ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.21「闇の詩」

***

 

 

 

 薪のはぜる音は、暖炉のものだ。暖炉では今、火炎が赤々と燃え、室内に暖気を送っている

 

 

 

 古い家の暖炉だが、機能は失われてはいなかった。或る老いた未亡人が過ごしたその家は、山林の開けた広場に、ポツンと取り残されたように立っている

 

 

 

 外に出ると、ひんやりとした風が迎える。眠る森の木々を渡る風は、ザワザワとささやき声を上げ、わたしの長い髪は、なびく

 

 

 

 町は、喧騒は、彼方にある。本当に、家は、取り残されたようだった。文明より、社会より、時代より

 

 

 

 ゴンドラを漕ぐことは終わりにした。わたしは長年従事してきた水先案内人という、やりがいと価値の十分ある役目にピリオドを打って、その後しばらく悩んだ後、隠遁生活に潜り込むことにした

 

 

 

 きっかけは、何でもないことだった。今思い返すと、天啓とか、虫の知らせとかいうものだったのだと思う

 

 

 

 風がやんで、辺りが静まり返る。わたしは意味もなくため息すると、玄関口の前にある階段の一段に腰を下ろし、目先に広がる濃紺の暗闇にぼんやりした目を注いだ

 

 

 

 或る日わたしは、客人を乗せてゴンドラを操っていた。その途中、ふと近傍にいる女の子と目が合った。ちょうど、古都の名所のそばを通りかかった頃で、わたしはペラペラとこなれた口吻でガイドをぶっていた。何の変哲もない、平常のことだった

 

 

 

 だが、その女の子、思うに、十にも満たなかった女の子だろうが、わたしとぶつかった彼女の目に、何か冷えたものを認めたのだった

 

 

 

 彼女は指をくわえてわたしを見ていた。他の手は――その手は年相応にずいぶん小さく、一片のモミジの葉のようだった――随行する母の掌中にあった

 

 

 

 女の子の目に宿るその何か冷えた、何かわたしを諭すもの、霊妙なる何ものかは、わたしの水先案内人としての、また、一人の人間、自立心と、尊厳と、一定程度の能力の自覚のある、わたしという一個の人間の、自信とか、自負とかいったものを射貫いて、風穴を開けてしまった

 

 

 

 わたしは、その時暖かかったはずなのに、胸中を吹き抜ける風を感じ、そして、その風は、冷たかった

 

 

 

 ――夜のとばりの下りた森は、心なしか、日中よりも鬱蒼として見える。一度迷い込めば二度と抜け出すことの出来ない、迷いの森のようだった。わたしは、そして、迷い子だったのだ

 

 

 

 ガイドを続け、区切りのところまでくると、わたしはさっと振り返り、今通り過ぎた女の子を窺った。だが、女の子は、親共々消えて、いなくなっていた

 

 

 

 その日その時、わたしは力を喪失した。そしてその力を復活させようとする意志も、新しい力を求めて獲得しようとする意志も、失ってしまったのだった

 

 

 

 わたしは最早抜け殻だった。仲間の皆はそれぞれ心配の言葉をかけてくれた。だが、わたしの胸には響かず、ただ意味のない音声として虚しく散っていくばかりだった

 

 

 

 最小限の荷を用意して古都を発ったわたしは、或る小島に船で至ると、風の向くまま気の向くまま、歩いた

 

 

 

 そうして辿り着いたのが、この屋敷だった。デッキの上の、木の家

 

 

 

 出迎えてくれたのは、真っ白の髪の老女だった

 

 

 

 その皺くちゃの顔を見ると、わたしは自分が、古い童話の世界にでもいる気分になった。わたしはお菓子の家への道を偶然進んで、そうして出会った老女は、実は魔女で、訪れた若い女をそのおどろおどろしい魔術で呪うのだ

 

 

 

 という想像は、馬鹿げたものだった。老女はとても慇懃で、親切で、思いやりに富んでおり、わたしは暖かく招き入れられ、積もる話を聞いて貰った

 

 

 

 とうとうと話をしていくと、何だかすっきりして、まるでわたしの口を通して、わたしの中に溜まった澱(おり)が流れ出ていくようだった

 

 

 

 わたしの目には、わたしの話に微笑みをもって傾聴する老女の顔が焼き付いている

 

 

 

 階段に座るわたしは、些少のお尻の痛みとか、足の痺れとかを覚えて、その面影を目前に見る気がした

 

 

 

 だが、ガラスのように透き通るその顔のビジョンはやがて消え、見えるのは濃紺の広がりに黒い淀みを揺り動かす空恐ろしい影ばかりになった

 

 

 

 外に出てきたのは、徐々に弱まっていく暖炉の火炎が、とうとう燃え尽きようとしていたためだった

 

 

 

 掌ほどの弱火になった火炎をさげすむように見下ろすわたしは、もう放っておいても火事など起こるまいと確信的に思って、暖炉を後にした

 

 

 

 風が再び立って、吹き抜ける。冷たい空気の中に、冷たい風が通る。辺りはますます冷ややかさを増していく

 

 

 

 手をゆっくりと握るが、力を失ったわたしには最早持ち得るものはなかった。皆無だった。抜け殻は抜け殻。空っぽなのは当然だ

 

 

 

 意義のある人生より、仲間達の輪より、細かく刻まれた義務と休息と遊戯のある時間の連続より、わたしは、はみ出してきた。逸脱してきた

 

 

 

 冷え切ったわたしの魂は、もう消えているに違いない家の暖炉の火炎と、ほとんど同一だった

 

 

 

 希望もなければ、絶望もなかった。夜は滞り、まるで凍て付いてしまったようだ。振り返り見る過去の日と、真正面に見る未来の日は、段々と遠のき、目覚めようとする眼は、まぼろしに誘惑され、開くことがなかった

 

 

 

 燃え尽きた暖炉に残る温もり、長久の夜を通る風、顧みる記憶

 

 

 

 鬱蒼と茂る木々は、静けさの中にあって、ひそひそと小声でささやき合っていた

 

 

 

 温もりは消え、暗闇は太陽を監獄に押し込め、記憶は映像だけを流し、サイレントだった

 

 

 

 わたしは力をなくした。だが、別の力を、わたしは有していた

 

 

 

 力を打ち消す、力だった

 

 

 

(終)

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