DoubleSteps   作:小竜

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#1 コートの奇術師

「30-40」

 審判のコールが聞こえる。金山春人はクセのある髪をかきあげた。普段なら笑みをたたえ続けている顔も、今は引き締まっている。

 サーブ権は今、金山春人だ。スコアボードには4-5と表示されている。あと1ゲーム取られたら春人の負けという状況。

 

「……荒谷っ、もう一息だっ!」

「ここまで来たら金山を倒して、決勝の池も倒して、堂々と関東大会へ行っちまえっ!」

 

 荒谷の応援に来ているギャラリーが、熱のこもった言葉で鼓舞する。

 神奈川ジュニアテニスサーキット14歳以下の部の準決勝戦。

 

 対戦相手は荒谷寛。野獣のような見た目。闘志を燃やしてラケットを振るう男だ。同年代のため、小学校までの大会では幾度となく戦ってきた。その全てにおいて、春人が負けたことのない相手。だが、今日の春人は追い込まれていた。

 やはり1年のブランクが、ここまでの差を生んでしまったのだろうか。

 

 春人は6年生の頃に試合で右膝を故障してしまった。治療に1年掛かり、中学2年生となってようやく試合に出ることができた。

 テニス仲間からは歓迎ムードで迎えられ、不死鳥のごとく舞い戻ってきた春人が以前のように、神奈川で池爽児との2強として活躍すると、多くの人間が信じていた。もう1つの準決勝戦を 6-0 6-0 のスコアで江川逞を倒した爽児。彼と決勝で戦おうぜと約束もした。

 決勝で爽児とやるのは自分でなきゃいけない。そう思っていた。それが春人の復活を待ち続けてくれた、爽児への恩返しだと信じていた。

 

 だが、今の有様はどうだろうか?

 

 テニスを舐めていたわけではない。右膝の治療の合間にも負担が掛からない練習――体幹の徹底したトレーニングをしたり、夕飯でもラケットを離さなくて父親にどやされるくらいに、ラケットでボールを扱ってきた。走れるようになってからは、体力向上のためのランニングも欠かさなかった。

 しかし、事実として今の春人は息が上がり、手が震えていた。

 春人はボールを投げる。力を抑えてラケットを振るう。

 

「フォルト」

 

 ボールは無常にもネットへと吸い込まれる。

 振り返れば、異変の予兆はあったと思う。まず最初に感じたのは1回戦。5-0で、相手を追い込んだ時のこと。右膝のことが気になり始め、身体が重くなったことを覚えている。なのに試合が終われば、違和感など霧が晴れるようになくなったのだ。

 だが、身体の変調は毎試合あった。それも必ず相手を追い込み始めると起こるのだ。勝ち進むごとに違和感は明確になっていく。自分の周りだけが重力が増したかのように、身体が動かなくなる。膝が泡立つような感じも増していく。

 

 右膝は完治しているんだっ! 身体は大丈夫だから、いうことをきいてくれよっ! 自分自身に懇願するも、手の震えは止まらない。喉が乾いて仕方がなかった。

 

「ダブルフォルト。ゲームセット ウォンバイ荒谷 カウント6-4」

 春人は天を仰いだ。荒谷陣営の歓声が青空へと吸い込まれていく。

 

「おい、ハル。俺はこんな舐めた勝ち方、認めねえからな……」

「……わりぃ、返す言葉もねえわ」

 

 試合後の握手をする際、荒谷の責めるような眼光が鋭くて、春人は眼を背けるしかなかった。

 テニスバッグにラケットをしまってから立ち上がる。フェンス越しに見知った顔があった。爽児は何か言いたげに頭をかいており、両手でフェンスを掴んだナツは泣きそうな顔をしていた。

 コートから出て、2人の側へと移動する。

 

「ハルちゃん……」

「すまんすまんっ! 昨日ようやく手に入れたエロビデオを、10回も再生しちまったからなっ! いやあ、寝不足って怖いなあ」

 

 はっはっはっ、と努めて明るく振舞ってみる。

 

「膝をまたやっちまった……、っていうわけじゃないよな?」

「そりゃ問題ねえよ。ほらっ、こうやってホップステップジャンプも出来るしなっ」

 

 3回ほどその場で飛び跳ねてみる。膝の泡立つような違和感はなくなっていた。

「まあ、ブランクある奴が勝てるほど、テニスは甘くねえってこったっ。練習サボりまくってた俺には当然のむくい――」

 

 

 直後、ナツが飛びついてきて、春人の胸元へ顔をうずめた。爽やかな柑橘系の匂いが鼻をくすぐる。

 

 

「わたし、知ってるもん……、ハルちゃんが頑張ってたこと、知ってるもん」

 ぐすっぐすっとナツは鼻をすする。

「あんなに練習してたのハルちゃんが、全力を出しきれないなんて、わたし悔しいよっ」

「おい、ナツ……」

 

 爽児がなだめようとするも、ナツは堰が切れたように泣き始める。

 素直な感情をあらわにするナツがいて、春人は自分に嘘をつこうとしていたことに気づいた。そう、本当は悔しかった。その気持ちを受け止めなきゃいけない。ごまかしても、その先に良いことはないから。

 

「ありがとな」

 

 春人はナツの背中を優しく撫でた。

「この悔しさをバネにして、次は勝てるように頑張るよ」

 春人はナツを笑顔にするためにも、今度こそ勝ち進もうと決意する。

 だけれど、世界はどうしようもなく非情で。

 その後、中学2年の県大会クラスの公式戦で、一度も優勝できなかった春人は、秋を境に中学テニスから姿を消したのだった。

 

 

 

 

 そして2年の月日が経ち――。

 

 

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 大杉高校からの下校途中。学校から最寄り駅へたどり着くには弁天橋を渡る必要がある。金山春人は橋の手すりの上を、いつものごとくひょいひょい歩いていた。

 

 土曜日ということで午前授業だったため、まだ明るい時間帯。昼間は日の色も吹く風も、まだ春の感触が残っている。

 人がそれなりに歩いているが、その誰もが物珍しい大道芸でも見てるような顔をしてきた。

 少しでもふらつけば川へと真っ逆さまだけど、春人の表情は余裕しゃくしゃくだ。

 

「相変わらず、すごい体幹してるよね~」

 

 唯一驚いてないのは、ちょっと後ろから普通に弁天橋を歩いてついてくる、ナツぐらいのものか。昔からフェンスの上みたいな細い足場を、春人は好んで歩いていた。そんな光景を見続けていれば、このぐらいで慌てることもない。

 

「それよりも、ハルちゃん! お願いだからちょっとだけ時間をちょうだいっ」

 テニスバックを肩にかけたナツが、両手を合わせて懇願してくる。

「ダメだっつーの。俺はこれからスケジュールが詰まってるんだ」

 遊んでくれとまとわりつく犬を追い払うように、金山春人は手を振るう。

 

 鷹崎奈津。小学校からの付き合いで、約1ヶ月前に入学した大杉高校でも、同じクラスという腐れ縁だ。

 同級生からすればナツと幼馴染というステータスは、喉から手が出るほど欲しいものらしい。あんな可愛い娘とお近づきになりたいと、血の涙を流しそうにしながら訴えてくる奴もいた。

 透明感のある顔立ち。金色に染められた髪が風にふわりと舞う。テニスを続けることで得た理想的な筋肉は、女性としてのしなやかさを損なうものではない。

 つい先日、知り合った影山という男子生徒曰く、すでに学年一可愛いと噂になってるとか。

 

 まあ、ナツが可愛いことは認めよう。

 だが、ナツに付きまとわれるせいで起きる問題もある。

 他の男子生徒に妬まれたり、他校の女子生徒と遊びに行くのに誘われなかったり、告白した女子からはナツと付き合ってるんじゃないのと誤解されたり。

 

 そんな中学3年の悲しい思い出。

 

 高校ではナツ以外の女子と、イチャイチャできるような学校生活を送るのだ。一緒に登下校して、手をつないだりして、夏には花火を見に行ける関係になるのだ。

 それが新生活を始めるのに、春人が決めた新しい目標だった。

 

「忙しいって、どんな用事があるの? 勉強とか?」

「聞いただけで蕁麻疹が出る単語を言うんじゃありませんっ! 帰ったら寝るとか、おやつ食べるとか、犬の散歩とか、秘蔵のエロ本を見るとか。ほら、スケジュールが詰まってるだろ?」

「なによそれー! ヒマそのものでしょっ!」

 

 ナツがほっぺたを膨らませて抗議する。

 本当のところは全く違う。隣のクラスの香織ちゃんと、15時から遊びにいく約束をしているのだ。高校生になったばかりで、ナツとのツーショットシーンが少ないことが幸いしたらしい。ナツのことが話題に上がらず、誘うことができた。

 花色の高校生活を目指す第一歩としては、上々といえよう。

 

「むー」

「ど、どうした? 俺のハンサム顔に目と鼻と口以外でなんかついてるか?」

「なんか、怪しいなあ。ハルちゃん、わたしに嘘ついてない?」

 

 ぎくっという効果音が聞こえた気がした。

 

「ばっ、ふざけなさんなっ。誠実な天使と御近所様から噂されてる男に、なんてことを言うんだっ」

「天使っていうよりペテン師でしょ」

 

 ナツの疑いの眼差しが春人に突き刺さる。

 

「少しだけでいいから、手伝って欲しいんだよ。昔、爽ちゃんとハルちゃんと私が、よく使ってた打ちっぱなし場があったじゃない? あの駅の裏にあるとこ。覚えてる?」

「ああっ、覚えてるぞ」

「あそこで練習してる子供たちがいたんだけど、最近の土日はラケットを持った高校生ぐらいの男たちが来て、占領して子供を追い出しちゃうみたいで……」

「公共の場所なんだから仲良く使えよなあ。って、お前、まさか……」

「うん。取り返しに行くつもりでね」

「ばっ、お前やめとけって。子供と老人にしか強く出れない相手は、脳筋って相場が決まってるぞ。ゴリラに優しくしてもらうほうが、まだ楽だろうよ」

「大丈夫だよっ、テニスで勝負することになったから」

「もう決定済みっ!? いつやるんだ?」

「15時から本沢テニスコートでね」

「まさかの今日でしょうっ!?」

 

 ナツが細くて綺麗な指で、力強く握りこぶしを作る。

 

「おまえ、脳筋なめんなよ? 不利になったらラケットを投げつけるぐらい平気でやるぞ。その人種は反則も技と思ってるからな」

「まさかあ、そこまでしないと思うけど。でも公平に審判してくれる人がいたらなあって思ったの。だからハルちゃんについて来てもらいたいなって」

「なんだよ? てっきり俺に相手してくれ、って言うのかと思ったぞ」

「私がやるに決まってるよ。私が申し込んだんだもん」

 

 ナツの瞳に決意のこもった光がある。

 こうなったらナツは言うことを曲げないだろう。相手も高校生だとすると、同学年では女子の方が不利だ。男子と女子では圧倒的にパワーが違う。ただ、ナツは女子でも全国大会の常連というくらいに上手い。相手の男の技量にもよるが、勝ち目はあるかもしれないが……。

 

「そもそも、その話って本当か? またそうやってどうにかして、俺にテニスさせようとしてるんじゃないの? この前だって、きゃわいい女子たちがあれこれ教えて欲しいって、俺を待ってるとか騙したよなあ!」

「で、でも女子もたくさんいたでしょ?」

「ああ、いたよ。あれこれと『テニス』を教えて欲しいっていう、純粋な女子たちがなあ! 全然っ、口説ける雰囲気じゃなかったし」

「だ、だってテニスやってみたいって言うんだもん。ハルちゃん、教えるの上手だからお願いしたんだよ」

「しかもあの娘たち、全員彼氏いたみたいじゃねえかあ!」

「あはは、そこまでバレちゃてたんだ」

 

 おせっかいな幼馴染は、すっかり遠ざかったテニスと春人をラブラブくっつけたいらしい。どうせだったら可愛い女の子との間を取り持って欲しいのに。

 そのために様々な試みをしてくるのだった。

 

 テニスの観戦したいけど1人じゃ寂しいからと誘ってきたり。春人がいつも聞いている iPodの中に、テニスのラリー音をこっそりと入れておいたり。テニスボール型のおにぎりを差し入れてきたり。

 

「ううう、くそう。リア充にテニス教えるなんて思い出すだけで泣けるぜ。そんなわけで、今日はもう騙されないからな?」

「今日のは本当なんだけどなあ」ナツが困ったように笑った。「でも、そっか。無理そうだったらいいんだ。急にお願いしてごめんねっ。私だけでどうにかしてみる。話を聞いてくれてありがとっ!」

「あ、おいっ!」

 

 春人が手を伸ばすも、ナツはすでに駆け出した後だった。その背中はどんどん小さくなって、やがて見えなくなり。

 これもナツの策略か? でもあいつ、演技は上手くないんだよなあ。

 ナツからくる色々なお節介を迷惑とは思わない。ナツは人が嫌がることをする奴じゃない。彼女なりの考えがあってのことで、そこは気持ちとして汲むべきところだ。

 

 だが、春人は本気のテニスをするつもりはもうなかった。

 

 思い出されるのは中学2年のこと。大会形式の試合でテニスをすると、身体が思うように動かなくなった。

 荒谷に負けてから、特に顕著になった。1回戦や2回戦はまだいい。少し動きが悪くなるだけ。でも、準決勝ぐらいになると息が切れやすくなり、実際は痛くないのに膝が泡立つような感覚に襲われる。相手を冷静に見れなくなる。

 不思議なことに公式試合じゃなきゃ、なんの問題もなく最後までゲームができた。

 

 イップスだと STCのコーチは言った。

 

 イップス。それは精神的な原因で自分の思い通りのプレーができなくなる運動障害のことだ。春人はイップスになり、公式試合のみで身体が上手く動かせなくなってしまった。

 スポーツ心理学者のマイクにも相談した。それでも泥沼からは抜け出せなくて。負けるたびに心に重りが追加されていく気分だった。

 そんなことをしている間に、同年代の仲間はどんどん前に進んでいってしまう。

 いつか爽児とした約束。日本一を賭けて戦おうぜと言っていた。それを叶えるために苦しいリハビリも乗り越えてきたけど。

 

 心がついてこないんじゃ、どうしようもない。

 

 爽児は『ハルなら大丈夫だ。俺は待ってるからなっ』と言ってくれてた。

 春人は知っていた。中学1年ぐらいの頃から、爽児に海外留学の話が来ていたことを。だけどあいつは留学しなかった。律儀に春人を待ち続けてくれたのだ。

 信じて待ってくれる爽児がいて、嬉しかったのは確かだ。でも、イップスになって県大会でも優勝できなくなって。

 

 その頃に春人は思った。爽児を日本に縛り付けているのは、他でもない自分の存在だと。

 

 爽児は才能があるやつだ。きっといつか世界ランキング1位も狙えるようになる。誰よりも春人はそう信じていた。

 だが、自分がイップスでもがいている限り、爽児は立ち止まって春人を待ち続けてしまう。

 だからこそ、春人はテニスを辞めたのだった。爽児を日本から解放するために。

 爽児に殴られるかと思ったけど、そうはならなかった。爽児はフロリダへと留学していった。春人が最後に爽児を見たのは、堂々と飛行機へ搭乗していく彼の後姿だった。

 風の噂だけど、もうすぐプロデビューするとも聞いている。やっぱり爽児には才能があると改めて思う。

 爽児を裏切った自分にテニスを本気でやる資格はない。

 それでも、幼馴染を助けるためなら爽児は許してくれるだろうか?

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「ああ、クソッ。ちょっと遅れちまった」

 

 春人は内心で舌打ちをする。自宅に帰ったところで親父につかまり、余計な時間を浪費してしまった。

 テニスバックを担いで本沢テニスコートにたどり着いたのは、日が西に傾きかけていく頃だった。

 コートの中にはナツとガタイのいい男子高校生3人がいる。学ランの襟を崩して、ニヤニヤと笑っている。コートにいる金髪男が、なんとなく3人の中でリーダー格の雰囲気があった。

 

 テニスウェアである白いシャツにピンクのプリーツショートパンツに着替えたナツ。サーブ権を持つ彼女は、柔和な顔立ちの中にも真剣な色を秘めていた。

 

 審判台に乗っているのはチリチリパーマ男子。鼻ピアスが目立つ男はスコアを動かしている。スコアボードには3-0とあった。

 

「フォルトだよ~。こりゃ楽勝かな~」

 

 チリチリパーマがおちょくるように言った。

 ナツがボールを軽く投げて、しなやかに打つ。

 センターラインぎりぎりにボールを叩き込み、金髪男からサービスエースをとった。

 

「はい、フォルト~。これで0-30」

「ぎゃははっ! いやあ、参っちゃったな~。なんもしなくても点数入ってくじゃん」

 金髪男が下品な笑みを浮かべる。

「……やっぱりなあ」

 春人はぽつりと呟いた。

 

 ライン上にボールが少しでも触れている今の打球は、間違いなくイン扱いである。だというのに、あのクソ審判はアウト扱いにしていた。あからさまな不正である。

 何か言いたげなナツは唇を噛み締めていた。もしかすると春人が来る前にも抗議する場面があったのかもしれない。でも、取り合って貰えなかった。そんなところじゃないだろうか。

 

「俺たちが勝ったら、約束守ってねナツちゃ~ん」

「わかってる。でも、私が勝ったら、あの打ちっぱなしコートを子供たちにもちゃんと使わせてあげてね」

「もちろんだよ~。でも、このままじゃ俺たちの勝ちじゃね? そしたら、ちゃーんとカラオケ屋でデートしてね」

 

 カラオケ屋でデート。

 ナツはわかってるのか? そんな防音バッチリなところに連れてかれたら、どうなるかってことを。こいつらのいいようにスケベされちまうぞ?

 いや、ナツはそこまで考えてない。本当に歌うだけと思ってるだろう。

 そういう純粋なやつなのだ。

 

「きゃあ!」

「15ー30。おいおーい、ちゃんとラケット握れよなー」

「わりいわりいっ!」

 

 コート上ではナツが右足を抑えて座り込んでいた。金髪男の手にあったラケットが、ナツのそばに転がっていた。

 

 

 春人の中で、何かがぷっつんとキレた音がした。

 

 

 テニスバックからラケットを取り出す。

「ナツちゃーん、大丈夫? ごめんねー」

 軽薄な笑みを浮かべる金髪男がラケットを取るついでにナツへ手を伸ばそうとして、

 

 ばしっ、といい音がした。

 

 テニスボールが弾丸となって、金髪男の手をかすめて突き抜ける。急に打ち込まれたボールに、金髪男は盛大にひっくり返った。ナツも目をまん丸にしていた。一瞬遅れてナツが振り返り、春人と目があった。

 

 ナツは目に涙を溜めながらも、嬉しそうに顔を輝かせた。

 

 目を白黒ながら騒ぐ金髪男を尻目に、春人はナツに近寄って右足へと触れた。直接何かが当たった痕はない。とりあえずは一安心だ。

 

「おい、ナツ。痛いところはないか? 立てそうか?」

「たぶん、大丈夫だと思う」

 

 ナツの脇を支えながら立ち上がらせる。ナツはつま先でトントンっと地面を叩いて、右足の調子を確認した。

 ようやく我に帰った金髪男が、後ずさりながら春人を睨みつけてきた。少し怯えた表情のナツが、身体をぴくっと震わせる。

 

「あ、あぶねえじゃねえかっ!」金髪男が吠える。「誰だよ、お前はっ」

「オレか? オレは通りすがりのペテン師様だよ」

 

 

 春人はナツを隠すように立つ。

 

 

 そっと伸びてきたナツの手が、春人の服をほんの少しだけつまんだ。

 

 

 春人の燃え上がった怒りは、脳筋3人組へと向けられる。

 ナツを傷つけたこいつらを許すことが出来るか?

 答えはNOに決まってる。百回ぶち殺しても、殺したりないぐらいだ。

 だけれど殴り合いをすれば、ナツが悲しむのが目に見えている。じゃあ、それ以外の方法でナツを傷つけたことを後悔させてやればいい。

 テニスでぶっ潰すのだ。

 春人はラケットを金髪男へと向ける。

 

「あんたら、そこそこテニス出来んだよな? 俺と勝負しろ」

「は、はあ~? 何言っちゃんてんの? つーか、邪魔だから消えろよ。俺らはナツちゃんと遊んでんだからさ」

 

 金髪男が仲間へと振り返ると、2人は「そーだそーだ」と返してくる。

 

「タダでとは言わない。俺が1ゲームでも落としたら、財布にある3万円を渡してやるよ。全裸で町内一周してやってもいい。ついでにお前らはダブルス、俺はシングルスで構わない。そのかわり俺が6ゲーム先にとったら、ナツと遊びにいくのはチャラだ。ここのコートにも打ちっぱなしコートにも二度と来んな」

 

 信じられないことを聞いたと目を見開き、金髪男はニンマリと笑った。

 

「ハルちゃんっ! そんなのダメだよっ! 万が一負けちゃったら……」

 ナツを安心させるために、春人はふっと表情をゆるめた。ナツの頭をぽふぽふと撫でた。言葉を遮った。

「んなことは億が一もありえないから、心配すんな」

 なんといってもナツの運命が掛かっているのだから。

 

 

 勝負を受けるといった金髪男は、鼻ピアスを相棒に選んだ。

 ダブルス。テニスコートに両チームが2人ずつ入って、ゲームをすることだ。前衛と後衛にわかれて、2対2でボールを打ち合う。対してシングルスとは、1対1でゲームをすること。

 相手がダブルスで、自分はシングルスということは、つまり2対1で戦うということだ。

 

「最初のサーブ権はこっちでいいか?」

「どうせ結果は見えてるしな。それぐらいは構わねえよ」

 

 どーぞどーぞと軽い調子で金髪男が勧めてくれたので、遠慮なくいただくことにする。

 テニスにおいての2対1。普通に考えれば前衛がネットそばに陣取り、後衛が守備的にカバーするという構図の方が有利である。

 だが、サーブは必ず後衛が最初にとらないといけない。

 春人は右側のコート――フォアサイドに入って、ボールを2度弾ませた。狙うのは相手のライトサービスコートの中央。誰がみてもインしていると、有無を言わせぬ場所。

 

 スパンっと軽やかな音。春人のサーブから放たれたボール。そこそこのスピードで、ゆるいカーブを描いて左へ曲がっていく。相手コートへ入る頃には、後衛の金髪男が追いついた。フォアハンドでテイクバックをして――。

 

 

 ボールが弾むと同時。軌道が大きく捻れて右へと跳ねる。

 

 

 金髪男の頬をボールが掠めていった。少し遅れて抜かれたと意識がついてきたらしく、青ざめた顔で振り返っていた。

 

「おーい、審判。寝てるヒマはねえぞ」

「ふぃ、15ー0」

 

 審判役のチリチリパーマがぎこちなく告げた。

 春人はポイントをとったので、次のサーブを打つために逆サイドへ移動する。

「さっさと構えろ。次、いくぞ」

 次のレシーバーとなる鼻ピアスが慌てて下がって、ラケットを構えた。

 春人は呼吸をするかのごとく、しれっとサーブを打った。

 

 ツイストサーブ。スクリュー回転を掛けられたボールは、打たれた直後は回転軸と空気摩擦でカーブ様に左へ曲がるが、バウンドと同時にそれまでとは逆方向へ大きく跳ねるというサーブだ。

 

「……30ー0」

 

 ぐうの音も出ない状況で審判の声だけが虚しく響く。

 今度のレシーバーは金髪男。構え方からツイストサーブを見極めて打ち返そうとする必死さが、ひしひしと伝わってきた。

 アホウな奴だなあ。ツイストサーブを意識しすぎた時点で、この1ゲームはもう終わってる。

 スクリュー回転を省いたサーブを前に、金髪男が盛大に空振った。流れに乗ってもう一発サービスエースを決めて、1ゲームを先取する。

 

 ネットの向こう側の2人が引きつった表情をしていた。それでも心が折れないのは、サーブ権が向こうに移動したからだろう。相手のサーブを春人がリターンした時点で、前衛が叩き込めば1ゲームとれる。すなわちこの変則マッチで勝てると皮算用しているのだ。

 

 だが果たして、そう思い通りに行くかな?

 

 金髪男のファーストサーブは外へ切れていくスライスサーブ。春人は追いつくと同時に、山なりにボールをあげた。ゆるゆると前衛の頭を通り越し、後衛が走らなきゃ届かない絶妙な場所。

 春人は打った瞬間にコートを力強く蹴って、ネットへと詰め寄った。予期せぬ出来事に金髪男はレシーブする方向を見失う。

 それでも打ち返してきたボール。春人は軌道上に入り込み、前衛の股下目掛けてボールを叩き落とす。ボールはフェンス際へ転がっていく。

 

 これで15-0。

 

 今度もまた金髪男のサーブをふわりと返す。そしてダッシュ。ほくそ笑んだ金髪男がこっちの真似をして、春人の上を抜けるようにボールを浮かせた。

 春人はネットに向かう途中で急ブレーキ。コート中央に陣取る。

 獲物を狩ろうという金髪男の返球は、ただのチャンスボールへと成り下がる。

 

 絶好のスマッシュボール。

 

 

 ずばんっ!

 

 

 強烈な打球は前衛へと目掛けて放たれた。鼻ピアスのわずか数センチ左を、鋭く抜けていく。金髪男がどうにか拾うも、ボールが空に吸い込まれるように大きく跳ねて、再び絶好球となって春人の元へ。

 貫くような視線を前衛に向ける。狙い打ってやる。そんな圧力を込めて。春人がスマッシュの構えをして――。

 鼻ピアスの脳裏によぎったのは先ほどの打球だったのかもしれない。恐怖に目を閉じながらラケットを前に出した。

 

 

 ふわりっ。

 

 

 春人はフォームを瞬時に変えた。選択したのは、やわらかなタッチで繰り出されるドロップショット。絶妙な回転により、バウンドしてからコートの外へとボールが流れていく。

 身体が強ばった前衛は一歩も踏み出せない。後衛が走るも届きはしない。

 あまりの出来事に、テニスコートを静寂が支配する。

 

「な、なあ。こいつ、どこかで見たことがある気がしたんだけど」チリチリパーマが額に汗を流しながら言った。「もしかして、コートの奇術師じゃね?」

 

 そんな馬鹿なと言わんばかりの表情で、金髪男が春人の顔を見た。聞きたくない単語に、春人は左指で耳に栓をする。

 

 春人が怪我をする前、12歳以下の神奈川県の大会では爽児か春人のどちらかが必ず優勝していた時があった。爽児の武器は強力なストロークだった。一方で、春人が得意としたのは、緩急や回転を混ぜた多彩なサーブと柳みたいにしなやかなタッチで相手を翻弄するプレイスタイルだった。そのサーブ&ボレーは大人顔負けだと噂が広まり、付けられたのが「コートの奇術師」というものだった。

 

 当時はあんまり気にしなかったが、今となって聞くと、この身に余る通り名だと春人は思う。

「そんな話はどーでもいい。ほら、さっさとサーブを打て」

 金髪男は、そこでようやく肩を落としてうつむいた。相手に食らいつく気概のない相手など、もはや敵ではない。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 あっという間に6ゲームを連取して、脳筋3人組は敗北者の哀愁を背中に漂わせて帰っていった。負けた腹いせに暴れるかなとも思ったが、予想以上に春人に弄ばれたのがショックだったらしい。

 春人は流した汗を腕で拭いながら、コート内にあるベンチに腰を掛けた。ナツが隣に座り、ジッと見つめてきた。やがて、表情を崩してほんわかと微笑んだ。

 

「えへへ」

「な、なんだよ急に笑って」春人は照れて、自分の髪を触った。「なんか悪いもんでも拾い食いしたのか?」

「来てくれて、ありがとっ」

 

 ナツがすり寄ってきて、春人の肩に頭をそっとあずけてきた。

 

「こ、公共の場でやめなさいっての。こんなところフライデーされたらまずいだろ? それに俺の汗臭いのが移るぞ」

「わたし、頑張ったハルちゃんの匂い好きだもん」

 

 思わぬ一言に、春人は頬を赤らめてそっぽを向いた。汗がだらだらと流れ続ける。果たして運動だけの汗なのだろうか?

 

「……とりあえず汗を拭くか」

「あ、ごめんね。汗をかきっぱなしだと寒くなるよね。はい、タオルを使っていいよ」

 

 ナツがテニスバックから取り出したタオルを渡してくれた。

 顔を拭くついでに、ついつい匂いをかいでしまう。うーむ、これはこれは柔らかくて甘い匂い香り……。まるでナツに包まれているような、っていかんいかん! これじゃ変態そのものじゃないか。

 

「タオル、さんきゅーな。今度洗って返すから」

「うん。いつでもいいからね」

 

 テニスコートに西日が差し込んできて、コートに転がるボールの影が伸びていた。

 

「それにしてもダブルス相手に1人で勝っちゃうなんて、さっすがハルちゃんだねえ」

「あんなキーキーいってるだけの戦闘員たちなんて、敵に入らないっての」

「見ててもすごいなあって思ったけど、私もハルちゃんと組んでみたかったなあ」

「ナツとダブルスか。即席で組んだら、俺が足を引っ張りそうだなあ」

「それは大丈夫。だって勝ちたいからやるんじゃなくて、ハルちゃんと一緒にやりたいからするんだもん」

「そっか。んじゃ、気が向いたらな」

 春人は肩をすくめて話を流す。それでいいよ、とナツはうなずいた。

 

「そういえば」何かを思い出したナツが人差し指をたてる。「STCにね、面白い人が入ったんだよ。エーちゃんって言ってね」

「ふーん。どんな奴なんだ?」

 

「勉強が大好きで、テニスのこともノートにたくさん書いてて、この前の日曜日は6時間ぐらい壁打ちを続けてて、ノートを見ながらブツブツ言ってて」

 

「6時間っ?」

 春人は思わずナツと顔を見合わせてしまう。

「そうなの」

「1人で壁打ち? ぶつぶつ言いながら?」

「1人で、ずっーっとだよ」

「話を聞く限りでは、おもしろい人ってより、おかしい人な気がするんだが……」

 春人は眉根を寄せた。だけど、隣でナツが大真面目で話している様子からするに、どうやら真実の話なようで。

 

「そうなの、とってもヘンなのっ」クスクスと、ナツが思い出し笑いをする。「でも、エーちゃん、きっと強くなるよ」

 

 どこか遠くを見ながら、その瞳には真剣な色があった。

 こいつのこういう顔をみると思い出す。スポーツ万能だった爽児を、テニスに引き入れた時も「きっと強くなるよ」と言っていた。ナツは人の才能を見出す力があるのかもしれない。

 まあ、残念ながら春人も「きっと強くなる」と告げられていたが、早々に戦線離脱してしまった。ナツの見る目は今のところ50%の確率で当たるといったところか。

 

「よかったな。才能ありそうな、おかしい人が増えてよ。類は友を呼ぶってやつか?」

 春人はベンチから立ち上がって、大きく伸びをした。

「ちょっとー、それってどういうこと?」

 

 ナツがむむっと口を尖らせて、春人の二の腕をつついてくる。

 どういう意味かねー、と肩をすくめた。

 それにしてもお腹が減った。しばらくぶりに6ゲームやったからか、まだ17時ぐらいなのに、胃袋がきゅ~っと鳴いている。どこかで買い食いでもするかな、と考えていると。

 

 

 あれ? 17時? なんか忘れているような……。

 

 

「あああああああっ! 香織ちゃんっ! 忘れてたっ!」

 すっっっっかりと忘れていたが、今日は15時から遊びに行く約束をしてたんじゃないか。2時間も過ぎてるぞ。携帯電話を取り出して、手にいれたばっかりの連絡先へとかけてみる。

 

 ……あかん、着信拒否されてますがな。

 

「カオリちゃん? それって誰なの?」

 携帯電話で慌ててメールを打ちながら、聞かれたことに咄嗟に答える。

「今日、俺が遊びに行こうとしてた人で……、あれ?」

 そこまで言いかけて、強く握られたナツの右手が、ぷるぷると震えていることに気づく。

「ナツ? いや、ナツ様?」

「やっぱりハルちゃんっ、嘘ついてたんじゃなーいっ!」

「あ、ちょ、その高々と掲げたラケットを下ろせ。脳天にスマッシュはあかん。話せばわかるっ!」

 春人の悲鳴が夕暮れの空に響きわたった。

 

 

 




読んでいただき、ありがとうございます。
ベイビーステップが好きで、ほとんどテニスをやったことないのに書いてみました。

文章は詰め気味ですが少し空白を入れていったほうが見易いでしょうか?

テニス経験者様からすると、気になる点もあるかもしれませんがご容赦していただければ助かります。
もちろん何かご指摘がありましたら、可能な範囲では修正していきたいと思います。
感想、ご意見、ご質問、お待ちしております。

更新速度は遅いかもしれません。
応援があれば、ちょっとずつ頑張れる……かも?
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
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