ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.104「願い」

***灯里***

 

 

 

 初夏と晩春の間の、ある日のことだった。

 

 特に言うべきところがなく、可もなく不可もなし、といった仕事の出来具合だったその日、アリシアさんはすでに自宅へと帰り、ARIAカンパニーにいるのは、わたしひとりだけだった。

 

 日はとっぷりと暮れ、だけど、まだ夕方の余韻が濃く残る時間帯。水平線の彼方に、多くの人々を活気付けた明るい太陽は消え、素晴らしく晴れ渡った一日の温かい、否、ほとんど暑いほどだった空気が、まだ冷め切っていない頃合い。

 

 パチンと、屋根裏部屋の照明のスイッチを付けると、蛍光灯の光が目に沁みるようだ。

 

 ひっそりと静まり返る中に、穏やかに聞こえる(わだつみ)の声。やわらかい波が波止場に押し寄せ、そして、引いていく。その音に、微風(そよかぜ)の気配を感じる。

 

 窓を開けようと思った。

 

 宵闇に安らかに横たわり、眠りに付こうとする初夏のやさしい息吹を、どうして遮り、閉ざす必要があろうか。

 

 鎧戸を備える両開きの窓を開放する。

 

 すると、辺りを漂い、流れる風がこぞって流入して来、その勢い、肌触り、温度を全身で受け止め、その風情に感じ入る。涼しく、芳しく、やわらかで、あまりの快感に、わたしはうっとりとし、刹那、天にも昇る心地に、我を忘れる。

 

 仕事を終えて、日が暮れて、程よくくたびれており、だけど、まだご飯は済ませておらず、自由に過ごしながら、何を食べようか、などと考えるこの時間が、けっこう好きだったりする。

 

 窓枠に片腕を寝かせ、その手の甲の上に肘を突き、頬を持って、目を瞑る。何を想像するでもなく、ポカポカ陽気の日なたに丸くなる猫のように、ただただ、雑然とした頭の中を空っぽにし、全てを束の間だけ忘れ去り、風雅に、無為に、純粋に、時間の流れに身を任せ、漂うのだ。

 

 

 

***藍華***

 

 

 

「すっかり夏ですねぇ」

 

 買い物した品の入った紙袋を胸に抱えて通りを歩く、わたしが言う。何となく暑いし、道行く人の中には、薄着の人がチラホラ見受けられる。

 

「まだ気が早いんじゃないか」、とそう答えるのは、隣を歩く晃先輩だ。「昼日中はまだしも、朝と夜は寒さが残ってる。衣替えしたくもなる気温の日は多いが、振れ幅がでかい」

 

「そうですかねぇ」

 

 フワッと思い付いた感想を、てっきり同意してくれるものと踏んで口にしたわたしは、噛み合いが悪く、案外同意してもらえなかったことに、幾ばくかの不興を感じ、やんわりと対決しようとする。

 

「だって、上を見てみろ」

 

 そう言って、晃先輩は夕空を指さす。

 

「春の星座がまだ真上にある。天体の現れ方が春で、暦の上でも春なんだ。ちょっと気温が高いくらいで夏が来たと思い込むのはいいが、うっかり薄着で寝て、風邪なんか引いたりするなよ」

 

「ハイハイ、分かりましたよ」

 

 真面目に答えるの禁止、とでも叫びたかったが、相手が相手なので無理だった。

 

 だが、別に、この程度のことで、不貞腐れる必要などなかった。

 

 何となれば、過ごしよい空気が全体に満ちており、気分がよかったのだ。

 

「重いか?」

 

 手ぶらの晃先輩が、気遣って、顔を覗き込んでくる。

 

 しめたと思ったわたしは何とズルいのだろう。

 

 とても疲れた振りをして、眉間にしわを寄せ、渋面を呈する。

 

「ちょっと……」

 

 すると、晃先輩は、わたしが手渡そうとする前に、わたしの荷物を奪い取って、代わりに持ってくれる。

 

「けっこう重たいなぁ。いったい何を買ったんだ」

 

 プリプリした様子の晃先輩に、心の中で、フフッと笑う。嘲笑いであると同時に、親愛を寄せる意味での笑いでもある。

 

 疲労を偽ってだますのはちょっと気の引けることではあったが、構わない。

 

 ちょっとした、仕返しだ。

 

 

 

***アリス***

 

 

 

 オレンジ・ぷらねっとの個室で、学校の宿題に取り組んで、後ちょっとというところ。

 

 制服の上着を暑いからと脱いで、今は白シャツ姿だ。

 

 教科書や問題集が開かれた机に向かっているわたしは、宿題を中断すると、椅子に深く座り、力を抜いた腕を伸ばして、天井をぼんやり見上げる。

 

 蛍光灯の光が眩しく、目が眩む。

 

 二つあるベッドが両方とも空いており、同居人のアテナさんは、お腹がすいたと早めの夕食を食べに食堂に行っている。

 

 ベッドメイクは朝起きた時に、サッとやることにしている。

 

 わたしのベッドも、アテナさんのベッドも、掛布団が折り畳まれており、その上に枕がのっている。

 

 わたしは別にお腹はすいていないが、眠たい感じはうっすらとあり、ぼんやりした目でベッドを眺めていると、お腹をすかせてご馳走を前にしている時と、だいたい同じ気分になってくる。

 

 ずいぶんいい気持ちだ。ほんのり涼しく、夜風の愛撫がやさしい。

 

 やれやれと思って、わたしは頬をパチンと張る。

 

 悪魔の誘惑というのは、実に甘く、強いものだ。

 

 今寝てしまうと、いつものルーティンが崩れてしまう。

 

 普段わたしは、ウンディーネの仕事がある日は仕事を済まして、学校のある日は毎日欠かさず課される宿題を済まして、その後、ご飯、お風呂、という順番にしている。

 

「よしっ」

 

 みずからに気合いを入れ直したわたしは、姿勢を正して、再び机に向かう。集中する。

 

 ……。

 

 しばらくして、個室の扉が開く。アテナ先輩が帰ってきたのだ。

 

「アリスちゃん、精が出るわねぇ」

 

「もう終わりますよ」

 

「そう」

 

 アテナ先輩は、どっかりとベッドに腰を下ろすと、程なく、あくびをする。その様が、のんびりした草食動物よろしく、あまりにも呑気で、わたしは思わず笑ってしまう。だが、共感出来るのだった。

 

「でっかい、いい日和ですね」

 

「えぇ、本当に」

 

 アテナ先輩はそう言って、あくびで出た涙を指で拭い、開け放した窓を見遣る。

 

「もうお休みになるんですか?」

 

「ううん、まだ」

 

「お風呂に入らなきゃ、ですもんね」

 

「そうね」

 

 わたしはやがて宿題を終え、机の上を片付ける。

 

 

 

 春の末端の、夏のようで、だけど、まだ夏ではない、暑い、涼しい一日。

 

 こういう天気が続いてくれるといいなぁ、と、三人は切に、また、儚く、星影の明るい空に願うのだった。

 

 

 

(終)


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