ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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ある日の夕暮れ、水無灯里は、夢想めいたところに迷い込んだ。長い一本道の先で遭遇したのは、もう一人の"わたし"だった。


Page.14「惑いの音色」

***

 

 

 

 ピアノの音色がふと聞こえてきたかと思えば、わたしは、じぶんが橋の上に立っていることに気付いた。

 

 忘れていたのだろうか。ぼんやりしていたのだろう。

 

 大きな、途轍もなく大きな橋だった。夕暮れのネオ・ヴェネツィアの街並みが、遠く背後、彼方に遠望される。

 

 前を見遣ると、橋がずうっと水平線まで伸びているのが見えるばかり。

 

 この橋は、いったいどこへ続いているのだろうか。またわたしは、どうしてこんな長大な橋を、こんなところまで、ネオ・ヴェネツィアが小さく見えるところまで、来てしまったのだろう。

 

 ピアノは今も続いている。心地よい、甘いメロディーが、どこからともなく響いてくる。まるでわたしを誘うように。呼び寄せるように。

 

 広漠としたアクアの大海のその上、暮れなずむ太陽が燃えている。目を刺す光がさんさんと照り付ける。だが、淡く、冷たく、そして美しい。

 

 振り返ればわたしの暮らす街。懐かしい故郷の眺望。

 

 帰りたいという思いが募る。だけど、きびすを返したところで、うんざりする距離を引き返すことになるし、何よりそもそも、わたしは、じぶんの立脚するこの橋が、何だか現実味がない感じがする。

 

 手すりまで行って下を見下ろすと、アーチが水面に映っている。橋のアーチだ。石造りの橋。頑丈そうな、それでいて、今にも崩れてしまいそうな、儚い、白っぽい橋。

 

 ――。

 

 歩き続けると、ピアノの音が次第に近付いてくる。

 

 ドキドキする感じを覚える。

 

 わたしは歩を進める。

 

 すると、真っ黒なグランドピアノが現れる。橋の中央に。先はまだある。ピアノはまるでわたしを足止めするようにある。

 

 弾いているのは、誰だろう。逆光で見えない。

 

 相手はわたしの到着を知ると、演奏を中断し、深く頭を下げる。

 

「こんばんは。ようこそお出でくださいました」

 

 わたしははっとする。

 

「水無、灯里さん」

 

 同じ名だ。わたしと、同じ名。

 

「あなたは」

 

 名前が同じ。そして、姿も――

 

 桃色の髪。耳のそばを下りる長いまとめ髪。その金色のリング。ほっそりした体。そんなに高くないけど、低くもない身長。

 

 椅子より立ち上がり、水無灯里が、逆光の成す陰より、明るみへと現れ出る。

 

 ――ドッペルゲンガーという現象がある。自分と瓜二つの、生き写しの相手が存在して、その者と遭遇すると、絶命してしまうという、一種の都市伝説である。

 

 夢幻にいる彼女は、わたしに挨拶し、握手を交わし、そして言葉を交わす。

 

 沈まずにある夕日の光が灯里を掻き消そうとする。

 

 彼女は笑み、真顔になり、再び笑み、ある時は問い、ある時は答え、またある時は、沈黙する。

 

 閉じた唇は不気味なほど長い曲線を描いている。その瞳は、寒々とするほど冷色に染まっている。からかうような微笑。

 

 

 あなたは、誰?

 

 あなたも、誰?

 

 わたしは、水無灯里

 

 わたしも、水無灯里

 

 ウンディーネをやってるの

 

 ぐうぜんね、わたしもそうなのよ

 

 嘘。あなたはピアノを弾いてる

 

 アハハ

 

 わたしはピアノ、弾けないもの

 

 じゃ、あなたの方が劣ってるってわけね

 

 ……。

 

 

 夕日が、信じられないくらい大きく、わたしの方に迫っている。

 

 静かになったピアノはその光を帯びて、一緒になって燃えているようだ。

 

 手すりまで行って、下を見下ろしてみる。水面には、穏やかに波の立つ水面に、わたしの反映。いくぶん乱れた反映。

 

 ここにいるのは、本物のわたし。本物の水無灯里。あそこにいるのは偽物のわたし。誰か悪い人が扮装したわたし。

 

 だけど、そっくりだ。それに、あの人の奏でる音色はとても耳ざわりがいい。甘く、切なく、そして、あの夕日のように美しい。

 

 何だか眠たくなってきた。じんじん頭痛もする。

 

 わたしは目を瞑った。5分くらいの間。そうして時間を過ごした。

 

 すると、知らぬ間に気絶してしまったようだ。

 

 我に返ると、わたしはネオ・ヴェネツィアの水路に、ゴンドラの客席にぐったりと半ば横たわるように座っていて、ゴンドラは、壁の方に流されていた。

 

 オールが無造作に置かれている。

 

 わたしはその柄を握った。どうにも握力が出なくて、オールがやけに重く厄介に感じた。

 

 頭痛はまだする。

 

 夕暮れのネオ・ヴェネツィア。空はオレンジ色。だけど辺りには夜の陰が下りている。薄暗い。

 

 ゴンドラより身を乗り出して、水面を窺う。水面には、わたしの反映。

 

 ピアノの音色はもう聞こえない。

 

 近くには、既視感のする石製のアーチ橋。でも、あれほど長くない。住宅街を隔てる水路の上に架かる、それだけの橋。

 

 まだ眠たい目をこすると、だんだん覚めてくる。

 

 やっぱり、そうだ。わたしは、ピアノを弾いたことなどないのだ。

 

 胸にそっと手を当てて目を閉じ、意識を集中する。

 

 すると、心臓の鼓動の代わりに、聞こえなくなったあの甘い楽器の音色が、不思議な響きを伴ってわたしの体中に広がるのだった。

 

 

 

(終)

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