ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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靴の地面を踏む音がさやかに響いてこだまする。一歩がためらわれさえするほど、足音が必要以上にはっきりしている。
夜のネオ・ヴェネツィアは静かだった。辺りはすっかり静寂に包まれている。唾を飲み込む音さえよく聞こえる。真夜中だった。
真っ暗の空の下で、ただ街路灯だけが明るく光っている。住宅の壁に付いた短いアームに吊り下がる街路灯の光は皓々として白っぽい。住宅のたくさんある窓はぜんぶ闇一色だ。皆、眠っているに違いない。
わたしが目がさえて眠れないために今、そぞろ歩きしている街の一隅の、いたって何気ない風景が、細い水路の水面に映じている。細長く切り取られた街は、細かい波に震えている。
目を閉じれば、ほとんど空恐ろしく感じてしまうほど、わたしを取り巻く環境は『無』だった。ただ明かりだけがあって、それ意外は皆無だと言ってよかった。
眠った街は、生活の気配がなく、その中に目覚めた状態でいるというのは、無人の孤島に漂着してしまったかのように、心細くさせることだった。小橋の陰に浮かぶカバーで覆われたゴンドラさえ、眠っているようだ。
ふと、自分の足音に混じって、ある音が聞こえる気がした。歩きながら、感覚を研ぎ澄ますと、その音が足音であると分かった。
だんだんと、その足音は近くなっている。最初微かだったのがはっきりと聞こえるようになって、やがてわたしは正面の夜闇に、ぼんやりとした人影を見る。
はじめ警戒して、身を隠そうかと考えたが、何となく見知った服装だったので、歩みは止めなかった。
「あっ」と、わたしは声を上げる。内心怯えていたので、出逢った瞬間、ほとんど息を呑んだ。
「
ピッタリとした黒いインナーの上に、白い羽織。下は同じく白いゆったりとしたヤッケズボン。地下足袋。
「アンタ……」
「夜もすっかり更けたっていうのに、ブラブラ出歩くとは、お前も隅に置けねぇなぁ」
暁は真顔でそう言った。からかってやろうという声色ではまるでなかった。
「どういう意味よ」
とがめられているという感じがして、わたしはちょっと居心地が悪かった。一方で、わたしが自由にしてよいはずの散歩にケチを付けられて、ムッとした。
「お前が気持ちよく出歩けるように、オレたちは気候制御装置を操ってるんじゃないんだぞ」
「言われなくなって分かってるわよ」
「他人の足音にビクビクするくらいなら、家でおとなしく寝てろ」
痛いところを突かれ、わたしは眉をひそめた。
「放っといてよ。わたしの勝手でしょ」
泣き言のように情けない調子で、わたしは言い張った。
「あぁ、そうかよ」
「アンタだって、仕事ほっぽって油なんか売ってていいの?」
「バぁカ。今戻るところだっての」
見下す風の眼差しでそう言い捨てて、暁はわたしのすぐわきを通り過ぎる。180センチはあるだろう彼の背の高さは、威圧感があった。わたしは自分で気が付かない程度に怖がって、首の辺りで片方の手首を、別の手で握り、そうして顔をいくぶん伏せた。
わたしは少しのあいだ硬直した後、顔を上げ、窺うように首だけで振り返った。たぶん、遠くへ行っているだろうと思った。そうして消えていく後ろ姿を見て安堵しようと思った。
ところが、わたしの期待とは裏腹に、暁は数メートル先で立ち止まって――わたしと同様に――首だけでわたしを振り返っている。
心臓がドキンと跳ねるようだった。
何よ、と言おうとしたが、ゴクリと吞み込んだ。
沈黙。対立。気後れ。距離感。
出逢わなければよかったと思った。暁の言った通り、家で寝ていればよかった。確かに眠れなかったが、漫画を読むなり音楽を聴くなりして過ごしていれば、おのずと眠気はやってくるのだ。
それまでの時間を我慢できなかったこと、こうして暁と出くわし、非行をなじられ、納得させられたこと。
悔しくて涙がにじんでくるようだった。
暁はまだわたしを振り返り、見ている――見下している。早く消えればいいのに、と思った。
その矢先のことだった。
気を付けて帰れよ、と聞こえた気がした。暁の口の動きと共に。わたしは意外の念に打たれる。
暁は正面に向き直り、歩き出し、去っていく。わたしが望んだ形で、消えていく。
アンタこそ、という返し文句が口を突いて出ようとした頃には、すでに遅かった。
呆気に取られて、ポカンとしてしばらく突っ立っていた。
スゥ、ハァ――お腹に手を置いて、深呼吸する。お腹が膨らみ、そしてしぼむ。
呼吸の音がさやかに聞こえる。静寂の深厚。水路に映る街の風景は綺麗だった。街路灯が白っぽく照っている。
わたしは再び『無』へと戻った。だが、今度は心細くはならなかった。姫屋へ帰ろうと思った。夜更かしはよくない。
帰路。歩きながら、わたしは暁のことを考えた。彼が、灯里とくつろいだ間柄で、たがいに漫才じみた掛け合いを時折やって笑わせてくれること。彼が、わたしと同じくアリシアさんに憧れを持って、彼女を敬い、慕っていること、等々。
今度会った時は、とわたしは思った。
その時は、ちゃんと仲良く出来ればいいなぁ――。
(終)