ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
***
「藍華」
と、わたしを呼ぶ声がした。
お母さんの声だ。
わたしとお母さんはぴったり隣り合わせになって手を繋いでいた。お母さん方が背が高いので、わたしは面を上げた。
「この駅ね」
そう言って、目先のこぢんまりとしたあずまやっぽい建物を指さして見せる。
「ここで、電車に乗るのよ」
ふうん、そうなんだ。
大した感慨もなく、取りあえずわたしは駅舎をじっと眺めて頷いて応えた。
春の日が麗らかだった。生白い春霞が、どこまでもぼんやりとして、夢見るようだった。
また、日差しが強く、いくぶん暑いとさえ感じられるほどだった。
「後、どれくらい?」、と、早朝より始まり続くこの
「そうね」、と言ってお母さんは、今指さしていた手を頬にやり、考える恰好になる。「ここで電車に乗って、ひとつ、ふたつ、」
お母さんは、頬の辺りで指折り数える。
「みっつ……みっつ目の駅ね!」
――ところで、わたしが連れられて来たこの駅は、実に奇勝であった。
海に面して駅舎があり、駅舎はそれほど大きくなく、むしろ小さくて、ただの一軒家のようにコンパクトであった。赤いポストが入口のわきに立っており、緑化のために植えられた草花が春の日にすくすくと伸びて、鼻をくすぐるようにやさしい潮風に揺れている。
空を見上げると電柱と電柱の間を渡る高圧線が視界を横切る。
「さぁ、行こう。藍華」
「うん」
そう言ってお母さんに手を引かれ、わたしは、やはりこぢんまりとした駅の窓口へ赴き、切符を買い求める。おとな一枚、こども一枚。
改札に立っている駅員は、二十代くらいの若い男で、上着までパリッと着て、日差しのもとでは暑くても、しょせん時節は春先に過ぎず、日陰ではむしろ寒いくらいなのだった。
「可愛いお子さんですね」、と、改札を通る時、駅員が笑顔で話しかけてきた。
「ありがとうございます」、とお母さん。
「男の子ですか?」
「いえ、女の子なんです」
「あぁ、そうでしたか、失礼しました。御髪が短いものですから、てっきり」
そこまで言うと、駅員は首を伸ばし、わたしに向かって、「気を付けてね」、と手を小振りに振った。
わたしは人見知りが出てしまい、お母さんの陰に逃げ込んで、オロオロと駅員を見上げるばかりだった。
お母さんと駅員は、それぞれ苦笑いを浮かべていた。
――お詫びのしるし(?)に、わたしは缶ジュースを一缶貰った。
◇
駅のベンチに座ってゆっくりと電車を待つ。
飲み干したジュースの空き缶を、わたしはちゃんと舎内のゴミ箱に捨てた。
お母さんはと言うと、隣で、手紙を睨んでいるのだった。その手紙は、友達に貰ったもので、友達は、レストランを開業したので、ぜひ来て欲しいと書いてよこしたのだった。お母さんはある休日をその訪問の日にし、わたしを随伴させた。
緩いパーマのかかったロング・ヘアに、ネイビーのアウター。グレーの膝まであるロングTシャツに、下はネイビーのレギンス。たまにする、髪を耳元にかける仕草が女性っぽいと好ましく思う。
わたしはと言えば、白いTシャツの上に、ネイビーのパーカー。下はグレーの短パン。カラー・コーディネートはすっかりお母さんと一緒だ。
「藍華」
「うん」
「お腹、空かせておくのよ。向こうに行って食べるんだからね」
「はぁい」
時間帯は、昼の少し前といったところだろう。そろそろお腹の虫が鳴き出す頃だ。
わたしはお腹を手で撫でてみる。うん。ぺたんこだ。
手を髪に移す。サラサラで触っていて気持ちがいいけど、短い、男の子だと思われるショート・ヘア。
ロング・ヘアまで伸ばしたい、と思うことは何度もあるんだけど、一定以上伸びると、始末が悪く、手に負えず無様になるので、長くなる前に切ってしまうのだった。
ネオ・ヴェネツィアにアリシアっていう水先案内人がいて、その人のロング・ヘアが(人柄と相俟って)物凄く綺麗で、何度も真似しようと試みるんだけど、あまりの対照的っぷりにイヤになって恨めしい思いでバッサリ、リセットしてしまうのだった。
――あぁ、一体何歳の時だったろう。十にも満たなかった時だろうか。お母さんに連れられて、ネオ・ヴェネツィアを離れ、船と電車を乗り継いで数時間。あの時、わたしの髪の毛はずいぶん短かった。バーベキューの災難で思い切って短くなった今よりも、更にまだ短かった。
あの時と比べ、今はだいぶん垢抜けて、お母さんの支援があり、勿論、自助と努力だって欠かさず、とうとうロングヘアの手入れだってお手の物となり、加えてアリシアさんに賛辞を貰いまでしたあのロングヘア……ハァ、あのハプニングを思い出すと、まだため息が漏れ、げんなりさせられる。
とにもかくにも、わたしは、じっとあの駅で、お母さんと、電車の来るのを待っていた。
キラキラと煌めく海原が一望出来る駅。遮るものは何もない。
明るい日が照り付ける海原が反射する青い光が、駅舎まで届き、黒いはずの陰をじんわりと、青っぽく染める。
落ち着いた春の空気が朧気にまどろむ中に、快足の風が駆け抜け、ある者には涼しさを、ある者には寒さを運ぶのだった。
割とけっこう長い待ち時間だったけど、不思議と、ぜんぜん退屈することはなかった。
その内、お母さんはうたた寝を始め、わたしはこっそりその手にある手紙を抜き取って読んでみようとして、漢字に戸惑ったり、さっきの駅員と目くばせして微笑み合ったり、お母さんのロングヘアを撫でてみて、羨ましく思ったりした。
風がまた、吹き抜ける。音もなく、颯爽と。熱を帯びた体が冷まされ、やがて肌寒く覚えてくる。
グゥ。
お腹が鳴った気がする。
空腹感が頭をもたげ、わたしを食事へと微かに急き立てる。
すると、何だか駆けていきたい気分に襲われる。子供の衝動がそうするのだろうか。
だが、わたしはあくまでじっと、線路の上をガタゴトと走って来、キーッとブレーキを鳴かせて止まる列車の音を待ち侘びている。
ふと、離していた手をまたお母さんと繋ぐ。静かに寝ているお母さんと。
「ん……」
お母さんが、ぼんやりと目を覚ましかける。
「電車、来た?」
「ううん、まだだよ」
「そう」
春の日が、麗らかだった。
(終)