ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.65「悔悛」

***

 

 

 

 今日のネオ・ヴェネツィアは雨模様だ。

 

 ARIAカンパニーの部屋の窓越しに見上げる空は、一面灰色で、雲の大陸が盛り上がったりくぼんだりして、とにかく雨なのだ。じめっとして陰気臭い。外に出たいという思いが、層の厚い雲に弾き返され、行き場を失って途方に暮れるようだ。

 

 ――後悔していた。とても、後悔していた。

 

 窓の向こうに果てしなく広がる海原は、荒天にご機嫌ななめの様子だ。雨粒と空気をかみ砕いて、不気味なほど白い牙を剥き出しにしている。

 

 ――あの人はわたしに対して、よしんば好意を持っていなかったとしても、わたしに対して、よくしてくれていた。親切だった。多少、なれなれしいところがあったけれど、本質は善意であって、それ以外ではなかった。決してなかった……

 

 

 

 人の好意を無碍にする。その人の思いをないがしろにし、踏みにじる。そうすることで傷付け、遠ざけてしまった好意を、引き戻すために、どうすればいいのか、わたしは分からないわけではない。

 

 罪悪を感じているなら、謝り、懺悔するだけだ。単純なことだ。

 

 

 

 ――男の人だったから、ヘンに緊張して、過敏になったのだろうか。暁さんではない。いい人だった。やさしくて、ちょっとばかり年上で。

 

 好意を踏みにじったつもりはない。ただ、最初は快かったが、次第にその快さがむずむずした感情に変わり、持て余すようになった。まるで、飼っている愛猫の甘噛みに痛みばかり感じるようになった感じだ。猫は愛情表現で噛んでいるのに、噛まれている方は苦痛ばかり覚える。飼い主は困惑し、嫌になり、離れて欲しいと求めるようになる。

 

 わたしは、カレに背を向けただけのつもりだった。ところが、それだけのはずだったことが、思いがけず軋轢を生んだ。わたしの躊躇と戸惑いの念が作りだした軋轢だ。

 

 ――わたしだけなのだろうか。いったい人生にあって、一度でも誰かの純粋な好意を撥ねつけてしまったことのある人は、他にいないのだろうか。あるいは皆、品行方正に、義理と人情の錯綜する間をじょうずにくぐり抜けているのだろうか。

 

 

 

 ちょっとしたことなら、謝ることはたやすい。だけれど、後悔や憐憫や困惑の念が大きければ大きいほど、それだけ思考と反省がいよいよ深まって、謝罪することを難しくする。

 

 

 

 あの人との間に生じた軋轢。ぽっかりと出来た距離感。隔絶。疎遠。気後れ。

 

 

 

 何となく、穢れてしまったという気分に落ち込む。ヨゴレではない。ケガレだ。罪悪、困苦、自嘲のケガレ。お風呂でこすったりしても、決して落ちることのない、烙印。

 

 愛情や好意というのは、形のないものだ。目に見えたり、手に取ったり出来ないものだ。そういうものは、決まって失った時に初めてその存在と重みを思い知らされるものだ。

 

 短いこれまでの人生で、何度かしてきた失意の時が再び巡ってきた。わたしは堂々巡りをしているのだろうか。

 

 

 

 ――しとしと。降り続く雨のやさしい音。その中に、遠くのサン・マルコ寺院のベルの響きが混じって聞こえる。ゴーン、ゴーン……と、森厳かで透き通った音色の震えを感じる。

 

 

 

 わたしの戸惑いがさまたげるのか、謝りの言葉を告げるのは骨のようだ。だからといって、しれっと何事もなかったかのように接するのは人として守るべき徳義をゆるがせにすることだ。

 

 ならば――とわたしは考える。

 

 また初めからやり直そう。ほつれてしまった関係の糸を縫い直そう。こころみよう。最早戸惑ったりまごついたりする必要はない。彼との間柄は新規蒔き直しだ。

 

 慈しみの言葉をかけ、やさしく接するのだ。彼がわたしにしてくれたみたいに。そうすれば、全てはだんだんと、元に戻ってくれるはずだ。軋轢や、わだかまりや、気詰まりな感じは消える。そうして修復した頃合いを見て、謝りの言葉を告げるのだ、そっと。だけど、ちゃんと相手の目を見て。

 

 

 

 ――今日のネオ・ヴェネツィアは雨模様だ。

 

 雲の層は厚い。長雨になるだろう。わたしの心は塞ぎがちだった。

 

 だが、遠目に光明が見える気がした。

 

 その光明は、もちろん晴天のものであり、同時にまた、和解のものでもあった。

 

 

 

 予感であり、そして、覚悟だった。

 

 

 

(終)

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