「起きてください」
水面に浮かび上がるようにゆっくりと意識が浮上しつつある微睡みの中で、その声だけは聞き取れた。
「大丈夫ですか?」
女の声?僕を心配しているのか?
だんだんと会う焦点、声の主を確認する。
「あややや、意識はあるみたいですね」
あやややや?何を言っているのかこの人は。
両目を擦って視界をクリアにすると、最初に見えたのは黒髪の女性だった。
「こんばんわ」
美人だならというのが第一印象。そしてその顔を崩した笑顔が可愛い。いや、今は美貌の方は置いておいて。
「え、こんばんわ」
口もなんともない。身体に鉛のような疲労はあるが痛みはない。
どうやら助かったみたい。
「早速ですけど、質問いいですか?」
黒髪の女性は表情を変えて問いかけてきた。その顔つきはどこか厳しいものだった。警戒されているのか?
それもそうか、道の真ん中に倒れていたんだから....待て
あの怪物はどうした?
ここはどこなんだ?
見知らぬ地で会ったこの人は何者だ?
質問したいことは山ほどあるのだ、今すぐにでも聞きたい。
「あの、すいません!茶色の二足歩行の化け物って」
「何言ってるんですか、妖怪の山に来たら妖怪がいるに決まってるじゃないですか」
妖怪...妖怪の山?
この人はさも当然であるがごとく話す。こんな子供騙しな嘘をつかれて普段なら笑ってあげる所だが。現状が、僕の考えうる範囲を超えている。神隠しも化け物にも会ったのだから、妖怪という単語に疑念を抱くのは今の僕にはすべきことではない。
今の僕に必要なのは、受け入れて知ることだ。
「妖怪の山、ですか」
「え、知らないわけないでしょう。里の人ですよね?」
里の人?どこか集落の人間と勘違いされているのか?
すると黒髪の人は立ち上がり、何か気づいたように木にもたれていた僕を上から下までじっくりと観察し出した。
急に無言になって見出すものだから困惑する。集中しているようで声もかけづらい。
そして
「なるほど、見たことのない服。外来人ですか。」
一言漏らす。外来人?外から来る人で、外来人か?
もう、自分の知らない言葉にはお手上げだ。
「あの、もう何がなんだが」
僕の言葉を遮るように、黒髪の女性は手を差し伸べる。陶器のように白い肌は、異様に光を放つ月明かりの元その影と合わさり強く濃淡を描いていた。
「長くなると思います。なので来ていただけませんか?」
今の僕に選択肢はない。流されるだけでいい。
その手をとってゆっくりと立ち上がると、彼女は歩き出す。その背中を少し距離をとってついていく。
暗い森の中、彼女はどこに向かうのか?
僕の心中は、不安で溢れそうだった。
「ここが家です。どうぞ中へ。」
そこは和式の家だった。森にひっそりと建てられた家は蝋燭の灯りでぼんやりと闇の中に現れている。ドアに呼び鈴らしきものも無い。日曜夕方の大家族の家のようだ。
女性はそのドアを開けて中に入る、お邪魔します一言呟いて玄関をくぐる。
くぐった先は、廊下で左横には襖で仕切られている。奥の突き当たりには物が置いてある。外観からもわかっていたが平屋か。
となると部屋は襖の先か、恐る恐る襖の先へ進む。
その中はシンプルにまとめられていてゴチャゴチャしていなかった。僕の部屋とは大違いだ。箪笥がちょこんと壁際に置いてあり、真ん中にはやや大きいちゃぶ台、箪笥の反対側の壁はまた襖で隣にも部屋がありそうだった。
「座ってください。」
彼女はちゃぶ台の下に置いていた座布団を引っ張り出すとそれをちゃぶ台を挟んで対になるように敷いてくれた。
促されるまま、僕は座布団に腰を落とした。
お互い向かい合う形になって、ようやく彼女をじっくりと見ることができた。
黒神でぱっちりとした目、可愛いとも言えるし美しいとも言える容姿。少女から大人へ変わる中間の若者の顔、というのが見て取れた。
「まず、名前を聞いてもいいですか」
そんな美人がにこりとも笑わず尋ねてくる。真っ直ぐ僕を見据える目は何を考えてるのか、僕にはわからない。
だけど今の僕に選択肢はない。聞かれるまま答えるほかない。
「四条 周です。」
「四条さん、ね。これから言うことは外来人にとってはあまりに奇想天外な話ですけれども、大丈夫ですか?」
「もう現状も頭の理解を超えているので、今更大丈夫ですよ」
「わかりました。私は射命丸 文です。種族は....
天狗です。」
幻想郷、それは忘れ去られた者たちの楽園。
人、妖怪、魔法使い、神、その他etc....
様々な種族が、この地で共に生活をしている。
妖怪だの神だの僕にとってはあまりに信じられないが
そんなまさしくフィクション作家が作ったような幻想的な世界、だが
1つ変わったごっこがある。弾幕ごっこと呼ばれるものだ。
これは人がほかの種族に対抗できるように考案されたもので弾幕、言わばシューティングゲームのように弾を打ちあうものらしい。
聞けば聞くほど奇妙なのだが、それは置いておいて。
更に幻想郷には「異変」と呼ばれる事件が起こるらしい。
これは個人でも起せるようで、時に幻想郷全土に影響を与えるものからわずかに影響を与えるものまで様々。
それを解決する手段にも弾幕ごっこがあるらしいが。
そんな幻想郷に住む目の前の黒髪美人の射命丸さん
天狗でもあり新聞記者でもある。妖怪の新聞ねぇ。
僕は変な星の下で生まれたのか、どこか新聞とは切っても切れない関係だ。
話が逸れた。まとめると
僕が今いるのは幻想郷。そしてあの茶色の化け物は妖怪。
今目の前にいるのは射命丸さん。
今更ながら夢だろうな、これ。
「以上です」
「は、はぁ」
射命丸さんの話にただただ首を縦に動かすしかなかった。こんな特産品が東北の方にあったような。
ただ話の内容は理解はしていた、理解はしていたけれども。
「なんというか、その」
言葉に詰まる。それが本当であったとしても、今僕が出来ることはなんだろうか?
僕は、帰れるのだろうか?
その時、ふと思い出す。50年前の失踪事件を。
彼女は失踪して以降、元の世界に戻っていない。もし僕と同じように幻想郷に来たのなら、僕はどうなるんだ?
嫌な汗が流れる。自然と握っていた手を開けると、手汗でぐっしょりと濡れていた。
先ほどまで感じなかった悪寒に嫌という程に震える。
「僕は、どうすれば?」
「外の世界への帰り方ですか?それなら心配はありません」
そう言ってにっこりと微笑む。本当ですか、と思わず聞き返してしまったが、射命丸さんは笑みを崩さず首を縦に振る。
その微笑みは今の僕にとって唯一の希望でもある。救いはある、なら悲観するのは早い。
「どうすれば帰れるんですか!」
「今すぐに、とは無理ですが。明日に博麗神社に行けば帰れます。」
「博麗、神社?」
「この幻想郷と外の世界は博麗神社の結界で隔てています。言わば門ですね、なので門の管理者である博麗の巫女が住む博麗神社に行けばその結界を通して外の世界に戻る事が可能です」
原理は置いておいて、僕は帰れるようだ。
安堵すると、全身の疲労がどっと押し寄せてきた。全身の力が抜けてあちらこちらから痛みが走る。
博麗神社、そこに行けば帰れるんだ。確かに夜に訪れるのは失礼、明日に行くとしよう。
「そうですか、お話ありがとうございます。明日、博麗神社に向かいます」
「流石にそれではさよなら、というのも可哀想ですし、今夜くらい寝床を貸してあげましょうか」
ありがたい、正直この話を聞いてからどうしようかと悩んでいたのだ。泊めてくれ、と頼むのも何か申し訳ないし。
射命丸さんが立ち上がると座布団と机を隅に置いて、入れ替わりに隅に畳まれた布団を敷いた。
「しばらく使ってませんが、これでよければ」
「すいません、ありがとうございます」
知らない匂いに包まれた布団で寝るのは、いつ以来か....
「帰ったんですか?」
「帰ったら、ここいないから」
まさかの二度目パターンに同じように素早く突っ込む。
しかし不思議に思うのも無理はないか。僕がこうしてここにいる事と僕の話は噛み合ってないからだ。
だけど、僕が帰りたかったのはまぎれもない、僕の意思だった。
「それで、どうして残る事に」
最初の方は肘をついて面倒くさそうに聞いていたが、今となっては食い入るように質問してくる。そんなに面白いかな?
疑問に思いつつも、その質問には答える。
「翌日、僕が博麗神社に射命丸さんと一緒に行って、巫女さんに頼んで、元の世界に返してくれる事になったんだけど....ある人がそれを許さなかった」
「許さなかった?」
「八雲 紫ですよ」
あの時の一言を僕は忘れない。
本当にわかるのだろうか?
「あなたの全てが、ここにあります」