ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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フゥ。
手の甲で額を拭うと、思わずため息が出た。
汗でベタベタの額。季節はすっかり夏という感じだ。
日が暮れかかってもまだ熱気は衰えず、暑い状態を維持して、夜に突っ込もうとしている。
汗を拭わなかった方の手には、ビニール袋。野菜を八百屋さんで、肉を肉屋さんで買った。一応保冷のため、袋の氷が何袋か入っているが、あくまで気休めであり、そう長くは、食材の鮮度を保ってくれることはないだろう。
だけど、足取りを早めることはせず、わたしは、往来に立ち止まり、空を見上げた。
片側一車線のあまり交通量の多くない車道の脇には、歩道があり、そして歩道に沿って、色々と建物が軒を連ねている。一階が店舗で、その上がアパートメントというのが目立つ。わたしの住んでいるアパートも大体似た感じだ。
空はまだ青かったが、日没に差し掛かり、その青の上に、じんわりと微かに夕焼けの紅色を滲ませている。
複雑に交差して伸びる高圧線越しに、もくもくと雄大に育った入道雲が見え、その純白の偉容は、とても堂々としてはいるけど、日没のためか、どこか翳りを帯びて、心なしか寂しそうに思えるのだった。
フゥ。
もう一度、ため息を空に向かって吐くと、わたしは目線を正面に戻し、アパートへの帰路を改めて歩きだした。
往来にはひと気がそこそこあり、ジャケットを脱いで白シャツ姿になっている男の人を見れば、今から帰宅するのだろうか、とか、まだ会社に戻って残業するのだろうか、などと、無縁なりに想像力を働かせた。
わたしと同じように、手に袋を提げているひとを見れば、買い物なのだと確信したし、駆けていく子どもを見れば、迫っている、恐らくあるだろう門限を守るべく急いでいるのかも知れない、などと憶測した。
そういう風に、何とはなしに、じぶんのそばのひとだったり、ものだったりに目をやっていく内、ある後ろ姿が注意を引いた。
よく見覚えのある後ろ姿だった。
短いネイビーの髪に、ヘアピン。昔は髪は長かったのだけど、あるアクシデントがあって、短くしたのだ。
彼女は、ありふれた喫茶店の、オムライスや、ハンバーグ定食のように、特に目立つということもないメニューの食品サンプルが並ぶショーウィンドウを、まじまじ見るというのではなしに、どこかぼんやりと、見るともなしに見て、前髪を手で整えているのだった。
声をかけようかと初め思ったが、集中している様子に何となく憚られ、わたしはその場で少しばかり当惑した。
「ん?」
やがて、そばにいる誰かの気配に気付き、前髪に手を触れた状態で振り向く。
ワッ、と彼女がびっくりして目を見開き、言う。
「灯里! どうしたのよ?」
「アハハ。こんばんは。藍華ちゃん」
決して驚かせるつもりはなかったが、彼女のびっくりした様子がおかしくて、わたしは自然と笑みが零れた。
「こんばんは、じゃないわよ」
彼女は、前髪に触れていた方の手の甲を腰の脇にやり、不服そうに、また責め付けるように、言う。別の手には、中身の入った籐のバスケットが下がっており、彼女もまた買い物をしたその帰りのようだった。
「びっくりするじゃないの、もう。声くらいかけてよね。幽霊じゃないんだから、そばにピタッと付いて黙ってるだけなんて、気持ち悪いじゃないの」
「ごめん、ごめん」
「黙ってそばに立つの、禁止っ」
と、藍華ちゃんは、ビシッと指差して厳しく注意する。
「エェーッ」
と、わたしは、狼狽したように、返す。
……という一連のやり取りは、日頃のもの。
こういう風に、言葉を通して、視線を通して、わたしたちは、いつも、お互いを確かめ合うのだ。そして、いつものわたしたちだと知って、快くなり、安心する。
日常が日常としてあるのは、わたしたちがそう望んで、求めているからだ。そうしなければ、日常は、段々と変わったものになっていく。わたしが友情や温情を求めなければ、藍華ちゃんはきっと、縁遠い存在になっていくだろう。
わたしは、だけど、藍華ちゃんにずっと友達でいて欲しいと思うから、彼女を求めるし、親愛の情を注いでいる。
藍華ちゃんも、多分、わたしに対して、同じように、望んでくれているから、わたしたちの間を結ぶ朗らかで明るい友愛の関係は、続いているのだと思う。
まるい夕月が、まだ青い空に霞んでいる。アクアでは見えず、マン・ホームでは見える衛星だ。
「藍華ちゃんは、帰り?」
「うん。買い物して、アパートに帰るところ」
「そっか。じゃあ、おんなじだね」
「あぁ、灯里もそうだったの」
「うん。前髪は? もうだいじょうぶ?」
「まぁね」
と彼女は、上目遣いになり、サッと前髪に指先で触れる。
「といっても、この暑さじゃ、汗でどうしようもないけどね」
「そうだね」
わたしたちは苦笑し合う。
そういえば、わたしたちは二人共、同じ装いだ。暑い時季に相応しい薄手の、足元まであるゆったりした袖なしのワンピース。
じゃ、帰ろう、と足を運ぼうとした途端、違和感がわたしを襲った。彼女のアパートはどっちだっただろう?
「藍華ちゃん」
「うん」
友達の住まいの場所を忘れるなんて、と、わたしは途方もない自責の念に囚われた。
「藍華ちゃんのアパートって、どっちだっけ?」
「アパート? あっちだよ」
彼女は別にこだわる素振りもなく答えてくれ、この比較的静かで落ち着いた往来より逸れたところを指差して示してくれた。
「あっ……」
だが、わたしはその方を見て、何とも言えない気分になった。理由はよく分からない。強いて言えば、イメージがしづらかったせいだ。だが、友達といっしょに帰ることに、なぜ事前にイメージが必要なのか?
額に浮かんでいた汗はある程度引いた。夜に向かって、高かった気温が段々と落ち着いてきているのだろう。
入道雲は変形して遠くなり、青かった空は、滲んでいた紅色がやや強くなって、夕焼けっぽくなっている。
店舗を備えたアパートが多い通りを、路地に折れる。
すると、灰毛の猫がいるのが見えた。後ろ足を折って、前足は伸ばしてという姿勢だ。
その猫は、わたしたちを見ると、サッと消えた。
特に構わずわたしたちは歩を進めたが、内心わたしは、不安だった。すぐ身近にあるものすら、把握出来ていないのではないかという疑懼より来る不安だった。わたしが求めているはずなのに、藍華ちゃんは、どこかよそよそしかった。
その心理状態が、わたしの歩みを遅らせ、もともと並んで歩いていたわたしたちは、いつの間にか、藍華ちゃんが少し先を行き、わたしがその後ろを付いていくという恰好になった。
路地が、その細い道幅に対して並ぶ建物の投げる陰で薄暗いことも、わたしを不安にする要因のひとつだった。
藍華ちゃんに半ば先導してもらう形で帰路を行き、わたしは、うっすらとした焦燥感に苛まれる中、脳裡をよぎるビジョンがあった。
大海原にある街。真っ赤に燃える夕空を、夕陽に向かって、宇宙船が飛行している。その後ろ姿をわたしは眺めている。陰影の濃い、宇宙船の後部。明滅する信号灯だけがはっきりと見える。そばには、海上に浮かぶようにたっている建物。大きい看板がかかっていて、そこには、〝ARIA COMPANY〟と刻まれている。そよ風が吹き、制帽を脱いだわたしの髪はやわらかくなびく。わたしは、青いラインの入った半袖のセーラー服の夏服を着て、その外廊下に海に向かって立って、宇宙船の飛んでいく、かげろうの如く揺らめく夏の夕焼けを眺めているのだ。
――鈴の音がチリンと鳴った気がする。さっき見かけた猫が付けていたのだろうか?
わたしたちは、歩いていく。
藍華ちゃんとの距離が、ちょっとだけ、開いた気がする。
(終)