ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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「ウゥッ、寒……」
扉を開けて出た瞬間、白い吐息と共に、彼女の口を突いて出た言葉だ。
晃は自身を抱いて背中を丸め、前腕をさする。
上はマフラーとチェスターコート、下はスエードのハイカット・ブーツというじゅうぶん暖かい出で立ち。しかし寒さは厳しいようだった。
最低気温は零下であるその日のネオ・ヴェネツィア。天気は雪。前日より降り出した雪はいぜん止まず、むしろ量を増して街を銀世界にしてしまう勢いだ。
「すっかり暗くなっちゃいましたね」
そう、先に外に出ていた少女が、晃に背を向けて、空を目だけで仰いで言う。彼女の後輩である藍華だ。
藍華の出で立ちは、上は
晃とは反対に、彼女は白い息を吐いて、両手をコートのポケットに突っ込んではいるが、さほど寒がる様子は見えない。
時間は夜。暗幕の下りたネオ・ヴェネツィア。しかし夜の闇の上を白煙が吹く――脚の強い雪に風が組み合わさって、軽いブリザートになっているようだ。
「藍華、お前、寒くないのか?」
「寒いですよ」
首だけで振り返って藍華が言う。
大きい雪だるまが彼女等のそばに佇んでいる。シルクハットにマフラーまで巻いて、雪だるまは紳士のようだ。彼は丸いボタンの目で二人のやり取りをじっと見るともなしに見守っている。
「晃先輩って、寒がりでしたっけ」
「寒がりでなくったって、今日の寒さはこたえるだろう」
「まぁ、そうですね」
「暖かいのか? お前の――」
晃は物欲しそうに藍華のコートを見て問いかける。晃と比べて藍華の着ているのは気持ち暑いように見える。
「ぜんぜん変わんないですよ」
照明の明るい建物。甘く香ばしいかおりがその中より漏れて漂って来、寒さにツンとする鼻を魅惑する。
二人はカフェに行って、今ちょうど退店したところだった。お会計は晃が済ませ、藍華はさいしょ遠慮する素振りを見せたが、最終的にへりくだって先輩に甘えた。
「おいしかったです」
帰路に付き、並んで歩く二人。――辺りは白っぽく煙たい。風がささやき、雪が乱舞する。ポッと照る街路灯だけが明るい。
「あぁ――だが、わざわざ外に出てくる必要はなかった。今日は寒すぎる」
「……ですかね」
藍華はポケットに手を入れたまんまだ。晃は背中が猫のよう。
それぞれ目を合わさず前を見て歩いている。
二人は、視界いっぱいに風の流れに浮遊して入り乱れる雪を見て、寒さを実感する一方で、童心に返っていくばくかの
「何だか行きたくなったんだよ」
「あのお店に?」
「あぁ。思い立ったら、体がむずむずしてなすすべがなかった」
「そういう時、たまにありますね。衝動的に、何かしたくなる時」
藍華は共感すると、上を見上げた。相変わらず白っぽい夜空。そのずっと手前に、彼女が歩いている通りの住宅よりアームで吊り下がる街路灯がある。
ゆるやかに湾曲した鉄のアームには漏れなくその線形に重なって雪が細く積もっており、まるで綱渡りのようだ。街路灯の明かりを浴びて白雪はまばゆい光輝を放っている。
――程なく水先案内人たちは姫屋に至る。創業百年の老舗。その年月に恥じない業績の結果として、姫屋は立派で大きい。
その広いホールで、藍華はおやすみなさいと言って、いんぎんに頭を下げると、じぶんの部屋へと去っていった。そして晃は晃で、おやすみと返し、彼女の部屋へと、遅れて向かった。
階段には、清掃係の少女――藍華を含む姫屋の従業員が代わりばんこで担当している――がほうきで掃き掃除をしていた。後片付けと次の日への用意――遅い時刻だった。
彼女は晃を目にすると――晃は
真っ暗の室内。ポッと照明が付く。晃が付けたのだ。こざっぱりした部屋。フローリングには絨毯。壁には、スタンプのように外縁を円くした『姫』の字でいっぱいのタペストリー。そして金襴模様の掛け軸。
まずブーツを脱いでスリッパに履き替え、次にチェスターコートを脱ぎ、ハンガーラックにかける。コートには何個か、雪がとけて出来た水滴が付いている。
窓辺の背もたれとひじ掛けのある椅子に座り、デスクに無造作にコートに閉まっていた財布を置くと、晃はお尻で椅子を後退させ、スリッパを脱いだ両の裸足をデスクの端に組んで乗せた。そしてうんと椅子の背もたれに背中を押し付け、見るともなしに天井を見る。
――暖房はオンにしてあるが、部屋が暖かくなるまではまだ待たないといけない。
吐く息は白くない。満足して膨れたお腹をさする。手が冷たい――晃は合掌して擦り合わせる。
そして合わせた両手の間に、上下にいびつにに伸びた三角形を作り、お風呂に入ろうと考えるが、まだ洗っておらず、水仕事に億劫になる。
しばらく待っていようと晃は考えを改める。そしてデスクの上にあるしおりを挟んだ文庫本を取って、そばに置き直す――時間を潰すのだ。BGMにラジオを付ける。なるべくうるさくないチャンネルを選ぶ。
さていよいよ読もうという寸前、晃はふと腰を上げて前のめりになって、デスクの向こうの窓に手を伸ばす。閉じたカーテンの裾をめくる。隙間より覗かれるのは、やはり白っぽい筋が流れる夜の闇。
――ウゥッ、寒……
――晃さんって、寒がりでしたっけ
自然とよみがえるカフェの外での場面。
そして晃は、寒空の下、イヤに堂々と平気そうだった後輩に対して、今になって気後れする感じを覚えるのだった。
(終)