ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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目を覚ますと、見慣れない天井の木目が見えた。
見慣れないとはいっても、わたしは実のところ、その天井を知っており、とどのつまり、それは、わたしの実家の、わたしの部屋の、わたしが目覚めの時に必ず目にしていた天井なのだった。
エアコンのよく効いた涼しい室内の、和室の畳の上に、わたしは仰向けになっており、まるで祈るように、手を組んで横になっていた。
広い窓は、日光をよく通し、黄色味の強いその光線は、夕暮れを想起させた。
壁掛けの時計は5時30分ほどを示している。
夏だった。盛夏。
部屋には勉強机があり、その上は教科書やノーがのっており、椅子には赤いランドセルがかかっている。あらゆる書籍、冊子のネーム欄には、4年生、水無灯里とマジックで記名されている。
知らない内に、わたしはうたた寝してしまっていたようだ。
起きようと思い、上半身を起こすと、目元に違和感が生じた。
「あれ……?」
胸がじんとしたかと思うと、温かさを伴った涙が、ひとしずく、目尻からこぼれ出、こめかみの辺りを伝って流れた。
「何でだろう。悲しいわけでもないのに」
そう呟いて、わたしは目元を指で拭う。
ストレスの解消が、起きている間に行われず、蓄積していった場合、体の機能なのか、睡眠中などに涙を流すことで、発散しようとする動きが見られることがある。
この涙も、あるいはそういうサインなのかも知れない。
怪訝に思いつつ、畳の上に直接横になっていたわたしは、寝起きの重たい体を強いて起こし、鈍い足取りで、部屋の隅の、枕ののった、たたまれた布団に背中を預け、座り、お腹のところで両手を組んだ。
ぼんやりと、窓に目を向け、物思いに耽る。
ネオ・ヴェネツィアのARIAカンパニーではない、異星の異国の、わたしの実家。
どうしてわたしは、『過去』にいるのだろう。
恐らくARIAカンパニーでの雑務中に、隙間を見つけて休憩している内に、机上に突っ伏すなどして寝、昔の夢を見たのだろう。
わたしの今いるのは、現実とは違う位置だった。うまい説明のしようがないが、まるで『夢の中で』目覚めたかのようだ。
ひょっとすると、もう一度目を瞑って寝ようと試みれば、あるいは元に戻れるかも知れない。
そう何となく推測して、目蓋を閉じたその時。
「灯里」
呼び声がし、襖が開き、人影が現れる。
お母さんだった。わたしと同じ、桃色の髪。背中まであるほど長くて、側頭部の髪をリングで束ねている。
「んん」、とお母さんは、わたしを見下ろしてやや訝るように言う。「灯里、ひょっとして寝てた?」
「うん。寝てた。どれくらいか分からないけど、熟睡だった」
お母さんは、わたしのそばでかがみこむと、指の背をわたしの目元にそっと当てた。
「濡れてる。アンタ、泣いてるの?」
にわかに彼女の表情が心配の色で曇りだす。
「ううん」、とわたしは否定する。「泣いてなんかないよ。大丈夫。ただ、ひとしずくだけね、起きた時に、涙が出たの」
「ふうん」
お母さんは、いささか安堵したようで、指をわたしの目元より離した。
「大丈夫なら、よし」、と彼女は口元を綻ばせて言い、片手をわたしへと差し伸べる。「散歩に行こう。灯里」
「散歩? 暑くない?」
「暑いよ。でも、引きこもってちゃ、ダメ」
わたしは、エアコンのある室内で避暑していたいという思いで、あまり気乗りしなかったが、お母さんの強い語気に打ち負けて了解した。
その頃には、すでにわたしの意識は、最早ネオ・ヴェネツィアにいる水先案内人見習いの水無灯里ではなかった。すっかり童心に返り、子供として、小学生として、お母さんと接していた。
「じゃあ決まり。アンタ、寝起きで髪の毛とかバサバサだし、ちゃんと直しなさいね」
「うん。分かった」
ぶっきらぼうに答えると、お母さんはひとまず部屋を離れ、わたしはというと、乱れているという恰好を、散歩出来るように整えることにした。
部屋の鏡で確かめてみると、わたしは白いワンピースを着ていた。髪はというと、お母さんの言った通り、まとまりのない形になっていて、霧吹きと櫛とドライヤーで直そうと思った。
だが、意外だったのは、髪が短めだったことだ。鏡を見ることで、認識され、驚いた。わたしのヘアスタイルは、ほとんど、姫屋の藍華ちゃんと同じであり、確かに、手入れが易しくて楽でいいのだけど、長い期間をかけて伸ばしたロングヘアーがないのは、どこか寂しい思いのするものであった。
「……?」
鏡に向かっていると、また、胸がじんと熱くなり、既視感を覚える間もなく、涙がひとしずくだけ、今度は頬を伝った。
小さい動揺が、わたしを襲った。
目を窓の方へ向け、黄色味がかった夏日の向こうに、昔よく見ていた景色を、夢という空間を通して、改めて見てみると、込み上げてくる激情があり、その激情を好きにさせると、堰を切ったように涙が溢れてくるという気がし、わたしは首を大振りに左右に振ることで、その激情の流出を防いだ。
壁掛けの時計は、5時45分を教えている。空はまだまだ明るさを失っていない。
灯里、と名を呼ぶ声がし、わたしは、強がりを込めて、「はぁい」、と大きく返事し、まだ髪型を完璧にアレンジ出来てはいなかったけれど、小走りで、自室を出ていった。
*
川べりを歩くのは、何年ぶりだろう。
舟が何隻も通れるくらい幅の広い川の両側には、同じように幅の広い河川敷があり、土手に上がるスロープがある。
わたしも、お母さんも、首に汗拭き用のタオルを巻いて、日除け用の鍔広の帽子を被っていた。着ている衣服は、それぞれ白い袖なしのワンピース。すっかりお揃いだった。
辺りにはランニングをする人や、ダンスの特訓をする人、ジャグリングする人など、様々いて、活気があった。
「見て、灯里」とお母さんが彼方を指差して言う。「おっきい雲よ。綺麗ねぇ」
彼女の指の示す方に目をやると、わざわざ注意を促されなくとも、自然と目に付くだろう、夕焼けの紅色に彩られた入道雲の、空にそびえているのが、鉄橋越しに見えた。
眺めている内に、また、あの感情が込み上げて来、目頭が熱くなり、どうやら、湧き起こる波の間隔が短くなっているようだ。
「ねぇ、お母さん」、とわたしは、声が震えそうになるのを抑えて、目線を合わさずに呼びかける。
「うん」
「お母さんって、夏好きだよね」
「そうね。確かにわたしは夏好きかも」
「どうして?」
「さぁね。どうしてだろう。わたしにもよく分からない」
と、お母さんは、いささか困惑して、小首を傾げるが、「けど」、と続ける。
「何だか、夏ってさ、地球全体が、元気になったように見えない? 太陽が燦燦と照って、お花が一杯咲いて、雲が大きくって――」
そういう夏の象徴が、こぞって毎年強い印象を与えるから、好きなのかもしれないという風に、彼女は最後、結んだ。
あの頃のマン・ホームは、こういう感じだっただろうか。
わたしの記憶は、徐々に朧気になっていく。
「灯里は、夏は嫌い?」
と、お母さんは、わたしの目を覗き込んで、どこか悲しそうに、まるでわたしにも、夏を好きでいて欲しいと請うように、聞いてきた。
その眉の下がった困った表情を見ると、わたしは涙を堪えることが出来なかった。
「ううん。わたしも好きだよ。暑くて寝苦しかったりするけど、わたしも、夏が好き……」
そう答えた後、わたしは、最早込み上げてくる感情の流出するに任せ、涙はとめどなく溢れ、嗚咽を伴った。
お母さんは、ずっとベソをかくわたしのそばに付いて、慰め、元気が出るようにあやし、面倒を見てくれた。その優しさが痛いほど沁みた。
ある木陰でちょっと休み、泣き腫らした目で、わたしは、群葉越しに、空を仰いだ。光の通る葉はエメラルドのように輝き、通らない葉は真っ黒に翳り、その向こうで、夏雲はまっさらのシャツのように真っ白で、空は澄んで青く、広かった。
時計がなく、時間が分からない。だが、夢という幻の世界においては、進行もなければ、遅滞もないのだ。
過去とそっくりの夢の桃源郷に、わたしはいる。その中では、全てが円満で、順調で、完全だった。その感じは、不快だったり、イヤだったり、腹立たしかったりすることがある現実とは対極であり、その対照が、きっと、わたしの涙を誘発したのだろう。
だが、夢はやがて醒める。全てのビジョンには暗幕が下り、次に見えるのは、現実だ。
懐かしく思われる、実家の和室も、よく散歩した河川敷も、マン・ホームの空も、お母さんも……全ては、かつて実在したリアリティのようであって、その実、夢見るわたしの創造物に過ぎず、やがて消える一過性のビジョンなのだった。
失われたものを想うのは、甘美であり、同時に、悲しく、苦しいことだった。
失われたものは、失われたものとして、存在している。わたしの心は、その印象をひしと抱いて離さず、保持していこうとする。
わたしはやがて、失われた過去の楽園を追放されるだろう。
現実の強い力に引き戻されるだろう。そして水先案内人として立脚しているが、本来は放浪者に近い性質のわたしに立ち戻り、悲喜こもごも、味わい、嘗めるだろう。
だが、わたしはまた、夢の力を借りて、失われた楽園へと回帰する。
母が笑って、楽しい話を聞かせてくれている。泣き止んで共に笑うわたしの目元に残った、涙がほろりと、落ちていく。
夏のしずく。
(終)