ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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「じゃあ、お留守番、頼むわね。灯里ちゃん」
と、わたしは、後輩の女の子へ向けて言う。
玄関で、足首まである雪靴を履いて、もう準備万端といった具合だ。
「はひ」、と元気のよい返事が、リビングの方で上がる。「道中、お気を付けて」
ドアノブを握り、扉を開け、外に出る。大した用事ではない。ちょっとした、買い物に出かけるのだ。
今日は、雪靴でないと外に出られない。上着だって、ちゃんと防寒仕様のものを着ないと、ブルブル凍えて、後で風邪などひくかも知れない。なぜかと言うと――。
一面の、銀世界。
また、今年も、この季節がやって来たのだ。
厳しい寒気と、ドカ雪。
冬――。
後ろ手に扉を閉めて、その場に立って、空を見上げる。
白む呼気がのぼっていく空には、雪雲がみっちりと密に広がっており、雲のグレーと晴天のブルーが混ざり合った空模様は、決して夏には見られない色合いだった。
舞い散る無数の雪は、水気が少なく、結晶度が高いのか、細かく、降り方が、とても穏やかで、確かに寒いし、足元が悪いけど、こういう風情は、全然、嫌いではない。
だが、ひょっとすると、
誰もが自然を愛するとは限らない。夏の暑気も、冬の寒気も、我々、にんげんにとっては、季節の情趣を感じるものであるより以前に、刺激である。程度によっては、しみじみ出来るものであるとしても、行き過ぎれば、不快であり、脅威でもある。
だから、そういう自然の趣に対するセンスが、人々からこの先失われていくとすれば、
いずれにせよ、永遠など、ないのだ。
この雪が、いつの日か絶えて、降らなくなるにしても、それは、ひとつの運命であり、変えたりいじくったりすることの出来ないものなのだ。
「――アリシアさん?」
ふと、背後より呼び声がする。
振り返ると、少しだけ開けた扉の隙間より、後輩――灯里ちゃんが、顔を覗かせている。桃色の髪の彼女は、半ばきょとんとして、半ば心配する様子だ。
「どうしました?」、と彼女。「具合でも、よくないですか?」
「ううん」、とわたしは、首を左右に振る。「ちょっとね、考えごとしてた」
「考え事?」
「うん。何を買いに行くのか、ド忘れしちゃって」
「あぁ」、と灯里ちゃんは、にっこり笑う。「とっても分かります。わたしは、物覚えが悪いから、そういう時、よくあります」
わたし達は、和やかに微笑み合う。
「あっ」、とわたしは、思い出したように発する。「何か買って帰ろうかしら? 灯里ちゃん、何か食べたいものとかある?」
「食べたいものですか? そうですね――」
彼女は、ピンと指を伸ばして閉じた手で、顎から口にかけて覆い、考え込む様子だ。
「やっぱり、何か温かいものが食べたいかも」
「賛成」、とわたしは、満幅の賛意を笑顔で示す。
「今日は、お鍋でもしようかしら?」
そう、わたしが提案すると、灯里ちゃんは、「わぁ」、と瞳を輝かせて、喜色満面という感じだ。「いいですね」
彼女は、とても素直だ。嬉しい時は顔をクシャッと綻ばせて笑うし、悲しい時は目を伏せてしょんぼりしているし、感情表現が真っ直ぐで、何というか、にんげんに、『濁り』がない。
だから、灯里ちゃんは、よく慕われているのだと思う。姫屋の藍華ちゃんも、おれんじ・プラネットのアリスちゃんも、彼女と親密に接しているし、晃ちゃんとアテナちゃんも、灯里ちゃんに関して、よく言ってくれる。
ゴンドラで水路を漕いでいる途中、見かける灯里ちゃんは、わたしの知らない誰かと、笑顔で話しているし、多分、わたしが把握していない関係が、彼女には一杯あるに違いない。老若男女の別なく、灯里ちゃんは親しくなれるのだ。
「では、行ってらっしゃい。お気を付けて」
「うん。ありがとう。行ってくるわ」
そう互いに挨拶し合い、わたしは着ているコートの
灯里ちゃんはしばらく扉の隙間より顔を出した状態で、手を振って見送ってくれ、やがて扉を閉める。
雪の積もる通りを、ザクザクと雪を踏みしめて歩く。新雪ではなく、すでに何個もの足跡が付いている。
時は夕方に程近い。まだ、街灯はともっていないが、やがてともるだろう。
息を白くして歩きながら、また、空想する。
寒くない、雪のない冬。あるかも知れない、未来の風景。
ふと、前からこちらへ歩いてくるひとに気付いて、ぶつからないように、前もって避ける。
地球は、もうそういう風になっているらしい。灯里ちゃんから以前、聞いたことがある。あちらの惑星では、合理化が極度に進み、インフラが超高度に発展し、全てはもう人為的に操作出来るそうだ。自動化や省略化が多方面で済んでおり、その恩恵で生まれた時間と空間の余裕に人々はどっぷりと浴し、だから、地球の住民は、裕福だし、教養に富んでいる。
我々の火星は、古い昔の地球への郷愁への思いから、まだ、往年の風情をたっぷりと残しているし、住んでいる人々も、そういう懐旧の情念があるゆえに、あえて好んでこの惑星に住んでいるのであって、あるいは、わたしが想像している地球並みの合理化は、ずっとないのかも知れない。
――今歩いている通りを、橋の手前で折れて、細い路地に入る。
わたしは、火星が、ずっとそういう、利便性と永続性が支配する今の地球ではもう失われてしまったあらゆる合理化し過ぎていない、血の通った自然や、文明や、文化の風合いを長く保持していってくれることを願ってやまない。なぜなら、わたしも、他の火星の多くの住民と違わず、春夏秋冬を愛し、その季節にしか出来ないファッションで楽しみたいし、春には桜を愛で、夏には海水浴に繰り出し、秋には葉の色付いた木の下で読書し、冬には暖炉のそばで燃える火を見つめていたい。コンクリートで滑らかに固められた道路も、速く走る車も、欲しいとは思わない。
贅沢は言わない。だから、せめて、この時代が、新しい時代に変わらないで、ずっと、古き良きかつての時代の延長線上に続いてくれれば、わたしは他に望むことはない。
ふと、空を見上げる。すると、軒を争う建物の屋根の向こうに、浮島が、周囲に伸びるロープウェイの索道の中央に見える。
雪が、知らない間に降り方を弱めており、わたしは、被っているコートの帽子を外す。
永遠など、ないのだ。
宇宙船が、空を横切り、わたしは、その跡を、じっと見上げ、目で追っていく。
――確かに、そうかも知れない。
ハァと、息を吐き出すと、浮島が浮かび、宇宙船が飛ぶオールドブルーの寒空へと、白く凍って昇っていく。
あらゆるものには、終点がある。始まりがあれば、終わりがある。生まれれば、やがて死んで去る。
永遠は、ない。
わたしは、瞑想し、思い起こしてみる。わたしが、他の火星の人々と共に、好み、愛する、温かみのある生活や、味わい深いネオ・ヴェネツィアの風景や、観光のためにゴンドラに乗りにくる客人の、うっとりした表情や、水先案内人を誇らしいと思う気持ちなど……。
わたしはその先など知らない。わたしが愛するこの時代に、仮に終点があるとして、その先は、わたしにしてみれば、真っ暗の虚無だった。凍える寒気に、わたしは惨めにふるえた。
『アリシアさん――?』
ふと、呼び声がして、わたしはハッとし、目を開いた。よく耳にした、灯里ちゃんの声だった。
わたしは振り向いたり、キョロキョロ見回したりして探したが、細い、薄暗い路地に、彼女の姿はなかった。
「灯里ちゃん……」
わたしはポツリと呟く。すると、お鍋をしようかと提案した時の、ARIA COMPANYでの、彼女の見せた、満面の笑みがくっきりと蘇ってくる。そのそばには、藍華ちゃんや、アリスちゃんや、晃ちゃんや、アテナちゃんがおり、ネオ・ヴェネツィアの、わたしの知らない人たちも、連なる。
ふるえる冷気が和らぎ、彼女の陽だまりのように可憐で優しいイメージが、寒がるわたしを温めてくれる。
また、この季節がやって来た。
冬。
空の宇宙船は飛び去り、浮島は微動だにせずに浮かんでいる。
雪が、弱めていた降り方を強め、再び、チラチラと降り出す。
また、わたしはコートの帽子を被り、止めていた足を踏み出す。
灯里ちゃんが、待っている。
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