ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.30「ひぐらしの鳴き声に」

***

 

 

 

 日暮れでもないのに、カナカナという鳴き声がする。ヒグラシの鳴く声だった。騒々しい声を上げる種類とは違って、ヒグラシの鳴く声はとてもしっとりとして、穏やかで、そしてやはり、たぶんに哀愁を含んでいる。

 

 哀調を帯びた声に、灯里は耳をすました。カナカナ……

 

 真夏の木陰に汗ばんだ身を休め、彼女は目を瞑り、いくぶんぬるいものの、ちゃんと涼感を持った風を浴びて癒しを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 その日彼女は遠出していた。特に予定がないため、小旅行を企画したのだった。一人では心細かったり、楽しさに欠けたりするので、誰か誘おうと考え、姫屋の藍華と、オレンジぷらねっとのアリスに声をかけ、同伴してくれないか尋ねた。誘えるとすればその二人しかいなかった。しかし、両人とも灯里の休日には予定があったので、行きたいのは山々であったが、断った。

 

 何となく索然としてしまった灯里は、とにかく乗りかかった船ということで、一人でも小旅行を決行することにした。

 

 彼女の休日は好天に恵まれた。太陽がさんさんと照り、入道雲はもくもくと成長してほとんど天涯にまで到達しそうであった。

 

 ネオ・ヴェネツィアは小旅行のロケーションではなかった。灯里は事前に船を予約し、当日港まで向かった。

 

 

 

 ご旅行ですか、と船中問いかけてくる女性がいた。たまたま客席が隣同士だったのだった。その女性は高齢で、白髪で、眼鏡をかけ、何となく、雰囲気は上品だった。

 

 灯里がはいと答えると、女性との雑談が始まった。どこから来たのか、どこに行くのか、どういう生活をしているのか、若いが夢はあるのか、付き合っている異性はいるのか、等々、他愛のない話が交わされた。

 

 灯里は適当に相槌を打って話すことと聞くことを繰り返したが、その内、相手の女性のやさしさとか、くつろいだ振る舞いとかのせいか、だんだんと親しみを感じだして、最後には懐かしささえ感じるようになった。ふるさとの母やグランマなどの、満ち足りた幸福な女性だけが帯びるあの組み尽くせぬ厚情が、相手にはあった。打ち解けて、心を許し、その厚情を、乾いた花が水を浴びて艶めく時のように、喜んで浴びた。

 

 何だか愉快さを覚え、灯里はその時はっとし、自分が、あるいは一人でいたためか、寂しさを感じていたことを悟った。

 

 

 

 

 

 

 結局、あの女性とは別れ、灯里は再び一人になった。

 

 自然豊かな里山を訪れ、山麓にある、昔風の仰々しい建築の家が立ち並ぶ集落の細い道を歩いた。

 

 遠くには、山の稜線があり、空との間に境界を成していた。その山の頂上の遥か上方には昊天の灼熱の太陽があった。人の生活の気配はあれ、往来はなく、賑わいに溢れたネオ・ヴェネツィアとは違って、聞こえるのはクマゼミなどの蝉の鳴き声ばかりで、後は静けさに満ちていて、灯里は半ばリラックスするような、半ば不安になるような、複雑な心持ちになった。

 

 蝉たちの鳴き声は昊天を満たし、こんもり青々と茂った草木は陽光に煌めき、じとっとして熱い空気は重々しく滞留して、夏の感じが、明白だった。すっかり成長して収穫の時期を待つばかりの稲穂が、風に揺れている。

 

 夏が見せつけてくる景色はまばゆいほどだった。だが、目をしょぼつかせてでも眺めるかいのある景色だった。ふわふわに膨らんだ綿雲。ひんやりとして冷たい川水。汗ばんだ喉を流れ落ちる甘い飲み物。

 

 灯里はごくりと唾を飲み込んだ。

 

 彼女は何となく、嬉しくも切ない、妙な気持ちになって、目まいを覚え、近くにゆったり出来るところを求めた。彼女はしばらくさまよい歩き、ある山林に入ると、巨大な木のそばを見つけ、その陰に入り、腰を下ろして休んだ。

 

 その木は杉の木で、また、やしろにある、鎮守の森の一本だった。ずいぶん苔むして、ところどころ樹皮がカビており、特に樹木の知識を持ち合わせていなくても、樹齢が長いことは容易に察せられた。

 

 木陰にいると、すっかりくつろいで、灯里は眠気を覚えた。目を瞑ると、感覚が研ぎ澄まされるのか、ミンミンと鳴く蝉の声に混じって、こずえを渡る伊吹と、川のせせらぎとが聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 額に触れるとヌルっとしていた。汗だった。暑かった。だが、時折吹き寄せる風が、草木の涼気を集めてきて、快かった。

 

 カナカナ……

 

 哀調を帯びた声。聞こえるのはヒグラシの声ばかりになっていた。

 

 どれくらい寝ていたのか、また、重たい目蓋は暑気に眠って余計に疲れたせいなのか、よく分からないが、その目蓋を強いて上げ、ぼんやりとかかすんだ視界を鮮明にした。

 

 まだ日暮れではなかった。陽射しは落ち着いているものの、空を満たす青は依然干上がっておらず、雲が流れていた。

 

 夏模様を観賞して、灯里は感じ、また考えた。ヒグラシの声に哀しみを覚えるのは、ヒグラシのせいではなく、自分のせいだった。

 

 人間というのは、押しつけがましいものだ。人間ではない何かに対してまで、人間にしたがる。ヒグラシは、泣いているのでも、嘆いているのでもない。ただ鳴き声、決まった生まれつきの鳴き声を上げているだけなのだ。

 

 こうして、たとえ一人であれ、里山で涼み、花鳥風月に目を楽しませるのは、とても充実したことで、リフレッシングで、悔やみどころのない、首尾よく成功した、休日のイベントだった。

 

 だが、結局灯里は、一人であるということが気がかりで、また悩みだったのだ。あの船中出会った女性との談笑で、薄々気付いていた。だが、強情に黙殺していたのだ。強情さというのは、単独行動する者の特性だ。

 

 ヒグラシは鳴いている。悲哀を響かせているのではない。ただ鳴いているだけなのだ。

 

 だが、灯里はどうしても、その悲哀を否定し切ることが出来なかった。彼女はヒグラシと共に、ヒグラシの音を借りて悲しみたがった。

 

 灯里は立ち上がって彼方を望遠した。やしろのあるところは、階段の上で、高かった。

 

 綿雲に、眩しい太陽。引かない汗に、人情の滲む虫たちの鳴き声。思い出の箱には、すでにぜんぶ詰まっているようだった。

 

 こずえを渡る風は爽やかだった。爽やかだったが、その風には、悔恨か憂いか、ほんの少しばかり、苦味があった。 

 

 

 

(終)

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