ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.3 「山登り」

 そんなに楽な道のりではなかった。

 

 大きな石が、辺りに転がっていた。幅広く浅い小川が、砂利道の間に、涼しげなせせらぎを奏でつつ流れている。砂利道の脇には薄緑の、ところどころ緩やかに隆起している草地が広がっており、そこには細く鋭い葉を付けた針葉樹が点々と屹立し、小規模な木立を成している。小川が流れてくる源の方角には、高い岩の山々が重なるようにして並んでいる。

 

 川辺にある、花軸と花柄より拡散するように枝分かれして咲く、白く小さなキクの花は、ぎらぎら照り付ける夏の日射を浴び、温かい風に可憐に揺れていた。

 

 円盤型の帽子を被った晃と藍華が、リュックを背負い、前後に並んで歩いている。彼女等は半袖のシャツを着ており、その袖からは、体に密着するタイプの、防寒機能を備えた肌着が、シャツが覆い切れない腕の先まで覆っていた。

 

「一種の気晴らしだ」、と歩きながら、晃は言った。

 

「この山登りがですか」、といくぶんうんざりしたように、藍華は答えた。

 

 そして立ち止まると、深く項垂れて肩で息をした。彼女の額には汗の粒が浮かんでおり、また目を瞑っているその顔は、眉をひそめ、険しかった。

 晃も立ち止まり、余裕を思わせる涼しげな顔で、藍華を振り返った。

 

「水の上で舟を漕ぐのがわたし達の日課だが」、と晃は言った。「それが毎日繰り返されれば、いずれ嫌気が差してくるし、そうなると腕が鈍り、差し障りが生じる」

 

「人間って、単調さに耐えられない生き物ですもんね」、と藍華は答えた。

 

 彼女は目を開いて顔を上げ、「でも」、と続けた。「せっかくの休みに、こんな疲れること、わざわざしなくていいじゃないですか?」

 

 晃は、彼女を静かに見つめていた。その凛然とした佇まいは、彼女が決して藍華の言葉に然りと答えるつもりのないことを表していた。

 

 山登りという労苦を伴うイベントに対して懐疑的になっている彼女に、晃はにやりとすると、「藍華」と呼び掛けた。「お前は、山登りが疲れるだけで終わるものだと思ってるんだな」

 

「違うんですか」、と藍華は返した。

 

 彼女のその問いへの返答を怠った、いくぶんぶしつけで挑発的な返事は、晃の問いについて彼女がその通りだと確信していることを、はっきり示していた。

 

 晃は目を瞑り、不敵に微笑むと、「もし実際そうなら、山登りしになんて来るか」、とため息交じりに、俯き気味に答えた。そして顔を上げ、「疲れてまで行く値打ちがあるから、わざわざ来てるんじゃないか」、と続けた。

 

 藍華は「値打ちが」、と不信そうに呟くと、先輩の言葉の真偽を考えるように俯いた。

 

 そんな様子の彼女に、「本当のことだ」と、その値打ちを信じさせるように答え、前に向き直ると、晃は首だけで後ろを振り返った。「さ、行くぞ。もたもたしていたら日が暮れてしまう」

 

 促しを受けた後輩は、しかし依然俯いていた。足取りが重いのか、中々動こうとしない彼女は、すでに山登りへの関心が失せ、興醒めしているようだった。

 その様子を見ると、彼女を誘った晃は何だか罪悪感を覚え、顔を伏せた。藍華にとって山登りは、自分と違い、単調に感じるものだったのだろうかと、彼女は悲しく憶測し、自分の強引だったり高圧的だったりする性情による、きっと悪癖と呼ぶべきだろう押しつけがましさを、ぼんやり、自責の念と共に感じた。

 

「わたしの趣味に付き合って貰って、悪かったな」、と彼女は、小さめの声で呟いた。

 

 元来強気で剛直であり、反省や謝罪とは縁遠い性格だが、晃には、時にはこんな風に目下の者に気兼ねすることがあるようだ。実力とキャリアのある指導者として厳しさを重んじる彼女は今、後輩に対してしゅんとなり、負い目を感じていた。

 晃は、どうすれば彼女が元気を出して山登りに励んでくれるか案じた。まだ麓に近い道中にいて、先へ進まないといけないのに、こんなに疲労と気構えにおいて差があっては、二人の足並みは決して揃うことはないだろう。晃にとって今回の山登りは、自分が誘いかけることで主体的に計画した後輩とのイベントなので、ぜひ成功させたいし、楽しみたいと思っていた。

 だが、慣れないことをするため、ネオ・ヴェネツィアよりはるか遠方へと引っ張り出された後輩は、疲れのせいか、消極的な雰囲気を帯びていた。

 晃には、彼女が最早前に進んでくれる見込みがないと思われたが、それは杞憂のようだった。

 

「いいんです、別に」、と藍華は、嫌味のないさっぱりした調子で言った。

 

 晃ははっとし、顔を上げた。目の前の藍華は、ぴんと背筋を伸ばし、両手でリュックのストラップを握り、目を瞑って柔和な表情でいる。

 

「元々、わたしは好きで先輩に付いてきたんです。最後までお供しますよ」

 

「だが山頂までは、まだずいぶん距離があるぞ」

 

「大丈夫です」、と藍華はにっこりして答えると、目を開いた。「伊達に水先案内人をやってません。舟の上で姿勢を固定するため、毎日のように踏ん張ってるんです。それに」

 

 そう言い掛けて彼女は目を伏せたが、瞬時に戻して晃を直視した。

 

「先輩の言う山登りの値打ちっていうの、確かめてみたいです」

 

 憂わしそうだった後輩が翻然と溌剌とした様子に変わったのを見、晃は安堵を覚えると、半ば嬉しそうに、半ば呆れるように苦笑し、「せいぜい期待しておけ」、と答えた。

 そして先輩と後輩は、仲睦まじそうに微笑み交わし、山登りを再開したのだった。

 

 

 

 

 

 

 時間が流れた。

 日が、晃と藍華より先にてっぺんまで昇り詰めた。

 

 彼女等は、山道の途中にいた。とはいえ、ずいぶん高いところ――標高千メートルは下らないところまで来ていた。人跡の稀な山道は険難で、スムーズに進むことは叶わなかった。

 険難なため、近くに柵の立てられていない崖が、恐るべき景色を剥き出しに広げていることが珍しくなかった。

 

 藍華は、怖いもの見たさに促され、背筋が凍るような恐怖に口角を引きつらせつつ、崖の方へとそろそろ近付いていった。寄り道をするつもりのない晃は、きょとんとし、彼女が一体何に関心を持ったのか訝しむと、順路を逸れだした藍華の背中を目で追った。

 

 やがて崖の端のそばまで来た藍華は、ゆっくり慎重に首を伸ばし、恐る恐る下を覗いてみた。すると、それまで地面しか映っていなかった彼女の目に、はるか下を流れる、光があまり差さないせいか濁った緑色の、急な渓流が現れた。渓流は白く泡立ち、激しく逆巻き、轟々と響いていた。

 藍華はぎょっとし、片腕を孫の手のような恰好にして首元に上げると、微かに後ろに退き、「た、高ぁ」と叫んだ。

 

 晃は呆れたように眉を下げた。

 

「当たり前だろう。わたし達はどれだけ登ってきたんだ?」

 

「それは、そうですけど」

 

「あんまり端のほうに行くな。危ない」

 

 晃が警告したが、藍華はまだ下を見ていた。怖いのに、あるいは怖いのがぎりぎり快い程度に刺激的なのか、千メートルの高さをじっくり味わっていた。

 

 ふと、藍華は肩を手で触れられた。彼女は肝を潰し、「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。首をねじって振り返ると、藍華の目先すぐに、不機嫌そうに眉をひそめた晃の、迫力に満ちた顔があった。

 

「高いところが怖いんだったら、下を見るなよ」、と彼女は言った。「大体、下を見て山登りするやつがどこにいるんだ?」

 

 そして片手の人差し指を顔のすぐそばに、空に向けて立てて見せ、「上を見ろ、上を」と続けた。

 

「そ、そうですよね」と言って、藍華は首元の腕を下ろした。「でも、すごい高さですよ。先輩も、ちょっと見てみてください」

 

 勧められた晃は、人差し指を下ろし、首を藍華の肩の先へと伸ばすと、崖の下を窺った。渓流に、足元の小石がいくつか転がり落ち、それは宙を急降下すると、多量の水流に呑み込まれて消えた。

 石が着水するまでの長い時間は、晃に自分のいる地点の高さを直感的に計測させた。

 彼女は「ウッ」と、男のように低い、短い呻き声を上げると、すぐさま伸ばした首をすくめ、両手で後輩の肩をしっかり、すがるように握った。その顔は普段のいかめしい威光が消えており、今は怖気付いたようにすっかりあおざめていた。

 

「せ、先輩、痛いです」、と、かなり力強く肩を握られているのか、藍華がいくぶん辛そうに言った。

 

 晃ははっとし、手を藍華の肩より外すと、後退した。その一連の動作は驚くほど素早かった。

 藍華は全身で振り返り、晃の顔を窺った。彼女はそっぽを向き、指で頬をぽりぽり掻いている。

 

「すまなかった」、と、晃は呟くように言った。

 

 すると藍華は、晃にゆっくり歩み寄っていき、上目遣いで、彼女の、いくぶん臆病になっているが、あくまで自分の沽券を守るべく、強がり通そうとしている、複雑な様相の瞳を覗き込んだ。

 

 じっと観察され、晃は間が悪くなったのか、頬を掻いている指を止めると、「ど、どうした」、と、動揺したように尋ねた。

 

 藍華は満足げににんまり顔を緩めた。普段強気な先輩の弱みを知れたことに、喜んでいるようだった。

 

 晃は、「先輩の威厳を損ねやがって」と、不機嫌そうに言うと、俯き気味になってため息を吐いた。

 

「お前はまったく、素敵な後輩だよ」、と彼女は続けた。

 

「ありがとうございます」、と後輩は率直に礼を述べた。

 

 皮肉を込めた言葉を額面通りに受け取ったとんちんかんに、先輩は、愛着を含んだむかつきを覚え、据わった目付きの顔を上げた。

 

「褒めてないっつーの」

 

 そして片手で、後輩の頬をつねった。

 程々に痛い仕打ちに音を上げている藍華は、晃に順路に連れ戻され、それで二人はようやく、半端なところで中断している山登りを再開したのだった。

 

 

 

 

 

 

 その後二人は順調に山路を進んでいき、途中足場が不安定だったりする難関があったが、経験値の高い先輩の磨かれたセンスと、ガッツのある後輩の頑張りのお陰で、やがて山頂まで上り詰めた。

 

 おおむね草地に覆われている山頂は狭く、ところどころでゴツゴツし、線状の傷がいくつも付いた大小の石が、その灰色の表面を露わにしている。

 

 晃と藍華は、開けた眺望を、穏やかな笑みをたたえ、並んで眺めていた。先輩は腕組みし、利き足を足元の大きめの石に載せているが、その隣の後輩は、両手を腰の後ろで組んでいた。それぞれ大体強情っぱりなところが共通しているが、個々の眺望の見方を比べると、彼女等の性格のくっきり異なっていることがよく分かった。

 

 二人の目には、連綿と続く山脈と、その表面の針葉樹の並び、剥き出しの灰色の地面、切り立った崖、そして草地が映っていた。山脈の上の青空では、巨大な綿雲が、うねるような動きをしてその形を徐々に変えつつ、悠然と風に流れていた。

 

「これだな」、と晃が言った。「わたしがちょくちょく山登りしにくるわけというのは」

 

 その声はしんみりとした調子で、彼女はとうとう山頂に達したことに感じ入っているようだった。

 

 藍華は、まだ眺望にじっくり見入っているようで、返事はしなかった。

 

 その様子に目を向け、晃は、「来た値打ちはあったろう」、と、いくぶん誇らしげな表情で尋ねた。

 

 藍華は彼女を見ると、柔らかな笑みを浮かべ、その高慢な態度には反感を抱かず、「はい」と、素直に肯定した。

 

 山頂まで上っている間にかいた二人の汗は、今は高所を渡る新鮮な空気に乾いており、露出している首や、顔や、リュックと密接して蒸れがちだった背中の肌は、今は汗のベタつく感じと無縁になり、風の清爽な感触とその涼しさを、快く感じていた。

 

「水というのは」、と晃は、はるかな連峰に目を向け、説明的な口調で言った。「下へ下へと流れていくもので、つまり水先案内人は、いつも低いところにばかりいることになる」

 

 風が、帽子よりはみ出ている彼女の長い濃褐色の髪をなびかせた。

 

「そのせいか知らんが」、と晃は、風のそばで続けた。「時たまこうして高いところまで登ってくると、妙に開放的な気持ちになってしまうんだ……」

 

 眼福を味わってしみじみ感慨に浸っている晃の視界では、葉の細く鋭い木々や、カエルの肌のように鮮やかな薄緑の草地が配置された不動の山脈と、常に流動し、現れたり消えたりする綿雲の群れが、著しい対照を成していた。

 

 ふと、晃は違和感にはっとし、左右をきょろきょろ見回しだした。というのは、それまで眺望に集中していたその視界は、藍華の不在に気付き、彼女の姿を探しだしたのだ。また崖の近くにいた時のように、何かに関心を奪われ、勝手にその方へ離れていったのだろうと彼女は推断した。

 

 藍華はしかし、晃のそばにちゃんといた。単に足元の草地に低くしゃがみ、休んでいるだけだった。両手で頬を持っている彼女は、まだ山頂の眺望を眺めていた。

 

 晃は、不機嫌そうに眉をひそめ、彼女を見下ろすと、「お前、先輩より先に座りやがって」、と、少しばかり嫌味を含めて言った。

 

「毎日のように舟の上で踏ん張ってるんじゃないのか?」

 

「今日は休みですよ」、と、藍華は苦笑して答えた。正当過ぎる返事に、晃は呆然とした。

 

「歩き通しで、どっと疲れちゃいました」

 

「それはわたしだって同じだ」

 

 へたっている後輩を見、その直接の指導を担当している先輩がため息を吐くのは、仕方ないことだった。

 

「けど、先輩の言ってた、山登りが疲れるだけじゃないっていうのは、本当でしたね」

 

 藍華はそう言うと、晃に目を向けた。

 

「こんな絶景を見れて、先輩に付いてきた甲斐がありましたよ」

 

 後輩の目線は先輩を貫いて奈辺まで続いており、その表情は、やはり疲れているせいか、ぼんやりしていた。が、彼女の笑みは、その言葉が真実のものであり、また彼女が今満ち足りた気分でいることを明示していた。

 晃はその様子に、片目をウインクするように閉じると、小首を傾げて微笑し、「だろう」と、その気分を確認するように言った。

 

 その後、先輩と後輩は再び遠くの眺望に見入った。豁然としたその眺望は、観賞し尽くすためには、どれだけ時間があっても足りないように思えた。

 そして彼女等は、一緒に目を瞑り、静謐な環境に鳴る風の音を聞いた。その音に集中していると、不思議と現実感覚が薄まり、地に足を付けた体が忘れられ、自分が風に翼を広げて飛んでいる鳥になった空想が、おのずと暗い視界に、豊かな彩りと共に、愉快に満ち渡っていくのだった。

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