ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
***夏の日の午後***
「……」
うだるような暑さの中、彼女は窓を開け放した縁側に、足を伸ばして、外に出して座っていた。足はむき身のはだしだった。ゆったりめのワンピースを着て、衣服も姿勢も、ずいぶんと楽そうな恰好である。
「でっかい暑いです……」
俯いて吐かれたため息と共に、そう呟かれる。【です】まで付けて、やけに丁寧な独り言である。
名は亜理子と書いて、ありすと呼ぶ。彼女の名だ。どうにもバタ臭い名だが、親共々、生粋の日本人である。日本人であるから、こうしてありふれた平屋の、木造の、母屋と離れとに分かれた野暮ったいぎしぎしと床の鳴る家屋に住んでいるのである。
夏の日の午後だった。暑さはちょうどピークであり、あちこちの木にたくさんいる蝉の鳴き声が、けたたましい和を成して入道雲のそびえる高い空の涯まで響き渡っていた。
「……」
日がな一日、ずっとこうして暑さにぼけた頭でにごった物思いを転がしているというのは実に不毛な過ごし方であった。しかしいかんせんすさまじい暑さだったので、どうしようもなかった。不可抗力だった。土の中にまで及んでミミズさえ青息吐息ではい出てくるほどの季節の暑熱においては、誰も何も、快活に過ごすことは叶わなかった。ひょっとすると、元気そうにわめいている蝉さえ、実は苦しみを叫んでいるのかも知れない。旺盛なる太陽と季節の暴力、暴威を嘆くか、あるいはそれに対して懸命に難癖を叫んでいるかしているのかもしれない。
家には飼い猫が、白黒の中国熊にそっくりの猫がいたが、今は物陰で酩酊の人間よろしく、床にべったりと引っ付いたように伸びている。
半泣きに似た顔。眉をひそめて、汗で額と髪を湿らせて、うんざりした気持ちでいる亜理子。
ぼやけたまなこで空をうつらうつらと見上げると、青い、青すぎる、そしてまた広く、また高すぎるあけすけの夏空が、風船が破裂する勢いで一気に視界の隅々まで開けた。てっぺんを目指せば切りのない雲の城からは、夏の軍勢が蝉の鬨を伴って多勢に無勢、この地上へ進出してくるようだった。蝉というのは結局のところ、夏のしもべだったのだ。
松のごとく傾いで立つ庭木の柿が、その葉をぴかぴかに陽光に輝かせている。エメラルドのような光が無数、明るい陽射しの中でゆらゆらと揺らめいている。
ふと、そよ風がふわっと吹いたかと思うと、亜理子は来客の訪れを知った。目前に人影。
「亜理子ちゃんっ」
にっこりと微笑む顔。ライラックのショートヘアに小麦色の肌。頭には麦わら帽子。亜理子と同じようなワンピース。
彼女は亜理子の友達の、阿弖奈という。読みは、あてなだ。こちらもずいぶんとバタ臭い名である。
小柄な亜理子と違ってすらっと背の高い阿弖奈は、だいぶん涼しそうだ。まるでこの季節の威力、威勢、威光とは無縁であるかのように。肝試しの季節だが、幽霊じみた冷静さと沈着さを彼女は持っているようだった。
だが、そんな様子は、亜理子にはなじのものであり、べつだん不気味に思ったり怪訝に思ったりする必要はなかった。彼女はただ、「阿弖奈ちゃん」と呟いて手近のタオルでさっと余計な汗を拭って、しゃんと立って、来訪した年長の友達に随伴するだけでよかった。
縁側の陰の中国熊そっくりの猫は、じとっとした細い目で彼女の動向を探るように見ていた。
だが、亜理子が姿を消すと、そのインキ臭い目を閉じて、また灼熱の沸騰する泥沼じみた憂苦の眠りへと落ちていくのだった。
さて、友達同士が連れ合えば、もう無聊を託つという不幸とはお別れが出来る。うだるような暑さと静かに戦っていた亜理子は、勝ち逃げの恰好で相手と別れ、やさしい友達と一緒になることで、苦痛と所在なさより離反し、愉楽と安寧へと移行したのである。
***散歩道***
溜息橋のある小川の別の橋を渡って、二人はねんごろぶらぶら歩いていた。
溜息橋というのは、その小川を挟んである旅館を繋ぐ渡り廊下になっており、勤めに従事する労働者の嘆きより付与された呼称だと言われている。詳しいことは亜理子も阿弖奈も知らなかったが、二人とも、親からはそういう風に教わった。
彼女等は色々学校の話や家の話、テレビの話や本の話を交わした。時にはそれぞれの聞き知る健全だったり禁断だったりする情事の話もして、胸をどきどきさせ、じりじりとした臨場感と豊かな想像力をもって語り手と聞き手の両方の役を代わる代わる担った。
乃葉街道という街道を二人は進んでいた。この街道は入口から出口までずっととても緩やかで閑静な細い道となっており、両脇にはひっそりとした平穏で質素な家屋、あるいはこぢんまりとした神社仏閣しかなく、また時間が進んで日が傾いたお陰で、陽射しが程よくさえぎられていて、居心地がよかった。加えて、ところどころに外出に自由に解放された飼い猫が首輪の鈴を鳴らしており、猫等は人懐っこく、甘え上手で、亜理子も阿弖奈も、猫好きのため、ずいぶんと可愛げのある動物と遊び、心行くまで楽しんだ。
「……」
猫等の影がすっかり絶えてしまった頃、街道も、残りわずかとなっていた。やがて出口がくれば、友達同士は分かれることとなっていた。
ところで結局二人の間で最も盛り上がったのは男女の、余り公にはされない、というよりはむしろ出来ない、あるいはしにくい、内密の話だった。
阿弖奈は、話をある男子ーーその男子は、亜理子もよく知る、また親しい、更に言えば、彼女が好意を寄せる男子だったーーに移すと、突如歩みを緩め、ほとんど立ち止まる勢いまで落とし、亜理子はとまどって、友達を振り返る格好になった。
「えっ……」
言われたのは、ある告白だった。阿弖奈はその男子が気になっていると漏らした。照れて、その年頃の子女に相応しいやり方で、もじもじして、だけどはちきれんばかりの嬉しさに耐えかねて、思わずといった形で、彼女は告白、否、激白したのだった。
亜理子も同じ者に好意を寄せているというのは既述のことだ。
亜理子の胸を瞬時に七色の風が吹き抜けた。その風は冷たく、彼女にショックを与えた。亜理子は首を戻し、俯いて、不意の一撃の痛みを感じた。その痛みはうっかり転倒した時に付いた膝などの擦り傷の痛みと似ており、亜理子はずきずきと疼痛を覚えて憤りや悲しみなどをこもごも感じた。
阿弖奈は、ショックに打ちひしがれる友達の様子を見、その背中に真相を洞察し、覚めた(冷めた)気分になると、口を一文字にしてそのそばを通り過ぎ、一人街道を出ていった。
亜理子はというと、日が暮れるまで突っ立ってい続け、通行人に不審に思われて声をかけられるまで、苦悶の物思いに苛まれていたのだった。
恋というのは、常に波紋を広げる水面であった。そして亜理子の穏やかだった水面に、新たに、また大きい、余りに大きい波紋を投げたのは、友達である、阿弖奈だったのである。
(終)