ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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暮れようとする太陽が歌う歌は、物悲しい調子を帯びていて、眺めていると、気持ちが寒々としてくるようだった。光が沈む。夜が目覚め、空を真っ黒に染める。
『今日という一日は終わりです。ではさようなら』
太陽はそう、たっぷり余韻を残して、冷めた笑顔で歌った。虚空のドームにまで拡散して反響するその歌声は、世界のあまねく隅々まで響いて届き、人々は、また、他の動物たちは、その響きに日没を悟り、それぞれの心境に立ち戻って、その日を回顧し、そうして結末を付ける準備に入っていくのだった。
開け放した窓より入ってくる風は冷たい。秋の風だった。
わたしは車に乗っていた。車の助手席。運転しているのは藍華ちゃんだった。
ハンドルのそばにあるスイッチを付ける。すると、ポッと前の路面が明るく照らし出される。どんどん過ぎていく夜空と同色のコンクリートで出来た道路。
藍華ちゃんは最近免許を取ったのだと言って、意気揚々とわたしにドライブへと誘ったのだった。わたしはびっくりしたが、付き添うことにした。
「綺麗ねぇ」
「そうだねぇ」
車が走るのは、海景と街並みをいっぺんに楽しみたいという度重なる人々の希求を根拠に例外的に設けられた、ネオ・ヴェネツィアをぐるりと囲むように、海に沿って伸びる湾岸線。造設後、街の美しい景観を損ねているという意見が噴出した。しかし結局、希望され、計画された、すでに出来上がってしまったもの、また、すでに利用されているものであり、今更なかったことにするのは、少なくとも当面は無理だった。
道中、藍華ちゃんは、免許を取る時てこずった話を、憮然として話した。
聞けば、免許を取れる学校は――街の環境を考えれば理の当然だが――ネオ・ヴェネツィアの辺境にあり、通学するのが大変だったようだ。近所にあれば、姫屋のゴンドラを借用して行けばよかったところ、距離があり、加えて道程が簡単でなかったため、
「ふぅん、大変だったんだね」
わたしが共感するように言うと、藍華ちゃんは「ホントに」と返した。あまり関心はなかったが、その労苦は、推して知るべし、という感じだった。
小さい車のエンジンが唸って走る。他の大きい車はより快速でどんどんわたしたちを追い越していく。わたしは自分たちの乗る車が鈍行であることに関して、別に不安でもなければ、不満でもなかったし、藍華ちゃんも、事情は同じようだった。
ローマの神殿にあるものと似た柱の上に敷設されたハイウェイより眺める夕日は、ちょうど、わたしの目線と同じ位置にあった。まばゆい光輝を見つめると、目がチクチク刺激され、自然とまばたきした。だが、薄目を開けてでも、わたしは夕日を中心とした憂愁の濃く滲む風景に魅惑され、その雰囲気に耽っていたかった。生来、わたしには感傷的気質があって、こういう風景が往々にして呼び起す感情の甘く切ない味わいが、どうしてか好みだった。今の状況では、海原の彼方にある、水平線の向こうに沈もうとする夕日の表情が、何だか物悲しく見えるのだった。
わたしは夕日の哀歌にしっとりと耳を澄ました。その歌声は、開け放した車の窓より冷たい秋風と共に流れて来た。カーラジオからは、女性の歌が聞かれた。明るくもなければ、激しくもなかった。落ち着いたパーカッション、ポロンポロンというエレキギターの、また、ゆっくりと弾くクラシック弦楽器の音色をバックに、その女性の透き通った、芯のある力強い天然のボリュームを伴った歌声が響く。
藍華ちゃんは口を閉じ、ハンドルを握る手に集中した。わたしは目を瞑り、想念の描き出すビジョンに心眼を向けた。ラジオの歌は続く。絢爛としてまた淑やかでもあるゆったりとしたロングドレス。着ている歌唱の才媛はすらりとして背が高く、またほっそりとしてスレンダーだ。
晃さんによく車に乗って連れていって貰って、その影響で自分で運転して走りたくなったのだと、藍華ちゃんは教えた。わたしは「そうだったんだ」、と簡単に返した。
不意に蘇ってくる、映画か何かのワンシーン。崩壊した建物の壁に背を持たせて、若い男性が眼を瞑っている。男性は満身創痍。彼の本能は絶命を確信している。目を瞑る彼は、ぐったりと落ちた片手をおもむろに持ち上げ、前へと伸ばす。彼の見えない目は一人の女性を虚無に見つける。彼女は彼の愛する、生涯唯一の相手だった。彼は微笑み、涙を浮かべ、伸ばした手を再び落とす。
高空より俯瞰するビジョンが、突如わたしに襲い掛かり、戸惑わせる。海と街の狭間に伸びる緩やかな曲線。その上には往来する機械の箱。螺旋を描いてわたしたちの乗る一台へと迫る。
わたしははっと目を開く。音声が途切れたと思ったが、藍華ちゃんがラジオを切ったのだった。ビジョンは消失した。
「ちょっと、寄っていこう」
きょとんとするわたしは、辺りを見回す。駐車場に、ちょっとしたマーケットに、トイレ。車がレストエリアへと着いたことを知るまで、それほど時間は要しなかった。
わたしが下りた後、藍華ちゃんは車のカギのしまったことを確認すると、トイレの方に向かった。
わたしは車の走る音を後ろに、海の方へと近づいていった。展望台だった。空では夜の紺色と夕の朱色がせめぎ合っている。が、優勢は圧倒的に紺色の方だった。
『今日という一日は終わりです。ではさようなら』
――最早あの歌声は聞こえない。ただ辛うじて、余韻だけは、今なお聞こえ続けている。その余韻は、あのすでに沈んで残光だけを残す太陽と、わたし、そして藍華ちゃん、そして他のみんなの、今日という一日の中で経た全ての音色だった。やがてしじまに包まれ、やがて忘失される、かりそめの、儚い、命の断片だった。
あの弱弱しい、水平線の向こうに飲み込まれかけている残光が、心なしか、あの心当たりのない回想に見た若い男性の、生気のないボロボロの片手と重なる気がした。彼は臨終の間際、かけがえのない相手に焦がれ、求めた。ひょっとして、あの末期に至ろうとする太陽にも、悲しみや、
そういう風に考え込んでいると、ふと、聞き覚えのある歌が聞こえた。わたしはすぐに合点が行き、その歌がラジオで聴いた歌だと分かった。忘れるにはその歌は、わたしにとって味わいがあり過ぎたし、また忘れてしまえるほどの時間が経っていなかった。
振り返ると、用を済ませた藍華ちゃんが近付いてくるのが見えた。彼女が口ずさんでいるのだった。
「どうしたの」
わたしはクスっと笑って尋ねた。
すると彼女も同じように笑って、わたしのすぐ隣に来た。
「いい歌だったなぁ、と思って」
彼女は展望台の手すりに腕組みし空を見上げた。空には星々が照っている。
別離の訪れ。そして悲哀。虚無との邂逅。
夜の星々は、朝昇り昼君臨し、夕沈んだ太陽の光を借りて照っている。
あのまばゆいほどの光が、星くずにあっては何とも淡く頼りなくなってしまうものだ。
風が立つと、あの歌声が微かに耳元をかすめる。
今度は、藍華ちゃんの悪ふざけではなかった。
(終)