ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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冬の朝。ヌクヌクとみずからの体で温めた布団の中は、ずいぶん居心地がよかった。寝覚めの悪い猫が、日向に憩って延々と丸まっているように、ずっとまどろんでいたいと思うほどに……
けたたましい目覚まし時計の音が響き渡る。その音はわたしの脳みそを荒々しい手付きで粗野にゆさぶり、うっとりと閉じた目蓋をこじ開ける。
朝だ――朝かぁ……
ムカつく目覚まし時計を黙らせ、ハァ、と思わずため息を吐きそうになる。
が、毎日のことだ。やることのある日の朝の憂鬱さは知りたくないほどに知り尽くしている。重たい頭。体。怏々として抵抗しようとする子供じみた心。
しかしわたしは、子供ではなかった。やることがあった。わたしは――?
「藍華ァ」
わたしへの呼び声。それほど近くないようだ。階下から聞こえる。階下?
エンジンの低い唸り声が接近し、遠ざかっていく。車が通り過ぎる。自転車の車輪がチェーンの回転に伴って転がるカラカラという微かな音。
「藍華ァ、朝よォ」
ウン、とわたしは返事をせかす母に、語尾にびっくりマークを付けてプリプリ返すと、ちょっと
ハァァ、寒い。寒いんだ――ブルブルと
テレビで歌合戦を見、紅と白のどっちかのチームを応援するでもなく、ただ自分の好いている歌手の登場を待ちわび、そして見終えたら、満足して後はどうでもよくなってしまった年末は、数週間前のこと。
年明けは、御餅の食べ過ぎで気持ち悪くなったんだっけ……
わたしは立ち上がると、軽くベッドメイクして、布団を
乗り物の通り過ぎた後は、ある規則的に続く音が、その中に紛れて、今はなくなった騒音の跡に浮上する。
わたしの家は、沢の近くにある。だから、いつもわたしの部屋には、しずしずとしたせせらぎの音が流れてくる。その音が快い時があれば、何も感じない時があり――その時が大半だ――また、不快に、うるさいと感じる時が、稀ではあるけど、ある。(機嫌が悪い時や、夜なぜか寝付かれなくてムズムズする時)
『ベニスのゴンドラ』
そういう名称だったと記憶している。買ったのは、いつだろう?
目覚まし時計といっしょに、ベッドのわきのナイトテーブルに置かれている、小さな模型だ。
長細い模型。奥行は掌の半分、全長は、指先から手首まで、高さは、奥行と同じ……寸法はそれくらいだ。
ネームプレートみたいなものがあって、そこに名称が刻まれたりしているわけではない。わたしの記憶が、その模型の名をそうだと告げるのだ。
「いつ買ったのか、覚えてないんだけどね」
わたしは前かがみになって、覗き込むように模型に目を近付ける。
可愛らしく、品があって、成るほど既製品で、量産品であり、事細かに観察すると可笑しいところがあるけど、そこそこ所有感を満たしてくれる代物ではあった。
「ベニス――イタリアよね。水の都」
一般常識の範囲のことだろう。アメリカの首都がワシントンだということや、北方四島を日本とロシアが領有権において争っていることと同じくらい、知っていて当たり前のことだろう。
ゴンドラとは小舟のことだ。細い舟で、客船で、座席用にソファが備わっている。オールの台。ギザギザした舳先の飾り。諸々の装飾具。
「オールの台はフォルコラ。舳先のギザギザはペッティーニ、装飾具はフェッロ」
特に言い淀んだり、噛んだりせずに、固有名詞を口にする。
「だけどこれは、一般常識じゃあ、ないんじゃないかなぁ」
どうして知っているんだろうかと、自分自身、怪訝に感じる。
「まぁ、いいや」
――観察の続き。
ゴンドラには、カップルだろうか、男女が乗り合わせている。男は丈の長いコートを纏い、海賊と似た三角帽を被っている。女といえば、髪を結わえてドレスを着ている。漕ぎ手は仮面で目を覆っていて、赤いリボンの結ばれた
――模型の特徴は、ざっとそういう風だ。
突然、コンコン、と扉をノックする音がする。「ワッ」とわたしはびっくりする。
「藍華、これ――」
お母さんだ。
扉を開けて姿を見せたお母さんは、わたしにあるものを見せた。ハンガーにかかったそれは、衣服だった。
「アンタ、昨日飲み物こぼして汚しちゃったって言ってたでしょ」
「あぁ、うん」
――うろ覚えだった。
「替えの制服よ。終末に洗ったヤツ。これ着ていきなさい」
「あぁ、サンキュ」
わたしは受け取り、軽くお礼する。親しき仲にも礼儀あり、ということだ。(礼儀というには軽薄だったけど)
「それじゃ、わたし行くからね。ちゃんと遅刻しないようにするのよ」
お母さんは扉のノブを手に、閉めようとして言う。
「分かってるよ」
「コーヒーのしみは、クリーニングに任せることにしたからね」
「うん」
扉が閉じられようとする。
「アッ」とわたしは咄嗟に叫んで制止する。
お母さんは、何?急いでるんだけどと言わんばかりの表情。
「ごめん」
「何?」
「あのさ、あそこにある、模型なんだけどさ」
わたしはナイトテーブルを指さす。お母さんはその方を細目で見遣り、あれがどうかしたのかという感じだ。
「いつ買ったっけ?」
「さぁ? アンタが小さい頃、海外旅行か何かで買ったお土産でしょ」
お母さんはそう答えると、強制的に問答をおしまいにして去る。パタンと扉が閉じる。お母さんは働くママなのだ。あんまり引き留めては悪い。
お母さんの答えは、まるで腑に落ちなかった。違うという気がした。しかし諦めるほかなかった。
わたしは制服をハンガーで持って悄然と立ち尽くす。
制服とか、パジャマとか、汚さない方がいい恰好で飲み食いはしない方がいいよなぁと、わたしは心の中でそっと呟いた。
それより、制服だ。制服なんだけど……
しげしげと眺める。暗色の、襟の広い服と、プリーツの付いた同色のスカート。胸元にリボンを巻くタイプの制服。
成るほど、これが学校の指定した制服であることに間違いはない。
だが、しっくりこないこの妙な感覚は何だろう?
朝から何だかヘンだ。飾りの模型にわけの分からない、だけどよく知っている用語を口にしたり、その呼び声にお母さんの存在を半信半疑に思ったり。
わたし、いったいどうしちゃったんだろう?
昨日の夜が遠い。まるで毒を盛られた棺の中の白雪姫のように、久遠の間、現実をお留守にしていたかのようだ。
今は、目の前の制服が注意を引く。わたしの制服は黒ではなかったはずだ。白だった。そう、白だった。それも雪のように清い白。上下一体型で、ラインの入った制服。制帽もあって、手袋もあった。だけど手袋は片手だけで……。
疑雲の中にあって尚、自分が時間に、それも、平日の朝のせわしない時間にせっつかれていることは忘れずにいた。
わたしは手早くタイツを履くと、そのしっくりこない制服に着替えた。
姿見に映して、やはりヘンだと思う。似合う、似合わない依然に、違うという否定の感じ。
思いがけず焦がしてしまったロングヘア―をバッサリ切った時に買ったあの、お気に入りの花飾りの付いたヘアピンは?
――なかった。わたしは失望させられる気分だった。
ダイニングでテーブルに着き、トーストを齧る。コーヒーは飲まない。制服に着替えたから。テレビでモーニング・ショーを見るともなしに見る。星座占いはあまりよくなかったが、天気予報は晴れを伝えた。
――全ては、用意されていた。わたしに用意されていた。頑張り屋のお母さんがいて、家と部屋があって、近くを沢が流れ、車の通りは少なく、基本的に静かだ。わたしは学校に通い、紺色の制服をリボンを付けて着る。部屋の本棚のもとには、鞄があった。黒い革製の、
わたしがそこに存在し、またわたしが所有していたはずのものは、勘違いだったのだろう。大きな、余りに大きな勘違い。ベニスはイタリアの街で、日本のわたしには関係がなく、ゴンドラは、よく分からない、舟のヘンテコバージョン。(人力で動かす!)
昨夜は雨が降ったのだろう。そして夜中に雪に変わったのだ。
外に出ると、辺りは一面真っ白だった。
制服の上に、ダッフルコートとマフラー。それでも寒い。
沢を流れる水の音がする。雪はやんでいた。晴れ空から差す陽光にとかされて、木のこずえの雪が、パラパラと落ちてきたりする。
「ベニスの、ゴンドラ」
わたしは呟く。
世界史のテストに出てくれればラッキーだけど、ベニスもゴンドラも、きっと出ないだろうなぁ。美術史や建築史だったら、可能性はあるんだろうけど、そういった科目はわたしのレベルではないわけで。
ハァ。
吐く息が、白かった。
海外旅行なんて行ったっけ? わたしが小さい頃? ひょっとして、親たちだけで行ったのかも。(わたしは?)
人間にとって記憶は全てだ。記憶がその人をその人たらしめる。たとえどれだけいぶかしい思いを持とうが、記憶を否定しようとすることは、自分を巻き込む。しかし自分を否定することは出来ない。記憶に準ずることは必定だ。
全ては、用意されている。人生とは、そういうものだ。わたしの思いが、夢に、理想に、まぼろしにあっても、生きるのは現実だ。そして現実はここだった。今わたしの立脚している、ここにしかなかった。
だけど、それはひょっとすると、時として――あるいは恒常的に――馴染まないものを無理にあてがわれるように、悲しいことなのかも知れない。
(終)