ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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小舟を漕ぎ付けた先は、大きな寺院だった。途中、森を抜けないといけなかった。
水の都に、森! 驚く思うが、実際あるのだ。ただし、恐ろしく入り組んだ順路を経た後に。
ネオ・ヴェネツィアとその森の間には、境界があって、両者を隔てている。その境界は、誰もが超えることの出来るものではない。許された者だけが超えることの出来る、特別な境界だった。
その境界を、幼い藍華がぐうぜん通ったことがある。今となっては、最早思い出されることのない、忘却されたファンタジーとなってしまったが。
「もう、やめてよ!」
まだ足し算引き算さえ覚束ない年ごろの、ウンディーネになるより遥か以前の藍華は、ある日、不良少年達が一匹の黒いきゃしゃな野良猫をいじめているところに遭遇した。
野良猫はまだ子猫で、弱弱しく、しかし、彼等は獰猛で、狩猟者の本能を宿し、まるで容赦しなかった。子猫は血を流し、ぐったりとし、もう助けを呼ぶ声さえ絞り出せないほど衰弱していた。
猫という動物を愛好する藍華は遅かったと思い、自分を責めた。
少年達は不敵に笑んだ。
義憤に燃える藍華は激しく彼等へと突っ込んでいき、体当たりし、子猫を逃がした。傷付いた子猫はよろよろとした足取りでいずこかへと消えた。
子猫は救われた。が、非行は続いた。
ターゲットが変わったのだ。子猫より、藍華へと。
藍華は少年達にさんざん暴行を受け、くずおれるまで打ちのめされた。運動神経はよかったが、喧嘩では役に立たないようだった。加えて、男児達の獰猛さにもショックを受けた。男と女はぜんぜん違う生き物だということを、彼女はその時初めて、加えて時期尚早に、痛感した。
満足した少年達は醜悪な笑い声を上げて退散した。
敗れた藍華は、ずたずたではあったものの、依然余力があり、地に横たわって、涙を流した。悔し涙だ。
彼女はしばらくした後、満身創痍の体で立ち上がり、子猫の様子が気になって、その後を追おうとした。
が、足取りは掴めなかった。子猫は痕跡を残さずに去ったのである。
しかし、藍華はほとんど憑かれたように、子猫の居所を求め、彷徨した。ネオ・ヴェネツィアの街は迷路のように入り組んでいて、幼い彼女を余計に苦しめた。
昼下がり。夏の太陽は眩しく照っていた。
一体どれくらい歩いたのだろう。
そう自問した時、藍華はあるアーチの正面に立っていた。
彼女は俯けている顔を上げ、目前の空洞に目をやった。
空洞より、涼しい風が吹いてくる――いや、涼しいというより、むしろ冷たい風である。
血の混じった汗を流す藍華は、その冷風に快さを感じた。癒しを感じた。もっと浴びたい。もっと涼しくなりたい。そんな風に、幼い藍華は欲求した。
そうして、彼女はアーチへと入っていった。アーチの入口に淀む闇は、あっという間に彼女を飲み込んでしまった。辺りに人気はなかった。
アーチの先はトンネルになっていて、途轍もなく長かった。
やっとの思いで抜け出た藍華は、光を浴びた。ネオ・ヴェネツィアの光とは違う光だった。何と言うか、光の色が違う気がした。見えるのは湿潤な森。木々が鬱蒼と茂る下は、清流になっていて、そして、トンネルの出口は、すぐ先で水際となって途絶えていた。
その水際に、一艘の小舟が、櫂と共にあった。
風はまだ吹き続ける。不安だった藍華は何だか安心する気がした。森の奥より、風は来るように思えた。
小舟に乗ることは必然だった。藍華は、ネオ・ヴェネツィアで見るウンディーネのやり方を賢明に思い出して、物真似して、小舟を進めた。まずいやり方ではあったものの、いい見本を知っていたお陰で、小舟は先へと進んだ。
そうしてたどり着いたのは、サン・マルコ広場の大聖堂のように大きな寺院だった。しかし、サン・マルコの聖堂とはずいぶん異なった趣きを帯びていて、藍華は不思議に思ったが、思い当たる節がある気がした。
束の間記憶を紐解くと、その或るページに、該当するものを発見した。
そうだ。昔、テレビか本で目にしたことがある。オリエンタルな建築。色使い。石ではなく木で出来ている。濃緑の瓦を埋め込んだ破風屋根。梁で繋がった支える朱の円柱。
ネオ・ヴェネツィアより東方遥か彼方、その異境にある寺院だと、幼い藍華は悟った。
寺院の辺りの水面には足場のようなまるい石のプレートが浮かんでいて、乗れそうである。
藍華は櫂を下ろすとぴょんと、足場の一つに飛び移った。蹴とばされた小舟は藍華より離れた。
そして藍華は、等間隔で浮かぶ石の足場を器用に渡って、寺院へと至った。
もう日が暮れていた。夏の暑さも和らいでいた。明るいのは、寺院の床に数多火の灯る蝋燭のお陰だった。
寺院の中は、何ということはなかった。壁のないその寺院は風が自由に吹き抜けて、とても涼しかった。藍華の汗はすっかり引き、血も止まっていた。荒れていた心も治まったように思える。
ぼんやりとして、寺院の中を歩き回る藍華は、足に何かが触れるのを感じた。ヒッと肝を潰したが、足元を見下ろして、ホッと胸を撫で下ろした。
子猫。あの子猫と思われる一匹が、足元にちょこんと座り、長いしっぽを振っているのである。
「まぁ、こんなところにいたのね」
しゃがんで頭を撫でる藍華。猫は気持ちよさそうに目を瞑って藍華の成すに任せる。
怪訝に思ったのは、子猫の傷がずいぶんと浅いことだ。異常な早さで回復したのか、虫の息だった子猫が、今ではもうすっかり元気一杯であった。
嬉しさを抑え切れない藍華は、えんえん、子猫の頭をさするように撫でてやっていた。その時流した涙は、嬉しさの横溢であった。
その夜は、とても涼しく、恋人との夢のように甘く、長かった。
そしてその夜は、やっぱり夢のように、終わりの曖昧なものであった。
***
一枚の絵葉書を、仰向けの姿勢で、手で持って見上げる藍華。彼女は居室のベッドにいた。
「ハァ」
ため息を一つ。憂鬱のため息か、疲労のため息か、今一釈然としない。
藍華はその絵葉書を、ぐうぜん見つけたのだった。
夏の蒸し暑いある日。非番の彼女は、雑多に物の散乱する自室に鬱陶しさを感じ、電撃的に大掃除を決心して着手した。
その途中、あるタンスの引き出しを整理している時だった。引き出しは物で詰まっていた。錆びたキーホルダー。紙のふやけたメモ帳。不要なものが盛りだくさんだった。
そんな物をほとんどやけくそになってひっくり返した最後。引き出しの奥の方に、見つけたのだ。
一軒の大寺院の絵の描かれた葉書。だいぶん年数を経ているようで、本来は白いはずの紙が、黄ばんでいたし、また油のような染みが付いてもいた。
最初こんなものはゴミだと、藍華は他の似たようなものと同様、即座に決め付け、ゴミ袋に突っ込もうと思った。
しかし、ゴミ袋へと葉書を持つ手を突っ込んだ瞬間、彼女を拘束する魔力が働いて、彼女は手を戻さざるを得なかった。
小さな灯影が無数に並ぶ壁のない寺院の絵。何となく蘇ってくるのは、複雑な感情。憎悪とか敵意が蘇ってくるかと思えば、優しさとか和やかさが蘇ってくる。
不思議な絵葉書だと思った。と同時に、不気味だとも思った。
藍華は顔をしかめた。
そうして再び、手をゴミ袋の口へと伸ばした。その時にはもう、あの魔力は消えていた。
不思議な、また不気味な絵葉書は、不要なものとしてゴミ袋の中のたくさんのゴミに混じり込み、そうして後程、焼却された。
その夜、藍華は何か忘れ物でもしたような感覚に襲われて、しばらく眠れなかった。
窓の星影を眺めていると、涙が流れた気がした。
だが、指で拭おうとしても、指が触れるのは、乾いた肌ばかりなのであった。
(終)