ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
とある高地の山間にある
お盆の上のものを全てテーブル上に置き終えると、彼女は前かがみの姿勢をやめ、背筋を伸ばしてお腹の辺りにお盆を付けるように持ち、デッキの向こうの景色を眺めた。風が吹き、アリシアのそばを通った。初夏の息吹だった。彼女は髪が乱れないように片手で、風がめくり上げようとするサイドの部分をやんわり抑え付けた。アリシアの先には、青々と茂る鬱蒼たる針葉樹の森と、連綿と続く山脈とが、青空の下にある。
その風景は、アリシアの気に入ったらしく、彼女は穏やかに微笑すると、デッキに繋がる部屋の大きな窓を開け、中に頭を入れた。
丸太の風合いが自然の心地よさを感じさせる部屋の中では、銀の光沢を放つ薄紫色の髪と、薄い褐色の肌とが個性的であり、また、すでに引退してしまったが、先日までアリシアと同じ水先案内人で、彼女と同僚だったアテナ・グローリィが、隅のベッドに、真っ白な寝衣姿で横たわっていた。憂鬱そうにぼんやり天井を見ている彼女のそばには、車いすがあった。
アテナは突如目をぎゅっと瞑ると、拳を口の前に持ってき、ごほごほと、喉に痰でも絡んでいそうな音を立て、辛そうに咳き込んだ。
「アテナちゃん?」
呼ばれた彼女は、はっとして目を開けると、まだ出そうになる咳を噛み殺し、声の方に向いた。
「アリシアちゃん」
そして上半身を起こした。
窓より顔をのぞかせているアリシアは、彼女に対し、目を瞑って微笑むと、「体の具合はどう」、と尋ねた。
アテナは「大丈夫よ」、と平静そうに答えた。
不調を隠蔽したのだ。しかしその隠蔽は完璧でなく、彼女が答えるまでに空いた微妙な間に、狼狽が微かに潜んでいた。また顔色が優れていなかった。
アリシアは、アテナの具合の悪いことには明敏に感付いていた。だが、元同僚の気遣いをおもんぱかり、あえて感付いていない振りを装い、「そう、よかった」、と安心したように言った。
「お茶の準備が出来たわよ」、と彼女は目を開いて教えた。
アテナは、小首を傾げて微笑むと、「いつも手間をかけてごめんね。ありがとう」、と詫びと礼を述べた。
そしてアリシアの手を借りてベッドより起き上がり、車いすに乗り、彼女にデッキの、テーブルのそばまで連れ出して貰った。
病床を離れ、アリシアが気に入った風景のすぐそばに来たアテナは、彼女と同じ視点より、それに見入った。
眼前に開豁にある、豊潤で雄大な自然の風景は、彼女の心を奪い、その口を半開きにした。そのいくぶん間抜けな表情を見下ろしたアリシアは、アテナがまさに自分が気に入ったのと同じ美景を見渡し、それに感じ入っていることを直感し、目を細めて微笑した。
「綺麗よね。初夏の景色は鮮やかで」、と彼女は言った。
その言葉を受け、アテナは同じ表情になると、「本当」と答えた。「気分が自然と華やいでいく気がするわ」
正直な感懐だった。咳を出していたさっきまでの苦しみは、消えてしまったかのように見える。
が、アテナは突然顔をしかめて俯き、苦しそうな呻き声を上げ、両腿の上の拳を、苦痛を我慢するように握り締めた。不穏な雰囲気がにわかに辺りに広がった。
アリシアはその異状にぎょっとし、アテナの不具合を察すると、隣まで回り込んでかがみ、その渋面を上目遣いで窺った。悪い事象が懸念された。アリシアはせめて気分だけでも和らげようとし、彼女の肩に手を置いた。
「どうしたのアテナちゃん? 具合悪くなった?」
問われたアテナは、答えず、依然として呻き声を上げるばかりだった。アリシアは当惑したが、取りあえず救急の連絡をしようと思い付いた。が、その直後、アテナが口を開いて言った。
「お、おトイレ……」
アリシアはきょとんとし、自分の耳を疑った。しばらく呆然としたが、やがて合点が行った。アテナの体調が悪くなったというのは、杞憂だったのだ。彼女は何だか拍子抜けする気がし、ほっとすると同時に呆れ、苦笑をこぼし、「あらあら」と、普段の、何となく優雅さを感じさせる口癖を放った。
体調の急変は勘違いで、アテナの顔をしかめさせ、呻き声を上げさせたのは、便意という日常的で些細な衝動に過ぎなかった。
しばらくしてトイレより戻ってきたアテナは、アリシアと共にテーブルに付いていた。アテナは車いすに、アリシアは椅子に座って、互いに向い合わせでいる。
カップを手に持っているアテナは、アリシアが淹れてくれた彼女お手製の紅茶より立ち上る香りを、目を瞑って嗅ぐと、軽くうっとりした。その表情を温かい目で見守っている、紅茶に造詣のあるらしい、机上に腕を組んでいる水先案内人は、嬉しく感じるように微笑んだ。
アテナは紅茶に口を付け、そして「うん」と納得するように頷くと、「おいしい。流石アリシアちゃんね」、と味の感想を率直に述べた。
元同僚の彼女は目を瞑って微笑し、「お粗末様」と、謙虚な態度でその感想に返礼すると、自分も紅茶に口を付けた。
その後彼女は、急に懐古的な、しみじみとした心地になり、カップをソーサーに戻してアテナに尋ねた。
「こんな風に二人きりでお茶を飲むのって、一緒に暮らしだしてすっかり当たり前になっちゃったけれど、やっぱり新鮮に感じるものね」
アテナは「そうねぇ」、と答えた。
そしてカップを元の場所に戻し、その白い陶器の面をじっと、アリシアの感懐について考えるように見下ろした。
「こんな時間、ずいぶんなかったなぁ」
「灯里ちゃん達が来てからは、そうよね」
アリシアは空を見上げた。
「後輩を持つことでわたし達は、晃ちゃんを含め、自分の仕事に携わるだけじゃなく、先輩として指導する義務が出来て、多忙になっちゃったものね」
アテナは目を瞑って「フフ」、と笑むと、「本当」と答え、同意した。
アリシアは、顔を正面に戻した。
「アリスちゃんは、センスが抜群だったから、そんなに手はかからなかったでしょう?」
そよ風がアテナの短めの髪を揺らした。
「あの子は」、と彼女は答えた。「オレンジ・ぷらねっとに来た時にもう、大きな可能性を持ってたから」
そしてソーサーの上のカップを取り、口元の高さまで持ち上げた。
「わたしは、その可能性が一日でも早く開花するのを手助けするだけで、それ以上のことは何も出来なかったわ」
彼女は、憂わしそうに目を細めた。
「あの子は、わたしがいなかったとしても、きっと……」
最後までは、言わなかった。
アテナは紅茶に口を付けた。少し冷めていた。
謙虚というよりはむしろ自蔑的と言うべき態度の元同僚を、アリシアはじっと見つめ、その後「ううん」と首を左右に振った。「アテナちゃんは、立派に先輩の役目を果たして、アリスちゃんを、生まれつきの才能だけではきっと到達出来なかったところまで成長させたわ」
「そうかな」、とアテナは疑り深そうにいぶかしんだ。
「うん」、とアリシアは率直な仕方で頷いた。「それは、プリマになった今のアリスちゃんを見れば、おのずと分かる」
アテナは、カップをソーサーの上に戻した。
アリシアは続けた。
「本当のことよ?
アテナは、カップを見下ろし、アリスのことを考えた。アテナは彼女が、水路に浮かぶゴンドラの上で、喉に手を当て、発声の良し悪しに気を配りつつ、小柄なその体付きに相応しいか細い声を、目一杯出して歌っている、健気さに満ちた光景を、心に思い描いた。そしてそんな彼女の姿に、自身の影の反映をうっすらと認めた。
舟歌は、アテナの特技だった。彼女の声は、聴く者を魅惑し、うっとりさせる霊妙な力を持っており、ネオ・ヴェネツィア随一の美声と言われ、絶大な人気があった──それは、最早過去のこととなってしまったが。
アテナはアリスに、彼女の才能がカバーしていない舟歌を教え込んだ。そしてアテナは、ある日悲運に見舞われ、体を壊し、歌を歌えなくなった。そのため、彼女の直接の後輩であるアリスは、彼女に代わる新たな舟歌の歌い手として、期待を担うことになり、それは重い負担だったが、アリスは真摯に受け止め、それに精一杯応えられるよう精進するようになった。
「アリスちゃんには」、とアテナが言った。「どれだけ感謝してもし足りないわ」
そして顔を上げ、デッキの果ての風景をしんみり眺めた。
「あの子は、わたしが失ってしまった力を、華奢な体で受け継いでくれたんだもの――まるで彼女が、思いやりのある子どもであるかのようにね」
アテナは、にこりと笑んだ。
「お陰でわたしは、未練なく旅立つことが出来る」
その人生を達観したような円満な表情を、アリシアは悲しげに眉を下げて見つめた。
「アテナちゃん……」
その名を呟いたアリシアは、目前にいる彼女の未来の悲痛な宿命を、改めて悟った。そして残された時間の少ないことを思い、ほとんど絶望に似た悲しみに襲われた。
仲のすこぶるよい元同僚の二人がお茶を飲み交わす席の果てには、若々しい生命の色を帯びた森と山脈が、晴天より差す麗らかな陽光を浴び、みずみずしく輝いている。
◇
季節が移ろった――青く生命の息吹を呼吸する森と山脈は、装いを一変させた。針葉樹は枯れて黄色くなり、山脈は、その頂きが冠雪して白くなった。初夏が過ぎ、冬が訪れたのだ。空はどんより曇っていた。
山小屋のデッキの手すりのそばには、それぞれ水先案内人である、水無灯里と、アリス・キャロルが立って、寒々しく物悲しい果ての風景を一緒に眺めていた。灯里は、桃色の髪の内、耳の脇の長い部分が、アリスは、ライトグリーンの少しカールしている長髪が、特徴的だった。普段着姿の彼女等は、温かそうなマフラーに首を包んでいる。
「そろそろ大晦日だねぇ」、と灯里がしみじみとして言った。
「時間が過ぎるのって、でっかい早いです」、とアリスが、灯里とは反対に、淡泊に答えた。
冷たい風が吹いて寒い外と違い、暖房で暖かい山小屋の室内では、アリシアが、前の時と同じように、テーブルにティーセットを並べている。
しばらくし、三人分用意したカップを並べ終え、それに淹れたての紅茶をポットより注ぐと、彼女はテーブルの面に向かって前かがみ気味の上半身を立て、窓の外にいる後輩達の後ろ姿を見た。
デッキの手すりのそばにいる灯里は、首を曲げてアリスを見つめた。アリスは、悲しそうに眉を下げて項垂れるような姿勢でいる。
灯里はそんな彼女に微笑みかけると、正面に向き、独り言をするように尋ねた。
「新しい年には、一体何があるんだろうね?」
そしてアリスの方を向き、続けた。
「もしかすると、アリスちゃんに後輩が出来るかも知れないよ?」
期待を込めてそう言われた彼女は、同じ姿勢のまま、いくぶん嘲笑に近い苦笑をこぼした。
「わたしに後輩ですか」、とアリスは答えた。「それは、考えにくいですね。わたしはアテナさんみたいに優しくないですし、相変わらず愛想がありませんし」
「そんなことないよ」、と灯里が否定した。それは、優しさのある否定だった。アリスは沈黙した。
「だってアリスちゃん、頑張って腕を磨いて、プリマまで昇進したし、それに舟歌を歌ってる時は、アテナさんそっくりに見える気がするもん」
アリスはおもむろに顔を上げ、灯里を見た。
「アテナ先輩と、そっくりに?」
その顔はぼうっとしていて、目は虚ろだった。灯里の言葉に、感慨を起こされたようだった。
冷たい風が起こり、それはデッキを通ると同時に、そこにいる灯里とアリスの長い髪とマフラーをなびかせていった。
温暖な室内の窓辺では、アリシアが、お盆をお腹に付けるように持ち、壁にぴったり背を張り付けていた。じっと息を殺し、外で交わされている二人の話に、耳を澄ませているようだった。アリスにかけられた、灯里の励ましに似た言葉を耳にし、彼女は、俯き気味に微笑むと、壁より背を離して窓を開け、顔を出し、元気そうな張りのある声で、彼女等に呼びかけた。
「二人とも、お茶の準備が出来たわよ」
デッキの灯里とアリスは、呼び声を聞くと、部屋の窓を首だけで振り返った。
「わぁい、ありがとうございます」、と灯里は嬉しそうに答えた。
そして隣で俯いて沈んでいる同僚の腕を、やんわり握り、「行こう、アリスちゃん」、と持ち前の陽気で誘いかけた。
アリスは湿り気を帯びた目元を手で拭うと、「はい」、と答えた。その声は、若干震えているようだった。
灯里がアリスの腕より手を離すと、二人は部屋の方へ向かった。
間もなく窓辺のアリシアの近くまで、彼女等は近付いてきた。
「外の空気は冷たかったでしょう」と、アリシアは尋ねた。
部屋に入った頬の赤い灯里は、彼女に向かって苦笑すると、「体の芯まで冷えちゃいました」と、自身を両手で抱き、大げさに寒がって見せて答えた。
その愛郷のあるわざとらしさに、アリシアは思わず微笑した。
「あらあら、それじゃ冷めない内に、お茶を召し上がれ」
彼女の誘いかけを受け、灯里は喜んで頷くと、アリスと共にテーブルの方に移動した。
アリシアは、無人の寂しげなデッキと、その向こうの冬の景色を、無表情で少し眺め、漠然とした悲しみを覚えると、窓を閉めた。
そのすぐ後、彼女は何かに気付いたようにはっとした。視覚が何ものかに反応した。
窓ガラスに片手を置き、アリシアは外を眺めた。その目には、空中をしんしんと降りていく白い細かい粒が──今降り出した雪が、映っていた。
「まぁ」、とアリシアは呟くように言った。
そして微笑し、顔を上げて無数の雪が舞う寒天を見上げると、元同僚に向かい、小声でそっと、後輩達に聞こえないよう、ささやきかけた。
──ねぇアテナちゃん。そっちの方でも、雪は降っているのかしら?──
小さなカップを両手で包みこむように持ち、甘く温かい飲み物に冷えた体を癒している灯里とアリスより離れ、アリシアは目を瞑り、彼女の生前の姿を心に思い浮かべた。
──空は、青く晴れ渡っていた。
初夏の麗しい風景がよく見えるデッキの上では、その端の手すりのそばで、車いすに乗ったアテナが一人でおり、よく眠っている時のように、快さそうに目を瞑っている。
そよ風がふわりと吹き、近くの木々が揺れ、静かにさんざめいた。風は、俯き気味の姿勢でじっとしている彼女のそばに来ると、その永遠の安らぎを慈しみ、また守るように包み込み、そして、綺麗な薄紫色の彼女の短めの髪を、優しい手付きで撫でていった。