ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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信号が青になる。皓々とした白っぽい青だ。歩き出すシルエットがレンズに描かれている。
わたしは、交差点の歩道を渡ろうとする。車道には何台か車が止まっている。それぞれの車には何人が乗っているのだろうか。何人にせよ、歩道を渡るわたしが誰かの目に入るというのは、そこはかとなく気味の悪いことだった。
今は夜で、辺りはすっかり暗くなっていた。涼しい風の吹く過ごしよい夜だった。だが、わたしの全身はじとっと汗ばんでいた。
結局、わたしは、そそくさと人目を憚って歩道を渡った。黒い舗装の上に白の長方形の塗装。ありふれた横断歩道だ。むずがゆいような、また気恥ずかしいような、何か居心地のよくない感覚で、渡った。体調が悪かったか、あるいは落胆していたのかも知れない。事情は自分でさえあまり釈然としない。
歩道を渡り切って程なく、わたしは自然と後ろを振り返った。あのわたしを不安にさせる車達はどうしたのだろう、とでも思ったのだった。てっきり車が続々――というのはあの車道は、立派で広く、走りやすいのだ――駆け抜けているだろうと思った。否、むしろ駆け抜けているに違いないと確信さえした。
ところが、意外と、車道は静かで、まったく静かで、車の姿はなかった。わたしには、本当に意外だった。喧噪を予覚した。ヘッドライトの照明が夜陰を切り裂く光景を幻視した。ところが実際のところ、あの車道にはひと気は絶えてなく、夜がまとう闇の衣は裂けず、完璧だった。
わたしはほっと胸を撫で下ろした。やっぱり、わたしはどこかすっきりしない、人目を避けたくなる何かを抱えているみたいだ。だが、その何かは、別段大したものではなく、要するに、わたしは、ちょっとした病弊を、たまたま患っていただけなのだ。
◆
先進の国の都会は、わたしを圧倒させた。
その街は、わたしの故郷であるネオ・ヴェネツィアとはまるで異なり、ゴンドラの代わりに自動車が走り、ウンディーネはおらず、その代わり、種々様々の職業があって、たくさんの人がその職業をシェアしていた。
にぎわいに溢れ、お金の流動が活発で、時間の流れは目まいを催すほど早かった。わたしにはとてもではないが追行していくことが出来そうにないと思えるほど、都会の物事の発生と終息のリズムは激しかった。
あのわたしにあった明瞭でも明確でもない不安の鼓動は、この街の、わたしが宿泊することになっているホテルの一室に来て、どすんと広いベッドに腰を下ろすとすっと鎮まった。わたしは安定し、安心し、頭の働きも、からだの働きも、柔軟になった。
だが、来た当初はまだ不安で、ホテルのフロントの者はわたしと目を合わせ、会話する時、当惑していた。その様は、まるでわたしの不安が伝染したかのようだった。
わたしは、道端で気に入った一人の男を、手練手管を用いて誘惑し、(その時のわたしは、なぜか異様に調子付いていた)、意気投合を演出し、わたしの部屋に連れ込んだ。一名で泊まる予定だったが、ホテルの者と相談して承諾して貰った。
わたしは、じぶんの悶々とさせ、わたしの内部で密かにバタバタと不穏に暴れるものを解放し、発散した。あまり積極的に話せることでないことは言を俟たない。
やがて終局を迎えると、一抹の悦楽を享受したわたしは、汗ばんで汚れたからだをシャワーで軽くさっぱりさせ、くつろぎやすい軽装になって、先述のようにベッドに腰を下ろした。男はどこか後ろ暗い様子で帰っていった。だが、わたしには最早どうでもよい存在だった。
備え付けの鏡台の鏡を見ると、わたしの赤茶けた髪がしっとりした水気を帯びているのが見える。また真紅の耳飾りが、照明を反射して微かに光っている。何とはなしに、微笑ましい気持ちになる。
目を広々とした窓の、開けた景色に向ける。この一室はホテルの上階のもので、景色は抜群によかった。都会の摩天楼は勿論ビッグスケールで大いに愉しいものだったが、その間に伸びる自動車道の曲線だって、その上を走る無数の車の流れだっておんなじだった。
アルコールを手近に用意して永久に眠りそうにない夜の大都会をほろ酔い気分で満足して眺めていると、プルルという音が鳴り響いた。電話だ。わたしはきょとんとして受話器を取ると、「はい」、と答えた。相手は……
後輩だった。直接指導している、ウンディーネの後輩だった。
彼女の声を耳にした途端、わたしはいたたまれなくなり、窮屈さを覚え、テキトーに話を切り上げて電話を切ってしまった。
ひょっとすると、わたしも、あの男と同様、後ろ暗い、すっきりしない何かを抱えていたのかも知れない。『藍華』は最初嬉しそうだったが、最後は釈然としない声色だった。すべてわたしだ。わたしのせいなのだ。
小さくしょんぼりしたわたしは、再び摩天楼に目を向けた。色とりどりのライトが車道を高速で流れていく。その光景は、まるで流れ星のようだった。摩天楼は高く、天の果てまで伸びていきそうだった。だが、大都会の中にいて、わたしは、ちっぽけだった。本当の本当に、ちっぽけだった。出来ればすっかり縮んで、消えてしまいたい気分でさえあった。
◆
車道を渡る。雨が降っていた。じめっとして、湿り気をたっぷり含んだ空気は不快だった。わたしは傘を差していた。また、何となくそわそわしていた。
小走りで、歩道を逃げるように渡る。信号が変わり、待っていた車達がこぞって走り出す。そして程なく、辺りが静まり返る。わたしは深呼吸する。スー、ハー。
空を見上げると、宇宙船の信号灯の明滅が見える。雨雲で、星が見えない今、あの信号灯は、星そっくりに見えた。
わたしの故郷は、この大都会でなく、ネオ・ヴェネツィアだった。わたしは、時に寂しさをまぎらすために路傍の者にしなを作ってねんごろにする品のない孤立した女性ではなく、仲間がいて、後輩がいる、満ち足りた一個の人間であった。そうであったはずだった。
だが、今は自信がなかった。自分の存在がいぶかしく、疑わしかった。
故郷に帰る時日を焦がれて思い浮かべた。だが、故郷の景色は遠く彼方に離れ、小さく見え、何となく、よそよそしかった。
わたしは、帰るのがおっくうになっていた。雨に濡れ、雨粒が繰り返し弾け散る地面を見下ろすと、水に溶けて消えてしまいそうな情けない気分に駆られた。
大都会は、そしてわたしは、哀しかった。
(終)