ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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海辺の通りに、一軒の建物がどっしりした佇まいでたっている。『姫』という字が、鎧窓の並ぶ壁の高いところに、よく目立つ格好で描かれており、その建物は、この水の都ネオ・ヴェネツィアにおいて、百年の歴史を持つ老舗水先案内店の姫屋なのだった。
昼下がりの春の空は青く澄んでいて、雲は高いところに浮かび、風に乗って緩やかに流れ、地上の営みをじっと見守っているようだった。
姫屋の八畳ほどの一室では、経営者の一人娘で新米の水先案内人である藍華が、窓辺の机に突っ伏して寝ていた。背中が呼吸に合わせて上下するが、かなり息が深く、彼女は熟睡しているようだった。
少しだけ開けられた広く四角い鎧窓より通る風が、窓のレースのカーテンの裾をフワッとめくりあげ、机上に腕組みし、その上に突っ伏して寝ている藍華の黒に近いネイビーの前髪を、柔らかになびかせる。
藍華の恰好は、ホワイトとネイビーのボーダーの、クルーネックの長そでTシャツに、淡いブルーのジーンズ。髪には、いつものようにゴールドのヘアピンが飾られている。睫毛は可愛らしくカールし、唇は、控えめに塗られたグロスが光っている。
机にはシャープペンシルが転がっており、書きかけの大学ノートは開いていて、資格勉強用の参考書は閉じている。机の天板には、そのサイズと同じ世界地図の昔風のものが敷かれ、透明のビニールのシートが、地図を封じる恰好でのっている。
……。
赤茶けた壁の建物が立ち並ぶ住宅街の細い水路は、しんと静まり返っていた。陰の深い水路の上には、ひしめく建物の壁のために狭まった空が見えていて、澄んだ青色で、空にいちばん近い屋根の部分が、太陽を浴びて黄金色に煌めいている。
建物の水路に近い低い部分は、細かいレンガの積み上げになっていて、長方形の窓には金属の格子が付いており、設置されたプランターには、グリーンの観葉植物がよく伸びて、その間に、青や黄の小さい花々が朗らかに笑っている。
藍華は一人、その水路にて、ゴンドラを漕いでいた。手には何も付けず、使い古した普段履きのスニーカーを履いている。服装は、ボーダーの長そでTシャツとジーンズ。
薄暗い中、藍華はキョロキョロ左右を見ながらオールで水を掻き、水路を緩行している。
どっちを見ても、見えるのは建物の壁のレンガの部分と、格子窓ばかり。のっぺりした家並みだった。
ふと、藍華がハッとして前方に視線を向けた。彼女が注視したのは、一軒の建物の裏口に当たる部分だった。小振りの車寄せがあり、電気のランプが吊るされていて、短い階段が水路に向かって下りており、小舟の繋留用のポールが水面より少しだけ突き出している。
藍華はゴンドラをそこまで漕ぎ進めると、停止させ、ロープでポールに繋留し、階段にピョンと跳び移った。
藍華は振り向いたが、空模様と家並みの映り込む水面では、彼女の跳ぶ際に踏み台となったことで、ゴンドラが微かにグラグラと揺動しており、周りには波紋が広がっている。
藍華は正面に向き直ると、短い階段を一段一段上っていき、ドアノッカーで裏口の木製扉をコンコンとノックした。固いその音は、周りの静けさの中に、あっという間に掻き消えた。
藍華は扉の上の方を茫然とした目で見上げ、しばし返事を待った後、上げた目線を元に戻し、ギイギイ軋る木製扉をゆっくり開いて、中に入っていった。
……。
廊下が長く伸びていた。白いモルタルの壁に、茶色いタイルの床。大きい木の格子の窓が連続しており、ほのかに空色がかった光が廊下に差し込んでいる。光をじかに受けるガラス窓が白っぽい輝きを放ち、通る光の筋がタイルの床に反射して、廊下全体は、まるで夢見るようにぼやけている。
藍華は、廊下をまっすぐ向こうにむかって歩いていた。左右の腕を慎ましく降り、背筋を伸ばして。
窓の前を通る度、差し込む光を受け、彼女の髪飾りのゴールドがキラキラ反射し、光の中に浮かぶ埃さえ、同じ色に輝くようだった。
途中、藍華は思い付いたように窓の前で立ち止まり、外の景色に首を曲げて目を向けた。見えるのは、大運河と、その両脇に並ぶ建物だった。
大運河では、オールで漕ぐ小舟の他、エンジンで動く船があり、それぞれ盛んに行き交っている。
数々ある建物の内、レストランは、大運河に向かって張り出す格好でテラス席を設けており、ビニール屋根に覆われているそこは、まだ開店していないのか、すっかり無人である。水上バスが、時折建物裏の停留所に止まり、幾人かの乗客を降ろし、また乗せて発進し、後ろにV字の航跡を描き、進んでいく。
大運河は彼方に向かって緩やかにカーブを描き、海に繋がっている。最遠には、サンマルコ寺院の十字架の細い尖塔が微かに見える。
青空は嘘みたいに澄み渡り、雲は時間を失って静止したようにほとんど動かない。
藍華の姿が、光の差してくるガラス窓に、うっすら反映している。体は正面を向き、首だけ曲げて窓からの景色を見ているその瞳は、髪飾りと同じ黄金色で、うっすらした反映にあって、特にくっきり輝いて見える。
眺望が済むと、藍華は曲げていた首を戻して正面に向き直り、また歩きだした。
彼女の姿は廊下のこちら側から向こう側にむかって徐々に遠のいていき、やがて彼方の陰に没して見えなくなった。
廊下の床を、小さい影がいくつかサッと通ったが、小鳥が飛んでいったようだった。
廊下の向こうで角を折れると、藍華は更に進み、チョコレート色の扉の前で転回し、その方に向いた。
彼女は扉に片耳を付けると、目を閉じ、じっと耳を澄ました。彼女の耳には、風の吹く音が聞こえるようだった。風は遠くから吹いてきているように、彼女には聞こえた。晴天の下、紺碧の海原を、透明の風が渡ってくる――そういうイメージが、藍華には想起された。
扉より耳を離して目を開き、扉の上の方を見上げると、彼女は拳を胸の高さまで持ち上げ、裏手でコンコンと、扉を軽く叩いてみた。
――。
音がして、彼女は目覚めた。突っ伏していた頭をゆっくり持ち上げる。
窓の外の彼方で、丸い夕日が燃えていた。空は淡い紫色で、オールドブルーの雲が広がっている。海原は穏やかに波立ち、夕陽に照らされているところは明るいオレンジだが、陰の部分は真っ黒だった。
コンコンというノックの音が続いた。
藍華は机上に寝かせた半身を起こすと、振り向いて「はい」と返事し、椅子より立ち上がり、扉まで向かっていって鍵を開けた。
姿を見せたのは、藍華のよく知る女性だった。背まである長い、若干灰色がかった黒髪の彼女は、白い半そでTシャツにチノパンという出で立ちだ。
「晃さん」
藍華がそう言うと、晃は口元を緩めるだけの微笑で返す。
「気持ちのいい風の吹く夕べだぞ、藍華」
「そうですね」
そう答えて、藍華はしかめ面であくびを噛み殺す。
「?」、と晃はきょとんとする。「お前、ひょっとして寝てたか?」
「えぇ。ちょっとだけ」
そう言って、目尻に涙をためる彼女は照れ笑いで返す。
すると晃は「フフッ」、とやさしく笑み、「ちょっとブラブラ歩きするぞ」、と誘った。「寝起きの準備運動にちょうどいいだろう」
その誘いに、藍華は乗り、二人は出かけることにして、扉が閉められ、施錠され、藍華の部屋は無人になった。
薄暗い夕暮れの、八畳ほどの広さの部屋の中。鎧窓が閉め忘れられ、開きっ放しになっていた。
その少しだけあいた隙間から、風が絶えず流れ込んでいて、レースのカーテンの裾を、フワッと優美に躍らせていた。
(終)