ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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吹いてくる風は、ぬるい風だった。季節の息吹は、たっぷり湿気を含んで、涼感ではなく、熱気を運んでいた。
じっとりと濡れた額をハンカチで拭う。地面に照り付ける陽光は眩しくまた熱く、ほとんど地面を焦がしてしまうのではないかとさえ思われるほどだった。
「ふぅ」、とうんざりしたようにため息。
日傘を差していなければ、自分はこんがり焼けていることだろう、と、そんな風に、アリスは考えた。おれんじ・プラネット所属の、新米ウンディーネだった。素行は悪くなく、むしろよく、じゃっかん社交性に欠けるところがあるものの、能力と素養を恵まれており、ウンディーネ関連の雑誌に特集を企画されるほど、将来を嘱望されていた。
汗を拭ったハンカチで、パタパタと顔の方を扇ぎ、空へと目線を上げる。アリスの目は、果てしなく青い空と、入道雲の山々を見、暑熱の時季、盛夏を実感した。生気に満ち溢れた美しい風情と体力をごっそり奪う熱気と湿度。また天気が悪くなれば、雷鳴と、バケツをひっくり返したような降水と、海の凶暴化。アクアアルタではない洪水が起こることがある。
《さて、どうしよう》、とアリスは考えた。
彼女は制服姿だったが、セーラー服ではなく、学生服だった。下校途中だったのだ。時分は昼だった。その日は午前中だけの授業だった。
迷う足は、炎天下のネオ・ヴェネツィアの、帰り道を大きく逸れないゾーンにおいて、フラフラとさまよった。
まっすぐ帰るには、喉の渇きを癒したいという思いが強かったし、また、何となく、物足りなかった。何となればまだあの激しい太陽はてっぺんにほど近い位置にあって燦然と輝いているのだ。ウンディーネの仕事だって、学校のある日は、学業と仕事の兼ね合いを考慮して、それほど過密にならないよう、先輩のアテナさんや、おれんじ・プラネットの人たちと相談して、スケジュールを設定していた。
風の向くまま気の向くまま、足を運ぶと、アリスは日傘をたたんで下ろし、道路を挟んで水路に面したヴェネツィアン・ゴシックの陰に、アーチより入った。ちょうど座れるところがあり、また近くに自動販売機があったので、彼女はテキトーに缶のジュースを選んで買うと、そこに座って飲んだ。自販機のそばの空き缶用ボックスは、中々詰まっていて、やっぱりこの暑い時節、喉を潤す人が多くいるのだろうか、などと考えた。
ひんやり冷たい飲み物を飲み込むと、喉から胃袋にかけて、一直線に冷感が貫いた。爽快だったが、体にはあまりよくない気がした。
休憩しながら、その日受けた授業や、同級生とのやり取りや、帰宅した後のウンディーネの仕事の予定などをぼんやり思い返した。すると彼女は、その日のある授業で取り扱った物語を回想した。言語の授業で、アリスは教員に指示されて、その物語を音読したのだった。一人の迷い人がおり、その者は森をさまよっていた。結末まで、教材は掲載していなかったので、アリスは何だかすっきりしない気分だった。その物語の終結が知りたかった。
想像力を働かせて、自分のイメージの中でその物語の主人公を動かしていたアリスだが、気付くことがあった。通りの人々の内、何人かが、こぞって水路に目を注いでいるのだ。何だろうかと関心を持って、彼等と一緒に目線をやると、拍子抜けしてしまった。
《灯里先輩だ》
彼女はゴンドラに乗っていた。
アリスははっとすると、空き缶を捨ててゴシックの陰より抜け出、水路へと小走りで向かい、物見高い衆人環視があまり好きではなかったので、公衆の視線が外れたところで、呼びかけた。
ARIAカンパニーの水無灯里。彼女は後輩であるアリスに振り返ると、にっこりしてゴンドラを道路との際に停め、アリスに乗るよう誘った。アリスは同意して乗り、客席に座った。ゴンドラの上で、アリスと灯里は、対面する格好だった。
「学校の帰りだよね」
「はい」
「どこか寄っていくところはある?」
「ないですけど……」
何か躊躇するような、ぎごちない間と余韻。
元々アリスは、送って貰うつもりで乗ったのではなかったので、何だか決まりが悪くなってくるようだったのだ。
「あの、灯里先輩、別にわたし……」
「ううん」、と灯里は首を左右に振った。「いいよ。気にしないで。ちょうどおれんじ・プラネットにお使いに行く途中だったし」
「おれんじ・プラネットに?」
アリスは怪訝に思って首を傾げる、と同時に、たたんでいた日傘を再び差す。舟上は日光に晒されているのだ。
「うん、アリシアさんの用事でね、アテナさんに借り物があったみたいで」
「あぁ、成るほど」
説明と納得があって、会話はひとまず終わった。その後しばらくは、沈黙が続いた。灯里は黙々とゴンドラを漕ぎ、アリスは茫然として、、周りを緩やかに流れる景色に耽っていた。
ところが、やがてアリスは、ゴンドラが入り組んだよく分からない道を進んでいることに疑惑を持つようになった。
視線を前にやると、灯里が立っていたが、見慣れたARIAカンパニーの、青いラインの入った白いセーラー服と、その服を纏う人物が、合致しないように見えた。違和感だった。信用が萎え、疑義が芽生えた。親しい人物が、必ずしも常に親しいわけではないということを、アリスは本能的に知ってはいたが、いざ実際に、その印象の変転、心の動揺、疑うという行為が催す息苦しさを経験すると、何だか胸が悪くなってくるようだった。
灯里先輩、と、イヤにたどたどしい仕方で呼びかけたが、あまりにたどたどしかったせいか、あるいは声量が乏しかったせいか、返事はなかった。
夏日の逆行に隠れた
不安に怯え、戸惑い、窺うように見つめていると、アリスの視線は小さい一点に集中し過ぎて、周りまで注意することを忘れていた。しばらくすると、彼女は疲れて眠くなり、眠りに落ちた。
ゴンドラは、まるで機械のように延々とまっすぐ進み続け、やがて明るい真昼より、深い暗闇へと進入した。トンネルだった。
暗闇では、ただでさえ見えなかった顔が、更に見えなくなった。
長いトンネルを出、陽光を受けて目を細めた時、アリスは、自分がいつの間にか眠ってしまったのだと気付いた。
ゴンドラの漕ぎ手はオールを置いて消えていた。アリスはオールを持ち上げて辺りを見渡したが、人っ子一人見なかった。
戻ろうと思って後ろを向くと、トンネルはないのだった。
ゴンドラはやがて地に弱くぶつかって弾き返される。薄緑に輝く光明。辺りは一面、樹海だった。
最早、地に上がらざるを得ない気がした。
アリスのそばに、日傘が開いた状態で転がっており、彼女は取ろうと手を伸ばしたが、結局やめた。開いた手を握りしめ、歯がゆい思いだった。
暑熱と疑惑と混乱の疲弊で重くなった体に力を込め、大儀そうにアリスは立ち上がると、苔むした樹海に足を移した。苔の感触は、石の地面とは打って変わって柔く、またローファが滑りやすかった。
見ず知らずの土地で当惑と共に立ちすくんでいると、笑い声がした。そよ風のように、すぐに掻き消えてしまいそうな弱弱しい声だった。灯里の声と思われた。
ふんわりと純白のシルエットがそばに現れて、アリスはぎょっと驚いたが、確かに白い衣服であり、声はよく聞きなれたウンディーネの先輩によく似た声ではあるものの、その衣服はセーラー服ではなく、ドレスであり、灯里と思しき女性は、目元まであるヴェールで顔を隠して、切れ長の閉じた口は笑っているのだった。
クスクス嘲るように、彼女は笑い続ける。自身の姿を変幻自在に見せたり隠したりし、アリスをからかうように、また圧倒し追い詰めるように、現出と消失を繰り返した。
アリスは幻惑しようとする霊声より逃げようと走り出したが、途端に苔で滑って転倒してしまった。膝がじんじんと疼き、彼女は擦り傷でも負ったのだと思った。
目の前に一冊の本があった。表紙は白紙だった。
横たわるアリスは手を地に突いて起き上がると、その一冊を取り、開いた――あの幻の姿と声は失せていた。
本はあの物語だった。学校で扱ったあれだった。主人公は悲運に見舞われ、昇る日光に消える朝露の如き少女だった。彼女はある日森に迷い込み、困惑し、思い悩んだ。
ページを繰ると、白紙だった。アリスはがっかりし、意気阻喪し、本を放り投げた。
◇
吹いてくるのはぬるい風だった。季節は夏。じりじりと熱を帯びた地面はほとんど焼けていた。
日傘で覆われたかと思うと、アリスは、自分がゴンドラに座っていることに気付く。戻っていたのだ。そばには灯里がいて、彼女が日傘を持って、アリスに寄り添っているのだった。
「よっぽど眠かったんだね」
それほど学校は退屈だったのかと、灯里はおかしそうに尋ねた。
「いえ、そういうわけでは」
「突然こてんって倒れるんだもん。わたしびっくりしちゃった」
「すいません。でっかい悪かったです」
アリスは、自分が体調不良でも、寝不足でもないことを教えた。すると灯里は不審そうに眉をひそめ、病院に行くことを提案した。アリスは拒絶した。
「それより」とアリスは露骨に話題を転換しようとして言った。「おれんじ・プラネットに用事って何です?」
「あぁ」、と灯里はにっこりした。「全然、大した用事じゃないの。わたしも詳しくは知らないんだけどね、ウンディーネの組合で何か取り決めがあったみたいで、その回覧の書類を届けるように、アリシアさんに言われて」
アリスは納得すると、また同時に安堵してくるようだった。
入道雲を見上げ、ハンカチで額の汗を拭い、一息吐くと、彼女は小さく呟いた。
「あの」
灯里はアリスを見、小首をかしげる。
「一度断っておいて何なんですが、気が変わって、寄って欲しいところが出来たんです」
アリスは俯いたまま、灯里がそのハンドルを持っているところ、日傘の中棒を持って、暗々裏に、もう気遣ってくれる必要はないと主張した。灯里は察して手を離した。
「うん、いいよ。全然、いい」
「本屋……本屋さんに、行きたいんです。ちょっと、探したい本があって」
いいですか、と潤んだ目で間近に直視されると、大した申し出ではないのに、灯里は、何だか奇異に思われてくるようだった。
「分かった」
灯里はにっこりし、立ち上がると、置いてあるオールを取った。アリスは礼を述べた。
水路を行く途中、不意にあのクスクス笑う霊声が、耳元を掠めた。即座に思い返される、目元までヴェールで覆われた色白の顔。美しいだろうと予想させる顔。
はっとして背後を振り返ったが、アリスは何者さえ見なかった。
彼方には、入道雲。太陽はまだ高いところにあったが、傾き出したのは確かだった。
アリスは、何となく察知していた。自分をあの異境へといざなったのは、他でもない自分自身なのだと。眠りに落ちたのは、夢を見ようとしたのだと。
あの嘲りは、あの笑い声は、あのヴェールの下の少女は、皆、反映、具現化した心情だったのだ。
物事に関心を抱くこと、続きを希求すること、結末を予感し、想像すること。まだ見ぬ先。
アリスは、やがて沈むことになる夏日の軌道を空に指で描いた。容易だった。だが、あの入道雲の変容を描こうとすると、指が止まるのだった。
アリスは、あの悲運の少女の行く末を想像し、そして案じた。
(終)