ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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先般の嵐が去って、夜気が涼しさを帯び始めた頃。
晩夏。
連休中のわたしは一人、かねてより企てていた旅のため、ネオ・ヴェネツィアを離れ、ある島へと来ていた。小さい孤島だ。
浜辺にあるホテルにシングルの部屋を取った。
印象のいい部屋だった。壁はベージュ。木製の家具調度に、ネイビーのやわらかい椅子。小型のテレビ。純白のシーツのベッドにはオールドブルーのフットスローがくっきりとしたコントラストを成している。
枕はそのコントラストに合わせて白とブルーの両方が用意されている。
ARIAカンパニーのことは灯里ちゃんに任せてある。一応、晃ちゃんに援助を頼んだので、万が一何かトラブルがあれば、どうにかしてくれるだろう。
「ほぉ」、と晃ちゃんは納得するように言う。「一人旅か」
「たまにはね、自分の時間、あんまり持てないから、最近」
――夕べの回想。空は暗く、雨が強く降りしきる。嵐の日だった。勢いのある風が雨を煽り、濡れた地面は白っぽく煙っている。
「何か考え事があるのか?」
わたしと晃ちゃんはある建物の廊下にいた。ゴシックの建物のそこは、悪天のために薄暗く。そして雨のために湿っぽかった。
わたしはお腹の辺りで手を組んで、晃ちゃんは腕組みして、柱に背を持たせて、それぞれ外を眺めて立っていた。
「そういうわけじゃないわ。たまには身軽になって、羽を伸ばしたいのよ」
「成るほど。その気持ちは、分からんではない」
「それでね、晃ちゃん」わたしは彼女の方を向いて言う。「わたしの留守中、灯里ちゃんのことを見て欲しいんだけど」
「あぁ、構わないぞ」
「一応ね、言わなきゃいけないことはぜんぶ言ってあるんだけど、何かあると困るから」
わたしは、「これ」、と言って一片のメモ用紙を差し出す。そこには電話番号が書いてある。
「わたしが泊まるホテルの――」
晃ちゃんはメモ用紙を受け取って瞥見すると、ポケットにしまい込んだ。
「まぁ、リフレッシュしてこい」
「ありがとう。恩に着るわ」
――予定の日、わたしは灯里ちゃんにARIAカンパニーの番を託し、彼女に快く見送られて旅立った。
ネオ・ヴェネツィア港よりフェリーで揺られること数時間。やがて孤島に至る。嵐がやんで程ない頃で、雨は上がっていたが、空はまだ厚い雲に覆われて、空気はムッとしていた。
浜辺のホテルに到着し、チェックインを済まして部屋に入ると、わたしは引いてきたキャリーバッグを置いてすぐにシャワーを浴びた――蒸し暑さで汗ばんで気持ち悪かったのだ。
汗を流してさっぱりすると、わたしはネイビーの椅子の座り、鏡台に向かってドライヤーで髪を乾かして整えた。そしてベッドにバタンと仰向けになると、疲れに負けて目を閉じた。
ぐっすり深いうたた寝より目覚めると、時はすでに夕暮れで、きしむ体を強いて起こし、窓辺よりカーテンを開け、備え付けのサンダルを履いてベランダに出た。
外に出ると、まず目が眩んだが、刺激にだんだんと目が慣れてくると、美しい夕景に陶然と心が奪われた。
――ヤシの木が風に揺れている。涼しい風だ。さっき乾かした髪に触れると、滑らかで落ち着いた手触りがする。広い砂浜には絶えず波が打ち寄せる。雲間より漏れる夕陽が水面にまっすぐ線を描いている。雲を照らし陰影をっくっきりとさせるオレンジ色の夕陽は、優しく、まじまじと見つめることが出来るほどだった。
少し肌寒いくらいだった。夏の嵐が過ぎ去ってその後、秋の気配がした。
ディナーを食べた後、わたしはお風呂に入る前、持ってきた折り畳みの端末で晃ちゃんにメールをしたためた。ネオ・ヴェネツィアの天気と、ARIAカンパニーの様子をたずねた。返事がすぐに返ってこなかったので、わたしはお風呂に入りに行った。
――すっかりくつろいで、濡れた髪を乾かした後、お酒を用意したテーブルに向かって、端末を開いた。――返事が来ていた。文章が晃ちゃんらしくぶっきらぼうで、絵文字がなく、よくいえばシンプル、悪く言えば無骨といった感じで読んだわたしは思わず苦笑してしまった。
わたしが心配しなければいけないことは何もなかった。ネオ・ヴェネツィアも、ARIAカンパニーも平穏無事のようだった。わたしは端末を閉じ、開放した窓より吹いてくる風とお菓子を肴に、お酒を飲んだ。
すっかりいい気分になってその夜を過ごした。眠りは深く、起きた時はすでに暑かった。晩夏とはいえ、日中はまだまだ汗ばむ陽気だった。
一人旅の最後の夕。翌日チェックアウトし、フェリーでネオ・ヴェネツィアへと帰る。
わたしはワンピースにサンダルという軽装で部屋を出、すぐ近くの浜辺に向かった。
情緒たっぷりの美しい砂浜を夕陽を横目に歩いた。浜辺には幾つか人影があって、みんなこの夕べをゆったり過ごしているようだった。
サラサラとした砂を踏んでしばらく行くと、一本の桟橋を見つけた。その桟橋は海に向かって伸びていた。
ちょうどカップルが桟橋を去るところで、わたしは彼等の後に、桟橋に上って先まで進んだ。
波は穏やかで、ほとんど凪いでいた。風は吹くものの微弱で、海の表面をかすめていくばかりだった。
わたしはその場に膝を抱いて座り込み、彼方に沈んでいく夕陽を眺めた。わたしの瞳には今、あのまるい美しい輝きが映り込んでいることだろう。
――何か考え事があるのか?
あの嵐の日、晃ちゃんはわたしにそうたずねた。
その時わたしは否定したが、実際には、考え事はあった。幾らでも、数え切れないくらいあった。
不安にすること、おぼつかないこと、助けを借りたいこと――しかしその全ては、胸に秘めておくべきことだった。わたしがしょい込んで、最後まで運ばねばいけないことだった。
今回のこの一人旅は、いわば逃避行だった。
するどい晃ちゃんはわたしの心情を察し、汲んでくれたのだろう。
わたしはわたしの抱え込む義務をひとまず足元に下ろして脱した。
夕陽がどんどん沈んでいく――わたしの背後の影が長く伸びる。苦慮や、悩みや、迷いが滲むその影が、わたしをじっと凝視ている。
目の前に広がり感嘆させてくれる美しい夕景、そして背後にひっそりと潜む渾沌とした無明。わたしを境にある
辺りは薄暗くなる。押し寄せてくる夜気に微かに身震いする。
わたしは立ち上がり、お尻に着いた塵埃をサッと手で払い落とす。
帰ろう。灯里ちゃんが不安に待っているだろうし、それに、晃ちゃんにありがとうと言わないといけない。
振り返ると、足元の影を見下ろした。長い影だった。
風が背後より吹き寄せて、海に細かい波が立ち、わたしの長い髪が煽られてなびく。
灯影の灯るホテルの窓。揺れてさんざめくヤシの木。
見上げると、無数の星の瞬きが散らばっている。
嵐はまだ来るのだろうか?
夜気は涼しさを帯び、ほとんど寒いくらいだった。
(終)