ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.49「ダイブ・イントゥ・ザ・ダークネス」

***

 

 

 

 ボーッとしていた。

 

 ARIAカンパニーのバルコニー。わたしは日陰で壁に背をもたせて座っていた。

 

 空はスカッと晴れ渡っている。

 

 夏が過ぎ、豪雨と災害をもたらす嵐の訪れもそれほど頻繁でなくなってくる頃。

 

 昼下がり。やがて日が暮れる。

 

 初秋の海辺を渡る風は爽快だ。まだ暑さを帯びる陽光に汗ばむからだを、その風は冷ましてくれる。

 

 ――ここ最近、何かと憂鬱だった。否、今もなお憂鬱だ。微かに胸が悪い。

 

 わたしは悩んでいるのかも知れない。

 

 しかし思い当たる節がなかった。仕事は順調で、人間関係も円満で、生活は健やかだった。

 

 心に何か悪いものが巣食っている感じだった。それはまるで、病のようにわたしに違和感を覚えさせた。

 

 だが、その悪いものは、例えばわたしのからだを切り開いて摘出したり出来るたぐいのものではなかった。

 

 皮膚を越え、毛穴から肉に浸み込み、血脈に沿って全身に広がり、細胞の最奥まで到達してそこで毒気を放出していた。

 

 わたしの変化は緩やかで、周りにいる親しい人たち――たとえばアリシアさんとか、藍華ちゃんとか、気心の通じ合った仲の人たちでさえ、覚知しないものだった。

 

 一体このわたしの胸を悪くするものは何なのだろう?

 

 考えてみたところで、答えは出なかった。

 

 よっこらしょ、と、わたしは重たい腰で立ち上がると、軽い立ち眩みを覚え、いささか強く背中を壁に打ち付けるようにして再び持たせた。

 

 風は穏やかで、従って海の水面も特に荒れた様子ではなかった。風の感触が本当に気持ちよかった。

 

 わたしはまた考え込む。

 

 うっすらと、わたしは自分の不調に目測を付けていた。

 

 たぶん、『邪念』なのだろう。

 

 強い情欲や、突拍子もない妄執や、健やかなるからだに宿る狂気など、そういったたぐいの、内面にあって目に見えず、しかし確実に存在してわたしたち人間の動機となるもの――人間を突き動かす因子たちの、その混沌たる流れが、体内を激しく巡っているのだ。

 

 わたしを揺さぶりそして悪しきビジョンへの強行を誘惑するこの内なる魔力に、わたしは悩まされている。

 

 誰も見ていないところで歯を食いしばったり、腕の肉をつねるなどして制御しようとしてみても、束の間の気休めにしかならなかった。

 

 スゥ、と、わたしは目を瞑って深呼吸する。吸って、吐いて。吸って、吐いて。一回、二回……。

 

 開眼し、見下ろされる広大なる水面。

 

 わたしは、慎重に、下に落下しないようバルコニーの手摺の向こう側に、バルコニーの端に、靴と靴下を脱いだ足のかかとで、手摺を後ろ手に持って立つと、最後の深呼吸をした。

 

 そして制服のまま、海へ飛び込んだ。

 

 頭からザブンと勢いよく行くと、水の反発を感じた。しぶきが上がる。

 

 すでに海水浴のシーズンは過ぎようとしている。海は冷たかった。

 

 3メートルほどの高さよりダイブし、惰性だけでもずいぶん深みまで沈んだが、わたしは息の続く限りより深いところへと潜り続けた。水先案内人の制服で、ゴーグルも何も装着せずに、ただがむしゃらに手足を動かした。

 

 そして我慢出来ないほど苦しくなったところで浮上し、大気へと顔を出す。胸いっぱいに空気を吸い込む。手で長い髪を搔き上げ、顔をさっと拭い、目を開く――空は依然青い。小さい雲がゆっくりと流れている。

 

 毒気が薄らいだのだろうか。とてもさっぱりした気分だった。ひょっとしたら――と、わたしは何となく閃いて、身軽になった気がした。

 

「おーい、灯里ぃ」

 

 呼び声がして、はっと振り返る。落ち着いたブルーの髪。ゴールドの煌めく瞳。

 

 姫屋の藍華ちゃんだった。

 

 ――。

 

「ごめんね」

 

 わたしは軽く謝ると、ズブ濡れの制服を脱ぎ、タオルで水気を拭いて、屋内から彼女に取ってきてもらったTシャツと半パンツというラフな恰好に素早く着替える。

 

「制服のまま、どうしたのよ一体?」

 

 藍華ちゃんは目を丸くして、驚いている様子だった。

 

「うーん」、とわたしは困ったように眉を下げて唸る。「うまく説明するのは難しいんだけどね――」

 

 傾いた日が、正面の遥か彼方で光っている。

 

 手摺にはしっとりと濡れた白いセーラー服。

 

 わたしと藍華ちゃんは並んでバルコニーに座る。

 

「ふーん」、と藍華ちゃん。「お腹が空いたから、何か食べればいい、っていう問題じゃないのね」

 

「うん」わたしは俯き気味に答える。「それくらい単純だったなら、よかったんだけど」

 

「だから、ダイビングしてさっぱりしようっと思ったのね」

 

 わたしは苦笑いして返す。

 

「あんまりよくないんだろうけどね、こういう風に、訳も分からないで強引に解決しようとするのは」

 

「うーん」

 

 藍華ちゃんは同意するかしないかで迷うように唸る。

 

「いいんじゃない? 別に」

 

 しばらくして、彼女が言う。

 

 わたしは小首を傾げる。

 

「わたしにだってあるもの。何か鬱陶しい感情にまとわりつかれて悩む時が。だけど、相談出来ないのよね。晃先輩にも。誰にも。こっぱずかしいことだから。灯里が悩んでた悩みだって、きっとそうでしょ?」

 

 その問いに、わたしは首肯しなかった。しかし藍華ちゃんは分かっているようだった。

 

「髪、パッサパサよ」

 

「え? あっ」

 

 指摘された気付く。海水が乾いた髪は、ゴワゴワして触り心地が悪かった。髪型は間違いなく乱れているだろう。

 

「それも、人生のひとつの側面なんでしょうね」

 

 藍華ちゃんが立ち上がって言う。もう帰るのだろう。空が橙色になりだした。

 

「たまにはいいのかもね。何か悩みを抱えて、自分自身と格闘するっていうのは」

 

「いいのかな……」

 

 わたしは藍華ちゃんを見上げてポツリ、独り言めかして呟く。

 

「じゃないと、簡単すぎて人生つまんないじゃん。スパイスよスパイス。わたしは辛口が好き」

 

「わたしは、甘口がいいなぁ」

 

「何、情けないこと言ってんのよ。ほら」

 

 そう言って、藍華ちゃんは海に向かって両腕を広げて見せる。

 

「わたしたちのこれからは、こんなにあるんだから」

 

 橙色の夕日。明日もきっと快晴だろう。風の音が波の音と混ざって心地よく、適度に涼しい。

 

 悩み。邪念。格闘。人生のスパイス――。

 

 次また懊悩することになった時、その時は、わたしは、そのからい味を噛みしめ、積極的におのれの中の暗黒と対峙しようと思えるのだろうか。

 

 不安だったわたしは、藍華ちゃんにずっとそばにいてもらいたという、半ばいとしく、半ば哀しい、複雑な気持ちになった。

 

 

 

(終)

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