ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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日常が不運に陥ってしまったようだった
少女は悲しんだ
数日来、雨が小止みなく、降り続いている
石畳の道路は濡れてツヤを帯びている
バタバタとビニール傘を打つ雨音、近くの水路を走るモーターボートのエンジン音――水路の流れは濁り、また荒れていた
こういう具合では、人力で操る舟――たとえば水先案内人のゴンドラや、メールをたくさん積み込んだ郵便屋の小舟は、走れなかった
天候は人智を越えたものだ
水先案内人はゴンドラにカバーをかけ、郵便屋はカッパを来て足で郵便物を届けるしかなかった
寝る時――部屋を暗くして布団に入り、耳朶を打つ雨音
どれくらい降るのだろうか、早く止んでくれると嬉しい、などと思ってまどろむ
朝目覚めて――依然暗い意識で体を起こし、いくぶん遅れて、淡く生白い窓の光で、雨の継続を知る
ギャレットを寝間着で出、階段を降り、傘を差してベランダへ出る。じめっとした湿気。低い外気温
眼下に船着場がある。ゴンドラを覆うカバーが水を弾いて流している
背後の上方にはやや下を向いて看板がかかっている――《Welcome to ARIA COMPANY》
濡れたベランダの手すりに指で触れ、ツーッと一文字になぞる
冷たい手触り――その手触りは、心まで冷たくするようだった
あぁ、ダメだ、と
今日の仕事がどうなるのか知れなかったが、アカリはとりあえず制服に着替えようと考える
灰色の空、灰色の雲、灰色の海
彩りをなくした風景は、見ていると気分が寒々としてくるようだった
◇
世界で最も美しいとされるサン・マルコ広場。ネオ・ヴェネツィアの中心だ
広場はけれど殺風景だ。開けて見える空はしけた面持ちで太陽を隠している
ひとびとは広場の周りの回廊に散らばっていて、時おり上がる話し声や呼び声は、低い天井と壁に反響してよく聞こえる
だが、次第に静けさが立ち勝っていく。辺りの喧噪は止む。雨だけが、鳴っている
雨の中歩くのが嫌になって、近場の建物のアーチをくぐってボーッとする
胸苦しさを感じるのは、疲労のせいだろうか。ないしは、連日の雨への倦厭のせいだろうか
古びた建物。アーチの中は暗い。壁に背を持たせ、顔を俯け、閉じた傘を足元に突く
ひとに対して冷淡になったアカリは、自己に対しても同じだった
疲れた、あるいはだるかったが、てんで自分をいたわろうと出来なかった
――むしろ呵責していた。ただ無意識に、静かに追い込んでいた
ひょっとすると、悪天の退屈さが昂じたのだろうか
いずれにせよ、みずから『追』い、そして『逐』われたのが、このアーチの暗がり――
ただでさえ明るさの乏しい空の下の物陰は、本当に暗かった。不気味さ、寂しさ、心細さが、息苦しいほど充満していた
不意に激しい眠気に襲われ、アカリはウトウトしだす
彼女はやがて、壁に持たせている背をズルズルと擦って地面にくずおれる
傘はパタリと倒れ、乾かず付いていた雨粒が飛び散る
ひと気の絶えてない雨の都の一隅
気絶するように昏睡したアカリ。その眠りは、しかし癒しの眠りだった
その眠りを抱くのは、雨雲の下にそびえる一軒の古色蒼然たるボロい尖塔
すでに使われなくなった廃墟の、あっちこっち欠けているその尖塔――細い水路に架かる短い橋の先に、ひっそりポツンとたっている
彼女が雨宿りし、また寝入るその尖塔のアーチは、降りしきる雨粒を地面に落としている
悪天への怨嗟、好天への欣慕――鬱屈と希求――いさかいと恋
眠りが全てをおさめ、そしてしずめる
アカリの心を満たす水面に浮かぶ、無数の波紋が、だんだんと弱まって、数を少なくしていく
最後の一滴が、極小の波紋を投じてしまうと、後はすっかり静穏になった
閉じたまなこ、安らぎの寝息、だらりと伸びた腕、その先の半分開いた無垢の手
――天候は人智を越えたものだ
だが、雨はいずれ止む。止んでしまえば、雨雲が去り、晴天が現れ、慈光を恵む
不運もまた然り。開けない運などなかった
世界は流れる――悲しみ、望み、困苦、全ての感情を巻き込んで、時々刻々と流れる
(終)