ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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バルコニー席は閑散としていて、わたしの他は誰もいなかった。というのは、雨が降っているのだ。バルコニーにはちゃんと屋根があって、雨ざらしではない。
人目をはばかる必要がなかったので、わたしは目覚めた時のように腕をうんと伸ばした。やや虚しい解放感が後に残った。
ログキャビンの喫茶店のバルコニー席は、大運河に面している。雨はさっき降り出したばかりで、不測の悪天候に見舞われた船乗り達は、せかせかと雨に濡れて、出来るだけ早く屋根の下に潜り込みたいと、帰り道を飛ばしていた。小さい舟は、石橋の下の隅っこに、交通の妨げにならないように停まって、漕ぎ手はやれやれといった風に舟のへりに座って煙草をふかしていた。
いろいろある船の中に、ゴンドラがあった。わたしにはよく覚えのある、馴染みのある舟だ。
わたしは一艘に目を留めると、席に腰を下ろした。テーブルには湯気の上がる飲み物のカップがある。わたしは取っ手を持って一口味わう。甘く芳香馥郁たる飲み物だった。
ゴンドラの主は、例に漏れず、不意の雨に襲われて帰る途中のようだった。ゴンドラはあっという間に視界より消えた。
わたしは遠くに注がれる目を戻し、テーブルの上に置いた、新聞のコラムの参考にと図書館で借りてきた本を手に持った。
何だか気分がくさくさしてくるようだった。わたしは本をテーブルに置き、出来れば置いて帰りたいくらいだった。
書生として従事するということは、特別嫌いではなかった。かといって好いてもいなかった。ただ仕事として選択したから義務でやっている、というだけのことだった。
『アリス』は今は書生だが、昔はウンディーネだった。
そしてわたしは、その仕事に、仲間に、未練があった……
めくるめく回想が、風の煽りを受ける本のページのごとく現れては消えていく。
あの時正しいと当時のわたしは決め付けた。ウンディーネっが間違いで、書生が正しいのだとわたしは信じた。ゴンドラの上での仕事はそつなく出来たし、学校での勉強はまずまずだった。とりわけ言語の類が得意だった。
だが、仕事は技術と理論だけで成り立つものではなかった。仕事は人と人との関係、関連があり、相互に手分けしたり分担したりしてやることで成り立つものだった。少なくとも、ウンディーネはそうだった。
わたしはだんだん、人の和の中で、その和を崩さないように動くことに苦手意識を持つようになった。オレンジ・ぷらねっとの折に触れてある、会食に誘うメッセージ・レターには、何時の頃からか、見て見ぬ振りをするようになった。
わたしは苦心し、頭を抱えた。先輩のアテナさんや同輩の灯里先輩、藍華先輩に相談した。しかし、自分の中に立ち込め、濃さを増していく霧は晴れなかった。
ゴンドラに乗り、櫂を握ると、常に、振りきれない胸苦しさ、違和感が付いて回った。
わたしの駆るゴンドラは次第に綺麗に進まず、観光に喋る口は軽やかさを損なっていった。
上司の警告が入るのと、編集者だという知り合いの知り合いが口を掛けてくる時が偶然合致した。わたしはちょっと前に、懸賞のエッセイに拙作を出して当選していたのだった。
雨は小止みなく降り続ける。
あの時わたしの心は、確かにウンディーネに反発し、抵抗していた。だが、その心は、また不満を持つようになり、わたしを困惑させている。わたしに問題を投げかけ、是正するよう訴えかけている。
この『我欲』を抑え付けるのは、一見簡単のようでその実、難しかった。最近ボーッと上の空になることが多いのだが、思うに内面の葛藤に疲れているせいだろう。
自己の問題より逃げるように、わたしの目は、視界にある全てのものに次々と移る。
あの時、わたしが転職を決断した時、わたしは自分が道を逸するのだと自覚していた。だが、決して目的地を見失ってはいなかったはずだ。それまで進んできた道のりが、よしんば誤りではなくとも、迂遠というべきものだったと悟ったのだ。わたしはそれまでとは異なる方角へと伸びる道に足を踏み出し、古い道とは別れ、新しい可能性を掴みに行こうとしたのだった。
ウンディーネを疑いだした時の、心の霧、転機を得ることで一時晴れていた霧が、また現れ、わたしの行く先を隠し、不安に陥れた。わたしの足場はあざ笑うかのように揺れ動いた。
だが、ウンディーネに帰りたいとは思わなかった。今更回帰したところで、何かに付けてぎごちない結果になるだけだと分かっていた。
元々、満足しない、あるいは我慢の利かないタチだったのだろうかと、わたしは参考書を開き、茫然たる眼を彼方へと向けて、考える。わたしの生活が転変した時や、ウンディーネとしての充実した時期や、ウンディーネになったばかりの初々しく甘酸っぱい時期などを超え、幼年時代にまで遡及する。
わたしの性格形成の過程を辿ろうと試みる。しかし、捗々しく行かなかった。
目が悪くなったのは、文書に常日頃かじり付いているせいだ。お陰様で、眼鏡は必需品だ。そう、わたしは眼鏡をするようになったのだ……わたしはハッとする。であれば、ひょっとすると、仮に再び船乗りに戻るにしろ、視力の点で、わたしは適格と認められないかも知れない。
灯里先輩、藍華先輩、今はばりばりと働いていることだろう。わたしは変わってしまった。わたしは最早彼女等のもとに戻れないのだ。
そう理解すると、わたしは頭を掻きむしり、苦笑をこぼした。その苦笑いは、しぼんだ風船みたいで、あまりにもしおしおとして、憂鬱を吹き飛ばすことなどまるで出来ず、情けない限りだった。憫笑だったのだ。
確かに情けなかったが、人目を憚る必要はなかった。わたしは慨然とため息すると、俯いた。頼んだ飲み物はすっかり冷めたようだ。表面には雨降りの様子が映り込んでいた。
苦しみに渇く心は、涙を欲した。だが、わたしは泣かなかった。強いて泣こうとしなかった。
機運が満ちれば、わたしはどうにだって変化する気概でいた。あの時、ウンディーネとしての自分が疑わしくなった時のように。
晴れない霧はない。またたとえ晴れることがないとしても、わたしは霧の中をおのれを信じ、頼って進んでいくだけだった。
(終)