ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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眠りより目を開いた時、空気の感じが何だか重い気がした。夜が明け渡り、暗闇ではないが、かといって朝が来たと思えるほどの明るさでもなかった。
辺りはとても静かだった。オレンジ・ぷらねっとの部屋。アリスちゃんは、隣のベッドでまだお休み中だ。こっちを向いて寝ているので、顔がよく見える。口をうっすらと開けて、熟睡している人間に相応しい穏やかで深い息を繰り返している。
今、何時だろう。
わたしは寝返りを打ち、目覚まし時計のある方を向いた。
6時を、半分過ぎようとするところだった。
目覚ましが鳴るようにわたしがセットしているのは、7時。まだ三十分ほどある。
すっかり起き上がるか、まだもう少し寝るか、ちょっと考えた。
体はまだ軽やかではなく、全身が目覚めるにはまだ時間がいる気がした。
では二度寝しようと目を瞑ってみる。目蓋を閉じ、真っ暗闇を見つめる。眠りは……戻ってくる気配がなく、わたしは、また朝の鈍い光の中へと引き戻される。
仕方ない。起きよう。
そう、無気力に決め、わたしは掛布団をおもむろに上げて起き上がる。
体をひねって足を床のスリッパに滑り込ませ、膝に手を置いて、ぼんやりと、まだ学生である後輩の寝顔を見下ろす。
アリスちゃんは横を向いて、掛布団より手首を出し、拳を顔のそばに置いて寝ている。その様が、何だか丸まって寝る猫のように見え、わたしは思わず頬が緩んでしまった。
「さて」、とわたしは呟き、立ち上がると、窓辺へ行き、閉じたカーテンを少しだけ開いて、外を窺う。
カーテンに遮られて届かない分の朝の光が、外に満ちている。
思ったように、天気は曇りだった。生白い光がネオ・ヴェネツィアに差している。
波の具合を見ると、風勢はさほど強くなさそうだ。水上には、少ないものの、早々と起き出して舟を漕いでいる者が見える。
こういう勤勉な人たちを、わたしは尊敬する。わたしはまったく勤勉とは反対のところにいるからである。彼らはきっと、たとえ朝、目覚ましのベルより早く起きても、二度寝しようなどという考えは浮かばないだろう。むしろより早く起きられたことに喜びを覚えるかも知れない。
晴天であればいつも見える、向かいのビルの朝日の黄金色の反射は、今朝はなく、曇天の鈍い白色が、眠気を誘うばかりだった。
みずからの尊敬する人たちの勤勉さに、だらしのない自身を対比させて、ジクジクと劣等感に苛まれていると、ふと、人影が大運河を横切ろうとするのが目に入った。
その人は舟に乗っており、櫂を用いて漕いでいる。ゴンドラで、ウンディーネなのだった
わたしはハッとし、目を凝らして上階の窓に手を突いて水上の水先案内人をよく見てみると、姫屋の制服を着ていて、髪がやや赤みがかった黒のロングヘアーで、どうやらゴンドラを漕いでいるのは、自身の知っている人物みたいだという推測が立った。
「晃ちゃん?」、とわたしは訝しい思いと共に呟いた。「こんな朝に、こんな天気で、何しているのかしら」
わたしがじっと興味を持って見下ろしていると、晃ちゃんらしき人影は、視線に気付いたのか、こっちの方を見上げ、ゴンドラの速度を緩めた。
わたしは、カーテンを閉めて窓辺より離れ、アリスちゃんのまだ寝ている部屋をこっそりとパジャマ姿で出ていった。
廊下をずっと行き、裏手の折返し階段を速足で下りていく。
◇
その人物は、やはり晃ちゃんだった。
わたしと彼女は、オレンジ・ぷらねっとの桟橋で顔を合わせた。
「何だ、その恰好は」
開口一番、渋面の彼女より出た言葉だった。
「ゴメン。寝起きなの」、とわたしは気後れして答える。
プルオーバーのダブダブのパジャマ姿に、多分付いているだろう寝癖に、まだ洗っていない寝ぼけた顔。晃ちゃんが顔をしかめて呆れるのも無理はなかった。
「まぁ、いいさ」、と彼女は櫂をそばに置くと、その場にしゃがみ込む。その動きに合わせて、ゴンドラが揺れ、波紋が広がる。
「晃ちゃんは、何してるの?」
「ん、ゴンドラを漕いでる」
「それは、そうなんだけど……」
わたしの問いの意図が伝わらなかったのか、晃ちゃんが勿体ぶってお茶を濁したのか分からない。
「まさか、こんな朝早くから仕事っていうわけでもないでしょう?」
「仕事じゃないよ。ただの散歩みたいなものさ」
「散歩?」
「あぁ、仕事のウォーミングアップがてら、な」
「ちょっとゴンドラで街を回遊するっていうわけね」
「そう。今朝の天気はいまひとつだが」
晃ちゃんは短く返すと、やや細目で、半ば睨んで、半ば考え事でもするように、大運河の方を見遣った。
わたしはどうしたのだろうという思いで、遅れてその場にしゃがみ込み、晃ちゃんのキリッとした横顔をぼんやりと見つめた。
「アテナ、お前もどうだ?」
「わたし?」
晃ちゃんが、そっぽを向いていた目をこっちに移す。
悪くないと思った。パジャマ姿で顔も洗っていないけど、構わなかった。
話が付くと、晃ちゃんは立ち上がり、オールを手に取って、「乗れ」とわたしに促した。
わたしは揺れるゴンドラに慎重に足を伸ばして乗り込み、船頭の晃ちゃんと向かい合わせの恰好で、客席に座った。
季節は春先で、日中はポカポカ陽気で暖かいものの、朝晩はまだ寒いくらいだった。
今朝は、曇っていて、ややジメッとしていた。気温は高くなく、やはりうっすらと寒かった。
「じゃあ、行くぞ」
晃ちゃんがそう合図すると、わたしは手で桟橋を押すことでゴンドラをゆっくりと運河の方へ移動させ、その勢いを借りて、晃ちゃんは櫂を動かして舟に速度を乗せ、進行させた。
「堂に入ったものね」、とわたしは、からかい半分で、褒め立てる。
「感心してる場合か、お前もウンディーネだろうに」
呆れる晃ちゃんに、わたしは微笑んで返す。
ひと気のない街の空に、小鳥の飛んでいく影がサッと走る。
「アリスは」、と晃ちゃんが言う。「今日は学校か?」
「うん」
「アイツ、水先案内業の方は、ちゃんとやってるのか?」
「うん。大丈夫と思う。アリスちゃん、器用だから」
ゴンドラの進行する速さは、人の歩く速さとさほど変わらない。そもそも、高速で走る乗り物ではないのだ。従って、体に当たる向かい風は柔らかい。短いわたしの髪が、そよ風に、微かになびく。
「晃ちゃん」、とわたしは言う。「姫屋の子じゃないのに、アリスちゃんのことを案じてくれるのね」
「別に」、と晃ちゃんは素気なく答える。「案じてるわけじゃない。ただ単に、気になっただけだ」
「あの子は、きっとまだ夢の中だわ」
「藍華も、多分おんなじだ」
わたしと晃ちゃんは、それぞれ自身の後輩の寝姿を思い浮かべ、微笑み合う。
「アリシアちゃんも、同乗してくれれば楽しいわね」
「前はよく三人でゴンドラに乗ったものだなぁ。昔の話だが」
「そうねぇ。懐かしいわ」
わたしは、過去を思い返す。まだ手袋をはめていた半人前の時代。アリシアちゃんと晃ちゃんと、よく合同練習と称して集まったものだ。今、アリスちゃんが、灯里ちゃんと藍華ちゃんとちょくちょくしているように。ゆっくりと流れていく運河の景色に、過去の情景を重ねて眺める。
「アテナ、どこか行きたいところはあるか?」
晃ちゃんの問いに、「ううん」、とわたしは首を振って返す。「身なりがコレだし、それに、時間が潤沢にあるわけじゃないからね、ちょっと行って戻ってくるだけでいいわ」
「分かった」
そして、わたしたちは、早朝のゴンドラ漕ぎに悠々とくつろいだ。天気は確かによくなかったけど、そよ風の当たりが心地よく、わたしは、今遅れて、眠たさを覚えてくるのだった。
(終)