ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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涼しい風の吹く一日だった。
サン・マルコ広場はネオ・ヴェネツィア随一の広場で、星間連絡船の出入する空港があることより、人流が絶えず盛んである。
日は高く、薄曇りであったが、青天井があっちこっちの雲間よりのぞいている。
店の用事を一通り済ませて、ちょっと間が空いたわたしは、手持無沙汰だったので、姫屋を出て、騒々しい広場を抜け、自分が熟知した道順を辿っていった。
本当はちゃんと店にいて、後輩たちの面倒を見たりしなければいけないのだが、用事の目鼻が付いた時に周りを見渡すと、特に誰か補助してやらないといけない者は見えなかった。
結局こっそり人目をしのんでツッカケで外出することになった。セーラー服にツッカケとは、何とも不格好である。キャップを制帽と変えていなければ、物議を醸しかねないいでたちだ。
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顔に被せたキャップのつばを持って、のける。すると、目の前に混沌と流れる雲が、その奥には、青い虚空が見える。
サン・マルコ広場の少し外れにある鐘楼に、わたしはいる。
サン・マルコ広場にはネオ・ヴェネツィアの象徴である立派にそびえる鐘楼があるが、街にある鐘楼はそれだけではない。
わたしが忍び込むように入り、四角い建築の中の螺旋階段をツッカケの音を響かせて上ったこの鐘楼は、サン・マルコ広場のものよりずいぶんと小規模だった。
その昔餓鬼だった頃に初めて知って、アリシアとよく遊んで疲れた後に来て、疲れを癒しに来た、なじみの鐘楼だった――とはいえ、、鐘楼はだいたい休憩所ではないのだけど。
用務員と思しき人がたまにいて、その時ゆったりくつろいでいるわたしは、ちょっと後ろ暗い気持ちになるのだが、別に絡まれることはなかった。
日が差しているが、暑いというほどではない。剥き出しの腕や首などには日焼け止めを塗っておいたが、それほど気にかける必要はないだろう。
鐘楼のてっぺんは、ずいぶんとこった造りになっていいて、円柱に囲われて鐘が吊り下がっている上は、三角錐の尖った屋根だ。上端には十字架が付いている。
わたしが寝ているのは、空洞のアーチ窓のすぐ外だった。そこは窓より少し下りた足場で、まるで広くはないが、かろうじて成人が横になれる程度の面積が確保されていた。しかしへりには壁などないので、うっかり足を滑らせれば真っ逆さまに落ちてしまう。――一度だけ、アテナを連れてきたことがあったが、アーチ窓の下の足場まで来て、その下をへりより見下ろした時、卒倒しそうになってアリシアと共に肝を冷やしたことがある。
空と雲のたわむれが綺麗で目を奪った。時折、鳥が視界を飛んでいく。
目の前で、雲がうねり、流れ、変形し、湧き起こり、消える。まるで波のように、迫って、退いて、また迫って、退いて――。
だんだんと、気持ちよくなって来、目蓋が重くなってくる。うたた寝てしまうと、自分が潰そうと企んでいるより多くの時間が流れてしまう。そうなっては大目玉だ。後輩たちへのメンツも潰れる。
色々とぼんやり考えている内に、わたしはほとんど意識の暗がりへと沈下していきそうになったが、その時、突然物凄い引力がわたしを引っ張ってびくっとした。
わたしは自分が落ちるのだと思って驚愕し、絶望した。大けがをして、ひどい目に遭うのだと観念した。
ところが、我に返れば、わたしはまだ足場に横になっていて、激しい動悸に息を荒くしているのだった。
やれやれ――。
額には脂汗。こうしてこの鐘楼で肝を冷やすのは、アテナの時ぶりだろうか。アリシアに話せば嘲笑されるに違いない。
腕時計を見る。すると、ちょうどよい時間が経過したことを知る。
体を起こして、アーチ窓をくぐり、階段を下りていく。ふと気付いたが、わたしは履いてきたツッカケを片方なくしていた。元いたところに戻って探したが、ない。
――涼しい風の吹く一日だった。
はだしで触れる階段は冷たかった。下り切って出入口を出ると、一足ひっくり返ったツッカケを見つける。わたしのものだ。
空の曇りの程度は少し弱まり、青い面が広がっている。日は少し傾いて、時間の流れを偲ばせる。
わたしはツッカケを履き直し、キャップを目深に被り、姫屋への帰途に付いた。
(終)