ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.69「髪とヘアピンと私~失くしてしまった思い出の呼び声」

***

 

 

 

 ――最近どうにも調子がかんばしくない。どう言えばいいのかよく分からないけど、何か重りをのせられたように、体も心も働きがニブい。

 

 理由は分かっている。自分でそう意識したことはないし……ひょっとすると、敢えて意識しないように、遠ざけているのかも知れないけど、とにかく、失くしものをしたのだ。

 

 かれこれ、一カ月ほど前の話だけど、わたしは、毎日欠かさず付ける、ヘアピンがあった。淡いピンク色の可愛いミニバラの装飾がされたゴールドのヘアピンで、サン・マルコ広場である日開かれた市場で偶然見つけて買ったのだ。

 

 量産品ではなかったと思う。そのお店に――アリシアさんみたいに美しい人が一人で切り盛りしていた――たった一つしかなかった。手書きの値札を見て、目が飛び出るほど高いと思わなかったし、むしろその品質にしてみれば安いくらいと思った。

 

 その時灯里を随伴していて、わたしが気に入ってどう思うか尋ねると、灯里もわたしと同じように、魅入られた様子で、わたしがモタモタしていたら、あるいは灯里のものになっていたかも知れない。

 

 わたしは機先を制されることを恐れ、財布を手に買うことにした。そもそも買うことをためらうほどの値段ではなかったのだ。わたしがシブチンで、ちょっと考えてしまった。

 

 ――長い髪がお気に入りだった。自慢だった。アリシアさんに褒めてもらった髪だ。毎日欠かさず手入れした。ブラシは動物の毛で出来たいいものを使ったし、ツバキ油を付けたら、天使の輪が光明を映して出来た。鏡や透明度の高いショーウィンドウがあれば、そこに映じる自分のプロポーションと合わせて髪を眺め、我ながらうっとりとしたものだ。

 

 その髪をバッサリ断つことになった。ある日のことだ。バーベキューをしようという話になった。灯里、後輩ちゃん、アリシアさん、晃さん、アテナさんのみんなで企画して、当日、天気に恵まれて、おいしい食べ物でお腹を満たそうと、わたし自身も楽しみにして参加した。

 

 そこでうっかり熱々のグリルに長い髪が触れた。チリチリと異臭がし、わたしはすぐさま察知したが、ほとんど気絶寸前だった。焼けた毛先は見るに忍びない惨状で、その日の熱気と相まって、かなりの量が焼けてしまった。

 

 みんなのいる状況で、その珍事が起こり、その時空気がカチンと凍り付いた。わたしは我慢出来ず、わけの分からないジョークで場を濁し、帰ろうとした。

 

 だが、優しい灯里と後輩ちゃんが付いてきてくれて、姫屋のわたしの部屋で、どうしたものかと鳩首合議した。わたしは確かに友達の優しさに謝意を感じていたが、内心で一人ぼっちになって泣き叫びたい気持ちを抑えないといけなくなり、ストレスを感じたし、また、彼女らがわたしと違って無傷の髪でいることに、やりきれない不公平さを覚えた。

 

 結局、元々の状態に近い形で治めようと、焼けたところの長さで揃えて切ってみた。すると、ロングヘア―がミドルヘアーになった。灯里と後輩ちゃんはとてもいいと絶賛してくれたが、わたしは白々しく思う気持ちでいっぱいだった。堪えている涙は今にも溢れそうになった。わたしは強いて満足し、全然落ち込んでいないことをアピールすると、二人を帰した。

 

 その後、延々と泣きまくって、体の水分を涙だけで排出し切ってしまうほどだったことは言うまでもない。

 

 ある程度すっきりすると、わたしは、未練がましい自分の間に合わせに過ぎないミドルヘアーに別れを告げることを心に決めた。翌日美容室に行き、短くして欲しいと頼んだ。ためらいは毫末もなかった。

 

 ――最初付けていたのは、大したヘアピンではなかった。量産品の、取るに足らないものだった。

 

 短い髪にしたのはいいが、中々しっくりこなかったので、自分なりに、結わうとか、束ねるとか、いろいろ試行錯誤した結果、辿り着いたのが、ヘアピンだった。ショートヘアーに金属を付けると、何となくいい気がした。気に入ったとはいいがたいけど、それまでの不満がひとまず軽くなり、落ち着いたという具合だった。

 

 その仕方なく受け入れていたショートヘアーをこの上なく好ましいと思えるようになるアイテムが、ミニバラのヘアピンだった。

 

 ある朝、いつも片付けているところにないことに気付いた。大事にしているものなので、そうでないもののように雑多に置いたりはせず、かといってわざわざ金庫に入れるなんてこともバカバカしくて出来ないので、机の引き出しのスペースに安置していた。

 

 休日は別だが、朝はいつもせわしない。その日は休日ではなかった。お気に入りのヘアピンをなくしたことに動揺したけど、ずっとオロオロしているわけにはいかないので、他のどうでもいいヘアピンを付けて出かけた。灯里や後輩ちゃんに会ったが、異口同音にわたしのヘアピンのことを尋ねた。――わたしが訊きたいくらいだった。

 

 仕事を終えて帰ったら、やにわに部屋のあちこちをひっくり返して探した。ヘアピンは……なかった。

 

 取りあえず見つかるまでの間、代用になるものはないかと探して、何となく関心を惹くヘアピンを見つけたので、買った。桜の花と枝葉を(かたど)ったヘアピンだ。ゴールドじゃないのが、面白くなかった。なにより嫌だったのは、量産品であることだった。わたしはたくさんある中から買ったのだ。オンリーワンではないということが、これほど不服に思わせるとは、わたし自身、驚いた。

 

 ――わたしの日常に起きた、波のうねりと、凪。成るほど、波が静まった日常は一見、平穏に見えるかも知れない。しかし、水面下では蠢きがあった。諦念出来ずくすぶるわだかまり。未練と悔恨を断ち切れないイライラ。

 

 例えて言うなら、消化しにくい、あるいは消化出来ない異物が、胃袋の中でずっと残留し続け、胃袋がその処分に困っている感じだ。逆流させて口から吐き出してしまえば、楽になれるが、あいにくその異物は、重たく――余りにも重たく、胃袋より上へは返せない。しかし消化管を通らず、排出もまた出来ない。まるでそれ自身に意志があるかのように、その異物は、生きているようにヒトの器官の作用に抵抗し、解消されなければ、流出もせず、ただ胃酸のたまりの中で泳ぎ続け、毒素を放出する。

 

 自分で、分かる気がする。多分、一種のメランコリー……ウツなのだと思う。時間が経てば、よくなって、最後には気にならなくなって、完治するのだと思う。

 

 わたしの中の異物は、長い時間をかけて風化していくのだろう。光の粒子のように細かい欠片になって散っていき、やがて消える。

 

 調子は実際、かんばしくないし、晃さんや灯里から具合を心配されることが多くなった。わたしはだけど、苦笑いと共に「大丈夫」とそらぞらしい空元気で返すだけだ。本当は苦しいのだ。

 

 わたしはわだかまりを抱えている。胃袋に始末の悪い異物を持っている。そして今もまだ、過去に縛られて、失くしてしまったお気に入りのヘアピンの行方に思いを馳せている。思いを馳せて、哀しい気持ちになる。

 

 わたしがわたしの内側に負うこの病じみたものは、だけど、決して悪いものではないという認識があった。確信さえしていた。

 

 わたしは、自分の思い出の影を探し続け、さまよっているのだ。

 

 ――そういう風に考えることが、時々ある。

 

 

 

(終)

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