ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
***
ピアノの音色がふと聞こえてきたかと思えば、わたしは、じぶんが橋の上に立っていることに気付いた。
忘れていたのだろうか。ぼんやりしていたのだろう。
大きな、途轍もなく大きな橋だった。夕暮れのネオ・ヴェネツィアの街並みが、遠く背後、彼方に遠望される。
前を見遣ると、橋がずうっと水平線まで伸びているのが見えるばかり。
この橋は、いったいどこへ続いているのだろうか。またわたしは、どうしてこんな長大な橋を、こんなところまで、ネオ・ヴェネツィアが小さく見えるところまで、来てしまったのだろう。
ピアノは今も続いている。心地よい、甘いメロディーが、どこからともなく響いてくる。まるでわたしを誘うように。呼び寄せるように。
広漠としたアクアの大海のその上、暮れなずむ太陽が燃えている。目を刺す光がさんさんと照り付ける。だが、淡く、冷たく、そして美しい。
振り返ればわたしの暮らす街。懐かしい故郷の眺望。
帰りたいという思いが募る。だけど、きびすを返したところで、うんざりする距離を引き返すことになるし、何よりそもそも、わたしは、じぶんの立脚するこの橋が、何だか現実味がない感じがする。
手すりまで行って下を見下ろすと、アーチが水面に映っている。橋のアーチだ。石造りの橋。頑丈そうな、それでいて、今にも崩れてしまいそうな、儚い、白っぽい橋。
――。
歩き続けると、ピアノの音が次第に近付いてくる。
ドキドキする感じを覚える。
わたしは歩を進める。
すると、真っ黒なグランドピアノが現れる。橋の中央に。先はまだある。ピアノはまるでわたしを足止めするようにある。
弾いているのは、誰だろう。逆光で見えない。
相手はわたしの到着を知ると、演奏を中断し、深く頭を下げる。
「こんばんは。ようこそお出でくださいました」
わたしははっとする。
「水無、灯里さん」
同じ名だ。わたしと、同じ名。
「あなたは」
名前が同じ。そして、姿も――
桃色の髪。耳のそばを下りる長いまとめ髪。その金色のリング。ほっそりした体。そんなに高くないけど、低くもない身長。
椅子より立ち上がり、水無灯里が、逆光の成す陰より、明るみへと現れ出る。
――ドッペルゲンガーという現象がある。自分と瓜二つの、生き写しの相手が存在して、その者と遭遇すると、絶命してしまうという、一種の都市伝説である。
夢幻にいる彼女は、わたしに挨拶し、握手を交わし、そして言葉を交わす。
沈まずにある夕日の光が灯里を掻き消そうとする。
彼女は笑み、真顔になり、再び笑み、ある時は問い、ある時は答え、またある時は、沈黙する。
閉じた唇は不気味なほど長い曲線を描いている。その瞳は、寒々とするほど冷色に染まっている。からかうような微笑。
▼
あなたは、誰?
あなたも、誰?
わたしは、水無灯里
わたしも、水無灯里
ウンディーネをやってるの
ぐうぜんね、わたしもそうなのよ
嘘。あなたはピアノを弾いてる
アハハ
わたしはピアノ、弾けないもの
じゃ、あなたの方が劣ってるってわけね
……。
▼
夕日が、信じられないくらい大きく、わたしの方に迫っている。
静かになったピアノはその光を帯びて、一緒になって燃えているようだ。
手すりまで行って、下を見下ろしてみる。水面には、穏やかに波の立つ水面に、わたしの反映。いくぶん乱れた反映。
ここにいるのは、本物のわたし。本物の水無灯里。あそこにいるのは偽物のわたし。誰か悪い人が扮装したわたし。
だけど、そっくりだ。それに、あの人の奏でる音色はとても耳ざわりがいい。甘く、切なく、そして、あの夕日のように美しい。
何だか眠たくなってきた。じんじん頭痛もする。
わたしは目を瞑った。5分くらいの間。そうして時間を過ごした。
すると、知らぬ間に気絶してしまったようだ。
我に返ると、わたしはネオ・ヴェネツィアの水路に、ゴンドラの客席にぐったりと半ば横たわるように座っていて、ゴンドラは、壁の方に流されていた。
オールが無造作に置かれている。
わたしはその柄を握った。どうにも握力が出なくて、オールがやけに重く厄介に感じた。
頭痛はまだする。
夕暮れのネオ・ヴェネツィア。空はオレンジ色。だけど辺りには夜の陰が下りている。薄暗い。
ゴンドラより身を乗り出して、水面を窺う。水面には、わたしの反映。
ピアノの音色はもう聞こえない。
近くには、既視感のする石製のアーチ橋。でも、あれほど長くない。住宅街を隔てる水路の上に架かる、それだけの橋。
まだ眠たい目をこすると、だんだん覚めてくる。
やっぱり、そうだ。わたしは、ピアノを弾いたことなどないのだ。
胸にそっと手を当てて目を閉じ、意識を集中する。
すると、心臓の鼓動の代わりに、聞こえなくなったあの甘い楽器の音色が、不思議な響きを伴ってわたしの体中に広がるのだった。
(終)