ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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濡れたクロスをきゅっと絞ると、濁った水がバケツの中へと滴り落ちた。
水先案内人にとって、客人を乗せたゴンドラを操ってネオ・ヴェネツィアを巡るのは日課だ。
桃色のロングヘア―の彼女――水無灯里は、水先案内人の、まだ駆け出しだった。
うだるほどの暑気が人々を疲弊させる季節――夏。
その午後の、やがて長い日が暮れようとする、遠くの空が紅色に染まりだす頃、灯里は、ゴンドラのそばにいて、エプロン姿で、その手入れをしていた。
水先案内人の仕事がまずゴンドラを操ることだとすれば、その手入れをマメにすることだって又、その内のひとつだった。
灯里はARIAカンパニーの船着場に留まる一艘に乗り込んでせっせと動いていた。
革製のソファ席には専用の洗剤をスプレーで噴射して拭き、船体はクロスで磨いた。
日暮れ時とはいえ暑い中でのことだったので、灯里はすっかり汗だくになり、最後の一拭きをようやく終えた時、勢いよくため息して天を仰いだ。ARIAカンパニーの社屋の白壁に、夕日が注いでいる。
「精が出ますなぁ」
「はひ?」
首だけで声のした方を振り返ると、灯里はよく見知った者の訪れを知った。
ARIAカンパニーの船着場は、二階建ての社屋の階段が下りていく先の海にある。
灯里をちょっと驚かせた訪問者は、その一階の船着場のそばでしゃがんで、両手で頬を持って彼女を見下ろしていた。藍色のショートヘア。
「藍華ちゃん」
灯里の友人だった。近所に来たので、様子を見に立ち寄ったそうだった。
◇
「今日も暑かったわねぇ」
「うん。カンカン照りだったもんね」
灯里と藍華は一緒になり、今はARIAカンパニーの社屋の物陰に並んで座り、それぞれ背中を壁に持たせていた。灯里の首にはタオルが巻かれており、しっかり働いた証としての汗が浸み込んでいた。
灯里は、藍華がすぐARIAカンパニーのキッチンで淹れて冷やしてくれたお茶をコップに入れて貰って、彼女と一緒に飲んだ。くたびれて火照った体にその冷たさはずいぶん爽快だった。
「ふうん」と灯里。「藍華ちゃん、今日は外じゃなかったんだ」
「うん。今日は中で仕事。晃さんのお手伝いばっかりだったのよね」
その後は、藍華の愚痴が続いた。
姫屋の主席であり藍華の先輩である晃は、灯里にとってのアリシアのように物柔らかではなく、むしろ男勝りで気の強いところがあるので、互いに接する中で折に触れて齟齬をきたしてしまうことがあるようだ。
だが、所詮はしょっちゅうある話題に過ぎず、すでに繰り返し聞いてきた灯里は、特に深い関心を持たず、適度に相槌を打って共感する一方では、無用のものとして聞き流した。
その間、灯里は目の前に広がる風景に見入り、ゆっくりと流れて変形する綿雲を追い、すぐそばの海の波が岸壁に当たって砕ける音に涼しい快さを感じた。
藍華の話は、その必然の帰結であるが、晃の愚痴を満足するまでし終えると、アリシアへの羨望に繋がった。藍華は、厳しい晃ではなくアリシアがよいと愁訴し、儚くむなしい懇願を灯里にするのだった。
「あたし、ARIAカンパニーに入ればよかったなぁ」
空を仰いでため息を吐く藍華。
灯里は苦笑いをこぼし、「藍華ちゃん、晃さんに悪いよ」
「交代してよ、灯里。姫屋とARIAカンパニー」
「エェー」
大胆なるその提案に、大口をあんぐり開けて呆然。
だが、その言が本心のものでないことは、二人共よくよく分かっていた。藍華は晃のところにいるべきだし、灯里はアリシアのところにいるべきだった。現況に疑問を差しはさむ余地はなかった。
暮れなずむ夏空を鈍足でのっそりと行く雲を見つめていると、あらゆる今あるわだかまり、悩み、憂い――そういった心中に停滞する負担までが、離れていくようだった。
「冗談はまぁ措いて」、と藍華は晃への不満を撤回すると言った。「綺麗になったわね」
「ゴンドラ?」
「うん。よく洗えてる」
二人は、眼下に留まる灯里が洗ったばかりの舟を見た。そばには汚水の入ったバケツがあり、そのバケツの縁には、クロスがかかっている。
「自分ではあんまり自信ないけど……すみずみまでやったわけじゃないし」
「それじゃ、洗剤のお陰か!」
「エェー」
「フフッ、冗談よ」
二人の間に慎ましい笑い声が上がった。夕日は、その笑いのように明るい光を放った。
やがて笑い声は止んだ。
「明日」と藍華。「雨、降らないといいわね。せっかく綺麗にしたゴンドラが汚れちゃうもん――でも、その心配する必要はなさそうね」
「うん。だいじょうぶだよ」
「この分だと、カバーはかけなくてよさそうね」
「そうだね」
そう答えると、灯里は額に手でひさしを作って夕日を見つめた。夕日の光は最早直視出来るほど弱まっており、別れを告げているようだった。
◇
「お茶、ありがとう。おいしかった」
「あぁ、ハイハイ」
灯里と藍華はARIAカンパニーのそばの道路にいた。離別の時だった。辺りは薄暗く、空には星のまたたきが散らばっていた。
「晃さんによろしく」
「うん」
「晃さんにやさしくしてあげるんだよ」
「ノーノ―」
藍華は片手で払うようにして否定する。
「こっちがやさしくして貰いたいくらいよ」
灯里は微笑み、「それじゃ」、と手を振って見送る。藍華はきびすを返し、首だけで振り返ると、「それじゃ」、と同じ調子で返す。
ありきたりの、定型の別れ。慇懃ではないけれど、心のこもった別れ。その別れは同時に、再会の誓いであった。
友人が見えなくなるまで見送った灯里は、清々しい気持ちになると、用事で出かけて近く戻ってくるだろうアリシアのために夕飯の支度をしようとARIAカンパニーのキッチンへ向かおうとした。
中に入る前に、そういえばと灯里は、船着場の方へ戻ると、バケツの汚水を処分してクロスを清水で絞って干し、そして、結露でいっぱいのお茶のポットと二人分のコップを回収した。
灯里は海へと目を注いだ。
よく見える水平線には夕日の残光があった。彼方の真っ黒に染まった海の向こうに、オレンジ色の淡い光の帯が広がっていて、その上には褪せた青色の空があった。
明日もまた暑くなるだろう。
船着場を後にした灯里。
暗かったARIAカンパニーの窓に、ポッと、照明の色が付いた。
(終)