ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.29「ふるさとよりはるか遠く離れて」

***

 

 

 

「いかがでしたか?」

 

「……はぁ」

 

 思いがけず、間抜けな返事をしてしまった。

 

 ゆったりしたソファに腰掛けて、すっかりうとうとしていたわたしは、その問いかけの声にはっと我に返った。

 

「ぼくの演奏」

 

 あるそれほど老いてはいない、しかし若くない男性が、わたしの目の前に、わたし同様、ソファに座っていた。

 

 彼は、目が悪いのだろう、眼鏡をかけていて、その面立ちは、何とはなしにやさしげだった。彼と一緒になる女性は、きっと幸せに違いない、と根拠がないのに確信さえした。

 

「演奏?」

 

「はい、ちょうど今一曲弾き終わりましたよ」

 

「あぁ」

 

 わたしは彼の手元を見る。すると大きいギターが目を奪う。木製の、クラシックギターだ。

 

 ふと思い出す。

 

 わたしは眠気にほとんど気絶して、夢見心地の状態で失念してしまっていたが、彼はわたしに得意のギターで演奏してくれていたのだ。

 

「何か」

 と彼は言いかけると、正面の小さいテーブルにあるコーヒーカップを取り、一口飲んだ。

「腑に落ちない、といった感じですね」

 

「腑に落ちない……わたしがですか?」

 

「えぇ、そうです」

 彼はカップを下ろすと、こくりと頷いた。その素振りは、自信満々で、いかにもその通りですとでも言うようだった。

「灯里さんが、ね」

 

 男性は目を瞑ってにっこりとした。

 

 わたしはいぶかしく思わざるを得なかった。わたしには、すべてがいぶかしかった。心地よかったという感想がまずあって、わたしの意識はそのぬくぬくした感じにすっかりふやけて機能不全にされていた。

 

 わたしがいるこの家は何なのか。誰の家なのか。わたしの目の前にいて、わたしにギターの弾き語りをする彼は誰なのか。わたしは彼とどういう関係なのか。なぜ彼はギターを弾くのか。なぜわたしはその演奏に陶然と聴き入ってほとんど眠ってしまっていたのか。

 

 度重なる自問の末、違う、違う、と断固として思った。否、そう頑なに意識した。

 

 わたしのいるべきところは、ここではないはずだ。わたしのいるべきところは、ネオ・ヴェネツィアのはずだ。藍華ちゃんの隣とか、ARIAカンパニーのダイニングのはずだ。

 

 と、激情に駆られて思考したところだった。

 

 わたしの頭の中の全ては刹那、ひっくり返った。真実はわたしの内なる眼によって虚偽と見破られた。わたしが違うと断じたものは、違ってなどいなくて、正当性を持っていて、否定すべき箇所などまるでなかった。

 

 わたしがネオ・ヴェネツィア、そしてARIAカンパニーという単語、加えて、藍華ちゃんだとか、アリスちゃんだとか、わたしにとってとても親しい名前を思い浮かべた瞬間、わたしは何だか白ける気がした。白ける気がして、わたしはこの誰のものか知らない家にいることが正しくて、ネオ・ヴェネツィアという街、及び、そこでの生活、そこでの友人、知人、あらゆる存在が、架空のものであることを思い出し、また悟った。

 

 迷路の如き水の都の街並みも、藍色の髪の、溌剌としていて、だけど人一倍傷付きやすい少女も、ライムグリーンのロングヘアの、才能に溢れて将来を嘱望される、ちょっと変わった少女も、全てわたしが想像力を働かせることで生まれた空想だった。ちょうど今、空想だと思い出したのだった。

 

「アルコバレーノさん」

 という名前がわたしの口を衝いて出た。わたしはますます白けた。わたしは男性の名前を知っていたのだ。知らないふりをしていただけだったのだ。あるいは暫時忘れていたのだ。

 

「はい」

 アルコバレーノさんは、にっこりした顔で答えた。

 

「あの」

 と、わたしはいくぶん俯いて、考え込むように呼びかけると、顔を上げた。

「わたし、どれくらいの間、うとうとしていましたか?」

 

「ほんのちょっとだけですよ」

 彼は絶えずにっこりしている。

「ほんのちょっとの間だけ」

 

「そうですか」

 

「仕方ありませんよ。何せこの小春日和の陽気です。音楽がなくったって、気持ちよくなっちゃいますよ」

 

 わたしはそばの窓より外を眺めた。庭木の草が、青々とした美しい光彩を胸のすく晴天の下、思うさま放っていた。心なしか、燃え上がる炎に似た形状で、コニファーの類と思う。白味がかった緑色に可愛げがあった。

 

 部屋にはカレンダーがかかっていた。そのカレンダーは、わたしのよく知る二十四ヶ月のものではなく、十二ヶ月のもので、五月のページだった。明るさに恵まれた新緑の季節だ。

 

 わたしはアルコバレーノさんににっこりして返した。

 

「虹というのは美しいものですが」

 と彼は言った。

「結局のところ、幻影に過ぎません。あれは、人間の視覚と空気中の水分と太陽の光が織りなす魔法なのです」

 

 わたしは肯定して頷いた。

 

「実体のないものを尊ぶのは馬鹿げたことなのかも知れません。ですが、ぼくはそうは思いません。美しいというのは、結構なことです。そしてわたしは、美しいもの惚れ、自分の所有物にしたいと欲した」

 

 彼は話している間、まじまじと目を開け、笑顔の度を弱めていた。真面目な話をしているという風だった。わたしは知らない間に真剣に傾聴していた。

 

「その結果が、これというわけです」

 

 彼は再び目を瞑ってにっこりすると、手のギターをよく見えるように持って見せた。わたしは成るほどと納得した。

 

「すいません。アルコバレーノさん」

 

「はい」

 

 わたしは丁寧に、頼んでみた。強い希望だった。

 

「アンコール、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 

 その要望の後、しばし間を置いた後、アルコバレーノさんは深々と頷いて返してくれた。

 

「分かりました。灯里さん、好きですね」

 

 わたしは含羞と共に目を瞑って微笑んだ。彼はギターを構えた。

 

 その様子を細目を開けて眺めると、そこはかとなく、アルコバレーノさんというのは、わたしの、友人か知人であるという気がしてきた。そしてこの家は彼の自宅だったのだ。

 

 安心感がもたげ、わたしはくつろいだ気分になる。警戒の鎖がほどけ、わたしは窮屈さや不安などより解放される。

 

 ……演奏が始まる。甘い音色が柔らかに響き渡る。

 

 すると、わたしはまた、眠気に襲われ、うとうとしだす。目を閉じる。そしてなぜかあの幻、空想であるビジョンが脳裡をよぎる。続々とよぎっていく。藍色の髪の少女。ライムグリーンの髪の少女。水上にある、過ごしやすい妖精の住処。

 

 わたしは否定するように首を振る。

 

 藍華ちゃん……アリスちゃん……

 

 まどろみの道を進んでいく内、何だか体温が上がってくる。

 

 アリシアさん……晃さん……

 

 グスッ。洟をすする音が鳴る。

 

 目頭が熱い。わたしは泣いているようだ。

 

 帰りたい。切に帰りたい。だが、帰れない。虹を渡ることは決して出来ないのだ。

 

 悲しんでしまうと分かっているビジョンは、見ないようにするのがいいに決まっている。しかしわたしは、弱いわたしは、就寝の際、枕を抱かなければ寝られないのと同じように、たとえ悲しむことを知っていようと、この甘い美しい音色と、その音色が見せる幻想がないと、人生を生きていけないのだった。

 

 わたしはその幻想を、『ARIA』と名付けた。

 

 

 

(終)

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