ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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《また》
彼女は既視感を覚え、心中呟いた。
《また、わたしは……》
エアバイクのスロットルグリップを戻すと、車体は減速し、また高度がどんどん下がっていった。
夏とはいえ、雲を間近に見上げるほどの高度まで上がると、気温は地表と比べ、ずいぶんと控えめになるものだ。地表だと猛暑に疲弊するところだが、がらんとした空路は、よく冷えた風が天然のクーラーのようになっていて、エアバイクを駆っていると、ほとんど肌寒さを感じるくらいだった。
アリシアは――エアバイクの乗り手は、勿論日焼け防止を兼ねて、防寒用に長そでの上着を羽織って、細いマフラーを首に巻いていた。手にはグローブ。大気中を突っ切っていくことで全身に浴びる風に、その細いマフラーは激しくなびいた。
彼方には怪獣のように大きい、魚の胸ビレに似たウイングを付けた星間連絡船が、いびつに伸びる万里の入道雲が囲う大空を、ゆっくりと飛んでいる。さっき国際宇宙港を発って、アクアを離れ、異星へと向かうのだ。
アリシアは戻したエアバイクのグリップを再びひねり、加速したが、次第に宇宙船に接近していくのを知ると、また減速し、近傍に見える高層ビルの屋上ポート――その屋上ポートは、たとえば複合商業施設にあるのとよく似ていて、一種の広場になっていた――に、ゆっくりと慎重に下りていった。
詰まるところ、スカイガーデンというもので、その広場は、高いところであるため非常に見晴らしがよく、しかしその割には、人影はあまりなかった。思うに多くはクーラーのよく効いた室内にいて避暑しているのだろう。
辺りにいるのは、じっとしていることが得意でない外での運動を好む元気いっぱいのわんぱく小僧と、そのややくたびれた親くらいのものだった。
アリシアは、エアバイクの各所を軽くチェックして、上着を脱いでマフラーを外し、半そでになると、絶景を望むことの出来るベンチのひとつを占め、腰を下ろした。
水筒に入れてきたお茶を呑むと、乾いた喉に浸み込むようだった。
夏の日は激しかった。確かに激しかったが、今はすでに夕方に差し掛かっており、その光は、依然目まいを催すほど強烈ではあるものの、淡かった。
制帽を脱いで脇に置いた。アリシアは制服だった。むき出しになったブロンドのロングヘア―が、高所によくある強い風にいいように弄ばれた。
輪郭のくっきりした入道雲……アリシアは乱れ髪を直すと、さっき目にし、陶然と見入った光景を回想した。
夏空に必ず存在する夏の象徴。夏という季節を象徴し、謳歌し、照明するシンボルの雲。
うっすらと額にかいた汗をハンカチで拭き取る。そしてまたお茶に口を付ける。
《昔は、こういうところによく来たなぁ》
アリシアは目を閉じ、束の間の回想に耽った。思い出されるのは……
◇
「うりゃああああああ」
呆れるほど子供っぽい叫び声と共に、エンジンの高鳴りが空中に響き渡る。
アリシアは《あらあら》と呆れて、広い夏空を爆走するエアバイクの後方で、ゆっくりと、節度ある速度で、遅れて走っていた。
二台はやがて、エアポートに下りる。
片方が盛大に、あけすけに速度違反をしでかしたことは、幸い公安に知られることはなく、互いに馴染みである彼女等、二人の記憶の隅っこの方に、悪運のお陰で咎められなかった罪として、そっと隠されることになった。
「晃ちゃん」とアリシアは呼びかけた。「エアバイクを買って嬉しいのは分かるけど、あんなに飛ばしちゃ、危ないわよ」
という小言、注意に対して、凍った鼻水を鼻の下に張り付けた彼女は、その氷の鼻水を痛そうに剥がそうと骨折りに夢中で、聞く耳なしという感じだった。
鼻水が凍ったのは、その無謀運転により、エアバイクが入道雲の頂点を目指さんばかりに上昇していったためだ。頂点に至る前に、晃は目の玉が固まり、目蓋がカチカチに動かなくなったので、身震いして急いで下りていった。
アリシアは再び呆れた。
ポロっとようやく、鼻水ではなしに、『鼻氷』が取れた晃は、アリシアより借りた手鏡を返すと、その氷を地面に落として靴で踏み砕いた。
「あんまりオイタが過ぎると、せっかく苦労して取った免許と免許代が無駄になっちゃうわよ」
「だいじょうぶだって」
と、鼻の下の一部が赤く腫れている晃は、あまりの寒さに堪えたせいか、目に涙を浮かべて言い放った。その痛々しい表情と、あっけらかんとした言い様とが対比されて、何だかおかしかった。
「お巡りに見つかったところで、逃げるだけさ」
「まぁまぁ」
アリシアはおっとりと微笑んだ。今度は呆れるのではなく、感心したようだった。彼女はポーチをまさぐると、あるものを取り出して……
晃ははっとする。首に何かが、アリシアの手によって巻き付けられたのだ。見下ろすと、マフラーだと分かった。すっかり凍えた晃は、そのマフラーに、夏の陽気に勝る温もりを感じた。
「お前」
と晃は驚いてすでにほぐれた目を見開くと、小声で言った。
「夏だっていうのに、マフラーなんて持ってきたのか」
「うん」とアリシアは頷く。「自分用にね。でも、晃ちゃん寒いでしょ?」
晃は呆然とすると、見開いた目を戻し、「あぁ……」、とはっきりしない返事で答え、アリシアをじっと見つめた。
「わたしは全然、平気。寒くない」
「そうか」
アリシアは「フフッ」と笑った。すると晃も、釣られて笑った。
二人は夏空を見上げた。夏空には、季節を実感させる入道雲がそびえていた。その輪郭のくっきりとしたどこまでも膨らみ、伸びていく巨怪の雲は、見ごたえがあって、彼女等はずっと、眺めているのだった。
◇
――結局あの後、帰り道、晃が反省せずまた無謀運転したが、今度はたまたまいた公安の目にとまり、取り締まりを受け、そこそこの額のお金を失うこととなった。不幸中の幸いだったのは、免許まで取り上げられずに済んだことだった。アリシアは巻き込まれる形で注意され、警告された。今となっては、ただの笑い話だ。
キャッキャと、いとけない男児が、興奮した様子でアリシアのそばを駆けていった。その後ろを、おたおたした若々しい、アリシアと同年代ほどの母親が遅れて追いかけていく。
脇目も振らずに走る男児のその姿は、当時の晃を彷彿とさせた。
今は姫屋という老舗の水先案内店で、責任ある立場となって、ずいぶん品行方正になったものだ。
アリシアはおかしさを含んだ感慨に浸ると、偶然、男児を捕まえて抱っこする母親と目が合った。二人は微かに苦笑いを浮かべ合った。
その後、アリシアは回想に時間を費やしたため、重くかたくなった腰を上げると、ポートに戻り、上着を羽織ってマフラーを巻き、エアバイクに乗った。
スカイガーデンを後にした。
エンジンが始動し、ブウンと鳴る。スロットルを捻り、車体を浮上させ、姿勢を定めることで舵角を入力すると、エアバイクは飛行を始める。
星間連絡船はすでに見えなくなっている。見えるのは、配達に従事する他のエアバイクくらいだった。空路はがらんとしていた。
帰路、アリシアは何となく、あの時の晃のように、スロットルを目いっぱい搾りたくなったが、やっぱりと言うべきか、良心の呵責があって、断念した。
折り目正しい運転でエアバイクを駆るアリシアは、彼方にある入道雲の頂きを仰いだ。
《また》
アリシアはデジャヴュを覚え、心中に発した。
《また、わたしはこうして、入道雲を眺めている》
グリップを戻すと、エアバイクは段々と遅くなり、低い方へと下りていく。
たっぷりの水分と高温にどこまでも膨張していく、ネオ・ヴェネツィアの上空に聳え立つその雲は、まるでいざなうかのように、微笑んでいる。
アリシアはグリップを再び捻り、加速した。エンジンが唸ってドライブとブーストが掛かり、エアバイクが上向きに傾いて走っていく。
《仮に――》、とアリシアは考えた。《仮に、あの雲の向こう側に行けるとすれば》
彼方にあるのは、麗しい思い出の国なのだろう。
アリシアは、ぼんやりと、暴走に近い走り方でエアバイクを駆る晃の後ろ姿を、目前に思い描いた。
晃のまぼろしは、今度は恐ろしい高度にも、その寒さにも負けることなく、その危うい勢いに乗って、目の届かない天涯まで突っ込んでいって小さくなった。
その跡には、微光の煌めきが、砕けた星のかけらのように、チラチラと美しく舞って残っていた。
(終)