ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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いつもの合同練習――姫屋の藍華ちゃんと、オレンジ・ぷらねっとのアリスちゃんの二人とちょくちょくしている、水先案内人としての精進を志す和気藹々とした練習が、今日約束されていたのだが、突然の雨降りによって中止となった。
その連絡は、藍華ちゃんがしてくれた。彼女はわたしに電話をくれたのだ。わたしは準備していた。合同練習に行く用意は万端だった。しかし、窓の外に、パラパラと雨が降ってきたのを見ると、ちょっと呆然とした。ひょっとして、合同練習がおじゃんになるかも知れないと憶測した。
アリシアさんはARIAカンパニーにいなかった。わたし
には日が暮れるまでは外出しているので、来客があっても断って欲しいと言い付けた。
「うん、そんなに強くはないけど」
と、電話の子機を耳にあてがって話すわたしは、窓辺に背を持たせていた。
「やっぱり、やめにする?」
電話の向こうの相手は、そうね、とどこかそっけなく答える。
わたしは窓の外を見遣る。雨は降っている。確かに降っている。そんなに雨脚は強くない。それに、空は晴れている。天気雨というやつだ。晴れているのに、雨粒が落ちる。不思議な現象だと思う。一体どこから、その雨粒はやってくるのだろう。
わたしは空を見上げた。太陽が眩しい。真冬の太陽はチクチクする光を投げるものだ。わたしは思わず目が眩んだ。
室内は暖房が効いていて、とても暖かい。ホッとする心地だ。外は、きっと厳寒だろう。厳寒に違いない。
そう考えると、合同練習が中止になるのは、都合のいいことだと感じた。
だが、余った時間が出来ることは、どうだろうか。わたしは、無為に過ごし、その余った時間を浪費するのだろうか。
子機を持たない方の手が落ち着かず自然と遊ぶ。近くにあるカーテンをきゅっと優しく抱く。やわらかい感触がし、花の香りがふんわりと微かに香ってくる。
その後、しばらくわたしは藍華ちゃんと話し込んで、通話は終わった。取り立てて印象に残るところのない通話だった。
子機を元に戻す。そして窓辺に再び寄り、ガラスに片手で触れ、海を眺める。カーテンはいくぶんくしゃっと崩れている。
空はやはり晴れている。すっかり晴れている。だが、窓ガラスには細かい、目を凝らさなければ見えないほど細かい雨粒の点々がある。
凍えるほどの寒気を遮断する窓ガラス。室内は暖房が効いている。とても暖かく、じっとしているとだんだん眠たくなってくるようで、わたしは目を瞑る。すると、どうしてか涙が出てくる。たった一筋だけ、ツーッと頬を伝う。悲しみなどまったくない。眠気は些少ある。
わたしは指でさっと涙を拭うと、ちょっと散歩に出かけようと決めた。夕暮れだった。アリシアさんはもうすぐ戻るのだろうか。わたしは防寒具を用意すると、出かけた。入口の施錠がちゃんと出来ているか、何度も確認した。
☆
外は思いのほか風が強かった。突風の行き来が激しく、わたしは歩いていて揺さぶられる気分だった。
ネオ・ヴェネツィアの水路にも、海にも、舟は少ない。ゴンドラは見かけない。道行く人々はわたしと同様、寒さを防ぐ万全の恰好でいる。よそよそしく、寒さの中、寒さより逃げるように、そそくさと、影の如く歩いている。
どことなく白々しい感じのする真冬の夕陽。夏であれば陽炎の立つ地面には、今は橙色が明々と滲むばかりだ。
わたしは海に向かって立った。すると特別強い突風が立ってわたしに向かって真正面より来る。わたしは目を瞑って、首に巻いたマフラーが引っ張られる感覚を覚え、反射的に首元を両手で抑える。心なしか息苦しい感じがする。
空気がブルブルと震えるほどの突風が止むとわたしは目を開け、空を見上げる。
鮮やかに輝く夕空。太陽は遠くに浮かんでいる。その麗しいビジョンに、わたしは息を呑む。
たなびく雲は、幾重にも重なり合って、滑るように動いて、強い風に運ばれている。
ふと、微かに冷たい感触がする。肌の露出した部分に、水がかかったようだ。そうだ。雨が降っているのだ。しかし、傘を差す必要のないほどの微雨だ。
わたしは振り返った。すると、ネオ・ヴェネツィアの上に、虹がかかっているのが見えた。この微雨の成せる虹だろう。綺麗に曲線を描いて、虹は古都を跨ぎ、その上には、宇宙船が、浮島の下を、信号灯を点滅させて飛行している。
目を再び瞑る。するとあるイメージがぼんやりと現れる。青空には無数の雲、空の青を隠さないほどの雲。たなびいていて、流れている。強風が絶えず吹いている。しかしある瞬間、雲の隙間より、光の束が通って来、世界に輝く柱を打ち立てる。美しい白い鳥がその柱の周りを巡って飛ぶ。
光の柱はどんどんと広がっていき、やがてあまねく世界を白く染める。
☆
灯里ちゃん
怪訝そうに呼ぶ声。
わたしは目を開ける。
辺りは真っ暗だった。夜になっていたのだ。
呼んだのはアリシアさんだった。何という偶然だろう。
「アリシアさん」
と、わたしは呆然として鼻声で呟いた。寒い中ずっと突っ立っていたのだ。鼻がやられてもおかしくはない。
「こんな遅くまで、合同練習?」
「ううん」とわたしは首を左右に振る。「合同練習は、雨で中止になったんです」
「まぁ、そう」
空を仰いでも、もうあの虹はない。消えた。代わりに、街路灯のぼんやりとした濁った光の広がりがあるばかりだった。
「変わった雨だったわね」、とアリシアさん。
「はひ。天気雨でした」
わたしとアリシアさんは一緒になって歩き出す。行く先は勿論、ARIAカンパニーだ。
「虹がかかってたんですよ。ご覧になりましたか?」
「えぇ、見たわ」、とアリシアさん。「わたしは、建物の高いところにいてね、目線が虹のてっぺんに近くて、ちょっぴり感動しちゃった」
微雨はやんでいた。地面はすっかり乾き切っている。風もやんでいた。
「フフッ、そうだったんですね」
最早、雨が降っていたことを確かめることの出来ないほど、その痕跡は絶えてなかった。まぼろしの如き雨だった。
道中、アリシアさんは色々と話をしてくれた。その話のどれも、聞いていて楽しかったはずなのだけれど、わたしはコクリコクリと寝ぼけたように頷いて返すことしか出来なかった。
夜、寝る時、アリシアさんは自宅に帰っていていなかった。
真っ暗の部屋。ベッドの中で、わたしは悶々として、今日のことを思い返した。そして直近のアリシアさんとの会話を回想して微笑し、その次には、中止になった合同練習、そして、藍華ちゃんとの電話を思い返した。
そして、明日はちゃんと晴れて、一滴の雨も降らず、首尾よく合同練習が出来ることを願った。
目元より流れる涙。思うにあくびのせいだろう。
わたしは目を瞑る。すると、細かい雨粒に濡れた窓や、美しい夕暮れや、光の柱を目蓋の裏側に見る。虹が、ネオ・ヴェネツィアを包むようにかかっている。
灯里ちゃん、と呼ぶ声。やさしい、まぼろしの声。
わたしはあえて応じない。
おやすみなさい。
アリシアさんの声だった。
(終)