ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.48「しおれた花」

***

 

 

 

 日常が不運に陥ってしまったようだった

 

 

 少女は悲しんだ

 

 

 数日来、雨が小止みなく、降り続いている

 

 

 石畳の道路は濡れてツヤを帯びている

 

 

 バタバタとビニール傘を打つ雨音、近くの水路を走るモーターボートのエンジン音――水路の流れは濁り、また荒れていた

 

 

 こういう具合では、人力で操る舟――たとえば水先案内人のゴンドラや、メールをたくさん積み込んだ郵便屋の小舟は、走れなかった

 

 

 天候は人智を越えたものだ

 

 

 水先案内人はゴンドラにカバーをかけ、郵便屋はカッパを来て足で郵便物を届けるしかなかった

 

 

 寝る時――部屋を暗くして布団に入り、耳朶を打つ雨音

 

 

 どれくらい降るのだろうか、早く止んでくれると嬉しい、などと思ってまどろむ

 

 

 朝目覚めて――依然暗い意識で体を起こし、いくぶん遅れて、淡く生白い窓の光で、雨の継続を知る

 

 

 ギャレットを寝間着で出、階段を降り、傘を差してベランダへ出る。じめっとした湿気。低い外気温

 

 

 眼下に船着場がある。ゴンドラを覆うカバーが水を弾いて流している

 

 

 背後の上方にはやや下を向いて看板がかかっている――《Welcome to ARIA COMPANY》

 

 

 濡れたベランダの手すりに指で触れ、ツーッと一文字になぞる

 

 

 冷たい手触り――その手触りは、心まで冷たくするようだった

 

 

 あぁ、ダメだ、と少女(アカリ)は不安に思う――今のわたしは冷淡。ひとに対して優しく出来ない

 

 

 今日の仕事がどうなるのか知れなかったが、アカリはとりあえず制服に着替えようと考える

 

 

 灰色の空、灰色の雲、灰色の海

 

 

 彩りをなくした風景は、見ていると気分が寒々としてくるようだった

 

 

 

 

 

 

 世界で最も美しいとされるサン・マルコ広場。ネオ・ヴェネツィアの中心だ

 

 

 広場はけれど殺風景だ。開けて見える空はしけた面持ちで太陽を隠している

 

 

 ひとびとは広場の周りの回廊に散らばっていて、時おり上がる話し声や呼び声は、低い天井と壁に反響してよく聞こえる

 

 

 だが、次第に静けさが立ち勝っていく。辺りの喧噪は止む。雨だけが、鳴っている

 

 

 雨の中歩くのが嫌になって、近場の建物のアーチをくぐってボーッとする

 

 

 胸苦しさを感じるのは、疲労のせいだろうか。ないしは、連日の雨への倦厭のせいだろうか

 

 

 古びた建物。アーチの中は暗い。壁に背を持たせ、顔を俯け、閉じた傘を足元に突く

 

 

 ひとに対して冷淡になったアカリは、自己に対しても同じだった

 

 

 疲れた、あるいはだるかったが、てんで自分をいたわろうと出来なかった

 

 

 ――むしろ呵責していた。ただ無意識に、静かに追い込んでいた

 

 

 ひょっとすると、悪天の退屈さが昂じたのだろうか

 

 

 いずれにせよ、みずから『追』い、そして『逐』われたのが、このアーチの暗がり――袋小路(デッド・エンド)だった

 

 

 ただでさえ明るさの乏しい空の下の物陰は、本当に暗かった。不気味さ、寂しさ、心細さが、息苦しいほど充満していた

 

 

 不意に激しい眠気に襲われ、アカリはウトウトしだす

 

 

 彼女はやがて、壁に持たせている背をズルズルと擦って地面にくずおれる

 

 

 傘はパタリと倒れ、乾かず付いていた雨粒が飛び散る

 

 

 ひと気の絶えてない雨の都の一隅 

 

 

 気絶するように昏睡したアカリ。その眠りは、しかし癒しの眠りだった

 

 

 その眠りを抱くのは、雨雲の下にそびえる一軒の古色蒼然たるボロい尖塔

 

 

 すでに使われなくなった廃墟の、あっちこっち欠けているその尖塔――細い水路に架かる短い橋の先に、ひっそりポツンとたっている

 

 

 彼女が雨宿りし、また寝入るその尖塔のアーチは、降りしきる雨粒を地面に落としている

 

 

 悪天への怨嗟、好天への欣慕――鬱屈と希求――いさかいと恋

 

 

 眠りが全てをおさめ、そしてしずめる

 

 

 アカリの心を満たす水面に浮かぶ、無数の波紋が、だんだんと弱まって、数を少なくしていく

 

 

 最後の一滴が、極小の波紋を投じてしまうと、後はすっかり静穏になった

 

 

 閉じたまなこ、安らぎの寝息、だらりと伸びた腕、その先の半分開いた無垢の手

 

 

 ――天候は人智を越えたものだ

 

 

 だが、雨はいずれ止む。止んでしまえば、雨雲が去り、晴天が現れ、慈光を恵む

 

 

 不運もまた然り。開けない運などなかった

 

 

 世界は流れる――悲しみ、望み、困苦、全ての感情を巻き込んで、時々刻々と流れる

 

 

 

(終)

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