ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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海という巨大なる生き物の鳴き声に耳を澄ませていると、何となく、人間に須要である時間という必然の概念が、まるで必然でなどないかのように、すっと消えていく感じがした。その時間を忘れていくという感覚は、まず自意識の揺らぎを覚えて不気味だったが、しかし反面、妙に心地よいところがあった。その感覚は、お酒に酩酊した時の感覚にたしょう似通っていて、その作用にかまけていると、フラフラしてくるようだった。
瞑っていた目を開くと、まばゆい陽光を受け、酩酊のせいではない、軽い立ち眩みがした。思わず手でひさしを設け、彼方に目を注ぐ。初夏の太陽は、まばゆさに加え、すでに真夏のそれに近い熱を含んだ光線を放っていた。
わたしは甲板の広場に立って、手摺のところで景色を眺めていた。船に乗っているのだ。普通の客船で、それ程の規模ではない船だった。船内にはこぢんまりとした売店と横になってくつろげる休憩室がある。わたしはそこで横たわって寝息を立てていたのだが、広い窓よりじりじりと照り付ける熱線に目を覚まされ、暑さに疲弊し、甲板で涼もうと思ったのだった。
アクアの海は……マン・ホームのそれと、ほとんど区別が付かないほど、似ていた。否むしろ、同一であると言って差し支えないほどだった。
元はその表面の大半が氷塊や氷河に覆われていて、生き物の気配など極少だった荒涼と不毛の、凍えさせる冷気と無人の閑寂が統べていた惑星が、これだけの――人類、否、生命のふるさとである地球と同等の環境を備え、明るい光や温かい熱や、水分と空気の循環などの、あらゆる命を支える基盤を持つまでになるとは、一体全体、昔の誰が構想し得ただろう? 実際、大胆不敵に構想し、だけでなく、着手し、実現させた偉人がいるのだ。もちろん、たった一人の力で実現したわけではなく、複数、それも、たくさんの人たち――わたしたちのご先祖を含めて――の総力を結合してようやく実現したのだ。
人類の営為は凄まじいものだなぁ、という感慨と共に浴びる風は、一段と涼しい感触をもってわたしを撫でた。
風は追い風で、その軌道に乗って、海鳥が、興味でもあるのか、客船の近くで、客船の航路に沿って飛行している。鳥たちは時には身近に寄ってきて、手を伸ばせばほとんど届きそうに思える時があった。わたしは、周りの子供たちがそうするのと同様、むじゃきに手を伸ばして、鳥に触れたいと欲したが、断念した――格好悪いと思ったのだ。年のせいだろうか。十代も半ばに差し掛かれば、発展した自我のなせる、見得とか自意識とかが現れ、雲霞のごとく湧きおこる欲求をせきとめる。
子供のそばまで滑空して下りては離れる海鳥のその様は、子供をからかっているようだ、あるいはまた、子供と遊んでいるようでもあった。
その様子に微笑ましさを覚えて淡い笑顔を向けていると、視界の下の方に、歩み寄ってくる小さい影を見た。
「灯里さん」
「はひ」
見覚えのない女の子だった。髪は桃色で、わたしと、髪色だけはそっくりだった。彼女は結わえてはいなかった。一体誰だろう。親は――。
「帰るんだよね、ネオ・ヴェネツィアに」
「うん」
女の子は、わたしの事情を知悉しているようだった。
「どうだった? 楽しかった、旅行は?」
「そうだね……」
旅の感想を訊かれ、わたしは考えた。思い出そうとしたのだ。するとまずよい思い出、楽しい思い出がよみがえってきた。おいしい食べ物。美しい山紫水明。そして胸がきゅんとする出会い。だが、一方で、わるい――憂鬱にする思い出も合わせてよみがえって来、わたしは、答に窮した。
「楽しく……なかった?」
女の子は不安そうに、わたしを窺うにして尋ねた。
「ううん」わたしは首を左右に振って否定した。「お土産だって、買ったんだよ」
わたしが差し出した紙袋を見ると、女の子は嬉しそうに笑った。その顔を見ると、ほっと胸の閊えが消えた。
わたしは紙袋を下ろし、「元々悩み――考えたいなぁ、と思うことがあって、出てきたんだけどね」、と言った。「こうしてしばらく旅行したお陰で、ふっきれたかも知れない。ううん、ふっきれたに違いない」
女の子は、じっとわたしの目を見つめて、傾聴していた。
「じゃなきゃ、わたしはネオ・ヴェネツィアに帰らないで、ずっと、これからどうしようって、思い詰めてフラフラしてたよ」
「そう」、と女の子はにっこりして答えた。わたしもにっこりし、返した。
目を瞑って開けると、その女の子の姿はなく、
一羽の海鳥がたたずんでいるのだった。その海鳥は、わたしを見上げると、手摺までさっと上がり、そうして飛び立っていった。わたしは心の中で、惜別の辞を述べた。
わたしが旅としてさまよっていたのは、いわば荒野だった。おいしい食べ物や、思わず見とれる美景が確かにあったが、わたしの立ち寄ったいずこであれ、わたしの居場所ではなかった。しょせん仮寓で、時がくれば去らないといけない経過点でしかなかった。そしてその時がくるのは早かった。わたしはめくるめく各所を移ろい、迷い、悲哀と慨嘆を胸に彷徨した。ある日どこかの悪魔に悩みの種を植え付けられたわたしは、その答を求め、探し当てなければ、一生囚われの身だった。夜を徹して思案するなど繰り返して、だんだんと時間を忘れ、じぶんがおかしくなっていく想像が浮かんだ。あの時は、今感じる酩酊に似た快さなど皆無で、立脚点の確定しない自分を苛む罪悪の意識のせいで、ずいぶんと不安定で不快だった。
だが、またある日、迷路の旅を続けた末のある日、わたしは、ずっと見つけられずにいた落とし物を見つける時のように、偶然、渇望していた答を拾い上げたのだった。
わたしは、手に携えるお土産の紙袋を見ろした――まるで、その答が紙袋に入ってでもいるように。
ネオ・ヴェネツィアの小さい影が見えてきた。初夏の日は暮れなずむ。まだ明るく、遠くまで空気は冴え渡っている。海鳥たちは客船の航路を離れ、子供たちは遊びに飽きて、親共々ほとんど中へ帰ってしまったようだ。人影はまばらになっている。
少し解放された気持ちになって、わたしは仰向いて深呼吸し、海原のすがすがしい空気を吸い込むと、内面に向かって、おのれの行く道を見据えた。公衆に怯えていた未だ幼い自我の一部が首を持ち上げる。さっき話した女の子そっくりの彼女が……
確かに迷っていた。迷妄に悩んでいた。荒野に迷い込んだ小心の小動物で、途方に暮れていた。
だが、答を見つけて、こうやって帰り道に付けた。不幸より、幸せへと帰り道。風は、海は、祝うように朗々と声を上げる。
人類の営為――人類が創造し確立し、保持する文化・文明は、すさまじいまでのものだ。荒れた惑星を改良し、すみよいものに作り変え、整える。
そのすべは――その神がかった究めがたいすべは、決して自分とは縁のないものだと決め込んでいた。劣った自分では決して獲得し得ない、超出した偉人だけの専有物だと思っていた。だが、今、わたしは自身の内に、荒野を花園に変えるもの、しおれた花に潤いを与えるものの存在をほのかに感じた。すると、高揚感で、ふわっと自分の体が宙に浮く感じがした。今まで常に身近に感じ、遠ざけたい、遠ざかりたいと欲しながら決して離れ得なかったあの、夜の長い殺伐とした荒野の迷路は、その褪せた色彩を一気に失っていった。
知らぬ間に俯いて考え込んでいたわたしは、顔を上げた。
ネオ・ヴェネツィアは、もうすぐ先だった。
(終)