ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.38「沈下」

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 わたしがウンディーネというネオ・ヴェネツィアで花形とされる仕事より、一身上の都合で退き、しばらく暗澹として不毛と不如意と懊悩にまみれた苦渋の隠遁生活を、彷徨する者として続け、ぎごちない形で再び社会生活に参与するまで、数カ月という歳月を要した。その期間は、すなわち、ブランクというわけだ。

 

 どうしてウンディーネを中途で引退したのかと訊かれたら、正直、口が重くなる。飽きたというわけではなかった。嫌になったということもなかった。ただ、何となく、虚しくなった。体と心が、ある時から、まるで悪霊のような鈍重さに憑かれ、疲労の出方がそれまでと打って変わって、ネバネバしたものがしつこく粘着して離れないように、取れなくなった。ゆっくり眠っても、お風呂のお湯に浸かっても、温かく甘い飲み物を飲んでも、全快することはなかった。安静にしようとアリシアさんの提案で、数週間の休暇を貰ったが、結局重ったるい心身を持て余すばかりで、有益でなく、さんざん悩んで、相談に夜を明かしたりした末、退職することに決めたのだった。アリシアさんは勿論のこと、姫屋の藍華ちゃんや、おれんじ・プラネットのアリスちゃんが心底気にかけてくれたが、わたしの心に変わりはなかった。自分の思案も努力も、友人・知人の援助も、わたしの『メランコリー』に対して効力を発揮することはなく、わたしはわたし自身を飲み込もうとする渦に、親しい人等の差し伸べる手を悔恨の念と共に見上げながら、飲み込まれていくしかなかった。ARIAカンパニーには一艘のゴンドラが余ることになり、そしてその後しばらくして、後任が雇われたと聞いた。わたしはカンパニーを後にすると、適当に住処を探しそこに住まった。

 

 わたしの過ごしたブランクは、その渦の中でのものだった。数か月間は、わたしは、その渦の中の住人だった。光の届かない深い淵に沈み、物思いと憂鬱と慨嘆をボソボソと呟いていた。

 

 なぜか、わたしは、自分の身の持ち方、処し方に、疑惑を持ったのだった。本当に理由は分からなかったし、今でもよく分かっていない。

 

 生き方、生き様。そういう言葉が、混沌としてある言葉の巡りの深奥より浮かび上がって来、わたしの心に飛び付いた。

 

 幼い頃に夢見、憧憬し、一念発起して親元を離れ、単身来た異星の、華やかで矜持を持てる仕事に、好ましい人々と共に従事することに、果たして難点があったのだろうか。引退せざるを得なくなる事情があったのだろうか。

 

 今は、ネオ・ヴェネツィアのある宿泊施設でメイドをやっている。時折、客室の窓より街の水路に目を落とし、探す。ウンディーネを探すのだ。そして、白いセーラー服をまとった女性たちをしげしげと眺め、懐かしい思いに目頭を熱くすると同時に、何となく白ける感じを覚えるのだった。

 

 迷ったわたし、逸れたわたしは、あるいは物欲しさでも催したのだろうか。それと意識しない邪念が湧いて、お金をより多く稼ぎたいとでも思ったのだろうか。それとも、元々素質も適性も欠失していて、向いていないのにそうだと気付かないウンディーネの仕事を続けることで、疲労を限界以上まで蓄積させていったのか……。汚れた食器や寝具を搔き集めながら、時々そんな風に、考えるのだった。

 

 メイドの長は、いつも疲れているとか、ちゃんと休んでいるのかとか、わたしに心配と憐憫の言葉をかける。だが、それ等はまるで感謝に値しない、ただの軽蔑であり、嘲罵だった。

 

 わたしは、失敗したのだろうか。間違えたのだろうか。そういう悔やみを帯びた自問が、たびたび思い浮かんで来ては、わたしを苦しめ、悩ませる。

 

 では、誰かがわたしに生き方を教えてくれたのか。わたしに生き方を教えられる誰かが、存在したのか。生き様の模範があったのか。

 

 否、誰もいなかった。まずウンディーネに導いたのはわたし自身だった。そのきっかけを掴んだのもわたしだった。他の誰でもなかった。そして、あの暗い渦の中に沈んでいったのは、わたしだった。ただ、わたし一人だった。誰かを道連れにすることもなく、淵にあって誰かを乞い求めることもなく、ただわたしだけだった。

 

 孤独と辛苦の淵より連れ出してくれる教導者がいれば、わたしの人生は、一本道を歩むように単純で、また明るかったのかも知れない。しかし実際は違った。理想は理想として留まり、現実はこうだった。現実は複雑怪奇で、数多の可能性、事故、迷誤、執念が交錯していた。現実は、自助と自決と自負を前提とし、避けられない宿命が各々の人生の道のりを歪めていた。理想は甘美だった。現実は……

 

 遠くを航行するウンディーネを見下ろすと、懐かしく羨ましいと思うと同時に、ひょっとすると、彼女等も、かつて自分が抱えたものと同じ悩みを、ある者はすでに持っており、またある者は将来に持つことになっているのかも知れない、等と考えた。

 

 ひきこもりをやったのだと打ち明けた人は誰もいない。ブランクはわたしだけのもので、門外不出で、出来れば知られたくない事柄だった。

 

 時代が悪いのではなかった。誰かがわたしを陥れたのでもなかった。誰を恨む必要もなかった。

 

 独り立ちする必要は当然だった。その事情は、誰でも、男でも、女でも、同じだった。迷えば誰かが必ず助けてくれるわけではない。親だってずっと頼れるわけではない。いずれ自分でやらなければいけなくなる時が、必ずやってくる。わたしはわたしの力を頼りに生きている。わたしの力のみを頼りに。最早アリシアさんのように甘えられる相手も、藍華ちゃんやアリスちゃんのように打ち明け話を晒せる相手もいない。

 

 確かにわたしは、静まったり荒れ狂ったりする人生という海原を十数年、最初は温かい仲間と共に、後は単独で渡り、必然と偶然の絡み合いの中をくぐり抜けて来た。

 

 その果てが、ここで、今のわたしが、全人生、全経験、全思想の総体なのだった。

 

 満足できるわけなど、なかった。出来れば渦に飲み込まれるより、逃避したかった。救難されたかった。

 

 黒い制服を引き裂きたくなった。

 

 彼女等のセーラー服は、陽光を浴びて、その輝きは光彩陸離たるものだった。

 

 

 

(終)

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