ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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去年の夏、わたしは花火を観た。偶然のことだった。
わたしが夕べの買い物の帰りに通りかかった
――夕空に浮かぶ無定形に広がる紅色の入道雲に、暗い紫色の陰が滲む。橙色の電灯があちこちでポッと灯り、運河を行く舟々と操舟するひとの姿が、宵闇に覆われて、ほとんど真っ黒に近くなっている。
「すいません」
と、買い物で買った品々が収まる、籐のバスケットを携えるわたしは、気になり、端っこに座るひとりのそばまで行き、ちょっと尋ねてみる。前屈みになり、どこか耳打ちするみたいだ。
「何か、ここであるんですか?」
相手は子連れの婦人だった。白いノースリーブのシャツと、黒っぽいネイビーの七部パンツという涼しげな出で立ちの、姫屋の晃さんのように長い黒髪の、若い女性で、彼女が抱く子どもはまだいとけなく、指を咥えて、わたしをじっと見つめている。そのベビー服の白が、母のシャツと同じ色だ。
「そうなんです」、と彼女は振り向いてにこやかに答える。「今夜、花火が上がるんですよ」
「花火!」、とわたしは驚いて言う。「知らなかった」
運河の中程に目をやると、台船と思しき舟が一艘浮かんでいて、職人と思しき男たちが作業に精を出している。
「予告はないんですって」、と女性。「わたしの主人がね、あそこにいるんですよ」
そう言って、彼女が台船を指差す。
「旦那様、花火師さんなんですね」、とわたしは感心して言う。
「うまく出来るかなぁ」、女性は苦笑して小首を傾げる。「今回ね、はじめて打ち上げに携わるんです。今まで花火作りだけに従事していたのが、親方さんが、うちのひとに、ちょっとやってみなさいと、任されたんですって」
女性は、抱いている子どもと間近に目を合わせると、「パパ、じょうずに出来るかなぁ」、と笑顔で問いかけ、すると、子どもはキャッキャと愉快そうに笑うのだった。
「お姉さん、水先案内人さんですよね」、と女性が、わたしのセーラー服を見て尋ねる。
「はひ」、とわたしはちょっと間が悪い気持ちで返す。「水無灯里といいます。ARIAカンパニーっていうところで、見習いやってます」
子どもまで、関心を持つように、指を咥えてわたしに目を遣る。
「一度、この子とゴンドラに乗せて貰ったことがあるわ。アリシアさんっておっしゃる方にね」
「あぁ、アリシアさん」、とわたしは子どもと特に意味もなく見つめ合い、半ば上の空で相槌を打つ。
「あなたは、男の子? それとも、女の子?」
わたしは、子どもに向かってやさしい口調で訊いてみる。短い細い髪、パッチリとした目、ふっくらとして赤味を帯びた両頬。
だが、子どもはまだ言葉を解すには未熟で、ただポカンとした顔でわたしを見つめているばかりだ。
「フフッ」、と女性が笑む。「男の子なんです」
「そうなんですね」、とわたし。「可愛いから、てっきり女の子かと思いました」
「ありがとうございます」、と女性が礼を述べると、片手で傍らを示す。「お隣、いかがですか? 水無さん」
「いいんですか?」
「勿論」
わたしは、特に用事がなかったので、女性の隣に座ることにし、バスケットを置いて、腰を下ろした。彼女は名を“彩夏”というようだった。
わたしは、彩夏さんとその後しばらく談笑した。生い立ちとか、仕事とか、彩夏さんの子どものこととか、アリシアさんのこととか、色々。
そうしている内、花火の噂がにわかに広まったのか、わたしたち、花火を待つ観客に、他の人々が合流して来、その数は段々と増えていった。
やがて、最早トイレに移動することさえ出来ないくらい、わたしたちがその中に包含される人だかりの密度は高まり、その夜は熱帯夜のようで、ひどく蒸し暑いところに、人いきれが加わり、若干息苦しいくらいだった。だが、時折吹き通る水辺の風が、涼感を運んでくれ、蒸し暑さとむさくるしさを癒してくれるのだった。
わたしは、この人だかりの中に、藍華ちゃんとアリスちゃんがいるかどうか確かめたが、すでに暗くなっており、よく見えなかった。
台船上で職人たちがせっせと動き回る割に、花火は中々始まらず、待っている人たちは、徐々に苛立ちを見せ始めた。わたしと彩夏さんを含む何人かはのんびり構えていたが、汗ばむ暑さや待ち時間の長さにうんざりした人々がピリ付いた雰囲気を滲ませるのだった。
すると、彩夏さんの子どもが、不安を感じたのか、突然駄々をこねだし、そして泣きだしてしまった。子どもは大口を開けて叫び、そのボリュームは、そばにいる者としては、凄まじいものだった。
そうなると、元々イライラしていた人たちは、子どもの鳴き声で更に不機嫌になり、大きく舌打ちしたり、露骨に文句を言ったりしだし、場がちょっと混沌としてきた。
彩夏さんが子ども抱いて背中をやさしく叩いたり、わたしがぎこちなくいないいないばあしたりしてあげたが、あまり有効ではないようだった。
「早く花火を打ち上げてくれるといいのにね」、と彩夏さん。
「見た感じ。そろそろ始まるのではないでしょうか。後ちょっとの辛抱です」、とわたしは、何の確証さえなしに、気休めになればと、軽々にそう励ます。
ひとりの男性が、子どもを黙らせるように威圧的に言って来、彩夏さんは怖がって悲しみ、その発言にムッときたわたしは、人々の劣情に毒されたことがあって、一言物申してやろうと、スゥと深呼吸したが、その時、パッと色の付いた閃光が空に上がった。
わたしは、男性のいる後ろを振り向いていたので見えなかったが、男性は空を仰いでいて、他の人たちも、今までの苛立ちなどまるでウソだったように、一様に、うっとり夜空を見上げている。
「水無さん」と、彩夏さんがわたしに注意を促すように、手でポンポンと肩を叩いてくる。
深呼吸までして準備したわたしの激昂の言葉が、幸い、吐き出されずに飲み込まれることになった。
わたしは正面に向き直り、上空に目を遣る。
うっすらと流れる雲の向こうと、雲間の夜空に、点々と浮かぶ星々。そこに、ヒューという高い音と共に、一筋の光が軌跡を描いて、運河より勢いよく垂直に昇っていく。そして、バーンという激しい音と共に、無数の光の粒子が、放射状に広がって散っていく。
泣いていた子どもも、どこか花火の爆音に威圧されたようではあったけど、落ち着きを取り戻して、指を咥えた状態で、彩夏さんの胸の中で、目だけで夜空を見上げている。
彼の目元に残る涙の粒が、花火の反射に照らされることで、同じ色に輝き、わたしの目には時々、涙の輝きの方が、花火より綺麗に見えることがあるのが、不思議だった。
花火のバリエーションは豊かで、中々終わらず、最後までわたしたちの目を飽きずに楽しませ続けた。花火には、規模の小さいもの、規模の大きいものがあり、赤色だったり、青色だったり、黄色だったりした。
ちょっと険悪だった時があったけど、こうして観客一同が、花火の観賞を通じてひとつにまとまったのは、よかったように、わたしには思われた。
彩夏さんも、夢中になって夜空を見上げていたが、その目は、半ば感動しているようで、半ば疑っているようだった。本当にこの花火は、自分の夫が打ち上げているのだろうかと、そう問いたそうに見える眼差しだった。
最後の花火は、畳み掛けるように続いた。花火が散ると同時に次の花火が上がって、わたしたちは待つことを忘れ、目を奪われ、美しい印象の連なりの中に没した。
終わりの一発が上がって散ると、後には余韻と、静けさが残った。その内、花火の終了が分かると、岸辺の人たちは三々五々と帰っていった。
辺りに残るひとは疎らで、夜の帳が完全に下りきり、辺りはすっかり暗くなっている。
「終わっちゃいましたね」、とわたしは、彩夏さんに向かって、名残惜しい気持ちで言う。
「そうですね」、と彼女。「わたしには、無事終わって、ホッとしているところがあります」
「旦那様、じょうずに完遂なさいましたね」
わたしがそう称揚すると、彩夏さんは照れたように笑う。
「きっと、主人の力だけではないんですよ。先輩方や親方の補助があったんだと思います」
彩夏さんの男の子は、いつの間にか目を瞑り、眠っているようだった。イライラし、大泣きして、たくさんの花火を観て、子どもなりに、大忙しだったのだろう。
「寝ちゃってますね」、とわたしは、彩夏さんの肩に深く顔を埋めている彼を見て言う。
彩夏さんは、やさしい笑みを湛え、片手で彼の背中を撫でる。
「――あらあら」
ふと、聞き慣れた声がし、振り向くと、セーラー服姿のわたしの先輩が、腰の後ろに手を組んで、目の前にいる。
「アリシアさん」
わたしは慌てて立ち上がる。彩夏さんは、傍らで、アリシアさんを見て驚いているようだった。
「灯里ちゃん、花火を観ていたのね」
「あっ……」
わたしは狼狽する。そうだ。わたしは寄り道したのであり、アリシアさんは、買い物に出たわたしは、買い物が終わればすぐに帰ってくるものと思っていたに違いない。
「ごめんなさい。連絡もせずに寄り道して」
そう言ってわたしは頭を下げる。
「いいのよ。別に」、とアリシアさんは、だが、柔らかい微笑みを湛えて否定する。「わたしも、音が聞こえて気付いたわ。花火。ARIAカンパニーのそばで見てた。ちょっと遠かったけど、綺麗だったわ」
そしてわたしの彩夏さんのいるところを特等席だと言って羨ましがった。
「先日はお世話になりました」
彩夏さんも立ち上がり、アリシアさんに向かって一礼する。
「一客に過ぎませんが、覚えてらっしゃいますか?」
と、彼女は恐る恐る確かめる。
「えぇ」、とアリシアさんが励ますように、自信たっぷりに頷く。「美しいお母さんと、可愛い男の子で、ばっちり覚えてます」
その返しに、彩夏さんが照れたように笑うが、わたしには、電灯に淡く照らされたその顔の赤らむのが、何となく分かる気がした。
「この子がしゃべれるくらいになったら、またお世話になりたいです」と、彩夏さん。「今はまだ手がかかって、あんまり思うように遊ばせられないんです」
「えぇ。ぜひともお越しください」。とアリシアさん。「その時は、でも、ひょっとすると、この灯里ちゃんがゴンドラに乗ることになるかも知れませんがね」
そう目配せと共に示唆され、わたしは「エェー」、と口をあんぐり開け、間抜け面を晒してしまう。
彩夏さんはクスクス笑うと、「ぜひお願いしたいです」、と言って、手を差し伸べる。
その眼差しの純真さを見て取ったわたしは、色を正し、自分の手を差し出して、彩夏さんと握手を交わす。
運河の中程の台船が、こちらの方へと進んできて、彩夏さんが、旦那様を出迎える。旦那様は、汗だくで、大仕事を終えたという感じであり、夫婦そろって、どこか誇らしげで、わたしとアリシアさんは、簡単に暇乞いを告げると、夫婦水入らずの時間を邪魔しないように、早々に退散した。
「――お客さんの予定が出来てよかったわね」
と、アリシアさんが、彩夏さんと男の子のことを示して言う。
「はひ」、とわたしは素直に頷く。「その時までに、練達したいです。出来れば、手袋が外れるくらいには」
わたしたちは横並びで、夜道をARIAカンパニーに向かっていた。アリシアさんは腰の後ろに手を組み、わたしは両手で籐のバスケットを抱えるように持って、歩いている。
「きっと大丈夫よ」、とアリシアさんがにっこり笑顔で言ってくれる。「あの男の子がきっと成長して言葉を話せるようになるように、灯里ちゃんだって成長して、そつなくゴンドラに乗れるようになってるわ」
「エェー。わたし、ちっちゃい子どもと同じレベルですか」
わたしはまた口をあんぐり開け、間抜け面になる。
アリシアさんは口元に拳を当ててクスクス目を瞑って笑うが、拳を下ろし、物言いたげに、目を開く。
「どういう能力であれ、そう出来るようになると望むから、実際に出来るようになるんじゃないかしら。そういう意味では、子どもも大人もそう変わらないって、わたしは思う」
「そうかも知れませんね」、とわたしは返し、満天の星々を見上げる。「まず意志を持つことが、大事なんでしょうね」
星々の瞬きにダブって、さっき観賞した花火の散る様が見える気がした。目を閉じると、彩夏さんの笑顔や、男の子の指を咥えた顔が、ぼんやり蘇ってくる。大運河の岸辺で、わたしたちは、いっしょに花火を眺めた。
次に彩夏さんたちがARIAカンパニーに来る時、彼女等は、あるいは大人び、あるいは成長してやってくるのだろう。その時には、一人前の水先案内人として応対出来るように、わたしはスキルアップし、昇級していないといけない。
彩夏さんの旦那様は今夜、初めての打ち上げ花火を見事、成功させたのだ。わたしだって、成長したいし、しないといけない。しかし、出来るだろうか?
わたしはプレッシャーに押しつぶされそうだったが、夜空にぼんやり見える男の子の、彩夏さんの肩越しにわたしを見つめるあどけない顔の幻が、無言ではあったけど、わたしに対して、そこはかとなく、きっと成長出来ると、励ましてくれているようだった。
「――灯里ちゃん?」
と、わたしは不意に呼びかけられ、我に返り、目を開く。
わたしは知らぬ間に立ち止まっており、微笑を湛えるアリシアさんが、少し進んだ先で、わたしを振り返っている。
わたしは、小走りで彼女のそばに駆け寄る……
去年の夏の思い出。今年も花火が上がっていたそうだが、わたしは見ていないし、見ずにこの夏を終える気がする。
彩夏さんたちは、まだARIAカンパニーにやってこない。一年の間、わたしは色々と変わった。わたしには願いがあり、意志があった。
男の子の顔は、まだわたしの目に焼き付いている。次、再会する時には、彼は驚くほど成長し、様変わりしているに違いない。
泣き腫らしたその横顔に残る涙が、花火が上がる度、花火と同じ色に光っていた。
将来再会する成長した彼の面差しに、わたしは花火色の涙の跡を認めることが出来るのだろうか。
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