ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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冬の中頃のとある一日。北風のよく吹く寒い、さっぱりと晴れた日。
わたしは、海辺のベンチにひとり、ぼんやり座っていた。周りには誰もいなかった。夕暮れ時だった。
今日は寒い。全身が微かにふるえているのが分かる。息を吐くと、喉までふるえているのが分かる。
だが、帰ろうとは思わなかった。もうちょっと、こうしてここに座っていようと思った。
見上げると、小さなあかりの点滅しているのが見えた。宇宙船の信号灯だ。サン・マルコ広場のドックより出て、マン・ホームに向かうのだろう。
信号灯の点滅としてのみ見えるその旅の船を、わたしはずうっと目で追った。切れ切れの雲が浮かぶ夕空を、そのあかりはゆっくりと飛行していく。
そしてやがて、雲の濃いところにまぎれて、見えなくなる。
「藍華、こんなところで、一体何してるんだ?」
ふと声がして、首を曲げてわきを見ると、あぁ、と納得する。
「晃さん」
姫屋の先輩だ。腕組みして、何だか気難しそうな雰囲気だが、まぁ、いつものことだ。
「たまには、こういうのもいいかなぁって」
「こういうの?」
晃さんは小首を傾げ、怪訝そうにする。
わたしは「えへへ」と晃さんに向かって照れくさそうに笑むと、また空に目をやる。
「こうしてぼうっと空を見るのも、何かね、気がまぎれるというか、自分を忘れられるというか……」
「要するに、何かすっきりしないことがあるというわけか」
「え?」
「そうだろう?」
すっきりしないこと――何だろう。自分でもよく分からない。
海の水音が聞こえる。じゃぶじゃぶと。海には満々と水が漲っている。
しかしこの時期に海水浴というのは、恐ろしいことだろう。凍える寒気。心臓が止まるほどの冷水。そうだ。冬の海は、余りにも厳しいのだ。
すっきりしないこと――わたしは、自分でも把握出来ないような深いところに、わだかまりを負っているのだろうか。
「まぁいろいろあるだろう、生きてりゃ」
両肩にポンと手がのる。晃さんだ。晃さんは、わたしの背後にいつの間にかいて、わたしとほとんど密着する距離にいる。それが、何だかわたしを安心させる。
「かんたんに始末出来ることがあれば、反対に、始末の悪いこともある。そういうものだ」
「そうですね」
紫っぽい夕空にある雲の内、ある断片的な雲が、輪郭がぼやけていて、まるで乱雑な絵筆の跡のようだ。
日の暮れていく空。とても名残惜しい思いにさせる空。待ってと懇願しても、甲斐のない、寂しい空。
晃さんの手は、とても温かい。その温もりが、手の重みと共に、肩より伝わってくる。
だが、その温もりも消える。空は暗くなる。
晃さんはもういない。わたしはまだベンチに座って、ぼんやりしている。
気ままに随想を、指で夜空に描き出す。すると、白いもやもやが軌跡となって現れる。鳥を描けば鳥が現れ、翼を開いて羽ばたき、飛んだり、餌をついばんだりする。そして消失する。
わたしは晃さんを描いてみる。すると、晃さんはわたしに、風邪を引くぞ、とか、明日朝起きられないぞ、とか、甲斐甲斐しい注意を言ってくれる。
『要するに、何かすっきりしないことがあるというわけか』
「――と、思います」
耳鳴りのように響くまぼろしの声に、わたしはうなずいて返す。
「選択肢がいくつかあって、ううん、いくつも、数え切れないくらいあって、わたしは、選択肢は、たったひとつでいいのに、そんなにあるから、選べなくって、迷って、それで……」
どうすればいいんだろう、わたしはそう、自問するように、晃さんに問いかけた。ひしと切ない思いを抱いて、頼れる先輩を頼った。
――だが、晃さんはもう跡形もなかった。
きっと姫屋に帰ったのだろう。そうに違いない。
わたしは自身をぎゅっと抱く。寂しいという気持ちで。寒いというつらさで。
わたしの肩にもうあの手はない。あの温もりはない。そしてわたしの指は、もう何も描くことは出来ない。
夜空には星がいくつもあった。いくつも瞬いていた。ひとつでいいのに。たったひとつで……。
わたしはフラフラとめまいがする感じを覚えた。
そしてその、空に星がいくつもあるということが、わたしにとって、苦しい重圧であった。
(終)