリンを、茶々は優しい光を帯びた目で見据えていた。

その瞳の奥には、僅かながら暗く寂しげな感情がにじみ出しているよう、エヴァンジェリンには思える。

それを見たエヴァンジェリンは何かせねばならないという衝動に駆られるが、何も思いつかず、見ている事しかできなかった。

 

 暫し沈黙。

やがて茶々はエヴァンジェリンに一言断ると、トランクを開け、中から作りかけの人形を取りだした。

一緒に裁縫道具も取り出し、人形制作を始める。

作りかけの人形は、人形劇に使う人形より大きく、エヴァンジェリンの膝ほどまで背丈のある人形であった。

髪の毛もまだ植えられていないが、エヴァンジェリンの知らぬ球体の関節を使った人形で、自在に関節を動かす事が出来る事がよく分かる。

未だ眼窩も埋められていない人形に、しかし何故かエヴァンジェリンは心惹かれた。

 

「……この子、名前は何て言うんだ?」

「まだ決めていないね。とりあえず仮名として、”ゼロ”って呼んでいるよ」

「ゼロ?」

「名無しって意味。まぁ、完成するまでにはきちんとした名前を考えるよ」

「ふ~ん」

 

 言って、エヴァンジェリンはじっと人形作りを眺めながら思索に耽る。

何気なく座ったが、ベッドに腰掛けるなどエヴァンジェリンが10歳の頃以来であった。

かつてエヴァンジェリンが人間であった頃のベッドに比べると硬い気がするが、なにぶん遠い記憶なので上手く比較できていない。

加えて調理された食べ物も久しい物だったし、街中で影から影へ渡り歩かなくて済むのも同じくである。

茶々との旅は、思いの外上等な生活であった。

 

 そして何より、エヴァンジェリンは茶々に何とも言いがたい感情を持っていた。

親近感、とも言えよう。

同じ迫害される者として、その度合いこそ違っていても、傷をなめ合えるような関係であるのは確かだ。

憧れている、とも言えよう。

迫害される者同士だが、エヴァンジェリンが未だ社会に溶け込めていないのに対し、茶々は歯を食いしばりながらであろうが、社会に溶け込めている。

ばかりか、そもそも諦めかけているエヴァンジェリンに対し、茶々は努力も欠かしていない。

エヴァンジェリンは、そんな茶々がとても眩しく思えるのだ。

父と重ねてる、とも言えよう。

茶々は父と似た穏やかで人好きのする性格をしていたし、何より明らかにエヴァンジェリンを大切にしていた。

昔話を聞くに子供全般に優しいようだが、その中でもエヴァンジェリンに対する態度は明らかに別格だ。

理由は分からないが、そんな扱いをしてくれる茶々に、エヴァンジェリンは父を重ねていた。

しかし、結局一言で言い表せばどんな感情を持っているか、と言うと、中々考えつかない。

ただし、その感情がこのまま別れて放置したい感情では無いように思えて。

 

「なぁ、茶々」

「どうしたんだい? エヴァ」

 

 視線をこちらにやる茶々に、エヴァンジェリンは思わず俯いた。

頬がじんわりと熱を持つのを感じながら、こほん、と咳払い。

 

「その……この街を出てからも、私についてきていいぞ」

 

 きょとん、と茶々が目を丸くするのが、エヴァンジェリンの視界の端に映った。

すぐに茶々が頬を緩めるのに、慌ててエヴァンジェリンは付け足す。

 

「いや、そのだな、人形劇は中々面白かったし。それにな、お前と居ると結構便利だし。それに、その……」

「その?」

「……その”ゼロ”が完成した所も、見てみたいし」

 

 言われずとも自身が赤面しきっている事に気づく程、エヴァンジェリンの頬は赤かった。

僅かな沈黙。

このままでは緊張で倒れてしまうかもしれない、とエヴァンジェリンが思う頃に、笑顔で茶々が腰を上げる。

床に膝をつき、エヴァンジェリンの手を取りこう言った。

 

「では、この街を出てからもついていかせてもらいます、お姫様」

 

 直後、口づけをエヴァンジェリンの手の甲に落とす。

緊張と羞恥で顔一面を真っ赤にしたエヴァンジェリンは、ぼん、と頭から煙をふいてベッドに倒れ伏す事になるのであった。

 

 

 

4.

 

 

 

 夜の街道。

たき火を前に、エヴァンジェリンと茶々は岩を背にして座っていた。

人形劇をした日から数日、エヴァンジェリンと茶々は共に旅をしている。

行く当ての無いエヴァンジェリンに対し、茶々は何かしら目的地があるようで、彼が決めた道を2人は歩いていた。

 

「エヴァ、ちょっと用を足しに行ってくるよ」

「ん……さっさと……行ってこい……」

「すぐ戻るから、それまでは起きているんだよ?」

 

 言って立ち上がる茶々に、エヴァンジェリンは眠い目をこすりながら頷く。

欠伸混じりに見送るエヴァンジェリンを心配そうにみながら、茶々はこの場を離れていった。

それを閉じそうになる瞼を必死で開きながら、エヴァンジェリンは見送る。

小さくなって行く茶々の背を暫く眺めてから、ふと淑女として見ている訳にはいかない事に気づき、視線をたき火へ。

ちろちろと踊る火は、空気分子を舌で舐め取り、その大きさを維持し続けている。

 

 あまりにも優しい数日間であった。

街に滞在した数日、エヴァンジェリンはここ数十年経験した事が無い程の善意に揉まれた。

世話好きのおばさんに髪の手入れの仕方を教えて貰ったり、顔を赤くしたガキ大将に可愛げのあるプレゼントをもらったり、勝ち気な少女に遊びに誘われたり。

忘れかけていた人間には善意があるのだという事実に、エヴァンジェリンは感動すら覚えていた。

同じ人間に迫害を受け続けてきた事は絶対に忘れられないが、しかしこの善意に満ちた日々もまた、忘れられそうに無い。

思わず口元を緩めながら、エヴァンジェリンは閉じていく瞼と眠気に身を任せようとして。

 

「――っ!?」

 

 飛び退く。

直後雷の矢が寸前までエヴァンジェリンが居た場所を貫いた。

道ばたの草が炭化してゆくのを尻目に、エヴァンジェリンは無詠唱で未完成の断罪の剣を発動。

槍術を用いてなぎ払ってきた杖を、辛うじて受け止める。

全てを相転移させ断罪する筈の半透明の剣は、しかしその未完成さ故に強化された杖と拮抗する事しかできない。

杖の主、外套を纏った金髪蒼眼の青年と視線が交錯する。

 

「ち、この悪の吸血鬼めがっ!」

「く、新手の”立派な魔法使い”かっ!」

 

 互いに舌打ち。

魔力にて勝るエヴァンジェリンの薙ぎ払いに青年は後方へと跳躍、そこを狙いエヴァンジェリンは詠唱を開始する。

 

「リク・ラク・ララック・ライラック……」

「く、相棒が連れを殺してくるまで凌いでみせるっ!」

 

 叫ぶ青年の言葉の内容に、目を見開き詠唱を中断するエヴァンジェリン。

急ぎ気配を探ると、茶々が用を足しに行った筈の方向から気と魔力が膨れあがる感覚が。

茶々の実力は未知数だが、少なくとも気の量では相手と思わしき”立派な魔法使い”の魔力に勝てる程では無い。

エヴァンジェリンの中を、今にも体を突き抜け出て行ってしまいそうな程の焦りが走る。

 

「き、貴様ぁ!」

 

 叫びながらエヴァンジェリンは無詠唱の魔法の射手を発動。

17条の氷の矢が放射状に広がり、青年へと迫る。

青年が杖を振り回し氷の矢を破壊するのを尻目に、エヴァンジェリンは再詠唱。

氷神の戦槌による、巨大な氷球が青年へと放たれた。

背後まで回り込む氷の矢が残っており、青年は退路を断たれた形になる。

 

「とあぁぁっ! 白き雷っ!」

 

 咆哮と共に、青年は雷を帯びた杖で氷球を突いた。

氷球が圧壊するどころか、杖が帯びていた雷は貫通し夜空へと飛んで行く。

茶々の元へと駆けつけようとしていたエヴァンジェリンのすぐ隣を走って行き、エヴァンジェリンの背筋に悪寒を走らせた。

続けて雷の矢が23本、エヴァンジェリンへ向けて放射状に放たれる。

対処せねば茶々の元にたどり着いたとて足手纏いになる、舌打ちしながら回避と断罪の剣での相殺をするエヴァンジェリン。

 

「逃げようたってそうはいかせないぜ!」

「小癪なっ!」

 

 叫びつつ、エヴァンジェリンは脳内で先に目の前の青年を殺さねばならない、と優先度を再設定した。

最後の雷の矢を切り裂くエヴァンジェリンの技後硬直を狙い白き雷が飛んでくるが、小さく避けてエヴァンジェリンは小技を続けて放つ。

 

「氷爆、氷爆、氷爆っ!」

 

 連続する魔法に移動し続け青年は攻撃を回避。

そのまま持っている杖を投げ、跳躍しその上に乗り、浮遊術で空中へと踊り出す。

が、慌てずエヴァンジェリンは平行して詠唱していた魔法を放った。

 

「闇の吹雪!」

「うおっ!? 雷の投擲!」

 

 漆黒の凍てついた竜巻に、青年は雷槍を投げて対抗するも、拮抗は刹那。

一瞬で自身の魔法が消し飛ぶのに顔をひくつかせ、杖から飛び降りた。

闇の吹雪が杖を一瞬で氷片にするのを尻目に、空中で男は外套から取り出した携帯用杖を構える。

が、時既に遅し。

飛燕の速度で迫っていたエヴァンジェリンが、青年へ向け断罪の剣を振るう。

 

「しまっ……」

 

 それが青年の遺言となった。

未完成とはいえ、あらゆる固体・液体を気体に相転移させる断罪の剣を、事前の強化無しに防げるはずが無い。

青年は肉体どころか外套や携帯用杖ごと気化、痕跡一つ残さずに逝った。

まるで消しゴムで消したかのように、一瞬で青年は消え去ったのだ。

その残酷な光景に胸の内をじくりと痛めつつも、エヴァンジェリンは悪態をつく。

 

「くそ、粘りおってっ!」

 

 すぐに茶々の気を探知、最高速度で向かった。

草原が凄まじい速度でエヴァンジェリンの背後へと流れて行く。

茶々の無事を祈りつつ、近くにたどり着きエヴァンジェリンは高度を下げ、草原へと降り立った。

 

 血の臭い。

月に照らされ尚黒い、黒血に満ちた死体が一つ。

その側に、顔に飛んだ血飛沫で化粧をした、恐ろしく酷薄な顔をした男が一人立っていた。

男の雰囲気は触れれば切れるような、鋭く冷たい物しか感じられない。

 

 男が振り向いた。

月明かりに照らされ、その相貌が露わになる。

うっすらと開かれた瞳は氷雪地獄の如き冷たさであり、その両手の五指それぞれには指輪がつけられている。

血飛沫を浴びたからだろう、うっすらと浮かび上がる細い糸が、指からは伸びていた。

その終点には数体の、これまた血を浴びた人形が立っている。

エヴァンジェリンに見覚えのある人形であった。

ここ数日、街での人形劇で使われた人形達であった。

 

「……茶々……?」

 

 震える声を漏らすエヴァンジェリンに、男、茶々はにこりと微笑んだ。

表情から冷たく乾いた物が消え去り、暖かな温度と共に声が出る。

 

「はい、私は無事だよ、エヴァ」

 

 しかしその頬には、未だ鮮烈な血飛沫が残っていた。

暖かい笑みに血飛沫が残るその光景は、いやにミスマッチで、異様だ。

そんな何処か恐ろしい光景に、エヴァンジェリンは自分が異世界に迷い込んでしまったかのような感覚に陥るのであった。

 

 

 

 

 


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