ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.58「或るオフショット~アーリー・コールド・モーニング」

***

 

 

 

 辺りはしんと静まり返っていた。風の流れにさらわれていく波の()が、澄んでさやかに聞こえる。サー、と波のうねりが立っては消え、そして水の中で空気が弾け、ザブザブと鳴る。

 

 薄暗い屋根裏部屋の天井や壁が、ぼんやりと滲んで見える。静寂にあって、何者の気配さえない。

 

 わたしは暗い意識で、寝返りを打ち、片頬をやわらかい枕に押し付ける。よく通る鼻でスゥ、と呼吸する。

 

 布団の中で、わたしは猫のように丸く縮こまる――何となれば寒いのだ。季節は晩秋、程なく厳寒の季節が来る。

 

 暖房の準備と衣替えはばっちり完了していた。最近、街で家々の煙突から煙が立ち上るところが見られるようになった。思うに皆、ストーブを焚くようになったのだろう。

 

 どうも目が冴えてしまったようだ。休みの朝なのに早起きすると、何となく勿体ないように思ってしまうのは、あまりよくない癖なのだろうか――惰弱、無気力、懈怠。

 

 否定したくなって、思い切り、布団を蹴り上げる。勢いが必要だった。すると、部屋に満ちる冷気が一挙にわたしに取り付く。わたしは肩をすくめて上着を羽織ると、そばの円窓より外を窺った。オレンジ色の朝ぼらけの太陽。空模様は概ね晴れ。点々と浮かぶ雲は陰影が濃く、全体として見れば夕暮れと見紛うほどだった。

 

 裸足にスリッパを履くと、わたしは階下のリビングへと下りていき、ストーブに薪をくべ、炭の着火剤にマッチ棒で火を付けた。最初に燃え出すのは弱弱しい火――暖かくなるまでしばらく時間が必要だ。その間に、洗面所で顔を洗う。水道の水が冷え切っていて、手がキンと痛む。

 

 洗顔を済ますと、鏡台をまじまじと見る。さっぱりした顔には、寝起きでくぼみ気味の目。

老けて見える。

 

 髪に寝ぐせは付いていなかった。サラサラした桃色のロングヘア。手で撫でつけてその手触りのよさを確かめると、気持ちがちょっと安らいでくる。ちょっとおかしいところがあれば、不機嫌になってしまうものだ。

 

 わたしはリビングに帰ると、いくぶん火力の強まった薪ストーブのすぐ前に膝を抱いて座る。火の気の温もりを浴びるとホッとする。寒さに固まっていた体がほどけていくようだった。

 

 薄暗い部屋で、ただストーブのそばだけがポッと明るい。両手を火に近付け、暖を取る。そして頬に触れる――まだ冷たい。

 

 そういえばと思い、わたしは一端ストーブを離れ、幾つかの物を持ってくる。水を入れたやかんと、コップと、ティーバッグだった。ティーバッグはコップに入れて置いておき、やかんはストーブの上にのせた。二十分ほどで沸くだろう。

 

 諸々、済ませてしまうと、わたしは見るともなしに、ストーブの扉越しに中で燃える火を眺めた。パチパチと薪のはぜる音。

 

 ――アリシアさんが来るまで、まだずいぶん時間がある。

 

 リビングの窓まで重たいお尻を引きずって向かい――足が火の気から遠ざからないように――カーテンをめくって外を覗いてみる。依然低いところにある朝日。空はベールに覆われたようにおぼろげで、オールドブルーに染まっていた。

 

 ――朝ごはんは何にしよう。冷蔵庫に、何があっただろう……

 

 手を伸ばし、リビングのテーブルにあるポケットラジオを取る。電源を付けると、ザー、というノイズ。アンテナを伸ばしてダイヤルを回し、くっきりと聞こえる周波数を探る。

 

 

「……ネオ・ヴェネツィアは」、女性の声だった。「寒気の影響により、曇るところがありますが、高気圧に覆われておおむね晴れるでしょう。最高気温は……」

 

 ふうん、と、半ば聞き流して耳を傾ける。雨でさえなければよいという気分だった。晩秋の冷雨は気が滅入ってしまうものだ。じめじめ陰鬱である上に冷たい雨は、心まで凍えさせる。

 

 ――サンドイッチにしようか。冷蔵庫に、レタス、チーズ、ハムがあったはず。パンは長細いパニーニで。

 

 あるいは、普段より時間に余裕があるから、ちょっと凝ったものに挑戦してみようか、などと考えた。端末を開け、レシピの載ったサイトを巡り、ネットサーフィンする。

 

 

 

 不測の早起きには、必ず反動があるものだ。早寝した結果ではない、企図されなかった起床時間のズレを修正するための反応が、からだに現れる。

 

 

 

 火の気のそばで端末を眺めていると、わたしは、だんだん目がしょぼつくようになってきた。目をこすってみても、やはりしょぼつく。あくびまで出る始末だ。色々と凝ったレシピを見て回り、ちょうどよいと思えるものがあったが、すっかり億劫になってしまった。

 

 ――今さら眠たくなるなんて……

 

 ネットサーフィンをやめ、端末を閉じる。

 

 一貫性のない体質に嫌気が差してくるようだった。ベッドには戻りたくなかった。かといってこの眠気を放置するわけにはいかなかった。

 

 自分に呆れるが、わたしは睡魔のささやきに負けて、その場で横になった。テーブルの椅子にあるクッションを枕替わりにした。

 

 ハァ、とため息して片手の甲を額にのせ、天井を見やる。すでに部屋は薄暗さを取っ払って明るい。カーテン越しには燦々と輝く太陽が透けて見える。

 

 やれやれ、と思って目を閉じる。すると、あっという間に意識の(ともしび)が小さくなり、消え、暗闇になる。

 

 

 灯里(・・)がスヤスヤと寝息を立て始める。ほとんど真っ黒になった薪で火勢の安定したストーブのそばに、鍋敷きをかましてやかんが置いてある。一度は沸きかけたが、結局飲まずじまいで冷めてしまったやかんだった。

 

 

 ラジオが依然付いている。流れているのはDJのチョイスした音楽だ。

 

 高い空に陰影のない真っ白の雲。キラキラと煌めく海。

 

 灯里の浅い眠りが覚めて再び目覚めるまで、さほど時間はかからなかった。

 

 

 

(終)

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