何かの呪いなんでしょうかね?
1.
揺れる馬車の中。
4人乗りの室内には、アドルフ、ダニエル、アリア、茶々、エヴァンジェリンの5人が乗っていた。
故に一人は誰かの膝の上に座るしかないのだが。
「…………」
ムスッとした顔を、外へと向けるエヴァンジェリン。
その向かいでは、アドルフの膝の上に座るアリアが楽しそうにエヴァンジェリンを見つめている。
アドルフの隣に座るダニエルもエヴァンジェリンを見つめており、その顔はニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべていた。
「お前、そんなに茶々さんの膝の上に乗りたかったのか?」
「五月蠅い。違うに決まっているだろうが」
一刀両断するエヴァンジェリンだったが、声色から不機嫌そうな雰囲気が醸し出されている。
おぉ怖、と引くダニエルに構うこと無くエヴァンジェリンはちらりと視線を茶々の顔へ。
困ったような、嬉しいような、判断に迷う笑顔であった。
そんな茶々にエヴァンジェリンもどう応ずればいいか分からず、再び視線を外にやる。
不実な約束から数日。
エヴァンジェリンと茶々はこの街での公演を終え、茶々の故郷方面への旅路を取っていた。
何時になるか分からないけれど、向かい合う事ができたら、また妹と会いたい。
そんな茶々の希望に関係しての道である。
元々茶々の故郷は街を一つ経由すればたどり着く村にあり、真っ直ぐ行けば往復で1週間もかからない程度だそうだ。
まだ直接向かう事が出来るほど茶々は現実と向かい合えていなかったが、とりあえず近くに行ってみようという話になったのであった。
そこにちょうど出くわしたのが、アドルフら行商人家族であった。
次の街まで旅路が重なるため、茶々らに恩を感じていたアドルフは、次の街まで馬車に乗せてくれる事になったのだ。
余計な下心が無いのはエヴァンジェリンの読心術で確認済み、安全な旅路であろう事から2人は安心して旅に同行する事にした。
全員馬車の中に居るのは、御者を雇ったからである。
次の街までの間だけでも話したいというアドルフたっての希望によるものであった。
「いやはや、東方の文化という物は大変興味深いですなぁ」
「と言っても、父の受け売りですがね」
と、エヴァンジェリンが黙っているうちに、アドルフと茶々とが会話を始めている。
聞けば茶々の父の故郷である日本の文化についての話であった。
和歌に着物、刀に武士。
又聞きの内容だが茶々の故郷というだけで興味がそそられ、興味の無い顔をしてエヴァンジェリンは極度の関心を向けていた。
ダニエルやアリアも興味はあるようで、目を輝かせて聞いている。
「いやはや、シルクロードを伝っての中国やモンゴルの話は聞いた事はありましたが、日本という国の事は初耳になりますね。確かに、独特の文化のようですな」
「えぇ。と言っても父は薬師でしたので、話しに聞く京都神鳴流のような剣術は使えないので、実際には見たことも無いのですがね」
食いつくアドルフ達に、苦笑しつつ茶々。
しかし自身に半分流れる日本の血に興味を持ってもらえるのは嬉しいのか、何処かその表情は軽やかに見えた。
エヴァンジェリンは思わず嬉しくなってしまい、無意識に手を伸ばし、茶々が膝の上に乗せていた手に重ねる。
茶々は少し目を見開いたが、エヴァンジェリンに視線を合わせにこりと微笑むと、手を裏返しエヴァンジェリンの手を握った。
思わずほっと溜息をついてから、ふとエヴァンジェリンは気づく。
これではまるで、茶々に手を握ってもらうのを催促したみたいじゃあないか。
私は子供かっ、と羞恥に顔を赤らめるエヴァンジェリンに、めざとく気づきダニエル。
「あー! エヴァが茶々さんに手を握って貰ってるっ」
「本当だ! エヴァちゃん可愛いねっ」
「可愛いとか言うな、っていうかちゃんをつけるなっ!」
ガーッ! と怒りつつも、エヴァンジェリンは茶々の手を手放せない。
それにすぐに気づいたダニエルとアリアは、ニヤニヤと悪戯な笑みを浮かべた。
「怒ってるけど手ぇ離せないんだな」
「エヴァちゃん子供-!」
「う、五月蠅いっ!」
むしろこの場で最年長だ、という言葉を飲み込み、エヴァンジェリンは真っ赤になって立ち上がろうとする。
が、同時大きめの石でも踏んだのか、馬車ががたんと揺れた。
タイミングが重なりよろめくエヴァンジェリンだったが、素早く引き寄せられ、茶々の膝の上へすとんと収まる。
背中に茶々の体温を感じ、更に赤みを増して林檎のような赤さになるエヴァンジェリンの頬。
「大丈夫かい?」
「だ、大丈夫っ!」
言いつつも這い出ようとするが、茶々は気にせずエヴァンジェリンの腹に手を回した。
あまりの事に小さく奇声を上げ、思わず振り返るエヴァンジェリン。
しかし茶々はどこ吹く風と、静かな暖かみある表情でエヴァンジェリンを見つめる。
「ちょっと肌寒くてね。膝の上、座っててもらってもいいかい?」
「……し、仕方ないな、風邪を引かれても困るし。いや、心配なんじゃない、糸繰りの修行が滞るからな。それだけ、それだけだぞっ!」
「はいはい」
ニコニコと言う茶々に、ムスッとした表情を作りつつもエヴァンジェリンは背を預けた。
茶々の首筋へと顔を寄せ、頬を少し押しつけるようにする。
無論のこと面白がったダニエルとアリアが揶揄する言葉を漏らし、その度にエヴァンジェリンは応ずるのだが、しかし結局夕方までずっとエヴァンジェリンは茶々の膝の上で過ごすのであった。
2.
太陽が墜ちる。
空は夕焼け、太陽の光は最後の僅かな物のみとなり、空は薄い紺色と朱色が入り交じった色となっていた。
どこか不吉さを連想させる、落ち着かない空であった。
そんな空の元、5人は次の街の中に入り、宿へ向かって歩んでいた。
「わ~、こっちこっちっ!」
「こらこら急ぐな、はぐれるぞ」
はしゃぎ回りながら先行するダニエルとアリア。
無邪気な彼らの行動に、エヴァンジェリンは混じってみたい気分に襲われる。
何せエヴァンジェリン、10歳までは殆ど城の外に出たことが無く、年の近い知り合いも居なかった。
当然一緒にはしゃぎまわるような経験は無く、弾けんばかりの笑顔で走り回る2人には心引かれる。
茶々と出会うまでは、偶々入れた街中の影からそっと見つめるしか無かったのだが、今はその輪の中に入れるのだ。
そう思うとエヴァンジェリンはどきどきと心臓が高鳴るのを自覚し、ちらりと許可を求めて茶々へ視線をやった。
が、難しい顔の茶々。
「どうしたんだ? 茶々」
「……いや、何か変なんだけど、何が変なのか今一……」
と、茶々が首を傾げたその瞬間である。
小さい悲鳴。
通行人にぶつかってしまったダニエルとアリアの声であった。
「ご、ごめんなさ……」
言い切るより早く、通行人は外套の中から手を伸ばした。
尻餅をついたダニエルとアリアは、手を借りようとする。
その手首から、黒い輪が弾けるのを、エヴァンジェリンは見た。
自己魔力封印の輪。
魔力を消して賞金首に近づく常套手段。
「待……」
「あ、ありがと」
「ありがとう、ございます」
エヴァンジェリンの声が届くより早く、ダニエルとアリアはその手を握った。
直後外套の男は剛力を発揮、瞬く間に2人を立たせ、後ろからその首に手をやる。
「動くな、特に指を動かせば次の瞬間このガキの首を折るっ!」
野太い声と同時、男の外套が風に揺られ、その相貌が露わになった。
続けて立ち止まった幾人かのローブ姿の男達がフードを除けて顔を露わに、取り出した杖を3人へと向ける。
同時に強烈な人払いの魔法が発動し、無関係の人間達がその場から消えて行った。
反射的に糸で魔法使いを制圧しそうになるエヴァンジェリンだったが、ダニエルとアリアの安全が確保できないため中断。
視線を交わす茶々もまた、指輪をはめた指を硬直させている。
相手は何故か指に注視している、その状態では茶々でさえ相手の首を落とすより早くダニエルやアリアの首をへし折られてしまうだろう。
歯軋りする2人に、状況を理解できていないアドルフたちの混乱した声。
「な、何者だお前たちはっ!」
「正義の立派な魔法使いさ。さぁ、吸血鬼よ、魔力封印を受け入れろ!」
「え? え?」
「エヴァちゃんが吸血鬼って、何の事?」
「…………」
騒ぐアドルフたちを無視し、エヴァンジェリンは茶々と視線を交わす。
人質さえ無視すれば、相手を上級魔法使い以上と想定しても余裕で逃げられるだろう。
しかし、人質も助けられない訳ではない。
タイミング的に言って、エヴァンジェリンが補足されたのは先日ダニエルを助けに山に行った時、魔力探査の魔法を使った時だ。
糸繰りを知っているのも、その時の動作を何らかの方法で覗き見ていたからと見ていいだろう。
しかしならば、その間に茶々は一度も指輪を外しておらず、相手は恐らく指輪を外した時点で茶々を無力化できると考えるだろう。
だが実際は、茶々は気で糸を作る事ができ、指輪を外した所で戦闘能力はさほど落ちない。
こちらの戦闘手段を奪えば、相手にも油断が出来るはず。
そこを突けば、ダニエルとアリアを助ける事は不可能では無い。
茶々は僅かに迷ったものの、すぐさま肯定の意を込めた強い視線を。
エヴァンジェリンは僅かに微笑むと、首肯で男達に返答する。
すると男達の中で最も魔力の高い者が歩み寄り、杖を持って詠唱した。
黒い帯がエヴァンジェリンの腕に絡みつき、3日間魔力行使を封印する。
「ち、ほぼ無抵抗でも最大で3日か……。腐っても真祖の吸血鬼か」
「待て、君たちは何をしているんだ!? どうい……」
と、五月蠅く感じたのだろう、魔法使いの1人が沈黙魔法をアドルフたちに向かって使った。
喋っているつもりが喋れないアドルフたち3人はパニックに陥っており、見ていて痛々しいが、フォローする余裕が無い。
エヴァンジェリンは鉛のように重くなった肉体に慣れるので精一杯だった。
「次は人形使い、貴様の指輪だ。全て外させて貰うぞ」
魔法使い達は巧妙であった。
人質の命を握った男と茶々の指との間の視線を遮らないように動き、茶々の指輪を外しにかかる。
視線が遮られれば、男がダニエルやアリアを傷つけるよりも早く首を落とせたのだが、不可能となった。
こいつら、人質を取り慣れているな。
内心独りごちながら、エヴァンジェリンが待つうちに茶々の指全てから指輪が抜き取られた。
さて、ここからだ、とエヴァンジェリンが思ったその瞬間である。
「が……っ!?」
「茶々……!?」
ごぎん、という鈍い音が連続。
複数人で茶々の指を一気に十指、全てへし折ったのだ。
あまりの事態に思わずエヴァンジェリンが人質を取っているリーダー格の男を睨むと、くくっ、という粘っこい声と共に男。
「念のため、人形使いの指は全部折らせてもらったよ。どうだ、これで自慢の人形繰りも使えまい」
「ぐ……!」
悔しそうな顔をしてみせる茶々に合わせ、エヴァンジェリンも苦虫をかみつぶしたような顔をする。
確かに魔法使い達は正義を名乗る浅慮に似合わぬ程、用心深かった。
だが、まだ希望がたたれた訳ではない。
実を言えば、茶々は手首のスナップや足の動きでも糸繰りはできるのだ。
ただ精密さや速度、隠密性では指でのそれに到底及ばず、この場で人質を取り返すのは不可能と言っていいだろう。
この後、動いた瞬間人質を殺される危険を脱すれば茶々が動けるようになり、そうすれば全員助かって逃げるのも不可能ではあるまい。
再び視線を交わすエヴァンジェリンと茶々。
必ず全員助ける、という茶々の視線に、エヴァンジェリンは小さく首肯した。
これからエヴァンジェリンを待っているのは拷問か死だろう。
しかし幸いエヴァンジェリンは弱い頃に幾度も殺されていて激痛には慣れており、加えて死んだとしても生き返る事ができる。
この場で暴れるよりダニエルとアリアを優先してくれ、というエヴァンジェリンの視線に、苦い顔をしながら茶々は僅かに首肯した。
「さて、ではお前たち、人形使いを連れて行け。人質は私と共に連れて行く、人質の父親は一人ついておけ。吸血鬼は処刑の準備だ」
粘ついた笑みを浮かべるリーダー格の男の声と共に、エヴァンジェリンは茶々と離ればなれに連れて行かれた。
最後に交わした視線は、互いへの信頼が籠もったそれであった。
3.
街中の路地裏。
ばちぃぃん、と肉が裂ける音。
「ぐ……」
鞭打ちであった。
服ごとエヴァンジェリンの肌が千切れ、灼熱の痛みがエヴァンジェリンの脳髄を焼く。
肌にはびっしりとミミズ腫れが破裂したようなおぞましい傷が、一本の線となってできている。
直後、熱はそのままに肉が見る間に盛り上がり、エヴァンジェリンの傷を治して見せた。
ただしショック死しかねない痛みだけはそのまま、脳髄の中では狂ったように痛みの感覚が跳ね回っている。
エヴァンジェリンのような半ば魔力生命体と化した存在は、魔力行使を封印しても幾分かの再生用魔力が残るという事だろう。
鞭打ちを受けながら、エヴァンジェリンはまだ再生が続けられ、その命を長らえていた。
千切れた服は最早意味を成さず、エヴァンジェリンは半裸の状態で丸太にくくりつけられていた。
「ぐへへ……」
鞭打ち男は太った巨漢であり、大きく見開いた目に口からは常に涎を垂らしている。
嗜虐嗜好者なのだろう、エヴァンジェリンを鞭打ちする度にその顔はだらしなく緩んでいった。
股間がいきり立っているのは見たくも無い。
監視役なのだろうもう一人の魔法使いも、嫌そうな顔をしている。
吐き気を感じつつ、それでもエヴァンジェリンは気丈に振る舞っていた。
「この、程度か、短小め。下種の分際、で、私の肌を見るとは、万死に値する、ぞ」
「ひひ、可愛いなぁエヴァちゃん……」
悪態をついても男の嗜虐心を煽るだけなのだろう。
分かっていても、エヴァンジェリンはこの場で屈するような真似はできなかった。
事実、痛みはともかく、状況は屈する程悪くは無いというのも確かである。
茶々の救援もそうだし、エヴァンジェリンも再生用の魔力を無理矢理引きずり出せば、魔力封印されたままでも魔法使い2、3人ぐらいは制圧できる。
無防備に近寄ってきたら目前の変態鞭打ち男もぶちのめしてやろうかと思っていたのだが、用心深い事に近寄ってこない。
最も、そうなったとしても監視役が居る以上そんなことをしても意味が無いのだが。
再び鞭打ちが再開するのに、歯を噛みしめ痛みに耐えながらエヴァンジェリンは意識を余所にやった。
茶々は必ず助けに来る。
ならばエヴァンジェリンは、それにどうやって応じるかが問題である。
まず準備。
再生速度を最低限に調節し、残りカスの魔力を貯蓄しているものの、その量は僅か。
再生を無効にしてしまうと死んでしまい余計に再生魔力がかかるので、これ以上の節約は不可能。
その気になれば鞭打ち男も残る魔力で糸繰りなり氷爆などで瞬殺できるのだが、流石に不意打ちでなければ監視役の魔法使いを倒せはしない。
2人を同時に不意打ちするには、エヴァンジェリンの魔力が不足している。
とすれば、茶々の助けに応じる為に魔力を節約するのが妥当であろう。
そうこうしているうちに、急に鞭打ちが来なくなった。
どうしたものかとエヴァンジェリンが意識を現実に戻すと、鞭打ち男が肩で息をしている。
そういえば、とエヴァンジェリンは、鞭打ちはする方も相応の体力が要される事を思い出した。
普通鞭打ち人が力尽きるより先に鞭を打たれる方が死ぬのだが、再生能力を持つエヴァンジェリン相手にその終わり方は無い。
鼻で笑い、エヴァンジェリン。
「おいおい、もう終わりか? 貧弱なボーヤめ」
「かっ、ふうっ、ふうっ」
「ふん、顔だけではなく声も豚みたいになってきたな」
「ふう、う、ううう、うぐぅぅう……」
「くく、ついには泣き出したか。さて……」
言ってエヴァンジェリンは、呆れ顔の監視役の魔法使いに視線を。
鞭打ち男が力尽きた今、監視役を不意打ちすれば容易く脱出できる。
茶々と合流するのと待つべきか、それとも今脱出しこちらから茶々を探しに行くべきか。
数瞬エヴァンジェリンが迷った直後、足音。
魔法使いの仲間と思わしき者が現れるのに、内心舌打ちするエヴァンジェリン。
だが、その余裕も一瞬でかき消えた。
何故なら。
「お~い、薪を持ってきたぞ」
魔法使いの仲間が持ってきたのは、薪。
この状況で、街中の路地裏で焚き火などするはずが無く、薪が必要な処刑と言えば。
火刑。
エヴァンジェリンが最も恐れる処刑方法。
馬鹿な、と顔をひくつかせるのを必死で隠すエヴァンジェリンを尻目に、2人が話し始める。
「火刑か? 吸血鬼は心臓に杭を差したり、銀十字を掲げたりすれば良いのでは?」
「さて、何でだろうな。理由は知らんが……。灰は灰に、という事ではあるまいか?」
心臓への杭打ちでも銀十字でもエヴァンジェリンは復活できるが、火刑をされて復活できるとは思えない。
なぜならば、他の方法では体が無くなりはしないため死んだふりでどうにかなってきたが、燃やされれば体は灰になり自動復活し、炎が燃える限り死と再生が繰り返される事になるからだ。
それを魔力封印を受けた現状でされてしまえば、すぐに残りカスの魔力などつきてしまい、完全な魔力切れの状態で死んでしまうに違いない。
そうなったとき自身が復活できるのか、経験も知識も無いエヴァンジェリンは知らなかった。
死。
久しく味わっていなかった本当に死ぬかもしれないという恐怖に、エヴァンジェリンは半ば恐慌状態に陥った。
一気に頭の中から、アドルフやダニエル、アリアの事が抜け落ちる。
つい数時間前までは馬車の中で戯れていた相手であり、わざわざ数回殺される危険性を犯してまで助けたい相手の筈だった。
けれど味わいたくない、絶対に逃れたい生命全てが持ちうる恐怖、死の恐怖の前には、そんな覚悟など紙切れのような物である。
だって、いきなりなんて酷い、とエヴァンジェリンは思った。
本当の死の可能性が待っているなんて知っていたら、アドルフも、ダニエルも、アリアも助けなかっただろうし、助けるにしても細心の注意を払っていただろう。
せめて次の街まで同行なんて真似はしなかった筈だ。
なのに、覚悟すら決められていない現状なのに、何故神はそんな運命を用意するのか。
虚ろな目で惑うエヴァンジェリンだったが、近づいてくる気配に意識を現実に戻す。
「じゃあ、薪は置いておいてくれよ」
「応」
言って去って行く魔法使いの仲間。
残るは肩で息をし休んでいる鞭打ち男と、魔法使いが1人である。
誰のことも考えず、ただただ逃げるなら不可能ではない相手の数だ。
一瞬だけエヴァンジェリンの脳裏に茶々の笑顔が過ぎったが、彼なら一人でも脱出できる筈と信じる事にする。
歯を噛みしめ、エヴァンジェリンは努めて冷静になろうとした。
現在地は目隠しされて連れてこられたので不明。
街の地図も来たばかりで殆ど分からず、下を走れば迷うこと間違いない。
ならば見つかりやすいリスクを負ってでも、建物の上を飛んで行く他無い。
魔力は魔法の射手にして80発分程度、身体強化をしながら戦闘をするとすれば実質50発分程度か。
心とも無いが、やるしか無い。
――無論、冷静とは言いがたい思考ではあった。
何故なら時は夜の帳が落ち始めた頃、吸血鬼の時間である。
自然強化されるだろうエヴァンジェリンは火刑に処するには不都合であり、朝日と共に焼き尽くすのが最も効果が高い。
そして当然夜の間はエヴァンジェリンが脱出するのに都合が良く、朝が近づくに連れ警戒は薄くなるだろう。
つまり、時間はまだまだあるし、茶々も夜明けの緩んだ警戒を狙って救出に来るだろう事は想像に難くない。
その程度も思い当たらない程、このときのエヴァンジェリンは焦っていた。
魔法使いが薪の本数を数えているその瞬間。
エヴァンジェリンは、残りカスの魔力を込め、一瞬だけ吸血鬼の力を解放した。
爪を伸ばし縄を切り、同時に強化された脚力で空中へと飛び上がる。
「ああっ!?」
「どうし……ちっ!」
鞭打ち男の悲鳴。
すぐに気づいた魔法使いの男が無詠唱の魔法の射手を放ってくるが、糸繰りで逸らしそのままエヴァンジェリンは逃走を開始した。
屋根の上を跳躍しながら、まずはどちらでもいい、真っ直ぐに直線を描いて移動する事にするエヴァンジェリン。
すぐさま屋根の上に上がって魔法の射手を撃ってくる魔法使いだが、エヴァンジェリンは糸繰りを駆使して魔法の射手を逸らす。
「くそ、何故当たらない!?」
悲鳴を上げる魔法使いを無視して再び跳躍、した瞬間に後方の物とタイミングを合わせ、前方から魔法の射手。
舌打ち、エヴァンジェリンは咄嗟に斜め前方の建物へと糸を伸ばし、自身を引っ張るようにしてそちらへと飛ぶ。
糸の存在がばれてしまうが、飛行魔法を使う魔力が無い今、背に腹は代えられない。
「糸だ! こいつも糸繰りができて、それで魔法の射手の弾道を逸らしているんだっ!」
「そうか、ならば量より質かっ!」
怒号を交わし、魔法使い達は中級魔法を使い始める。
流石に逸らせなくなったエヴァンジェリンは跳躍の軌道変換の為に糸を使用し、最初に定めた方向へと進み続けた。
しかし、またしても正面から増援。
「くそ、こうなると元々こっちに仲間が多く居たのかっ!?」
仲間が多いという事は、その方向に茶々やアドルフ、ダニエルにアリアが居る可能性が高いという事である。
しかし焦りの余り気づかぬまま、エヴァンジェリンは方向転換。
一端下の通路に紛れ込もうとするも、追いすがる魔法がエヴァンジェリンの背を焼いた。
「がっ!?」
小さく悲鳴を上げながらもエヴァンジェリンは傷を即時再生。
ぼろ切れと化していた服が更に面積を少なくしたのに舌打ちしつつ、そのまま路地裏へと突っ込むようにして強化した早足で駆けてゆく。
暫く駆けた後に、エヴァンジェリンは人気の無い路地裏で立ち止まった。
「ち、既に吸血する魔力すら無くなったか……、適当な奴から血を吸って回復するのも無理だな」
と言っても、エヴァンジェリンの魔力を満足して回復させる事のできる人間……処女の魔法使いなど見つかる物ではないだろうが。
内心舌打ちしながらも、とりあえず頭を冷やそうと腰を下ろそうとした、その瞬間である。
「……っ!?」
悪寒。
飛び退いたエヴァンジェリンの背後を捕縛系の魔法の射手が貫いてゆく。
屋根上から舌打ちの声が聞こえるのにエヴァンジェリンは内心吠えた。
自分は馬鹿なのだろうか。
半裸かつ高速で走り回る少女など衆目を集めるに決まっている、すぐに場所は割れてしまう。
自身が冷静になりきれていなかった事に薄々気づきながらも、疾走するエヴァンジェリン。
しかしすぐにうめき声を漏らす事になる。
「行き止まり……!」
飛び上がるにも周りに糸を巻き付けられるような建造物は存在せず、真っ直ぐにしか飛び上がれない。
当然魔法の的になりにいくような物である。
焦り振り返るも、魔法使い達はいつの間にか袋小路を塞いでいた。
強烈な人払いの魔法が発動しているのだろう、住人達は足早に過ぎ去ってゆき、障害物どころか楯にもできない。
舌打ち、最後の希望としてエヴァンジェリンは残る魔力を振り絞り、跳躍した。
追いすがるように、色とりどりの魔法の射手が空中を駆けてゆく。
「が……っ!」
短い悲鳴。
エヴァンジェリンは血飛沫をまき散らしながら垂直に落下、肩から落ち鎖骨を折りながら転がり、壁面にたどり着き止まった。
魔法の射手が貫いた傷や骨折の激痛と共に、半裸の肢体が地面にこすりつけられ、全身が痛い。
呻き声を上げつつ必死で立ち上がろうとするのを、何重にも放たれた捕縛系魔法が捕らえた。
強化無しの少女の体躯を捕縛するには強すぎる捕縛魔法が締め付ける。
「……っ!」
声にならない悲鳴。
体を握り潰さんばかりの捕縛魔法に、歯を噛みしめつつエヴァンジェリンはどうにか目を開けた。
魔法使い達が作った壁の中から、一人の男が姿を現す。
リーダー格の魔法使いの男であった。
「やれやれ、よほど早く火あぶりにして欲しいらしいな」
「……ぐ、うぐ」
止めろ、と叫ぼうとするも、強力な捕縛魔法のせいで声も出せない。
それを虫を見るような目で眺めつつ、男。
「朝日と共に洗礼された薪で燃やそうと思ったが……、また抵抗されると事か。この場で灰になり、二度と再生できなくなるまで焼き続けてくれるわ」
「や……」
やめて、とエヴァンジェリンが叫ぼうとするも、既に遅く。
捕縛魔法を破壊しないよう隙間を狙った、火属性の魔法の射手が打ち込まれた。
次々に打ち込まれる炎の矢は、抵抗する術を失ったエヴァンジェリンの肌を焼き始める。
「う、うう……」
エヴァンジェリンの柔肌が焼け、醜く形を変えながら蠢き、肉の焼ける匂いと共にゆっくりと炭化していった。
自分の体がぽろぽろと灰になってゆく痛みと恐怖に、エヴァンジェリンは絶叫した。
「あ、あぁぁああぁっ!?」
「四肢が焼け落ちたか、捕縛魔法はもういい」
言って魔法使い達が捕縛魔法を解くと、一気に炎が燃え上がり、エヴァンジェリンの体を消し炭にしてゆく。
なけなしの魔力カスで再生が始まり、火傷と拮抗し始めた。
痛みと今度こそ本当に死ぬかもしれない恐怖、しかもそれが魔力が続くかぎり終わらないという現実に、エヴァンジェリンは思わず瞼を閉じる。
大丈夫、とエヴァンジェリンは念じた。
茶々は必ず助けに来てくれる、これは英雄が遅れてやってくるのと同じで、茶々が助けに来てくれる場面を劇的にするための演出に過ぎないんだ。
助けられるお姫様役は不幸のどん底に居ないといけないから、だからこうやって火あぶりになんかされちゃっているだけ。
私は偶々吸血鬼でどんな傷を負っても最後には回復されるから酷い事をされているだけで、助からないなんて事は有るわけ無い。
焼けて醜くなった私だけれど、茶々は優しいからきっとこんな私でも抱きしめてくれて、私はどん底から掬い上げてもらえる。
ひょっとしたら無いと思うけれど、これが切欠で茶々と恋に落ちて、外見年齢の差や寿命の差で悲恋のヒロインになってしまうかもしれないけれど、それでもこんな場所で私が終わる訳がない。
だから茶々が助けに来てくれる、それは瞼を開いた今この瞬間!
内心で叫び、エヴァンジェリンは目を見開いた。
野卑な笑みを浮かべた魔法使い達が次々に魔法の射手を放ち、炎が周りに燃え移らないよう制御している。
空を見上げる。
空に人影は無く、澄んだ星々と月の輝きが冷たくエヴァンジェリンを照らしていた。
「あ……」
駄目だ、とエヴァンジェリンはタイミングを計り間違えたという妄想で目を閉じようとしたが、閉じられない。
何度か試してみて、すぐに気づく。
瞼が燃えて張り付き、下りなくなってしまったのだ。
「あああああ」
魔法使い達は次々に火属性の魔法の射手を放ってくる。
現実から目をそらすことすらできなくなったエヴァンジェリンは、せめて叫んだ。
「あぁぁあぁあぁぁっ!」
絶叫。
しかし開けた口に火が入り込み、酸素を燃やし尽くし呼吸すらできなくなる。
声帯が焼け、ついにエヴァンジェリンは声すら出せなくなった。
再生は既に止まりかけており、最早死は目前にある。
助けて、茶々。
涙ながらに内心で叫んだエヴァンジェリンだったが、その涙もすぐに炎で蒸発し、頬を流れる事すら許されずに消える。
消える。
エヴァンジェリンの肢体が次々と灰と化し、地面に降り積もってゆく。
最後にエヴァンジェリンは何処かに手を伸ばそうとして、手どころか腕も肩ももう灰になってしまった事に気づき、愕然としようにも表情筋すら動かず。
意識がゆっくりと暗い沼に沈んでゆき。
――暗転。
4.
「――あれ?」
瞼を開くと、エヴァンジェリンは見知らぬ路地裏で、裸で寝そべっていた。
肌を刺すような冷気に何かと思えば、辺りには雪が積もっている。
空を見上げるが快晴なので、少し前に降ったのだろう。
体を震わせながら立ち上がった辺りで、じわじわとエヴァンジェリンの脳裏にこれまでの経緯が思い出されていった。
人質を取られ捕まった事、今考えれば冷静さを失っていた判断での逃走劇、すぐに捕まった自分、そして――。
「私は……、魔力封印状態で死んでも、後から再生できた、のか」
しかし見れば、辺りは一面雪景色である。
少なくとも数日は経過していただろう事は明白であった。
エヴァンジェリンは即座に魔力で黒い外套を生成、纏って素足で雪を踏みしめ歩き始める。
そうしてから茶々に買って貰った靴が燃えてなくなってしまった事に気づき、エヴァンジェリンは少しだけ気持ちが落ち込んだ。
静かな街だった。
裏通りどころか表通りまで行っても、誰一人外を歩いている人間は居ない。
エヴァンジェリンは試しにいくつかの民家や店舗に入ってみたが、人っ子一人存在しなかった。
代わりに埃が積もっており、中には冷めた食事が用意された家屋すらもある。
まるでこの町から急に人間が消失してしまったかのようだった。
「なんなんだ……これは」
まるで、エヴァンジェリンが襲撃されたのが悪夢か何かだったかのようである。
証拠となる傷の類いは残らず再生しており、物品どころか服すら身につけていなかったエヴァンジェリンに過去の証拠たる物は何一つ存在しない。
今までが夢だったかのような状況だった。
だとすれば一体何時からが夢だったのだろうか?
それこそ夢のように楽しかった、茶々との1年にわたる旅は?
それとも……。
「止めよう、馬鹿らしい」
言ってエヴァンジェリンは、3割程度とは言え灰の状態で月を浴び続けて回復した魔力を用い、飛翔した。
しかし、結論から言ってこの街は無人であった。
魔法で探してみても何一つ見つからないし、足を使って丸一日探してみても誰一人見つからない。
結局エヴァンジェリンは諦め、この街を出て他の街に行くほか無いと考えた。
地図の類いは家捜しで見つけたので、道も分かる。
衣服や鞄も調達し、旅人としてのカモフラージュもできた。
だが、しかし。
「……また、独りか」
ぽつりと零し、エヴァンジェリンは己の手に視線をやった。
アドルフやダニエル、アリアを置いて逃げだそうとした者の手。
卑怯者の手であった。
不意に手を振るい、魔力糸を生成、伸ばしてこれまた適当に街中で見繕った人形を動かしてみる。
人形繰り。
何もかもが燃えて無くなったエヴァンジェリンにとって、唯一己を茶々と繋げてくれる絆であった。
それを見ると、無茶な事をと思いつつも、言わざるを得ない。
「……茶々に、助けて欲しかったな」
冷静になったエヴァンジェリンには、彼女自身が冷静さを欠き、墓穴を掘るどころか、棺桶すら自作し掘った墓穴に自分で埋まっていった事がよく分かる。
そんなエヴァンジェリンを助けようなんて、無理難題も良い所。
恐らく夜明け前に救出を計画していた茶々は、騒ぎに乗じるべきではないと体力を温存していたか、外の騒ぎに気づいても間に合わなかったのだろう。
果たして、茶々は逃げ出せただろうか。
救出対象が減ったのだ、何とかなったと信じたいが。
「……行こう」
言って、エヴァンジェリンは雪を踏みしめ歩いて行く。
独りなのはずっとだった。
元に戻っただけだった。
なのに何故だろうか、エヴァンジェリンの心はまるでぽっかりと穴が空いているかのようだ。
乾いていて冷たさを多分に含んだ風が、心の穴を通り過ぎてゆく。
心の水分が奪われてゆき、ゆっくりと自身が乾いていくのを感じながら、エヴァンジェリンはそれでも歩き続けていった。
原作より、ミスって一回火あぶりにされたという発言がありましたが、それが今話でしたり。