DoubleSteps   作:小竜

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#5 幼なじみ

 

 

 6月に入ると、天気が崩れるかどうか微妙な日々が続いた。夏を1ヶ月後に控えた片瀬東浜海水浴場は、まだ人が閑散としていて貸切みたいだった。春人は朝早く家を出て、学校が始まる1時間30分前に浜辺へ到着。水平線から顔を出したばかりの太陽に見守られ、砂浜を走り込むのが日課になっていた。

 

 30m程度を全力で走って、今度は30mをゆっくりと流すように駆けて、また渾身のダッシュを30m――。ある程度を進んだら、戻りは荷物のあるところまで休まず走り続ける。

 春人が行うのはその繰り返しだ。

 トレーニングウェアに着替えて、裸足になって駆け抜ける。砂浜を蹴るだけでは、推進力は生まれにくい。力が空回りしてしまうのだ。砂浜で速く動くには腕や体幹にもしっかりと頼り、効率的に力を使うことが要求される。そこに加えて春人は捉えにくい砂を、足の指先でも掴むように意識していた。

 目的はいくつかある。体力づくりだったり、ストップ&ダッシュをしても短時間で心肺機能を回復するため。そして膝だけに負担が掛からないように、全身で生み出すダッシュ力を得るためだ。

 

「たっは~、きっついなー」

 

 今日の朝練を開始してから30分後。肺が口から飛び出そうなほど苦しい。春人はテニスバッグ上に置いてあった飲み物を手に取って、砂浜へと身体を投げ出した。滝のように流れる汗に、砂がこびりついてくる。

「ハルちゃーん!」顔だけで声のする方を眺めれば、ナツが浜辺につながる階段を下りてくるところだった。

「おはようっ」

「ぐっどもーにん……。てか、ばっどもーにん?」

 

 朝からこんな疲れていて、良い朝といえるのだろうか?

 

「あははっ、間違いなくグッドモーニンだよ。だって、ハルちゃん楽しそうだもん」

「そんな顔してるか?」

「うん」

「呼吸が苦しくても楽しそうか。それだけ聞いたら、我ながらレベルの高い変態だな」

 

 春人は立ち上がって、身体の砂を軽くはたいた。

 ナツはオレンジのショートパンツに、白いTシャツという格好をしている。すらりと伸びた脚が、とても健康的で眩しかった。

 

「体調は良さそうだな」

「そうだね。夜もしっかりと寝たし、体力もバッチリだよ」

 

 準備運動がてら膝の屈伸やアキレス腱のストレッチをするナツがいる。

 春人が砂浜ダッシュを始めてから、ナツも朝練をしたいと参加するようになっていた。少し遅れてくるのは自分で昼食の弁当を用意しているからだ。それでも30分は一緒に砂浜を駆ける時間がある。

 

「しかし、ナツもよーやるな。早起きして弁当つくって、さらに朝練して……、朝から忙しいったらありゃしない」

「それはハルちゃんも一緒でしょ?」

「俺は弁当をユキに任せてるし」

「ってことは、ユキちゃんのほうが早起きなの?」

「まあな。最近は俺の朝練に合わせて、起きる時間を早めてくれたよ」

「あれま、さすがユキちゃんだねえ。私がお嫁さんに欲しいくらいだよ」

 

 ユキは俺がテニスのための朝練するからと伝えたら、お願いもしてないのに自然と早起きをしてくれるようになった。お弁当だけじゃなくて、朝御飯まで用意してくれている。本当に妹には頭があがらない。

 

「うっし、じゃあ行くか」

「その前にあれをやろうよ」

「え……、あれをやんのか?」

 

 朝練の時にナツがやりたがる『あれ』。

 

「だって気合い入るんだもん。ほらほら、手を出して」

 

 力強い男子の手とは真逆の、しなやかさを帯びたナツの手。その上に春人は手を重ねていく。

 

「今日も頑張るぞっ、エイエイっ、オーっ!」

 

 気合を入れて満足したらしいナツが、砂を蹴って駆け始める。春人もわずかに遅れてスタート。

 ダッシュ、ストップ、ゆっくり走る。またダッシュ――。

 

 ナツを追い抜いても、振り返らず突き進む。一緒に砂浜で練習はしているが、自分のペースは崩さない。しばらくはダッシュ&ストップで進み、途中でくるっと向きを替えて、来た道を戻りながら走る。

 途中ですれ違ったナツに、甘えの色はなかった。

 さすがナツというべきか。いつもはほんわかとした雰囲気だが、集中した時の彼女は目を見張るものがある。

 

 負けてられないな。

 

 ナツとの練習を20分ぐらい続けたところで、海岸沿いの道に大杉高校の生徒がちらほら見える時間になった。学生たちの視線がこちらへと向けられる。走っているのがナツと気づいたのか、2度見3度見をしていく男子生徒も多かった。

 そろそろ学校へと行って、汗を流したり着替えなければならない。

 

「んじゃ、今日の朝練はそろそろ終わりにすっか」

「はーい。ハルちゃん、おつかれー」

 

 汗をたくさんかいたナツは、達成感に満ちあふれた表情をしていた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「おい、ハルっ!」

 

 昼休みに弁当を食べ終えて、テーブルに突っ伏していると誰かに呼びつけられた。

 気だるいままに顔をあげると、茶髪で顔長の男子生徒――影山を中心に数人の男子が、教室へとなだれ込んできていた。クラスメイトがザワつき始める。友達と昼御飯をつついていたナツも、こちらへと視線をチラチラ向けてきた。

 

 春人の側へやってきた男子らは、どいつもこいつも目が血走っている。唯一の例外は影山に無理やり連れてこられたらしい、男子生徒1人のみ。

 

「やあ」

「おいっす、エーちゃん」

 

 軽く会釈してくる栄一郎に向かって、春人はあくびをしながら手を挙げた。

 

「一体全体、どーなってんだよっ」

 影山が栄一郎を押しのけて、春人に喰ってかかってきた。

「なんだよ、影山。貴重な昼休みなんだから寝かせてくれよ……」

 そんな春人の訴えは、男どもの怒声でかき消されてしまう。

 

「鷹崎さんと最近、毎日のように一緒に学校に来てるみたいじゃん!」

「朝から2人とも妙に汗をかいてたって聞いたぞ?」

「朝からそんなに汗をかいて、濡れてる? 一体、お前らはなにしてんだっ! 不純異性交遊だあっ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる野郎どもは暴動寸前だった。

 

 不純異性交遊って、それこそどんな想像をしているんだスケベ共め。

 体力や瞬発力をつけるために死ぬ思いをして砂浜を走って、それで汗をかいているだけだというのに。それをこいつらに教えてやらねばなるまい。

 

「まったく……、この暇人どもめ……。安心しろ、俺とナツは朝の浜辺を走っていただけだ」

「鷹崎さんと2人で、浜辺を走っていただけ? まるでイチャついてるカップルじゃねーか。どこが安心できるって言えるんだよ!」

 

 影山が頭を抱えて仰け反っている。

 

「いや待て、言い方が悪かった。俺とナツは――」

「いつか鷹崎さんと一緒に登下校するのが俺の夢だったのに」

「人が持つ夢って、儚いんだなあ」

「怨念で人が殺せるなら、お前はもうすでに死んでいるっ」

 

 影山と栄一郎を除く男子は、血の涙でも流しそうなほど悔しがっていた。そこまで思っているなら、いっそ告白でもすればいいだろうに。

 少し肩を落とした栄一郎が、ぼんやりと春人を眺めてくる。何を思ったか、影山が栄一郎の肩へと手を回した。

 

「エーちゃん、ここはハッキリさせておこうぜ。ほら、さっき言ってたあれを確認しろよ」

「えええっ! やだよっ! なんでオレがそんなこと聞かなきゃいけないんだよっ」

「でも、気になるんだろ?」

 

 影山に言われて、眉根を寄せてうーんと悩む栄一郎がいる。栄一郎がわずかに視線を滑らせた。その先にはナツの姿があった。

 

「春人くんは、その……、鷹崎さんと、どういう関係なのかなって」

「俺とナツ?」

「ほら、付き合ってるんじゃないかって、話もあるからさ。影山とか、気になってる人がいるみたいで……」

 

 よく言ったと、栄一郎の肩を力強く叩く影山がいる。

 ちょうど箸をくわえたばかりのナツが、眼をぱちくりとさせていた。

 どういう関係もなにも、ナツとは恋愛関係じゃない。仲が良いのは認めるが、それは幼なじみだからである。

 

「付き合ってないっての。俺とナツは、ただの幼なじみだ」

 いつの間にか水滴の音すら聞こえそうなほど、教室が静寂に支配されていた。春人の声だけがよく響く。

 

 しかし、ふと言葉にしてみて思った。

 『ただの幼なじみ』という表現はしっくりこなかった。昔からナツには随分と助けられていると思う。テニスから離れようとしていた時も、たぶん春人の本心は別のところにあると感じてたんじゃないか。だからこそ、彼女は春人をあれこれと誘ってくれていたのだろう。

 昔からここぞという時には、支えてくれているナツ。

 気が付けば隣にいてくれる存在だ。

 友達よりも特別だ。親友とも違う。どことなく家族と同じくらい距離が近いような存在。

 

 

 ただの幼馴染というよりも――。

 

 

 室内から空気を震わす野太い歓声が上がって、春人は我に返る。

「やったっ! 付き合ってないってよっ!」

「号外っ、号外っ! 世の中捨てたもんじゃないぞっ! 我らにも、まだチャンスはあるっ」

「あー、すまん。ただの幼なじみじゃなくて――」

 

 春人が伝えようとしても、濁流のような大声の数々に飲み込まれてしまう。影山と乗り込んできた男子生徒らだけではない。クラス全体の男子までがお祭り騒ぎである。

 ナツと目があった。ナツはぷくっと頬を膨らませて、そっぽを向いてしまう。

 それを見て、すぐに理解する。ナツが怒っている。

 どうしてだ? なんか悪いことをしたっけか?

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 コーチが鳴らす笛の音が室内コートに反響する。

 

「全体アップ始めっ」

 

 まずは室内を10周ほど走り、次にラインタッチを10本、ジャンプ&ダッシュやサイドステップを行う。ここまでがウォーミングアップだ。

 そこからは各コートに別れて練習を開始していく。

  STCのジュニア育成アカデミーでは、コートを6面使っている。週に何回通おうが、完全に実力順で Aコートに近いほど高度な練習を受けることができる。春人は STCに戻ってきたばかりだが、三浦コーチの一言で Aコート入り出来ていた。タクマやナツと同じコートである。

 栄一郎はといえば、

 

「エーちゃんっ、いくよっ」

「は、はいっ!」

「うんうん、リズムがいいじゃんっ。ほいっ、もう1球!」

 

 紅葉がコーチをする Dコートで、レッスンを受けていた。無邪気な笑顔で球出しする紅葉がいて、必死に食らいついていく栄一郎がいる。

 

「限界かな? それとも、あと1球いっとく?」

「も、もう1球お願いしますっ」

「よしっ、頑張れ男の子っ! これで最後にして、そろそろ休憩しよっかね」

 

 紅葉の口車に乗せられて、体力を使い果たさないギリギリのところで栄一郎が踏ん張っている。

 

「ハルっ、いくぞっ」

「ういっすっ! お願いしまっす」

 

 ハルはコートのサービスライン中央に立ち、対面コートのベースラインにいる三浦コーチの球出しに合わせてダッシュをする。

 ボレー。それは相手の打球を、自陣で落ちる前に返す打ち方である。

 春人は1球打ち終われば、開始地点に戻ってまた構える。再度、球出しに合わせてまたダッシュ。左右にボールをふってくるので、フォアとバックを交互に使い分けていく。

 

「よしっ、じゃあ入れっ!」

 

 三浦コーチの指示に従って、福沢諭吉が対面のコートに入ってきた。今度はデュースサイドに三浦コーチが立つ。飛んできた球を春人は、敵陣のアドサイドにいる諭吉へと打ち返していく。これは諭吉がボレーをリターンする練習でもあった。

 

 春人はボレーで適度なスライス回転を意識して、低く丁寧に返していく。それも相手の右足側、股下付近、左足側と順繰りに打ち分けを意識する。

 速度という派手さこそないが、相手の打点を低くする狙いがあった。

 低い位置で相手にボールを捉えさせると、返球してくるときにネットを超えてこちらの足元へピンポイントに送り込むのは難しい。ボールが浮くか、ネットに引っかかるリスクが高まるのだ。そうなれば一気にネット際に詰め寄って、叩き込むという選択肢も選びやすくなる。

 またコントロールを優先することで、狙ったところへ打ち込みやすくなる。ボレーでは、スピードよりもコースやキレが決定打になる場面も多かったりする。

 

「ボス~、返しにくいボレーばっかり! 勘弁してくださいよ~」

 

 春人のボレー練習が終わってコートから出ると、すぐに諭吉が駆け寄ってきて恨み言を言うのだった。

 福沢諭吉。いがぐり頭の同学年男子で、感情を素直にあらわす素直な奴だ。今も落胆の表情がみてとれる。

 

「練習になっていいだろ?」春人はタオルで汗を拭きながら答える。「というか、そのボスって呼び名はなんだよ。どこぞのマフィアじゃないんだからさ」

「えっ、組長の方が良かったですか?」

「論点はそこじゃないっての。なんでそういう呼び名になったのか。それを俺は知りたいんだよ」

 

 すると諭吉は耳元へと顔を近づけてきて、内緒話でもするようにこそこそとし始める。

 

「聞いた話じゃ、あのタクマさんとサーブの勝負をして、アニキに勝たせたらしいじゃないですか」

「アニキって誰だよ。というか、お前……、その話はどこで聞いたんだ?」

「アニキってのは丸尾くんですよ。今度からそう呼ばせてもらうことにしたんです。情報源は企業秘密ですね。タクマさんにケンカを売って勝つなんて、すごいじゃないですかっ! あの地味系のアニキを見事勝たせるなんて……。これはもうボスって呼ばせていただくしかないって思って」

「もうちょっと素敵な呼び名はないのかよ。他の人間が聞いたら思わず耳を疑うぞ」

 

 中二病を発症していると勘違いされる呼び名であろう。

 

「それにしても、ボスってばブランクを感じさせないぐらいの球捌きですね」

「おいこら、人の話はちゃんと聞けって教わってないのか……」

「当面の目標にする試合は、神奈川ジュニアサーキットですか?」

「こりゃ教わってないな……。まあ、今の狙いはその試合だよ」

 

 神奈川ジュニアサーキット。関東テニス連盟が主催する、グレード4にあたる大会だ。

 テニス連盟主催の試合はグレードによって分けられている。よりグレードの高い試合に勝てば、もらえるポイントが増えより上位の大会に出ることが可能となる。

 もっとも全日本ジュニア選手権に出るには、ポイントだけがあれば良いというわけではない。関東ジュニアテニス大会や神奈川ジュニアテニス大会で、上位に入る必要がある。

 だが、春人はそもそも公式試合にまったく参加してなかった。まずは神奈川ジュニアテニス大会に出られるように、他の大会でポイントを稼ぐ必要があった。

 

「これなら優勝の可能性もあるんじゃないですか?」

「そう簡単にいくかよ。タクマとか荒谷とか、その他にも強い奴がたくさんいるだろ?」

 

 しかし、今回の大会で余裕で上位に食い込めるぐらいじゃなきゃ、爽児に追いつけない気がした。遥か先に行ってしまった爽児。あいつと並ぶところまで行く。それが春人の新たな目標だ。

 春人はラケットのグリップを強く握りしめた。

 一分一秒だろうと無駄にできない。今できることは、試合に向けての練習をひたすらに行うことだった。

 

「ハルっ、コートに入れっ! 今度はボレーを受けるほうだっ」

 

 三浦コーチに言われて、先ほどとは逆のコートに足を踏み入れる。相手のコートには、ナツがいる。

 三浦コーチがボールを出して、ナツが軌道上に滑り込んでラケットを構える。サービスライン上で待ち受ける春人。

 

 そして……、来るっ!

 

「うわっ!?」

 

 風を切って肉薄する打球。ターゲットは春人の顔面だ。虚をつかれたコースに、ラケット操作を誤ってしまう。ボールは転がって、ネットへと吸い込まれていく。

 

「おいおい、打つのを失敗したのか? って、またかっ!」

 

 ひゅっ! とボールが春人を目掛けて飛んでくるので、半身を捻りながら今度はどうにか打ち返す。ナツのいるコートへ球が返っていった。

 それを見たナツが、むくれた表情をしていた。何かを責めるように、じーーーーっと見つめてくる。不機嫌の色がありありと浮かんでいるが、元の顔立ちが優しいものだから、あんまり迫力がない。

 そして今度もまたナツがボールで顔を狙撃してきた。春人がボレーすると、その球をナツがまたノーバンで戻してくる。

 なぜかボレーの応酬になった。お互いが落とさずにボールを行き来させる。

 

「おい、ナツ。そのコースじゃ俺が避けたらアウトになりかねないぞ。ちゃんと狙って丁寧にやれよ」

「狙い通りだもんっ」

「俺の顔面は的じゃねえぞっ!? この素敵フェイスがへこんだら、どーするんだっ」

「そしたら整形してもらえばいいよっ。今よりも、もっと格好良くしてもらえばいいじゃんっ」

「おいこらっ、どんだけ威力ある球をブチ込むつもりだっ!」

 

 ぱこんっ、ぱこんっ、ぱこんっ、ぱこんっ――。軽快なリズムでボールがナツと春人の間を跳ね回る。

 ナツも球の扱いが随分上達したなあ。これはこれで練習になる……、じゃなくてっ!

 ナツはヘソを曲げていた。何でだろう? 思い当たる節はないが、むき出しにされた不機嫌さは春人へと向けられている。

 女心と秋の空という。ナツは基本的に明るいやつだが、それでも気分が曇ることだってある。指で数えられるぐらいしかないが、過去にも理由のわからない怒りを向けられたことはあった。

 

「お前らっ! さっきから何やってるんだっ!」

「ひゃっ!」

 

 三浦コーチから落とされた落雷に身体を強ばらせたナツがいて、その額へ綺麗にボールが当たった。ボールの勢いはそれほどなかったはずだが、ナツは変なふうに後ろへ倒れた。

 

「おいっ、ナツっ!」

 

 春人はネットを飛び越えて、ナツの側へ駆け寄る。

 

「目とかに当たってないかっ」

「う、うん」ナツはおでこをさすっていた。「それは大丈夫そうかな」

「そ、そうか」

 

 春人は胸をなでおろした。

 

「いっつ……」

 

 立ち上がろうとしたナツが動きを止める。足首に手を当てていた。

 

「どうしたんだよ? 立てないのか? 足首が痛むか?」

「変なふうに捻ったかも……」

「マジかよ。とりあえず救護室に行こう」

 立つのを助けようと伸ばした春人の手を、ナツが掴もうとして、なぜか途中で躊躇した。

「私がどこを痛めてたって、ハルちゃんには関係ないでしょ……」

「なんだそりゃ? 1人じゃ立てないんだろ? 素直になれよ」

「……1人で立てるもん」

 

 さすがにカチンとくる。せっかく手を貸してやろうと思ったのに、そこまで言うなら自分でどうにかすればいい。

 

「あっそ。んじゃ、手助けはいらないんだな?」

 

 春人はくるりと背を向けて、ナツから離れようとする。

 だが、背後でナツが小さく呻く声がして、すぐに歩みを止めた。

 ナツの足は思ったよりも悪いのか? 無理に歩いたりしたら痛みが悪化するんじゃないか? 怒りと膨れ上がる不安が混ざり合っていく。

 ああもう、これじゃ練習に集中できないじゃないか。

 春人はナツに歩み寄った。

 すぐに戻ってくると思ってなかったのか、ナツがまじまじと春人を見つめてきた。

 

 ナツの瞳は涙で潤いを帯びている。

 

 そんなナツを前にして心が波立って、春人は頭をわしゃっとかいた。意地を張って、取り返しのつかないことになったらどうする。まったくもう、本当にしょうがない奴だ。

 春人は両手を伸ばして、ナツの身体をふわりと抱き上げた。 STCの練習生たちが、かすかにざわめく。

 

「え、ちょっとっ! ハルちゃん?」

「三浦コーチっ! ナツが怪我したみたいなんで、ちょっと救護室へ連れて行きますっ」

「お、下ろしてよっ。自分で歩けるよっ」

「うるさい、だまれ。こっちのほうが早いんだよっ」

 

  Aコートを出てから通路を進むと、すれ違った女子たちの好奇の目に晒される。ナツが心配で咄嗟に抱えてしまったが、これってかなり大胆な行為じゃなかろうか。

 春人の身体の中が熱くなってくる。

 

「みんなに見られてるよ?」

 ナツの頬は朱色に染まっていた。

「わあってるよっ! 顔から火が出るほどだっての……。あーあ、これでまたナツとの噂が広がって、他の女子には相手にされなくなるんだろうなあ」

「……ごめんね」

「本気にすんなよ、ばーか」

 

 しゅんと項垂れたナツに、春人は冗談だと笑いかける。

 

「今は誰に何を言われても、どーでもいいや。世間体よりも、大切な幼なじみが怪我してないか心配だからな」

「え……?」

「いや、ナツもプロを目指してるんだから足は重要だろ?」

「それはそうだけど……」

「俺が間違ったこと言ってるか?」

「んーと……」可愛らしく首を傾けるナツがいる。「やっぱ、なんでもないから、気にしないで」

 

 ナツの表情にほわっとしたものが生まれた。

 

「なんだよ、急にヘラヘラしてさ。変な奴……」

「たいせつ……かあ」

 

 春人の言葉は届かず、ナツはなにやら呟いている。

 ヘソを曲げていたナツは何処へやら。まあ、機嫌が直ったのなら良しとしよう。

 

 

 

 




 読んでくれた皆様、今日もありがとうございます。
 感想やご指摘をくださった方々、ありがとうございます。励みになります。

 今回は練習と幼なじみのナツとの話でした。ベイビーステップの中でも、怒ってるナツってそんなに参考にできる場所がなくて、上手く描けてるか心配なところではあります。でもまあ、喧嘩するほど仲がよいということで、こんな感じに仕上がりました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 ちなみに気づいた方もいると思いますが、原作の諭吉はこの段階では実はBコートにいたようです。神奈川六天王なのにAコートじゃないとは……。なんとも驚きです。ですがこの作品では最初からAコート設定になってます。

 次回は試合が始まりますね。エーちゃんとハルの公式戦がどのようになるのか。鋭意作成ちうなのでお待ちください。
 
 そんなわけで今日はこのあたりで失礼します。
 またお会いできると嬉しいです!
 ではではー(^^)/
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