ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.112「ひとひらの永遠」

***

 

 

 

 昨夜、雨が降った。

 

 春が訪れてからけっこう経って、半袖でないと過ごせないくらい暑い夏日の日もあったけど、昨夜の雨は冷たくて、また風もひんやりとしていた。半袖でなんていられるはずはなく、アテナ(わたし)は、もう不要かと思ってしまい込んだ冬用のアウターを、クローゼットより引っ張り出してこないといけなかった。

 

「意外ともってたけどね」

 

 と、オレンジ・ぷらねっとの個室でテーブルに付いているわたしは言う。両肘を机上に突き、湯気の立つ温かい白い陶器のカップを、両手で持っている。中身は砂糖のたっぷり入った甘い紅茶。

 

「桜のことですか?」

 

 と、対座する彼女は言う。わたしの後輩の、アリスちゃん。マスカット色の長い髪が綺麗だ。互いに、水先案内人の制服を纏っていた。冬用のポンチョ付きの制服で、帽子は外し、ハンガーにかけてある。

 

「えぇ」

 と、わたしは紅茶を一口飲んだ後、肯定する。

「一週間前に満開になったように見えたけど、おとといも、青い葉を覆い隠すくらい、たくさんの花が咲いてた」

 

 アリスちゃんも、わたしと同じく紅茶を飲んでいる。お菓子はなく、わたしたちは、まだ空気の冷たい寒の戻りの春の朝の、仕事の合間のひと時に、ちょっとしたティーブレイクを挟み、慎ましく暖を取っているのだ。

 

「その桜も、昨夜の雨でほぼ全部散っちゃったでしょうね」

 

「でしょうね」

 

 そう簡単に返し、わたしは首だけで窓の方を向き、レースのカーテン越しに、晴れ渡った青い空をぼんやりと眺める。

 

 ――何とも気怠い時間だ。仕事に対してあまり精が出ず、わたしはただ、目の前に用意された業務を機械のように処理していくだけ。

 

 オレンジ・ぷらねっとはカナル・グランデに面しており、わたしとアリスちゃんの相部屋の窓は、広い運河とその向こうの建物の並びが見渡せる好いビューポイントとなっている。建物の並びには、サン・マルコ広場にある寺院のドーム状の屋根が見えている。

 

 わたしは、青い空の下に日陰となっている対岸の建物の陰気くさい壁を見る。相部屋は東向きとなっており、昼に向かって昇っていく太陽の光が、朝は豊かに注がれる。今日みたいによく晴れた日の朝は、ちょっと眩しいくらいで、レースのカーテンを通って差し込む陽光が、木目の床にややマットがかった光沢を与えている。

 

 フゥ、とため息をするのはアリスちゃん。カップの中身を飲み干し、ソーサーの上に戻す。

 

「桜の花びらの散る様を見ると、何だか切ない気持ちにさせられます」

 と、彼女は空のカップに目を落として、誰に言うでもなく呟く。

「綺麗だけど、その一方で、ハラハラと落ちていく花びらの一枚一枚に、時の流れのむごさが見える気がするんです」

 

「うん」、とわたしは相槌を打ち、まだ残っているカップを置くと、今度はポットに手を伸ばし、空になったアリスちゃんのカップに注ごうとする。木の敷物の上にのった、カップと同じ白色の陶器のポット。

 

「あっ……」

 

 わたしはハッと気付く。

 

 ポットの中身は、ほとんどなくなっており、傾けたポットの口は、ひとつかふたつほどの滴りをこぼすばかりだった。

 

 ハァ、とアリスちゃんが、その妙齢にそぐわないため息をまた吐き、わたしは何だか、自分が悪いことをしたように思ってしまい、何事もなかったように、ポットを元に戻す。

 

「でっかいメランコリックです……」

 

 悄然とそう述懐するアリスちゃんを見つめて、わたしは、耳の後ろの辺を指で軽く掻き、両手をお腹の辺で組む。紅茶はまだ少量、カップの中に残っている。

 

「アリスちゃんって、けっこうロマンチストよね。耽美的というか」

 

「桜の花が散っただけで、心が動き過ぎてるということですか?」

 

「動き過ぎてるかどうか、わたしにはよく分からないけど、少なくともわたしの感性が及ばないところまで、アリスちゃんの感性が及んでるのは、きっとそう」

 

 そう言って、わたしは再び目を窓に向ける。

 

「時の流れのむごさかぁ……」

 

 アリスちゃんの抒情の言葉を自分の口で言うことで、その意味するところを追ってみる。

 

 すると、わたしの口元に、思わず微笑みが浮かんでくる。

 

「その感想はむしろ、アリスちゃんじゃなくて、わたしに相応しいっていう気がする」

 

「アテナさんに?」

 

「そう」

 と、わたしは、上目遣いで聞き返してくる後輩に頷いて返す。

「時の流れは、若者にとっては未来に近付くこと。若者の未来は、大きくて明るい、希望に満ちたもの。だけどわたしにとっては、流れ落ちる砂時計の砂と同じで、ただ空費されていくだけ」

 

 わたしは目を瞑り、砂時計のイメージを思い描く。木の構造の中に、真ん中が細くくびれたガラスがあり、中に込められた砂のくびれの上側にあるものが、サラサラとその細い穴を通って落ち、下側の堆積に積もり重なっていく。

 

 決して戻らない行き先の決まった砂の流れは、想像するわたしに虚無感、あるいは悲哀を抱かせた。

 

「そうは言ったって」、とアリスちゃん。「アテナさん、わたしとそう年齢は変わらないじゃないですか」

 

「そうだっけ?」

 

 と、わたしは白々しい口ぶりで返し、いたずらっぽく笑って見せる。

 

 実際、わたしとアリスちゃんの年齢の差は、ふたつ、みっつほどに過ぎず、隔たりなど、ないに等しいのだった。

 

 彼女が面白くなさそうにちょっとムスッと頬を膨らしたのを見、わたしはカップの残りを飲み干し、「ご馳走様」、と述べる。

 

「次の予定まで、しばらく空きますね。どうしましょう?」

 

「そうね」、とわたしは返し、少し考える。

 

 これだけの好天気、寒いからといって内に引き籠っているのは勿体ない。外に出て……。

 

「出かけよう」、とわたしはやや唐突に言い出す。

 

「出かける。どこへ?」

 

「どこにしよう?」

 と、自分で言っておいて悩みだすのは、ひどく愚かだ。

 

 だが、わたしは「ううん」、と首を左右に振り、「どこでもいいの」、と続ける。

 

「とにかく、ちょっと足を伸ばしましょう」

 

 アリスちゃんは、わたしの企図のイマイチはっきりしない提案に「はぁ」、と困惑気味に返すのだった。

 

 わたしには、だが、ある目論見があった。

 

 目指すべき場所へは、わたしたちは、歩きではなく、ゴンドラで向かうことにした。

 

 サッと後片付けをし、出かける用意を整える。

 

 社内の子にしばらく外出すると連絡し、船着場のゴンドラに乗り込む。二舟ではなく、一舟。わたしがゴンドラの漕ぎ手で、アリスちゃんは客席のソファに座っているだけ。

 

 ゴンドラを繋ぐロープを外し、手で岸を押して船体をある程度動かすと、わたしは舳先に立ってオールを操り出す。

 

 ネオ・ヴェネツィアの迷路の如き水路を、わたしたちはゴンドラで巡る。

 

 制服と舟を見て乗船を望む客人には、新人の研修中だと丁重に断り、わたしはとにかく、目指すべき方に向かってゴンドラを進行させる。

 

 客席のアリスちゃんは、どこに行くのかという疑いの目でわたしを見たり、流れる風に小動物のように小さく身震いしたりしていたが、合間には、麗しい春の雰囲気に陶然と浸っているようであった。

 

 通り過ぎていく桜の木は、ことごとく花びらを散らしており、中には散らずに残っている木があったが、数えられるくらいの花びらしかないのだった。

 

 チューリップが、ガーベラが、ラベンダーが――春の花々が、家々の窓辺の鉢に笑っていたが、わたしはただ、まだ咲き残る桜の木を求め、オールで水を搔いているのだった。

 

 薄暗い日陰の、入り組んだ水路を、わたしは、陽光の導きに従って進んでいった。

 

 道中のわたしの不安も期待も、アリスちゃんに共有されているようで、舳先と客席にそれぞれいるわたしたちは、よく目が合った。

 

 

 

 そして、わたしたちはとうとう到着した。

 

 

 

 その場所は、わたしの頑張りに対する報いとしては、平凡であり、珍奇さなどまるでなかったが、わたしも、そしてアリスちゃんも知らない、一度も来たことのないところであった。

 

 水路を進んだ一隅で、アリスちゃんが「あっ」と声を出して上を指差し、わたしがその示す方を見上げると、青空を背景に、桜の木があった。

 

 わたしは驚いたが、その様は不自然だった。何となれば、道中見た春の花々と同じように、その桜は、ごくありふれた建物の窓辺にあったせいだ。

 

 まだ、薄暗い水路の途上だった。辺りに人気はなく、不気味に感じるくらい、ひっそり閑としていた。

 

 桜の木は、まだ旺盛に花を満開にさせていたが、同時に、散らせてもおり、わたしたちのいるところに、ハラハラとその桃色の花弁を舞い散らせていた。

 

「誰かが植えて育てているのでしょうか」、とアリスちゃん。

 

「さぁ、どうだろう……」

 

 よく分からないが、とにかく、その場所はどこか神秘的で、わたしたちは誘惑された。

 

 ゴンドラを岸辺に留め、水路より道路へと上がり、桜を見上げて、建物の開放された出入口より、中に入る。

 

 その建物は、住宅ではないようで、入った中はガランとしていて、ただ手すりのある四角い建物の壁に沿った階段が上まで続いているばかりだった。

 

「誰かいるのかしら?」、とわたしが呟くと、アリスちゃんが手を口元に添え、大声で「すいません」、と叫んだ。

 

 だが、その声はむなしく建物の中で反響するだけで、返事を寄越すことはないのだった。

 

 わたしたちはきょとんとした顔を見合わせたが、とにかく花見しに行きたいという気持ちでホクホクしていた、

 

 わたしたちは、手すりに手を置いて階段を上っていき、とうとう、桜の木のそばまで到った。

 

 桜は、広い植木鉢に植わっており、自生しているのではなく、盆栽として、誰かの手によって整えられているようだ。

 

 また、ごくありふれたように、外側からは見えたはずのこの建物は、確かに付近の建物の雰囲気とそっくりで、それ等と統一感を成しているのだが、ひとの気配と不在とが共存していて、不思議だった。

 

「見てください。アテナさん」、とアリスちゃんが、盆栽を覗き込んで呼ぶ。

 

「どうしたの?」、とわたし。

 

「あれ……」

 

 彼女と顔を並べて、濃い桃色の花びらと青い葉をたくさん付けた、くねくねと複雑に曲がった桜の枝の中央にあいた空洞を覗き込む。

 

「あっ……」

 

 わたしは息を呑む。

 

 その空洞を通して見えるのは、わたしたちのよく知ったものであり、また、さっきわたしが、部屋の窓を通して見るともなしに眺めていたものだった。

 

 サン・マルコ広場の寺院が、桜の向こう側に、やや小さく見えている。

 

 その奇縁に、わたしは何となく感激してしまい、しばらくの間、アリスちゃんと近しくくっついて、美しい奇勝に見入っていた。

 

「……!!」

 

 ふと、冷たい感触がして、わたしはびっくりし、ちょっとだけ身を引く。

 

「どうしたんですか、アテナさん?」

 

 顔に、何かが付着したようだ。

 

 わたしはその部分を指でなぞり、目の前に持ってくる。

 

「水滴……あっ」

 

 わたしは、昨夜を思い出す。雨模様。

 

 よく見ると、桜の盆栽に、さほど多くはないが点々と露の付いているのが分かる。

 

 忘れていたように、わたしは身震いし、高所を漂うひんやりした風の肌ざわりに総毛立つ。

 

 わたしたちは、求めていた、時の流れの中で失われたはずの、季節のシンボルの生き残りとの遭遇を果たした。

 

 喜びと不安とが、交互に現れては、それぞれ同じように、わたしの胸を――そしてまた、アリスちゃんの胸を、ドキドキさせた。

 

 甘い香りが、冷たい風の流れと共に、鼻腔に入りこんで来、うっとりするようで、また切なくなるようであった。

 

 砂時計の砂は、延々と流れ落ち続けている。

 

 だが、その時、ただ空いているだけの空洞の彼方に見える、桜に囲われたサン・マルコ寺院の遠景のように、無限に過ぎていく時の流れの中に切り取られたこの刹那だけは、永遠であるように、わたしには思われるのだった。

 

 

 

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