ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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長雨の続く時節、折に触れて、天気を司る神様は、持ち前のその気前のよさより、自然にとって長雨が必要のあることを知ってはいるものの、組み尽くせないほどの慈愛に満ちた晴天の一日を恵与してくださるものだ。
夏を目前に控えて、その日の感じは、それまでの陰気臭い日々とは一転、すでに過ぎ去ったものとなった小春日和の復活のようだった。
朝起きて見てみると、室内に転がして干していた傘はすっかり乾いていた。朝目覚めて、カーテンより漏れる陽射しにはっとすると、わたしは眠気などさっぱり忘れ、恋煩いの時に酷似した胸のきゅんとした締め付けを覚えて、カーテンを開いた。
お日様は誰かのためだけの存在ではない。誰かが占有出来る存在ではない。わたしは熟知している。じめじめした長雨と重々しく垂れ込める暗雲。その中でわたしは恋焦がれていた。そう、太陽にだ。だが、そういう慕情にしおしおとしていた者は、結局のところ、わたしだけではなかったに違いない。何となれば、人情というのは普遍のものなのだ。太陽は、あまねく地上に向けてその光を注いだ。そして地上の者全員は、雨に気が差していた憂慮者達は、太陽に恩を感じ、愛情を注ぎ返した。
その日はカレンダーでは黒字の日だった。要するに平日だったのだ。だが、日柄は平凡で並一通りのそれではなく、祝日そのもののようだった。誰か偉い人が生まれた日より、なくなった日より、ずっとその日は、尊ぶべき、喜ぶべき、ことほぐべき、美しさ、すばらしさに溢れていた。
寝衣を着替えると、わたしは年甲斐もなくそわそわした心持ちで、仕事に出かける時間より前に、さっさと外に出ていってしまった。わたしは姫屋を後にした。
……晴れた朝の清涼感に清められた海辺の道を歩いた。海は凪いで、周りでは幾人かが、それぞれの仕事の準備をしていた。ある家からは朝ごはんの空腹を催すにおいが漂って来、ほかの家からは、朗々たるラジオ番組の声が漏れ聞こえてきた。ただ、あらゆる音は、耳触りのよいもので、決して喧噪ではなかった。誰かが生活している気配、また誰かがいた、存在した証跡を方々に見るのは、悦びを伴うことだった。
空を見上げると、それまでの陰鬱の日々が嘘だったかのように、過去とすっかり切り離されて、断片の雲が浮かび、がらんと空いた空路を流れていた。雨雲などまったくなかった。雨の降る兆しはなかった。
雨の多い時節の、気まぐれの晴れの日。数多の人々が雨空に夢見、また希求した太陽が、雲間より下りてきて、その麗しき愛恵の光をぞんぶんに放射した日。祝日に思える平日。祝日を祝日として容易に理解し、享受し、鮮明に記憶することの出来る稀少の日。
……海辺の開けたところに来ると、わたしは手すりのところに立って、海を眺めた。そばには緩やかに浜辺に降りる階段があった。目をやると、朝の早い時間なのに、若いカップルが寄り添って渚を歩いていた。二人の後ろ姿が見えた。すると、脳裏に或る人の姿が蘇り、よぎった。眼鏡をかけた背の低い、少年じみた男性の姿。わたしはまた胸の締め付けを覚え、胸部に手をやり、セーラー服をぎゅっと握り締める。唾の味が苦く感じる。頬が温かく、熱くなり、紅潮する。わたしには太陽以外に、好きな相手がいたのだ。その相手はしかし言えない……
時間が経った。夕方になったが空は晴れていた。風がカーテンを煽る。カーテンが風を孕んで暴れる音をわきに、わたしはベッドに膝を組んで座っていた。仕事はすでに終わっていた。濃い夕焼けの紅色が部屋に注いでいた。
憂鬱のわたしはしっとりと静かに涙の粒を落とし、シーツに点状のシミを作った。
悲しい気がした。
朝、あれほど喜ばしい気持ちでウキウキ早朝の海辺を歩いたのに、なぜ?
決して悲しがりたいわけではなかった。ただただ、心がどうしようもなくずっしりと重かった。
藍華、とわたしの憂状を察して先輩が来室し、呼びかける。だが、わたしは否定し、断り、拒絶する。
一人になりたい、そう頑なに訴えると、先輩は呆れた様子で断念し、去った。
しかし、先輩はたぶん、察知していたと思う。わたしの悩みというのは……
薄暗がりの中、カレンダーに目をやる。今日の日付は黒字だ。素晴らしかったし、また悲しくもある一日だった。
明日よりまた雨が降り、長く続くだろうということを、今朝道々聞こえたラジオの予報で知った。
長々と続く陰雨。幾重に重なり合う雨雲。とぼしい陽射し。鬱陶しいじめじめの湿気。
晴れ空に雨と雨雲を予見するわたしは、だが、何となく安堵する気がした。
(終)