貴方の元に、一人の友人が訪れた。

久しぶりの再開に、貴方は友人と子供の頃の話をしようとする。

けれども友人は、不愉快そうに顔を歪めると「昔のことを思い出すから、話したくない」と言う。

聞けば、友人は過去にひどい悪徳を犯したのだと言った。

「良かったら、聞かせてくれないか」貴方のその言葉に、友人は重い口を開くのだった。

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少年時代の悪徳

少年時代ならば誰であろうと、熱中し打ち込む物があっただろう。

 

スポーツでも、編み物でも、読書でも、なにか一つもしくはそれ以上の、趣味のようなものを多くは持っていただろう。

 

私もその例に漏れず、多くの物事に熱中しそして打ち込んだ。

 

そのうちの一つが、昆虫採集だった。特に私は綺麗な虫を好んで集めていた。

 

綺麗な虫を捕まえコレクションする度に、子供の私はたまらなく興奮し熱意を燃やした。

 

あの頃に感じた熱意、微妙な喜びと激しい欲望が入り交じった気持ちを覚えたのは、あとにも先にもこの少年時代だけだった。

 

それほどまでに、子供の私は昆虫採集に熱をあげていた。

 

展翅の技術は大人が驚く程だったし、標本の道具も良いものを使った。標本に飾られた虫たちは図鑑のように綺麗に展示され、体のどこも欠けることがなかった。

 

しかし、子供の私はそれでも採集に満足することはなかった。

 

熱をあげればあげるほど標本の質だけではなく、捕まえる虫の種類や大きさにも拘りたくなったのだ。

 

もっと大きな虫をもっとたくさん採ろう、そう考えてた折りに、一人の少年が私の元へ標本を見せにきた。

 

その少年とはあまり仲良くなかった。というよりも、少年は私に対していい印象を持っておらず、いつも憎しみを帯びた視線を向けていた。

 

標本を見せにきたのも、模範少年の私を驚かせて優越感に浸ろうという魂胆なのが、見え見えだった。

 

仕方なく私は標本を見てやったが、少年の標本はひどいものだった。足はとれ触角は伸びて展翅は杜撰、どこを見ても悪いところしかない。

 

だけれど、でも、その標本の蝶はコムラサキだった。

 

私は図鑑でしかコムラサキを見たことがなかった、そもそも私のいるところに生息すること自体知らなかった。

 

珍しかった、大きかった、そして何よりキレイだった。

 

私が集めた虫たちがしょうもなく見えるほど、その蝶は私の目には魅力的に映り、子供の私をおかしくさせた。

 

気付いたら、私は少年の標本をこっぴどく批評し扱き下ろし始めた。

 

どう批評したのかは忘れたが、とにかく私は標本の質について酷評し続けた。少年がそれ以降私に標本を見せることが無くなるほど、酷く貶した。

 

貶され落ち込んだ少年が標本を脇に抱え去っていく時には、私は冷静になった。冷静になって、自分のしたことがどれだけ器量が狭く、自分勝手な事かを思いしった。

 

だけれど、同時に私はその少年が憎く思えた。

 

私がコムラサキを捕まえていたら、もっとキレイな標本に出来ていたのに。

 

あの少年なんて、そこらの小さな虫を捕まえていればいいのに。

 

私は、コムラサキのような虫が欲しいのに。

 

私が最も欲していた物を持っていた彼が、堪らなく憎かったのだ。少年が、私を憎むように。

 

だから、私がその少年に対抗意識を燃やすのも自然なことだった。コムラサキなんて目じゃない虫を捕まえてやる。そして、少年にその虫の標本を見せてやる。あの少年が私にしたように。そう子供の私は決意し、珍しい虫を懸命に探すことにした。

 

だけらどそんな虫は手に入らず、珍しくて大きくてキレイな虫を、私は来る日も来る日も夢見て採集に出かけ、その度に落胆して家へ帰ってくる。そんな時期が二年ほど続いた。

 

そして、その日々は二年目にして終わることになった。

 

珍しい蝶の蛹を見つけたからだ。それだけじゃない、私はその蛹を羽化に成功したのだ。

 

私は嬉々としてその蝶に麻酔をし、ピンをさして標本にした。

 

これ以上なく、私は幸せだった。ついに私があの少年に勝てる日が来ると、この劣等感を晴らす事ができる日が来たと、子供の私は喜んだ。

 

だがその喜びも、直ぐに消えた。

 

標本が、壊れたからだ。私の蝶はバラバラに、グチャグチャに、見るも無惨な姿になってしまっていたからだ。

 

誰がこんなことをしたのか、どうしてこんなことになったのか、考える余裕など無かった。私は泣きながらその蝶を復元しようとした。それも徒労に終わった。どうしようもなかった。

 

あの四つ目の模様のついた美しい茶色い羽が、バラバラになった。その事実は私の晴れない劣等感を、私は彼に勝てないということを示唆しているようで、私はただ茫然としながら蝶の残骸を自室で見つめることしかできなかった。

 

そんな時だった。あの少年が、ハインリッヒ・モーラが僕のもとを尋ねてきたのは。

 

僕は彼がクジャクヤママユを見にきたのだと思った。だから僕は、クジャクヤママユは台無しになったと伝えた。自棄になったように、モーラに対して降参するように。

 

それでもモーラは僕に蝶を見せてくれと言った。僕はもう彼に降参したつもりだったので、彼の言う通りバラバラになった蝶を見せてやった。台無しになった、もうダメだと伝えてね。

 

そうしてクジャクヤママユの残骸を見たモーラは、僕にこう言ったんだ。

 

「君のクジャクヤママユを壊したのは、僕だ」と。

 

その時だった。僕の中で何かがすっと落ちるような感覚を覚えたんだ。

 

僕は今まで、なんで劣等感を持っていたのだろうと思うほど、穏やかな気分になった。

 

不思議に思えたが、しかし、直ぐに僕は理解した。

 

僕の熱意は、いつの間にか採集じゃなく、この少年に勝つことになってしまったんだと。

 

このクジャクヤママユを壊してしまったのは、他でもない僕なのだと。

 

そして、モーラに謝らせるということで勝った僕は、すっかり熱意が冷めてしまったのだと。

 

「そうか、そうか、つまり君はそういう奴なんだな」

 

僕、いや、私は舌打ちしながらモーラにそう言った。

 

そして、私は彼を赦してやった。

 

怒りもしない、殴りもしない、ただ君はそういうやつなんだなと皮肉を言っただけ。

 

今思えば何という悪徳だろうと思えるほど、私は傲慢な事をした。もし彼を殴ってやれば、怒ってやれば、或いは諭してやれば、今ごろモーラとは親友とまでは言わないが親しくやれていたかもしれない。

 

だけど、私はそうしなかった。彼への熱意は、もう覚めてしまっていたのだから。

 

そうして私に赦された彼は、僕に標本を見せに来たのと同じように、肩をただただ震わせて僕の前から去っていった。

 

だけれどあの時と違って、私にはもう何の感慨も浮かばなかった。

 

そして彼への熱意が無くなると同時に、私は冷たくなった。あれほど熱中していた採集がバカらしくなったし、標本は邪魔臭く思えた。

 

だから、私は自室に戻って直ぐに

 

 

標本の蝶たちを、一つずつ潰してやった。

 

僕の、私の、エーミールの大切だった標本を。

 

あのモーラと同じように。

 

潰してたんだ。



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