ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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汗ばむほどムッとした暑気に、どこまでも青く広がる空を眺めると、あぁ、夏だなぁ、としみじみ感じる。
夏のにおいというのがある。そのにおいはひょっとすると、わたしにだけのものなのかも知れないけど。
コンクリートが夏日に焼けるにおいなのか、湿った空気が加熱することで発生するにおいなのか、よく分からない。
でも、雨が降り出す前の、しっとりしたにおいと同様に、夏には夏の特有のにおいがある。
*
「ハァ~」
そう、脱力感に満ち溢れた何とも情けないため息を漏らして、わたしは団扇でパタパタと自身を扇ぐ。シャッターをすっかり上げて開放したカウンターの、屋内側の椅子に座っている。汗が止まらない。
「灯里」、とわたしは呼ぶ。「何か飲み物ない?」
「あるよ」、と答える灯里は、今、この炎天下にも関わらず、大掃除に精を出している。
「何がいい?」、と訊く、セーラー服にエプロンを重ねた格好の彼女も、わたしと変わりなく、汗だくだ。
「冷たかったら何でも」
「藍華ちゃん、いくら暑い季節だといっても、冷たい飲み物はお腹によくないよ」
「アンタねぇ、この状況でホットは流石にキツいでしょ」
「それも、そうだね」
灯里はニコッと笑う。汗に濡れたその顔が、海より照り返す波模様の光の反映を受けて煌めく。
髪は汗でまとまって束になっており、あんまり精を出し過ぎると、熱中症にでもなってしまうのでは、と、いささか心配になってしまうのだった。
「灯里も、ちょっと休憩すれば?」
「そうだね。そうしようかな」
彼女は、首元に巻いた水玉柄で涼しげなスカイブルーのタオルで、汗をゴシゴシ拭い、「フゥ」、と一息吐く。
「暑いねぇ」
……わたし達、二人共、気が付けば暑いと口にしているのだった。
ARIAカンパニーは、海辺の、どころではなく、海の上にある水先案内店だ。こぢんまりとしているが、歴史と信用があり、今は外出中だが、アリシアさんという女性が切り盛りしている。
水先案内人としてのみならず、一人の女性としても、アリシアさんはわたしの憧れの的であり、灯里と仲良くしているのは、アリシアさんと仲良くするためだと言っても、過言ではない。
波音がよく聞こえ、目を閉じて耳を澄ますと、何かリラックス出来、そうするだけで、一定の涼感が得られる。
氷といっしょにグラスに入れてもらった白濁色のライチのジュースはよく冷えていて、グラスの外側はびっしりと結露している。
大体半分くらいわたしは飲んで、今は、何となくボーッとしている。気が向けば口を付け、すると、氷がとけて薄まったジュースの味が、わたしにはちょうどよい塩梅なのだった。
「何で」、とわたしは、隣に同じように、海を向いてカウンターの内側の椅子に座る友人に、言いかける。
「何で、わざわざシャッターなんか開けて掃除するの?」
彼女はちょうどグラスに口を付けている最中で、目だけでわたしを見、話を聞く様子だ。
「閉めてエアコンを効かしてする方が、涼しくて快適じゃない? 涼しい方が、より捗るだろうし」
「そうだね。藍華ちゃんの言う通りだね」
灯里は、口元をタオルでサッと拭って答える。
「だけど、シャッターのところも拭き掃除したいから」
「後回しにすればいいじゃない」
「うぅん……」
灯里は、考え込む様子だ。その感じを見ると、何か意図がありそうだという気配がした。
「今までずっと雨季だったでしょう。ずっと曇りがちで、すっきりしない空模様で……」
ネオ・ヴェネツィアは、一カ月以上もの間、毎年決まってある雨季で、水先案内店は、わたしの姫屋も、このARIAカンパニーも、オレンジ・ぷらねっとも、不振だった。毎年の恒例ではあるけど、雨季に入ると、張り合いが抜けて、何とも面白くない気分になるものだ。
「で、青空を見て、雨季の明けたことを実感して、喜びたいっていう、そういう感じ?」
「うん。そういう感じ。お日様に久しぶりって言って、愛でてあげたいんだよね」
「恥ずかしいセリフ、禁止ッ」
「エェー」
あんぐり口を開ける灯里を見て、わたしは大笑いする。
一階のテラスの、ARIAカンパニーの壁の一面には、ランドリーホルダーがあり、今、この快晴の空の下、物干し竿がかかっており、そこには、今朝洗濯したという洗濯物の数々が、制服だったり、Tシャツだったりが、風になびいて、洗濯石鹸の香りをうっすらと漂わせている。暑い時季の薄着であり、この気温にあっては、あっという間に乾くだろう。
「藍華ちゃんは、いいの? 姫屋に戻ったりしないで」
「あぁ、大丈夫、大丈夫。今日はのんびりした日だから。晃さんはきっと、この暑さに嫌気が差して、部屋に引き籠ってるに違いない」
「ふぅん」
そう興味なさそうに答えた灯里は、グラスを飲み干してしまうと、洗濯物を取りに行くと言ってカウンターを離れた。
わたしのまだ中身が残っているグラスは、相変わらず結露でいっぱいで、中に漂う氷は、もう溶けきってなくなろうとしている。
灯里が去って無人になった椅子を、見るともなしに見るわたしに、シャッターを上げた口を通って、海の風が吹き付ける。短く切った髪が煽られ、わたしは何となく、手で触り、あぁ、暑い時季は短いのが手軽でいい、などとまず思うのだったが、一方で、やっぱりアリシアさんのように丁寧に大事に手入れして、長く伸ばしたいという風にも、思うのだった。
*
テラスに顔を出すと、灯里は洗濯物を取り込んでいる最中だった。籠に、衣類がいっぱい入っている。
「グラス、片付けておいたよ」
「ありがとう」
「ねぇ、灯里。わたし、ARIAカンパニーに転職しちゃおうかなぁ」
「えっ」
灯里が真に受けてギョッとする。肝を潰すといった具合だ。
わたしはアハハと笑い、「冗談に決まってるじゃない」、と言う。
「何だ。びっくりした。アリシアさん好きの藍華ちゃんが言うと、冗談に聞こえないよ」
「まぁ、そうかもね」
わたし達は和やかに笑い合う。
「何か手伝おうか? 灯里」
「ううん。もうこの洗濯物だけで掃除はほとんど終わりだから。気持ちだけで嬉しいよ」
「そう」
「シャワーでも浴びて帰る? 藍華ちゃんも汗だくでしょう」
「そうね。出来ればお言葉に甘えたいなぁ、なんて思うけど」
わたしは、何となく、決まりの悪い気分になる。
「どうしたの? 藍華ちゃん」
「何か、至れり尽くせりって感じで、申し訳ないわね」
「気にしないでよ。藍華ちゃんは、お客様なんだもの。水先案内人は、気配り目配りが大切でしょう」
ごめん、と言いかけて、わたしは口を噤み、ありがとう、と言い直した。
わたしは灯里の勧めに従ってシャワーを軽く浴び、汗を流した。
その間、灯里はシャッターの辺を掃除してくれ、終わった後はシャッターを閉め、エアコンを付けて、室内を冷涼にしてくれていた。
わたしの後に灯里もシャワーを浴び、その間にわたしは折り畳みの鏡を借りて身繕いした。
灯里を待っている間、窓より夏空を窺っていた。大きい雲が流れていた。飛行機が大気を突っ切っていく轟音が聞こえた。時間はもう夕方に差し掛かろうとしているが、日脚はまだまだ衰えそうになかった。
「藍華ちゃん。じっと見られてると、恥ずかしいんだけど」
わたしは、机上に両肘を突いて両手で頬を持ち、髪を整えている灯里を観察していた。
「いいわね、灯里は。髪が長くって」
ことの経緯を知っている灯里は、苦笑いをこぼす。わたしの髪は元々長かったのが、ある日バーベキューの網にうっかり触れて焼けてしまったのだ。
「ごめん、ごめん。無礼だったわね」
そう謝って、わたしは窓辺に行き、壁に寄りかかる。エアコンの効いた室内でも、窓辺は、日射があるせいでそこだけ気温が高い。
「暑いねぇ……」
そう呟くわたしを、灯里は多分、きょとんとして見ていただろう。
大体乾かしたが、毛先に微かに残っている湿り気を指で弄ぶ。
夏のにおいがする。
今は、クーラーの冷気のにおいと、シャワーで流した髪の毛先の、生乾きのにおい。
しんみりと、わたしは、そのにおいを鼻に吸い込む。
***